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柏牧師:過去の礼拝説教

「闇から光へ」

2019年08月25日 聖書:使徒言行録 26:1~18

以前、一戸満という人の事をお話しましたが、皆さんは、覚えておられるでしょうか。

一戸満さんは、東京大学大学院の人文科学研究科を卒業し、ドイツ文学の研究者として著作活動をしていました。

「頑張れば幸せな人生を生きられる」と信じて、自宅で翻訳の事務所を開き、家族4人で自身が理想とする人生を送っていました。

しかし、父親が亡くなり、遺産相続をめぐる、親族間の争いの醜さに、言いようもない「怒り」を覚えたのをきっかけに、酒浸りの生活に陥ってしまいます。

やがて家族も去って行き、すべての財産を売り払って、大学時代の友人の許に、身を寄せながら、生きる希望を持てずに、職を転々とする生活を送るようになりました。

孤独の中をさまよい、まるで「糸の切れた凧」のような生活を続け、全く希望を失っていました。このままではいけない。何とか生活を立て直そうと決心して、上京しました。

しかし上野公園で、荷物を置いたまま、トイレに入った隙に、その荷物を全部盗られてしまいます。ポケットの中の2000円が、全財産となってしまいました。

仕方なく、上野公園のベンチに、身を横たえて、ホームレス生活が始まりました。

それでも、何とかして、ホームレス生活から抜け出そうとして、もがいていたある日、ショーウインドウに映った、自分の姿に愕然とします。

それは、埃と垢で、赤黒く変色した、惨めな姿でした。それを見て、「もう救われない」という、絶望的な思いに陥りました。そして、自殺することばかりを、考えるようになりました。

体力も落ちて、よろよろとした足取りで、ある日、上野公園内の炊き出しに行きました、

そこで、炊き出しをしていた教会の牧師に誘われて、教会に行きました。

教会でのメッセージを聞きながら、一戸さんは、何故か、温かい気持ちになり、涙が出てきたそうです。

これからは、自分の力で生きるのではなく、このイエス様というお方に、ついていけばよいのだと思うと、不思議に気が楽になりました。「もし騙されても結構です。イエス様、どうか私を、生まれ変わらせてください」、と必死に祈りました。

その後、一戸さんは、教会からの援助を受けて神学校で学び、伝道師となりました。

そして、クリスチャンが運営する宿泊施設、「日光オリーブの里」で、チャプレンを5年間務め、現在は母教会に戻り、牧師として奉仕をしています。

一戸牧師の愛唱聖句は、エフェソの信徒への手紙5章8節です。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

一戸牧師は、「まさに私の人生は、この御言葉の通りです」、と語っています。

信仰を持つ前の、「暗闇」のような人生に対して、主イエスを救い主として迎えてからの人生は、「光」のようであると言っているのです。

この様な体験をした人は、他にも多くいます。ミッション・バラバというグループがあります。このグループのメンバーは、全員が元やくざでした。幹部もいれば、下っ端もいました。

しかし、様々な道筋を辿って、全員が主イエスと出会って、牧師になった人たちです。

彼ら一人一人の人生を見てみると、まさに「暗闇」から、主イスによって、「光」に導き入れられた、驚くような逆転のドラマがあります。

また、キリスト教団体と関係の深い「ダルク」という施設が、全国に多数あります。

薬物依存症の人たちの更生施設です。この施設で働いている人たちの中には、自らも、元薬物依存症であった人たちが多くいます。その中には、クリスチャンとなった人もいます。

信仰によって、薬物依存の暗闇から、光の中へと、導き入れられた人たちです。

彼らは言っています。「覚せい剤は悪魔の薬だから、神様以外には勝てないのです」。

これらの人たちは、いずれも、「悲惨な状況」から、救い出された人たちです。文字通り、暗闇から、光に移された、人たちです。

そのような、誰が見ても、悲惨だと思うような状況ではなく、一見すると、成功していて、幸せなそうな人生を歩んでいても、実は暗闇の中にいる人も、世の中には大勢います。

漫画家の山花典之さんという方がいます。この人が書いた、『夢で逢えたら』というマンガは、大ヒットして、シリーズ本になり、アニメにもなって多くの人に、愛読されています。

