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柏牧師:過去の礼拝説教

「主イエスの名によるバプテスマ」

2019年04月14日 聖書:使徒言行録 19:1~10

今朝、私たちは、棕櫚の主日の礼拝をささげています。主イエスが、十字架にかかられるために、エルサレムに入城されたことを、覚える礼拝です。

十字架とは、古代ローマ社会における、最も残酷で、最も苦しい刑罰です。

その十字架に、自ら進んでかかられるために、主イエスは、エルサレムに入城されました。

逃げようとすれば、逃げられたのに、なぜ、わざわざ、敵対者たちが待っている、エルサレムに、入城されたのでしょうか。

それは、この方法以外に、人間を罪から贖い出す手段が、なかったからです。

神様に背き続ける人間は、神様によって、裁かれ、滅ぼされなければならない存在でした。

神様は、義なるお方ですから、人間の不義を、見逃すことはできません。

しかし、同時に神様は、愛なるお方です。愛なる神様は、人間をどこまでも愛しておられます。背き続ける人間を、何とかして赦して、救いたいと、願っておられるのです。

しかし、人間を赦すためには、誰かが、人間の身代わりになって、人間が受けるべき刑罰を、引き受けなければなりません。

しかも、その身代わりは、全く罪のない存在で、なければならないのです。罪ある者は、自分も滅ぼされるべき者なので、身代わりとなることができないからです。

全く罪のない存在。それは、神様以外には、おられません。

ですから、罪のない神様ご自身。つまり、御子なる神である主イエスが、罪ある人間に代わって、十字架につく。これ以外に、人間を救う手段がなかったのです。

不義を裁かずにはおられない、神様の義と、どこまでも赦そうとされる、神様の愛。

神様の中で、この義と愛が、激しく戦い、神様ご自身が、肉を裂き、血を流されました。

神様の本質である、義と愛が激しく戦って、血を流された場所。それが十字架であったのです。

ですから、先ほど賛美したように、あのむごたらしい死刑の道具である十字架が、私たちにとっては、限りなく尊いのです。限りなく慕わしいのです。

この主イエスの十字架によって、人間は、罪を赦されました。

そして、その結果、滅びを免れ、永遠の命を、与えられたのです。

このことを、真正面から、まともに信じていくのが、キリスト教信仰です。

しかし、クリスチャンを自認しながらも、このことを、まともに信じていない人たちがいます。

十字架の贖いと復活。それによる、永遠の命の約束を、信じていない人たちがいるのです。

そういう人たちは、クリスチャンらしき人ではあっても、クリスチャンではありません。

パウロが訪れた、エフェソの町にも、そういうクリスチャンらしき人々がいました。

今朝の御言葉の1節にある、「何人かの弟子」、と言われている人たちがそうでした。

では、彼らは、どこが、間違っていたのでしょうか。何が、欠けていたのでしょうか。

そのことを、これから、ご一緒に、探っていきたいと思います。

先週の御言葉には、エフェソの町で伝道した、アポロという人のことが、語られていました。

そのアポロと入れ違いに、エフェソに来たパウロは、そこで、クリスチャンらしき、何人かの弟子たちに、出会ったのです。彼らは、キリストの弟子のように、見える人々でした。

