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柏牧師:過去の礼拝説教

「怒りからの解放」

2020年05月17日 聖書:マタイによる福音書 5:21~26

聖書の中には、「これは少し極端ではないか」、と思われるような、主イエスの教えや、譬え話がしばしば出て来ます。
今朝の御言葉の中にも、そのような言葉があります。
22節、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
もし、この御言葉の通りに実施されたならば、裁判所は人で溢れ、刑務所は直ぐに満杯になってしまって、それこそ「三密」状態になってしまうのではないかと思います。
また、23節、24節はこう言っています。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
この御言葉も同じです。文字通り実行したら、礼拝の途中で、仲直りするために出て行く人が続出して、礼拝の場は空っぽになってしまうのではないかと思います。
このように主イエスは、しばしば誇張した表現で語られました。
それは、そのような表現で、私たちをハッとさせて、御心を気づかせるためです。
26節には、「1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」、とあります。
1クァドランスとは、一日分の賃金の1/64と言われています。今のお金に換算すれば150円くらいです。
最後の150円を返すまで、決して牢屋から出られない、というのです。これも、神様の裁きの厳しさを、気付かせるための、誇張した表現です。
では、今朝の御言葉で、主イエスは、私たちに何を語っておられるのでしょうか。
私たちをハッとさせて、何に気づかせようとしておられるのでしょうか。これから、ご一緒に、それを探って行きたいと思います。
21節から5章の終わりまでに、「しかし、私は言っておく」、という言葉が、六回も繰り返して語られています。
昔の人はこう言っていた。「しかし、私は言っておく」。この言葉に続けて、主イエスは、ファリサイ派の人の義にまさる、新しい義に生きる生き方を示されました。
その最初に語られたのが、「殺してはならない」という戒めの、新しい解釈です。
「殺してはならない」。これは、良く知られているように、十戒の第六の戒めです。
しかし、私たちはこの戒めを、それ程真剣に、受け止めてはいないのではないでしょうか。
なぜなら、自分は人を殺すことなど、考えたこともないし、これからも、自分が人を殺すことなどあり得ない、と思っているからです。
しかし、主イエスは、この良く知られた戒めを、新しく語り直されました。
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
ここで気が付くことは、三段階の裁きが語られている、ということです。
初めの裁き。これは、いわば地方裁判所のようなところでの裁きです。
その次の、最高法院というのは、当時のユダヤの最高意思決定機関である、サンヘドリンという議会のことです。
これは、70人の議員から成っている、国会と最高裁判所を兼ねたようなところです。
人間による裁きはここまでです。その上の裁き、地獄に投げ込むのは、神様の領域です。
このように、罪も重さに連れて、裁きの場所も違っていきます。
「腹を立てる」というのは、まだ心の中で思っているだけで、それを口に出していません。
しかし、心の中で、「あんな奴、いなければ良い」と思う。これは、相手の存在を否定する訳ですから、立派な殺人行為と言えます。
ヨハネの手紙一3章15節もこう言っています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」。
このヨハネの言葉は、今朝の主イエスの御言葉と、響き合っています。
兄弟に腹を立てて、兄弟を憎む者は、その兄弟を心の内で、抹殺している。つまり、人殺しをしている、というのです。
次の「ばか」というのは、その怒りが、口をついて、実際に出てきた言葉です。
この「ばか」と訳された言葉は、原語のギリシア語では「ラカ」という言葉です。
「ばか」の原語が「ラカ」。偶然とは言え、良くできた語呂合わせになっています。
この「ラカ」という言葉は、もともとは「空っぽ」という意味の言葉です。
そこから派生して、「お前の頭は空っぽだ」、と罵る時に用いられるようになりました。
日本語で言い換えれば、「間抜け」、「とんま」、「ほら吹き」というような、様々な意味を含んでいます。
つまり、人間としての値打ちがない、と言っているのです。ですから、これも、言葉による殺人行為である、と言えます。
「愚か者」という言葉は、ある辞書によれば、日本語には翻訳不可能だ、と書かれています。
「無頼漢」と訳している翻訳もあります。しかし、実際にはもっと広い意味の言葉のようです。