しかし、マンガが当たって、成功しましたが、それに比例して、山花さんは高慢になっていきました。やがて、奥さんを傷つけたり、家族に暴力を振るうように、なっていったのです。

そして、自分自身も、崩れていきました。

そんな中で、奥さんに誘われて、近くの教会に通い出しました。でも、そこで話された、「罪の奴隷」という言葉に反発を覚えて、教会からだんだんと、足が遠のいてしまいました。

心の空しさを埋めるために、色々な本を読みあさりました。その中に、カーネギーという人が書いた、『道は開ける』という本がありました。

そこには、人生についての、様々なアドバイスが、書いてありました。そして、その最後に、こんなことが、書いてありました。

「ここに書いてある方法でも満足できない人は、教会の門を叩いてみることでしょう。」

そこで、山花さんは、再び教会に通い始めました。そして初めて、イエス・キリストは神様なんだ、自分と一緒にいてくれる神様なのだ、ということを実感したそうです。

それが分かった時、思わず泣いてしまったそうです。

それからの山花さんは、仕事が楽しくて仕方がなくなり、喜びをもってマンガを書き、まるで人が変わったようになりました。

お子さんも、「お父さんは優しくなって、別の人になったみたい」、と言っているそうです。

山花さんの場合は、外から見れば、成功者でした。世間的に見て、悲惨な状況にあった訳ではありません、むしろ、人々から、羨ましがられるような状況にあったのです。

でも、彼も、暗闇から、光に入れられた人であったのです。

この様に、外から見れば、人も羨む成功者なのに、実は、自分は暗闇の中にいた、と言った人が、ここにもう一人います。今朝の御言葉に出て来る、使徒パウロです。

今朝の御言葉には、そのパウロの半生が、語られています。

パウロは、人が羨むほどの、条件に恵まれていた人でした。

良い血筋に生まれ、ローマの市民権を持ち、優れた学識に恵まれ、ファリサイ派の若きエースとして、将来を嘱望されていました。人が羨むようなものを、いくつも持っていました。

また、教会迫害のリーダーとして大活躍し、人々から尊敬と称賛を受けていたのです。

そのようなパウロの名は、エルサレム中のユダヤ人に、知れ渡っていました。

まさに彼は、エリート中のエリートとして、華々しい脚光を浴びていたのです。

しかし、そのパウロが、ある時、突然、復活の主イエスと、出会ったのです。

そして、主イエスこそが、旧約聖書で約束されていた、救い主であることを知らされました。

その時、それまで、自分が、大切にして、一生懸命に守って来たものが、どんなに、つまらないものであったのかが、示されたのです。

そして、それらの、つまらないものに囚われて、本当に大切なものを、見ることができなかった自分は、まさに暗闇の中にいたのだ、ということを知らされたのです。

それまでは、自分こそは光の中にいる、と思っていました。しかし、そうではなかったのです。

実は、自分は、暗闇の中にいて、見るべきものが、見えていなっかったのです。

パウロは、主イエスという、まことの光に照らされて、それが分かったのです。

主イエスと出会ったことによって、暗闇から、まことの光の中に、導き入れられたのです。

主イエスは、このパウロを、ユダヤ人や異邦人のもとに、遣わされました。そして、福音を宣べ伝えるようにと命じられました。

しかし、この主イエスのご命令に、従ったために、パウロは、ユダヤ人同胞から、つまはじきにされ、鞭打たれ、投獄され、疫病のような男だと、蔑まれるようになってしまいました。