しかし、パウロは、彼らと話をしている内に、彼らの信仰に、大切なものが、欠けていることに、気が付きました。

この人たちは、未だ、聖霊を受けていないのではないか、と気づいたのです。

そこで、パウロは、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」、と尋ねました。

すると、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えたのです。

この人々の信仰は、聖霊を受けていない、信仰だったのです。

このようなことを聞いて、皆さんは、落ち着かない気持ちに、なられているかもしれません。

果たして、私たちの信仰はどうだろうか。聖霊を受けている信仰なのだろうか。

そもそも、聖霊を受けている信仰とは、どのような信仰なのだろうか。

そのような思いに迫られて、小さな不安を、覚えておられるかも知れません。

でも、私たちは毎週礼拝において、使徒信条を唱えています。そして、そこには、「我は聖霊を信ず」とあります。

ですから、当然、聖霊という言葉は知っています。更に、それを信じるとも告白しています。

しかし、「あなたは、その聖霊を、受けていますか」と、改めて問われたらどうでしょうか。

「いいえ、聖霊があることは聞いています。でも、聖霊を受けた、という体験はしていません。また、その確信もありません」、と答える人が、多いのではないでしょうか。

ということは、私たちの信仰も、エフェソの人々と、余り変わらないということなのでしょうか。

そもそも、「聖霊を受けている信仰」と、「受けていない信仰」とは、どう違うのでしょうか。

「聖霊を受けていますか」。これは、私たちにとっても、見過ごしにできない、問いかけです。

「そもそも、聖霊があることすら、聞いたこともありません」。

そう答えた人たちに、パウロは、少し角度を変えて、問い直しました。

「それなら、どんなバプテスマを受けたのですか」。

この事から分かることは、聖霊を受けているか、ということは、どんなバプテスマを受けたか、ということと、密接に結びついている、ということです。

このパウロの問い掛けは、口語訳聖書では、「だれの名によってバプテスマを受けたのか」と訳されていました。こちらの方が、原文のニュアンスに、近い訳だと思います。

「どんなバプテスマを受けたのか」、或いは「だれの名によってバプテスマを受けたのか」。

この言葉は、直訳すると、「それではあなた方は、何の中に洗礼されたのか」、となります。

「洗礼する」という言葉は、元々は、「どっぷりと浸す」、という意味の言葉です。

ですから言い換えれば、「あなた方は、誰の中へどっぷりと浸されたのですか」となります。

聖書において、名前は、その人の存在そのものを、表しています。

ですから、「ヨハネの名による洗礼を受ける」とは、「ヨハネの中に、どっぷりと浸される」、ということです。

そして、「イエスの名による洗礼を受ける」とは、「主イエスの中に、どっぷりと浸される」、ということになります。

「あなた方は、誰の中に、どっぷりと浸されたのですか」。そう問われて、エフェソの人々は、答えました。「私たちは、ヨハネの中に、どっぷりと浸されたのです」。

誰の中へどっぷりと浸されるか。それは、その人の生き方を、決定づける出来事です。

ヨハネの中へ、どっぷりと浸されるならば、ヨハネの信仰や教えが、その人の生き方を、決定づけます。では、ヨハネが教えたこととは、何だったのでしょうか。

それは、迫ってくる神の怒りを免れるために、悔い改めなさい、ということでした。

ヨハネの中へ、どっぷりと浸された人は、この悔い改めの信仰に、生きる者となります。

パウロが、エフェソで出会った人々は、そのような信仰に生きていました。

ですから、パウロは、心を込めて語りました。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」

4節で、パウロが語ったことを、もう少し詳しく言えば、こういうことだと思います。

エフェソの皆さん、バプテスマのヨハネは、確かに、偉大な預言者でした。

でも彼は、後に来るべきお方である、主イエスを指し示す器に、過ぎなかったのです。

ヨハネは、主イエスを信じるための、道備えとしての、悔い改めを勧めたのです。

勿論、悔い改めることは、とても大切です。私は、そのことを、軽んじる気持ちはありません。しかし、分かって頂きたいのですが、悔改めそれ自体が、罪の赦しを、もたらすのではありません。

