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柏牧師:過去の礼拝説教

「受けるよりは与える方が幸いである」

2019年06月02日 聖書:使徒言行録 20:33~38

主イエスが宣教活動をされたパレスチナには、二つの大きな湖があります。

一つは、北のガリラヤ湖、もう一つは、南の死海です。

ガリラヤ湖は、ヨルダン川から流れ込んだきれいな水に、地下水も加わって、豊かな水量を誇る美しい湖です。

周囲は緑に囲まれ、多くの魚が住み、周囲の住民にとっては、生活に欠かせない、恵みの湖です。主イエスも、この湖を愛され、ガリラヤ湖畔の町々を、伝道して歩かれました。

ガリラヤ湖は、ヨルダン川の上流から、水を受け入れますが、受け入れたよりも多くの水を、ヨルダン川の下流に放流しています。

その水を受け入れているのが、もう一つの湖の死海です。

ガリラヤ湖は、海抜マイナス200mにあります。海面よりも、200mも低い所にある湖です。

しかし、死海は、それよりも、更に低い所にあります。死海は、海抜マイナス400m。

海面よりも400mも低い所にあるのです。世界で最も低地にある湖です。

ですから、そこに流れ込んだ水は、どこにも行き場がありません。

死海は水を、ただ受け取るだけです。貯まった水は、強い日差しを受けて蒸発します。

そのため、死海の水は、どんどん濃くなって、その塩分は、海水の10倍の濃度にまで達しています。これでは、生物は生息できません。周囲も荒涼とした岩塩で覆われ、まさに死の海となっているのです。

イスラエルに、こんな諺があるそうです。「死海のような人ではなく、ガリラヤ湖のような人になりなさい」。

ガリラヤ湖は、多くの水を、受け取りますが、それ以上の水を、放流しています。

しかし死海は、ただ受けるだけで、与えません。貯め込むだけです。

では、どちらが豊かになっているでしょうか。ガリラヤ湖の方が、豊かになっているのです。

ですから、死海のように、受け取るだけでなく、ガリラヤ湖のように、豊かに与える人になりなさい。そうすると、与えたあなたも、豊かに恵まれますよ。そういう意味の諺です。

今朝の御言葉の35節に、「受けるよりは与える方が幸いである」、とあります。

パウロが、主イエスのお言葉として、紹介している言葉です。

しかし福音書を見ても、これと同じ言葉は、見つかりません。似た言葉はあります。

例えば、ルカ6章38節、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」。

或いはマタイ10章8節、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉などです。

けれども、「受けるよりも与える方が幸いである」、という言葉は、福音書には記されていません。では、パウロは、どこから、この主イエスのお言葉を、得たのでしょうか。

恐らく、この頃までに、主イエスのお言葉を集めた、「主イエス語録」のようなものが出来ていて、パウロは、そこから引用したのではないかと思われます。

では、パウロは、「受けるよりも与える方が幸いである」という、主イエスのお言葉を引用することによって、何を語ろうとしているのでしょうか。

先ほどの、「死海のような人ではなく、ガリラヤ湖のような人になりなさい」という諺と、同じことを言いたかったのでしょうか。

受けるよりも、与える方が、結果的に、豊かな人生を送ることができる。

パウロは、人生を豊かに生きる処世訓として、主イエスのお言葉を引用したのでしょうか。

もし、そういう意味であるなら、殆どの人は、容易に理解できると思います。

作家の三浦綾子さんは、小説「続氷点」の中で、こういう言葉を紹介しています。

「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」。これは、ジェラール・シャンドリという人の言葉の引用です。

また、あの天才物理学者アインシュタインも、こう言っています。

「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」。

いずれも、素晴らしい言葉です。これらの言葉は、人間の評価や価値は、その人が集めたものではなくて、与えたものによって測られるのだ、と言っています。

パウロが、ここで言いたかったのは、このことなのでしょうか。

パウロは、その様な意味で、受けるよりも与える方が幸いだ、と言っているのでしょうか。

そうなりますと、パウロも、ここで、処世訓を語っていることになります。

でも、ちょっと違うような気がします。

私たちは、「受けるよりも与える方が幸いである」、という言葉を聞いた時、それを、どう捉えるでしょうか。

「受けるより与える方が幸いである」。それはよく分かる。なぜなら、受けるよりも、与える方が、気持ちが良いからだ。そのように捉えることが、多いのではないでしょうか。

人から何かをもらったり、親切にしてもらう。そういう厚意を受けることは、嬉しいことです。

しかし反面、それによって、自分がその人に対して、負い目を感じることになるかもしれません。その人に対して、何か、お返しをしなければならないと、感じてしまうこともあります。

ですから、一般的に、私たちは、人から「受ける」ことが、あまり好きではないのです。

逆に、「与える」ことは、相手の人に、喜んでもらえるだけでなく、それによって、良いことをしたという満足感のようなものを、感じることができます。それは気持ちのよいことなのです。