人も羨む、若きエリートであったパウロは、逆に、忌まわしい人物として、命さえも狙われる、お尋ね者になってしまったのです。

これは、常識で見れば、光から、闇に転落したようなものです。

しかし、パウロは言っています。「いやそうではない。その反対なのだ。私は、闇から光へと、導かれたのだ」。

ではパウロが言っている闇とは、どのようなものなのでしょうか。光とは、何なのでしょうか。そのことを、ご一緒に、考えてみたいと思います。

今日の御言葉は、パウロが、アグリッパ王の前で、弁明をしている箇所です。

教会迫害の急先鋒であったパウロが、一転して、イエス・キリストこそが、聖書で預言されている、約束の救い主である、と言い出した。

ユダヤ人にとって、そんなパウロは、許し難い裏切り者でした。彼らは、パウロを捕らえて、裁判の場に引きずり出して、死刑を要求しました。

しかしパウロは、ローマ総督のフェストゥスに、「私は皇帝に上訴します」、と宣言しました。

そのため、パウロは、ローマに身柄を移されることになりました。

パウロを、ローマ皇帝に引き渡すに当たって、総督フェストゥスは、彼についての罪状書を、提出しなければなりませんでした。

しかし、これは、フェストゥスにとって、容易なことではありませんでした。

なぜなら、フェストゥスから見れば、パウロとユダヤ人たちの争いは、彼らの宗教に関することで、ローマの法律に照らして、罪に当たるようなものは、見出せなかったからです。

そこで、フェストゥスは、ユダヤ人の事情に詳しいアグリッパ王に、パウロの弁明を聞かせて、何らかのアドバイスを、貰おうとしたのです。

図らずも、パウロは、アグリッパ王の前で、キリストを証しする機会に、恵まれました。

パウロは、喜んで、自分の回心の出来事を、語りました。

18節には、パウロが、主イエスによって、福音の証人とされた目的が、語られています。

「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」

キリストを知らない人々は、暗い闇の中にいる。しかし、キリストが宣べ伝えられることによって、そこに光が差し込む。キリストを信じる者は、闇から光の中を歩む者になるのだ。

