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柏牧師:過去の礼拝説教

「前に向かって全身を伸ばそう」

2020年01月04日 聖書:フィリピの信徒への手紙 3:12~14

皆さん、新年のおめでとうございます。

1月1日、元旦の朝を迎えました。言うまでもなく、元旦は、一年の初めの日です。

では、皆さん、新約聖書には、この日に、何があったと、記されているでしょうか。

この日は、12月25日、つまりクリスマスから数えて、8日目に当たります。

ルカによる福音書2章21節は、こう言っています。「八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。」

つまり1月1日は、クリスマスにお生まれになった神の独り子に、「イエス」という名がつけられた日なのです。

そして、「イエス」という名は、「神は私たちの救い」、という意味の名前なのです。

ですから、元旦の朝に、私たちキリスト者が、先ず想い起すことは、私たちの救い主であるお方が、イエスという名前を、この日につけられた、ということではないでしょうか。

そして、今日から始まる一年も、私たちの救い主である、イエスというお方の名前を、いつも口にしながら、過ごしていこう。そういう思いを新たにすべき日なのではないでしょうか。

年の初めに当たって、まずそのことを、心に刻んでおきたいと思います。

さて、新しく与えられた2020年は、干支で言うと「子年」、つまりネズミ年です。

ネズミは、旧約聖書の中に何回か出て来ますが、あまり良いイメージで、出てきている訳ではありません。「地を荒らす生き物」、とか「汚れた生き物」として、紹介されています。

何故、そんなネズミが、十二支のトップに来ているのか、ちょっと不思議です。

しかし、日本では、ネズミは、必ずしも汚れた生き物とは、見られてはいないようです。

日本の古い昔話では、大国主命が、ネズミに助けられたという話があります。

そこから、ネズミは五穀豊穣や実りや、豊かな財力を、意味するようになりました。

また、ネズミは多くの子を産むため、子孫繁栄の象徴ともされています。

とは言っても、一般的には、やはり、ネズミは有害な小動物、というイメージです。

それで、こんな諺にも使われています。「大山鳴動して鼠一匹」.

大きな山が、音を響かせて揺れ動くので、大噴火でも起こるのかと思っていたが、ネズミが一匹出てきただけだった。つまり、「大騒ぎしたわりには、実際には結果が小さい」。

その譬えとして、ネズミが出てきています。

「大山鳴動して鼠一匹」。「大騒ぎしたわりには、実際には結果が小さい」。

これは、今、会堂建築に携わっている、私たちに対する、警告の言葉でもあると思います。

私たちは、会堂建築で、別に大騒ぎをしている訳ではありません。

しかし教会にとって、何十年かに一度の、大きな神様の御業であることは確かです。

神様が、その大事業を起こしてくださったのに、結果は何も変わらなかった。

確かに、外側の入れ物は、大きく変わった。けれど、肝心の中身は全く変わらず、昔のままである。もしそうであれば、「大山鳴動して鼠一匹」、と言われかねません。そのようなことがないように、したいと思います。

私たちは、外側だけでなく、内実も新しくされていきたい。神様から賜った、大きな恵みを、受けるに相応しく、変えられていきたい。

そのような切なる思いをもって、新しい年の第一歩を、歩み出したいと願わされます。

今朝の御言葉の14節にあるように、今、神様は、私たちに、新会堂という賞を、与えようとしておられます。そうであれば、私たちは、その賞を得るために、前に向かって、ひたすらに走っていきたいと思います。

このフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすらに走ることを、勧めています。

信仰生活を、「目標を目指してひたすら走る」、マラソンのような長距離競争になぞらえています。

長距離を走っているとき、私たちは。走りながら色々なことを考えます。そして、辛い時には、完走してゴールに飛び込む自分の姿を想像して、自分を励ましたりします。

その一歩一歩が、ゴールに向かっての前進であることが、励みになります。

昨年は、ラグビーのワールドカップが日本で行われ、日本代表が「One Team」になって戦い、大活躍しました。

往年のラガーであった私も、久し振りに、血沸き肉躍るような、興奮を味わいました。

私が、楕円形ボールを追って、グランドを走り回っていたのは、もう50年以上も前の事ですが、ひたすらに前に向かって走っていた頃の、懐かしい思い出が、胸に迫って来ました。

ラグビーも、マラソンと同じように、ひたすらにゴールに向かって前進していくスポーツです。

ただ、ラグビーでは、ボールを前に投げることは反則ですので、ボールを後ろに後ろへとパスしながら、前進していきます。

ややもすると、パスを繰り返していても、一向に前進できずに、ただ動き回っているだけ、というようなことがあります。それでは、体力と時間を、消耗するだけになりかねません。

そのような攻撃を嫌って、ボールを持ったら、ただひたすら前へ進むことを、選手に徹底させた名物監督がいました。

もうかなり前に亡くなりましたが、かつて明治大学ラグビー部の監督を長年務めた、北島忠治さんという方です。

ラグビー界では「北島忠さん」の愛称で、大変親しまれ、また尊敬された方です。

北島忠さんは、とにかく「前へ」を言い続けた人でした。人から色紙に何か一筆を頼まれると、必ず「前へ」と書いたそうです。

ですから、当時の明治大学のラグビーは、愚直とも思われるほどに、ただ「前へ」進むことに徹していました。選手が一丸となって、ただ「前へ」進むラグビーを実践したのです。