ですから私たちは、基本的に、受けるよりは、与えることの方が、好きなのです。

もちろん、人に親切にしようと思っている時に、いつも、そんな満足感を持つことを意識して、それを目的にしている訳ではないと思います。

そんなことは意識せず、純粋な気持ちで、人の役に立ちたい、と思っていると思います。

しかし、そういう時にも、心の奥底を覗き見ると、与えることによって、良い気分を味わいたい、という気持ちがあるのは、否めないのではないでしょうか。

その証拠に、親切にしたとき、相手の人が、全くお礼もせずに、当然のように、その親切を受け取ると、がっかりします。憤慨することもあります。

或いは、何かを厚意を施そうとしたときに、「結構です。余計なことをしないでください」、などと言われると、腹を立てます。

ということは、人に親切にしたり、何かを与えたりすることによって、いい気持ちになり、少しばかりの満足感を感じたい、と秘かに思っているのではないでしょうか。

しかし、これは、与えているのではなくて、実は、受けようとしていることなのです。

ですから、私たちは、人の親切を受けることを、あまり好まないのです。

元気な時に、献身的に、人のために尽くしてきた人。多くのものを、人に与えてきた人。

そういう人が年を取って、或いは病を得て、人から助けられ、支えられなければならなくなった時に、素直に人の世話を受けることができない。そういうことが、しばしば起きます。

自分の弱った姿を、人に見られたくない、昔はきちんと、いろいろなことが出来ていたのが、今は出来なくなってしまった、そういう自分を知られたくない。

そういう思いから、支えや助けを受けたくない、ということが起こるのです。

自分が、人に、親切を与えることは良い。けれども、人から、親切を受けることは好まない。

そういう気持ちが、私たちの中には、あるのではないでしょうか。

教会の中でも、そのようなことがあると思います。

主イエスは、「受けるよりも与える方が幸いである」、と言われた。その言葉を聴いて、キリスト者は、与えることに一生懸命になります。

しかし、その反面、受けることが、難しくなっている、ということはないでしょうか。

例えば、ご高齢になられた方から、しばしば聞かされるのが、受けるばかりになってしまって、心苦しいという声です。

若い頃は、与えることに、精を出すことができた。教会のために一生懸命働き、与えることをたくさんしてきた。

しかし今や、年老いてしまった。体の自由が効かない。そんな私のために、教会の人たちはたくさん与えてくれる。けれども、どうもそれが心苦しい。そういう声です。

しかし、素直に、喜んで受けることも、大切な愛の業なのではないでしょうか。

ヘルマン・ホイヴェルスという、カトリック教会の神父で、上智大学の学長をなさった方が、『人生の秋に』という本を書かれています。

その中に、「最上のわざ」という詩が、紹介されていて、このようなことが書かれています。

「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず/人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり/弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物/古びた心に、これで最後のみがきをかける。/まことのふるさとへ行くために。/こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。/それは祈りだ。/手は何もできない。

けれども最後まで合掌できる。/愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。」

ホイヴェルス神父が言っているように、人の親切や厚意を、素直に受ける、ということは、大切な愛の行為なのです。

なぜなら、受けることによって、与える人を造り上げるからです。

与える人も、受ける人がいるからこそ、与えるという業を、することができるのです。

ですから、受ける人は、何も、心苦しく思う必要はないのです。

先ほど、与えることによって、いい気持ちになり、少しばかりの満足感を感じる、というのは、実は、与えているのではなくて、受けていることだ、と申しました。

では、パウロが伝えた、「受けるよりは与える方が幸いである」、という主イエスの言葉は、どういうことを言っているのでしょうか。

この言葉は、「どちらの方が、私たちにとって気持ちが良いか」、という話ではありません。

この言葉は、エフェソの教会の長老たちに、パウロが語った、告別説教の最後に出てきている言葉です。

パウロは、ここで、エフェソにおける、自分の生活を、想い起して欲しいと、言っています。

そして、自分の生き方を模範として欲しい、と言っています。

では、パウロは、エフェソにおいて、どのような生活をしていたのでしょうか。

33節で、パウロは、「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」と言っています。

そして、34節では、「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです」、と言っています。 これが、パウロが示した模範です。

つまりそれは、人の世話にならず、自分の生活費は、自分で稼いだ、ということです。

エフェソにおいて、パウロは、誰からの、経済的な支えや助けも受けずに、自分で働いて、生活費を稼ぎながら、神様の御言葉を、宣べ伝えたのです。

パウロは、「この手で」と言って、自分の両手を見せながら話しました。パウロの職業であった、テント作りによって、節くれだった指に、皆の目が、集まったことだろうと思います。