このことを、宣べ伝えるために、私は、あなたを遣わす。

主イエスは、このように言われて、パウロを派遣されました。

ここで、「闇から光に」と、言われています。ということは、主イエスと出会う前は、みな闇の中にいる、ということです。

主イエスの光を知らないなら、本当は何も見えない、闇の中にいるのです。いえ、自分が闇の中にいることさえ、分からないほどに、何も見えていないのです。

13節には、パウロが、主イエスと出会ったのは、「真昼のこと」だった、と書いてあります。

パウロは、真昼の明るい光の中を、意気揚々として、教会迫害の旅をしていました。

教会を迫害して回りながら、自分こそが、神の光の中を歩む者だ、と思っていました。

しかし、その真昼の太陽を、さらに超える光が、パウロを照らしたのです。

それは「太陽より明るく輝いて、パウロと同行していた者との周りを照らした」、とあります。

その光のために、パウロは一時、目が見えなくなってしまったのです。

キリストの光に照らされて、視力を失ったパウロは、初めて、これまで自分が必死に見つめていたものが、虚しいものであり、本当に見るべきものを、見ていなかった。

光の中にいると思っていたけれども、実は、闇の中にいたのだと、気付かされたのです。

一体、闇とは、どういうものでしょうか。何も見えないところ、それが闇です。

闇の中では、自分の姿も見えません。自分のいる場所も見えません。私たちは、光に照らされた時に、初めて、自分がどのような者で、どこにいるのか、が分かります。

皆さんは、本当の闇の暗さを、経験したことがおありでしょうか。

以前、炭坑で働いていた人の話を、読んだことがあります。

ある時、カンテラの電池が切れて、真っ暗になったそうです。私たちが想像する暗闇とは違って、周りが全部黒い石炭の中で、光が全くなくなると、本当暗いそうです。

その本当の暗闇を経験した時、何とも言えない、恐怖を感じたそうです。

自分の手があるのかないのか、分からなくなってしまいそうな、とても不安な空間に置かれて、自分の存在すらも、不確かに感じられたそうです。

何とかして、ここから出なければならないと、手探りで歩き回って、遥か先に針の穴ほどの光がポツンと見えた時、「ああ助かった」、と思ったそうです。

その針の穴のような光が、自分の心に、言いようのない、希望と喜びを与えてくれた。

その時の事を、忘れることができない、と書かれていました。

もし私たちが、主イエスのまことの光を知らず、底知れぬ闇に包まれて、歩いているなら、不安に駆られて、その闇の中で、わずかな光を探そうと、必死になると思います。

そして、これが頼れる光かも知れないと思ったら、もうそれを手放せなくなると思います。

しかし、この世のどんなものも、すべては一時的な光です。

お金も、富も、成功も、一瞬は明るいかも知れません。しかし、いつまでも、人を照らすことは出来ません。例えば、死の恐怖に襲われた時、それらは、私たちを、闇から光へと、導いてくれるでしょうか。

この世のものには、絶対的な確かさはありません。そのような、神様以外の、不確かなものに縋らせ、それに執着させること。それが、サタンの仕業なのです。

主イエスは、「わたしは世の光である」、と宣言されました。

この言葉は、「私こそが世の光なのだ」、という強い意味を持っています。

「私こそが、世の光なのだ。やがて消えてしまうような、一時的な光ではない。私こそが、あなたを生かす、命の光なのだ」。そのように、主イエスは、力強く言われたのです。

光が輝くのは、暗闇の中です。暗闇の中でこそ、光は輝きます。

ですから、主イエスが、「私こそが世の光だ」、と仰った時、同時に主イエスは、「あなたは、今、闇の中にいるのだ」、と言われているのです。

「あなたは、暗闇の中を歩んでいるのです。どうか、そのことを知って欲しい」。主イエスは、そう言っておられるのです。

主イエスは、私たちの心の中に、暗い部分、影の部分があることを、私たち以上に、ご存知なのです。だからこそ、私の光の中に来なさい、と言われているのです。

あなたの影の部分も、暗いところも、すべて、私の光の中に、さらけ出しなさい。

覆い隠しているのでなく、私の光に照らされなさい。その時、あなたの闇は、取り去られます。

なぜなら、あなたの闇は、すべて、この私が、代わって負ってあげるからです。

私は、そのために、来たのです。主イエスは、そう言われています。

「私は、あの人が愛せない。あの人のことを赦せない。誘惑の力に、勝つことができない」。そんな醜い部分を、すべてさらけ出して、祈ってごらんなさい。私の光を信じて、祈ってごらんなさい。

その時、あなたの闇は、すべて、私が代って負って、十字架についたことが、分かるようになる。そして、その時、あなたは、闇から、光に移されるのです、

あなたは、闇に囚われたままで、あってはいけない。私の光の中に、来なさい。

主イエスは、熱い思いをもって、叫んでおられるのです。

このお方に照らされた時、私たちは、自分の本当の姿を、見ることができます。自分の弱さを隠して、虚勢を張って生きていく生き方から、解放されます。

この主イエスというお方は、私たちのことを光のように覆い包んで、愛してくださるお方です。

暗闇の中に、ただ一人いる、と思っているような時にも、このお方は、愛の光のぬくもりで、私たちを、そっと温めてくださるお方なのです。

私たちが光を見ずに、闇の方に目を向けていても、このお方は、変わることなく、私たちの、背中を、照らし続けて下さるのです。

この光が、暗闇の中で、輝いていてくださいます。ですから、私たちは、この世の中が、どんな暗闇の中にあるように見えても、希望を失わないのです。

この光が、すべての人を照らすために、この世に来てくださいました。

一番低いところで、一番暗いところで、輝いてくださる光です。そこから、慰めを与え、力を与えてくださる。そういう光です。

そのことを喜び、そのことを感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。