信仰生活もこれと似ていると思います。私たちの信仰生活には、前進か後退か、のいずれしかありません。同じ所に留まっている、ということはないのです。

前進していなければ、必ず信仰は後退していきます。ですから、「前へ」が、大切なのです。

パウロは言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」ことである。

御言葉は、はっきりと、「なすべきことはただ一つ」、「前へ」、と言っているのです。

それなのに、私たちは、すぐに立ち止まったり、振り返ったり、逆戻りしようとします。

或いは、逃げ出そうとします。しかし、聖書が語っていることは、「前へ」なのです。

しかし、なぜ「前へ」なのでしょう?

それは、マラソンにも、ラグビーにも、そして信仰生活にも、ゴールがあるからです。

そのゴールを目指して進むことが、「前へ」なのです。

そもそも、ゴールがなければ、どちらが前なのかも、分かりません。

ゴールがあるので、ゴールを目指した生き方が、求められてくるのです。

信仰生活にも、全身を向けるべき、ゴールがあります。

そこに向かって、迷わず、ひたすら走って行くべき、ゴールがあります。

そして、それが、はっきりと見えてくることによって、私たちの、「今の生き方」が、決まってくる。そのようなゴールがあります。

更に、御言葉は、ゴールを目指した生き方とは、賞を得ることを目指した、生き方であると、と語っています。賞を得るために、ひたすら走るのだ、というのです。

それでは、ゴールに飛び込んだ者に、与えられる賞とは、どのようなものなのでしょうか。

世の中の、殆どの人は、この世で成功することや、豊かな暮らしを送ることが、ゴールでの賞であると、考えています。

そして、それを求めて進むことが、「前へ」進むことである、と思っています。

しかし、御言葉は、信仰者にとってのゴールとは、「神がキリスト・イエスによって、上へ召して」くださることである、と言っています。「上」とは、神様がおられるところです。

もっと詳しく言えば、キリストが、父なる神様の右に座しておられるところです。

そこが、ゴールだというのです。目指すのは、キリストなのです。そのゴールには、キリストがおられる。ですから、キリストを目指して走ることが、ゴールを目指して走ることなのです。

キリストを見つめることが、ゴールを見つめることなのです。

そして、そのキリストが、上へと、私たちを召してくださる。ご自分の御許へと、私たちを召してくださる。それが、賞だというのです。

それでは、上へ召してくださると、実際に、どのようなことが、起こるのでしょうか。

言い換えれば、その賞の中味とは、何なのでしょうか。今朝の御言葉の、直前の3章10節、11節に、その答えがあります。それは、キリストと一つとされる、ということです。

キリストにすっぽりと覆い包まれ、キリストの愛に浸り切り、キリストの愛に溶け込んでしまう。そのように、キリストと一つとされることを、パウロは、切に願っているのです。

キリストと一つとされる。それは、私たちクリスチャンの、究極のゴールではないでしょうか。

パウロは、「私にとって生きることはキリスト」である、と言いました。どういう意味でしょうか。

恐らく、生活の全場面に、キリストが現れている、ということだと思います。

金太郎飴のように、生活のどこを切っても、「キリスト」、「キリスト」と、キリストが出て来る。

そういうことだと思います。

アッシジの聖フランシスコは、キリストと一つとなる事を、ひたすらに願ったために、遂にキリストの十字架の傷が、体に顕れたと伝えられています。

それが、歴史的な事実であったかどうかは別としても、それほどまでに、キリストと一つになりたいと願ったのだと思います。

私たちは、パウロや聖フランシスコのような、立派な信仰者の例を示されると、たじろいでしまいます。自分にはとても無理だと、落ち込んでしまいます。

しかし宗教改革者マルティン・ルターは、「私は一人の小さなキリストになる」と言っています。

キリストと同じように生きることなど、とても無理です。そんなことは不可能です。

でも、小さなキリストになる事なら、出来そうです。私たちの生き方の所々に、キリストの香りが、ほんのりと放たれる。キリストの愛の、ほんの一かけらが、顔を出す。

そんな生き方なら、目指すことが出来そうです。私たちの信仰のゴールは、そこにあるのではないでしょうか。

しかし、12節で、パウロは、その賞を既に得た、とは言っていません。ただ、それを切に求めています。捕らえようとして、ひたすらに努めている、と言っています。

「キリストと一つとなる」という賞を得るために、前のものに全身を向けて、ひたすらに走っている、と言っているのです。

その時、必要なことは、後戻りしない、ということです。せっかく進んできたのに、後戻りしてしまっては、元も黙阿弥です。

アウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所に入れられ、解放まで生き延びて、生還した作家のエリ・ウィーゼルは、こんな譬え話を書いています。