なぜパウロは、このようなことを、敢えて言わなければ、ならなかったのでしょうか。

それには、理由があります。パウロの反対者たちは、「パウロという男は、金銭を目的に、奉仕をしているのだ」という、いわれのない中傷を、繰り返していました。

パウロは、そのような中傷に対して、真っ向から反論して、打ち負かすこともできました。

キリストの使徒として立てられたパウロが、御言葉の奉仕をする時に、報酬を得ることは、当然のことなのです。パウロは、そのことを、はっきりと主張しても良かったのです。

しかし、そうしませんでした。なぜでしょうか。

教会に、そのような論争が起きて、信仰に入って、まだ日が浅い、幼い信徒たちが、それによってつまずくことを、避けたかったのです。

伝道者が、その働きの報酬を受けることは、当然のことなのです。でも、この当然のことを、まだよく理解できないでいる、幼い信仰の人がいるのです。

そのような幼い信仰の人を、つまずかせないために、パウロは、自分の当然の権利を放棄して、自分で生活費を稼ぎながら、伝道したのです。

受け取る自由も、受け取らない自由もある。そのことを、承知の上で、信徒をつまずかせないために、受け取らない方を、自発的に選んだのです。

これは、19節にあった、「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、…主にお仕えしてきました」という、パウロの生き方そのものです。

「与える」ということは、何かを捨てることです。自分が、今、持っている、何かを放棄しなければ、与えることはできません。

パウロは、弱い人のために、自分の誉れや誇りを、かなぐり捨てて、自分を全く取るに足りない者としたのです。使徒としての、自分の当然の権利さえも、敢えて放棄したのです。

それが、パウロが、ここで言っている、「与える」ということなのです。

ここで言っている、「受けるよりは与える方が幸いである」とは、受ける自由も、与える自由もある時に、その自由を、弱い人のために用いる、ということなのです。

そのことこそが、本当の意味で、幸いな生き方である、と言っているのです。

そして、その与える幸いを、文字通り実践されたのが、他ならぬ、主イエスご自身でした。

パウロは、ここで、そのことを、教えようとしているのです。

受ける自由も、与える自由もお持ちのお方が、その自由を、弱く貧しい私たちのために、用いてくださった。それが、主イエスが与えてくださった、救いの恵みなのです。

主イエスは、神としての栄光を捨てられて、ご自身を、全く取るに足りない者としてくださり、最も低い所にまで、降りて来てくださいました。

僕の姿を取られ、徹底的に低くなられ、私たちに全てを、与え尽くしてくださいました。

そして、最後には、十字架にかかってくださり、ご自身の命さえも、与えてくださいました。

主イエスは、受けるのではなく、与え尽くしてくださったお方です。

主イエスは、与えるために、来てくださいました。どれだけの人が、救われるか。そんなことは、全く分からないのに、ただ与えるために、来てくださったのです。

この主イエスと、出会ったことによって、パウロは、受けるよりも、与えることの幸いを、知らされました。

パウロが、「与える」ことの幸いを、知ることができたのは、自分自身が、主イエスから、大きな恵みを受けたからです。

かつて、パウロは、主イエスを信じる人たちを、捕まえて、牢に入れたりしていました。

教会を、迫害していた人でした。主イエスと、教会の敵だったのです。

そのパウロが、復活の主イエスと出会い、主イエスの大きな愛に、覆い包まれました。

そして、主イエスを信じる者になり、御言葉を宣べ伝える者とされたのです。

神様に逆らい、教会を滅ぼそうとしていた自分。その自分の、計り知れない罪を、主イエスが、すべて引き受けてくださり、そのために、十字架にかかって死んで下さった。

それによって、自分の罪が赦され、全く新しくされて、御言葉を宣べ伝える者とされた。

この大きな恵みに、パウロは、打ちのめされたのです。

そして、その恵みに押し出されて、パウロは、御言葉を人に伝えました。そして、与えることの幸いを、知ることができたのです。

パウロが、「与える」ことの幸いに、生きることができたのは、初めに、神様から、恵みを受けたからです。恵みを受ける幸いを、知ったからです。

ですから、喜んで、御言葉を人に、与えることができたのです。

「受けるよりは与える方が幸いである」。私たちが、この言葉を実践する以前に、神様が、まず私たちに、恵みを与えてくださった。それが大前提なのです。それが出発点なのです。

私たちは、先ず与えられているのです。与えられているから、与えることができるのです。

私たちが、与えることができるのは、与えられた恵みの、ごくごく一部です。

しかし、どんなに少なくても、私たちが、いただいた恵みの一部を、与えていく時、私たちは、主イエスと共に歩んでいるのです。主イエスと共にいるのです。

そして、そのことこそが、私たちの幸いなのです。

主イエスと共に生きる。これにまさる幸いはありません。これにまさる喜びは、ありません。

私たちは、豊かに与えられています。その与えられたものを、どう生かしていくのか。

果たして死海のような生き方でいいのか。神からいただきっぱなしでよいのか。

それとも、ガリラヤ湖のように、たくさんよいものを受けて、今度は、それを、少しでも与える生活を始めていくのか。

私たちも、主イエスと共に、「受けるよりは与える方が幸いである」という、本当の幸いに生きる生き方をしていきたい。そのように、心から願わされます。