この言葉は、「神に呪われてしまえ」という意味を含んでいます。ひどい言葉です。
神に呪われたら、人は生きてはいかれません。
ですから、これは、完全に人格を否定する言葉です。
神に呪われて、滅んでしまっても良い、と言っているのですから、その人を完全に消し去っているのです。
主イエスは、そのように人を決め付ける者は、その人自身が地獄の火に投げ入れられるのだと、言われているのです。
言葉は人を殺します。心無い言葉、毒に満ちた言葉が、二度と立ち直ることのできないどん底に、人を突き落としてしまうことがあります。
青山学院大学の宗教部長の塩谷直也牧師が、このような体験談を記しておられます。
地方の高校から東京の大学に入学した塩谷先生が、慣れない土地で孤独感を味わっていた時、あるデパートの食品売り場にバイトに行きました。
客の呼び込みが上手くて、「あなたの顔が見たかったのよ」と言ってくれた人がいました。
それを見た上司が誉めてくれて、朝礼で挨拶の見本も示しました。
ここでは自分は必要とされている。そういう満たされた思いの中で、日々を送っていました。
年末大売出しの時、扁桃腺が腫れて、熱が出ました。それでも何とか頑張っていましたが、とうとう我慢できず、早退を申し出ました。
しかし「君がどうしても必要なんだ。君しかいないんだ」。そう言われて、更に頑張りました。
でも、体の節々が痛くて堪らない。「もう、これ以上無理です」、と上司に伝えました。
すると、その上司は、目を逸らしボソッと言ったのです。「使えねえなぁ」。
血の気が引きました。どん底に突き落されました。
「俺はあんたにとって、ただの道具だったのか。結局、誰も自分を、本当には必要としていないんだ」。
そう思うと、無性に悔しく、寂しいか思いが、こみ上げてきました。
「使えねえなぁ」。この一言が、塩谷先生の人格を抹殺したのです。
私たちも、兄弟姉妹に対して、「仕えないなぁ」、というような一言を言っていないでしょうか。
人間の法廷は、肉体の殺人という行為しか、裁くことができません。心の中で思ったことを裁くことはできません。
しかし、神様は、私たちの心の中の、思いをも裁かれるのです。
ですから、主イエスは、怒りを収めて、和解することを、勧められておられます。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
これを、私たちに当てはめれば、「もし、誰かと仲たがいしていることに気づいたら、礼拝の途中でも、行って仲直りして、それから戻って礼拝をささげなさい」、ということになります。
ここで注意して読んで頂きたいのは、自分が、兄弟に反感を持っていることに気づいたら、と言っているのではない、ということです。
兄弟が、自分に反感をもっているのに気づいたら、と言っているのです。反感を持っているのは、自分ではなくて、兄弟なのです。
これは、祭壇で供え物を献げようとしている人について、語られた言葉です。
今の私たちに置き換えれば、教会で礼拝をしている人について、語られた言葉なのです。
ですから、ここにある兄弟とは、教会に集まっている兄弟姉妹のことです。
教会の中で、仲たがいをしている人がいる。これは、悲しいことですが、認めなくてはならない現実ではないでしょうか。
でも私たちは、普段は、そのことを棚に上げて、礼拝をささげています。
私たちは、自分が抱いている反感には敏感です。
「あの人は、どうしても受け入れることができない」、そんな思いを抱きつつ、礼拝に来て賛美をささげている。
そういう自分自身の姿には、気付いています。
しかし、教会員のある人が、自分に反感を抱いている。そのことについては案外鈍感です。
あの人が、自分に反感を持っている。そのことには、なかなか気が付かないものです。
しかし、礼拝において、神様の前に、心からひれ伏す時、そのことに気付かされます。
神様の御前とは、そのことを気付かせてくれる場所なのです。
主イエスは言われています。もし、それに気付かせて頂いたなら、直ちに仲直りをしなさい。仲違いしたままで、礼拝を献げられる筈がないではないか。主はそう言われているのです。
教会は、信仰者の集まりです。信仰者の集まりなら、和解することは容易いのではないか。そう思われるかもしれません。しかし、実際は、そうではないのです。却って難しいのです。
なぜなら、一人一人が、自分は正しいと信じて、行動しているからです。
でも、主イエスは言われています。たとえ、自分が正しいと思っていても、関係修復への第一歩を、あなたの方から、踏み出しなさい。
これは、とても難しいことです。
私たちには、プライドという厄介なものがあるからです。ですから、私たちは祈るのです。
相手を受け入れる、謙虚で寛大な心を与えてくださいと、祈るのです。その祈りがない所に、まことの和解はありません。