「男が、森の中を歩いていて、道に迷ってしまいました。どう行けば、この深い森から出られるか分かりません。一日過ぎ、もう一日過ぎました。

三日目には、お腹が空き、水も見つからず、もう死にそうなのに、出口はまだ分かりません。

そんな時、別の人に出会いました。喜んでこう言いました。

「ありがとう、ここにいてくれてありがとう。森からどうやったら出られるか教えてください。」

相手が言います。「私も道に迷っているのですよ。とにかく、私の来た道を行っては駄目ですよ。それしか、私には言えません。」

この譬え話は、迷っていた道に、また戻っては駄目だ、ということを、教えています。

勿論、原点に立ち返ることは、必要です。しかし、そこから迷い出てしまって、どこにいるかも分からなくなってしまった道に、また戻っても、再び迷うだけです。

そういう時は、新しい道を探すために、前に進まなければいけないのです。

しかし、実際には、私たちは、後ろのものを、なかなか忘れられません。

忘れられないどころか、後ろのものに、いつも捕われてしまっています。

そして、過去に縛られて、そこから抜け出すことが、出来ずにいるのです。

或いは逆に、麗しい過去や、楽しかった思い出に、いつまでもしがみついて、そこに帰ることばかり、考えてしまうのです。そのため、私たちは、なかなか前向きになれないのです。

私たちも、茅ヶ崎恵泉教会の歴史を、心から感謝し、大切にしなければなりません。

しかし、過去にしがみ付いて、新しい道に歩み出すことが、出来ずにいるなら、信仰の歩みは止まってしまいます。

新しい革袋が与えられても、そこに古いぶどう酒を、注ぐことになってしまいます。

パウロは、ひたすらに前に向かって走ることを、熱心に勧めています。

でも、パウロは、どうしてこんなに、必死になって、走ることが、できるのでしょうか。

それは、今、自分が、キリスト・イエスに、捕えられているからだ、とパウロは言っています。捕えようとしている自分の方が、実は、先に捕えられている。

その事が、ひたすらに走ることが出来る、根拠だというのです。

復活の主イエスが、私たちを、今、しっかりと捕え、支えてくださっている。

進む方向まで決めて、私たちを、掴まえていてくださる。

私たちは、自分の力によってではなく、この掴まえていてくださる、お方の力によって、走ることができるのです。今年は、東京で、パラリンピックが開かれます。

丁度、パラリンピックで、視覚障害の方たちと、共に走る伴走者のように、方向を示す紐を、しっかりと結んで、主イエスが一緒に走っていてくださる。

私たちの信仰の戦いとは、そういうものだ、というのです。

競争においては、走るコースは、予め決まっています。しかし、人生においては、走るコースは、何も決まっていません。少なくとも、私たちには、見えません。

ですから、どれが、まことの幸いに至る道か、私たちには分かりません。

そんな時、一番いいのは、前の方から、呼んでくれることです。

ゴールの方から、「おーい、こっちだよ。こっちにいらっしゃい」と、誰かが呼んでくれたなら、どの方角に進めば良いか、すぐに分かります。

私たちの人生のゴールにおられるお方である、主イエスは、そのように呼んでくださるお方です。私たちは、その声を聞きながら、その声に励まされながら、走って行くのです。

しかし、私たちは、「前へ、前へ」と言われ続けると、疲れを覚えてしまうことがあります。

そんなに、いつも、前に向かって、全身を伸ばし続けることはできない、という思いに覆われることがあります。

そんな時、私たちに慰めを与えてくれるのが、讃美歌460番ではないでしょうか。

「やさしき道しるべの 光よ」、という言葉で始まる、この讃美歌の作詞者は、ジョン・ヘンリー・ニューマンという人です。彼は、英国国教会の司祭でした。

1833年の夏、彼はイタリアに伝道に出掛けました。しかし、着いて間もなく病気に罹り、数週間、生死の境をさまようほどの重態となりました。

だいぶ回復したので、早く国へ帰って療養したいと思い、シシリー島のパレルモから、フランスのマルセーユに行く船に乗って、帰路につきました。

しかし、あいにくの悪天候のため、航海は遅れ、病弱の身には辛い日々が続きました。

その上、帰国後の見通しも開かず、不安が増しました。そのような、暗澹たる中で、航海の途中に作ったのが、この歌であったのです。

この讃美歌の2節の歌詞は、まことに慰めに満ちています。

「行くすえ遠く見るを 願わず。よろめくわが歩を 守りて ひと足 また一足 導き 行かせたまえ。」 日本語の歌詞も、とても良いですが、英語では、「I do not ask to see the distant scene, one step enough for me」となっています。

遠くを見ることは願いません。One Step(ひと足)で十分です、と言っているのです。

私たちは、その先、またその先を見ようとして、心配や不安を高めてしまうことがあります。

しかし、目の前の One Step をしっかり歩むことに、心を傾けていけば、その先は自ずと開けて来るのかもしれません。

新しく与えられた2020年。私たち、茅ヶ崎恵泉教会にとっては、大きな変化の年です。

しかし、私たちは、このような時こそ、御言葉にしっかりと立ち、ゴールから呼び掛けてくださる主の御声を確かに聞きつつ、ひと足、また、ひと足と、前に向かって歩んで行きたいと思います。