罪の赦しのためには、代価が支払われなければ、ならないのです。

主イエスの十字架は、そのために支払われた、とてつもなく大きな代価なのです。

ヨハネが、予告した主イエスは、十字架と復活を通して、私たちの救いを、完成してくださったお方なのです。

そして、今は、天の神様の右に座しておられ、そこから、私たちのために、聖霊をお遣わしになっておられます。

その聖霊の力によって、私たちは、この救いの恵みを、自分のものとして、掴み取ることができるのです。

クリスチャンの受けるべきバプテスマは、その主イエスの十字架の救いを感謝して、その恵みを告白する、バプテスマなのです。

この主イエスというお方の中に、どっぷりと浸される時、その救いの恵みを、聖霊によって、分からせていただけるのです。

パウロは、渾身の思いを込めて、エフェソの人たちに、そう語りました。

エフェソの人々は、主イエスの救いの恵みの中に、どっぷりと浸されていなかったのです。

ですから、彼らの中には、救われたことへの、感謝や喜びが、見られませんでした。

彼らの口には、救いの喜びを感謝する、賛美がなかったのです。

しかし、彼らは、パウロの言葉を聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けました。

ヨハネの中ではなく、主イエスの中に、どっぷりと浸る者に、変えられたのです。

ヨハネの中にいた時には、自分の努力で、頑張って悔い改めに生きようとしていました。

しかし、主イエスの十字架の救いの中に、どっぷり浸され、一方的に与えられる、恵みに生かされた時、彼らは、喜びと、感謝と、賛美に、満たされたのです。

そして、「イエス・キリストは、私の主です」、とはっきりと告白したのです。

それが、聖霊を受けた、ということなのです。

皆さんは、聖霊を受けるということを、どのように理解されておられるでしょうか。

パウロは、コリントの信徒への手紙一の12章3節で、こう言っています。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。

イエスを主と告白することは、聖霊によらなければ、出来ない、と言っているのです。

これを逆に言えば、イエスを主と告白する者は、皆、聖霊を受けている、ということです。

聖霊を与えられた、と聞きますと、何か特別な、霊的興奮状態になって、恍惚の境地に至ることの様に、思いがちですが、そうではありません。

心から、イエスを主と告白するクリスチャンは、皆、聖霊を受けているのです。

罪のない神の独り子が、罪ある人間の身代わりとなって、十字架に死んでくださった。

そのことによって、私たちの罪が、無条件で、そして無制限に、赦された。

そのことを、真正面から信じる者は、皆、聖霊を受けているのです。

創造主なる全能の神が、背き続ける被造物のために、最も低い所にまで、降りて来てくださって、十字架の極限の苦しみを、引き受けてくださったのです。

創造主なのですから、被造物が逆らい、背き続けるなら、滅ぼしてしまえばよいのです。

それなのに、逆らい続ける被造物の代わりに、何と、創造主が、自ら滅びの道を選択する。

これは、理屈に合いません。人間の常識では、あり得ないことなのです。

そのことを、まともに信じていく。それは、自分の知識や力では、出来ないことなのです。

私たちの内に、神様が働いてくださって、分からせて下さらなければ、信じられないのです。

そして、私たちの内に働いて、分からせてくださる神様こそが、聖霊なのです。

私たちが、十字架のイエスを、私の主と告白しているならば、それは聖霊の働きなのです。

私たちは、三位一体の神様を、信じています。

父なる神様は、天におられて、この世を支配しておられる、「上なる神様」です。

御子イエス・キリストは、人となられて、この世に来てくださった、「共なる神様」です。

そして、聖霊なる神様は、私たちの内に働いて、救いの恵みを分からせてくださる、「内なる神様」です。

「上なる神様」、「共なる神様」、「内なる神様」。三位一体の神様が、全力を傾けて、私たちの救いを完成してくださるのです。何と、感謝なことでしょうか。

私たちが、主イエスというお風呂に浸って、疲れた体を、癒していると、想像してみましょう。

その時、私たちの体に、お湯の温かさのように、主イエスの恵みが、じわーと沁み亘ってきます。

私たちが、主イエスの、救いの恵みの中に、どっぷりと浸っている時、そこに聖霊が働いてくださいます。

お風呂のお湯が、じわーと、体を包んで、温めるように、主イエスの救いの恵みが、体に沁み込んできます。聖霊の働きとは、そのようなものだと、言えるのではないでしょうか。

聖霊なる神様を、おふろの湯の温かさに喩えるのは不遜だ、と叱られるかもしれませんが、聖霊は、そのように、私たちの内側を温め、励まし、押し出して、新しい命に生かしてくださるのです。

この聖霊によって、私たちは、主イエスの恵みを喜び、感謝し、賛美する生き方へと、導かれます。エフェソで、人々に起ったのは、そういうことであったのです。

主イエスの名による洗礼を受け、主イエスの救いの恵みの中を、歩む者となっているなら、私たちの信仰は、聖霊を受けた信仰なのです。

その聖霊は、受けることによって、初めて分かります。

努力したり、色々と考えたり、本を読んで研究すれば、分かるというものではありません。

ですから、もし、未だ聖霊を受けていない、未だ聖霊が分からない、と感じている方がおられるなら、是非、祈り求めてください。

ルカによる福音書11章13節は、こう言っています。

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 これは約束です。

ですから、私たちは祈り求めましょう。聖書が約束しているのですから、必ず与えられます。

14年前に神様の御許に召された、田原米子さんという方がおられました。

彼女のお母さんは、40歳を過ぎてから生まれた、米子さんを溺愛しました。

米子さんも、何から何まで、お母さんに、頼り切った生活をしていました。

そのお母さんが、米子さんが16歳の時に、突然、脳溢血で亡くなってしまいました。

最愛のお母さんを失った米子さんは、生きる拠り所をも、見失ってしまいました。

そして、18歳の時、一日も早く、お母さんのところへ行きたい、という死の誘惑に負けて、新宿駅で電車に身を投げてしまったのです。

救急隊員の見事な救助によって、米子さんは、一命を取り留めました。

しかし、病院のベッドで気が付いた時、米子さんの両足は、左が膝下から、右が足首のあたりからありませんでした。

左腕は、肩の付け根から、なくなっていました。右手に巻かれた包帯の先からは、僅かに残った3本の指だけが見えました。

「なぜ私を死なせてくれなかったの!こんな体で、どうやって生きろと言うの!」

米子さんは、声をあげて泣き、神様を恨みました。

そして、眠れないと嘘を言って、睡眠薬を貰い、それを密かに枕の下に隠して、貯めていました。致死量になったら、それを飲んで、死のうと思ったのです。

そんな米子さんを、毎週金曜日になると、キリスト教の宣教師と、一人のクリスチャンの青年が訪ねるようになりました。

米子さんは、この二人に、あらん限りの悪態をつきました。やり場のない怒りを、二人にぶつけたのです。ところが、どんなにひどいことを言われても、二人は、相変わらず、にこにこして、米子さんを訪ねて来ました。

米子さんは、段々、この二人のことが、気になりだしました。

ある日、彼らが置いていった、テープレコーダーから流れてきた、聖書のメッセージが、米子さんの心を捉えました。

「キリストが十字架にかかられたのは、あなたを救うために、あなたの身代わりとなられたからです。御自分の命さえも投げ打って、キリストはあなたを愛しておられるのです。」

聞いていた米子さんの目から、涙がとめどもなく流れ出ました。そして、この神様の愛に賭けてみよう、と思ったのです。

米子さんは、生まれて初めて祈りました。「神様、もし、あなたが本当におられるなら、どうか分からせてください。」 不思議なことに、その晩は、久し振りに、ぐっすりと眠れたそうです。

そして、翌朝、起きた時、世界が一変して見えたそうです。いつもと変わらない病室なのに、全てが輝いて見えたそうです。

その後、彼女は、神様を信じて、全国を飛び歩いて伝道して、生涯を神様にささげました。

米子さんがささげた祈り、「神様、もしあなたが本当におられるなら、分からせてください」。

この祈りで良いのです。もし、本当に、この祈りを祈っていくなら、神様は、必ず、聖霊を与えてくださいます。

そのことを信じて、ご一緒に、聖霊の助けを、祈り求めつつ、歩んでまいりましょう。

聖霊は、私たちを、救いの恵みに満たし、喜びと、感謝と賛美の内を歩ませてくださいます。