そのような祈りの末に、やっと和解できた人がいます。チイロバ牧師として親しまれていた榎本保郎先生の本に出て来る、Hさんという婦人です。
未だ求道中のHさんでしたが、熱心に礼拝に出席し、聖書に親しんでいました。
ある日、彼女が教会に来て、長く絶交状態にあるお姑さんと、仲直りしたいと言いました。
「私が頭を下げれば仲直りが出来るのです。でも、私にはできそうもありません。先生、私がお義母さんと仲直りできるように祈って下さい」。
そう言われて、榎本先生は、こう言いました。
「はい、祈らせてもらいましょう。けれども、これは難しいよ。
もし、あなたがせっかく頭を下げたのに、相手がますます高飛車になったらどうしますか。
へえ、やっぱり謝って来た。ざまあ見ろ。この親不孝者、なんて言われたらどうしますか。
それでも頭を下げ続けていられますか。それが出来ないようなら、初めから止めておいた方が良いですよ」。
「先生、やっぱり駄目でしょうか」。「いや、あなたにもできます。しかし、そのためには、もっともっと神様の愛が分からんといかん。
イエス様の愛が、ジーンと体に感じるほどにならんといかん。神様は、きっと最善の時に、最善の事をしてくれると思うよ」。
彼女は、それ以来、更に熱心に礼拝に出席し、聖書も、もっとよく読むようになりました。
暫く経ったある日、Hさんが教会に来てこう言いました。
「先生、時間が経つうちに、段々自信がなくなるのです。こんな損なことをしなくても、その内に向こうの方から折れて来る。
その時まで待った方が良い。あの姑なら、嫌みを並べて来るに違いない、そんな時でも、謝りっぱなしにしていられるか、という声が聞こえてくるのです」。
榎本先生は応えました。「悪魔は引力のようなものだよ。引力は、じっとしている時には分からない。
けれども、上に向かって飛び上がろうとする時、物凄い力で引き戻そうとするものなのです。
神様のお言葉を信じて決心したなら、神様の声だけを聴いて進んで行かなければだめです。
自信が無くなったり、不安になったら、「イエス様助けてください」と心の中で叫びなさい」。
榎本先生に励まされて、Hさんは決死の思いで、お姑さんの所に出掛けて行きました。
しかし、30分も経たない内に、戻ってきて言いました。
お姑さんの家の入口まで言って、戸を開けようとしたら、中から「ごとん」という音がしたのです。
それを聞いたとたんに、急に怖くなって、帰ってきてしまったのです。
「やっぱり私って、ダメなのかしら」、と落胆しているHさんに、榎本先生が言いました。
「叱られたって、殴られたっていいじゃないですか。イエス様を見てご覧なさい。
ご自分は何一つ悪いことをしていないのに、十字架につけられて、散々嘲けられ、罵られながらも、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」、と祈られたじゃないですか。
恥をかかずに謝ろうなんて、気のいいことを考えていることが間違っています」。
これを聞いてHさんは、「すみません、もう一度行ってきます」、と言って出掛けて行きました。
今度はなかなか帰って来ません。1時間経ち、2時間経ち、3時間経ちました。
どうしたのかと心配している所に、Hさんが戻って来て報告しました。
今度は、Hさんは戸を開けて中に入りました。すると目の前にお姑さんが立っていたのです。
Hさんは「イエス様、助けてください」と心の中で叫んで、目をつむって頭を下げて言いました。
「お義母さん、長い間の親不孝をお許しください。みんな私が悪かったことが分りました。
これからは良い嫁になります。今までのことを、どうか赦してください」。
ところが、Hさんが精一杯謝ったのに、お姑さんは何も言わないのです。怒っているのかと、不安になりました。
体中の血がいっぺんに頭にのぼったように思えました。
そっと目を開けて見てみました。するとお姑さんは目からぽろぽろ涙を流していたのです。
それを見た途端、Hさんは「お義母さん」と言って、飛びついて行きました。
そして、二人でわぁわぁ泣きました。後から後から涙が出来て、止まりませんでした。
お姑さんが言いました。「よう来てくれはった、よう来てくれはった。謝らならんのは、この私の方よ。
年がいもなく意地を張って、こんなひどい親はあらへんと思いながらも、どうしてもあんたに声を掛けられなんだ。
ああ、良かった。良かった。ありがとう。よう来てくれた。孫が抱きたかった。ああ嬉しい」。
この報告を聞いた榎本先生は、ローマの信徒への手紙10章11節、「主を信じる者は、だれも失望することがない」。
この御言葉を読み、Hさんと共に、感謝の祈りを献げました。
私たちは、教会の中ですら、和解することが出来ず、信仰の友に対して、ずっと恨みや怒りを持ち続けています。
そういう恨みや怒りを、心の内に抱えたままで、礼拝をささげています。
しかし、主は言われています。「まず和解しなさい。恨みや怒りを取り去りなさい。それから、私を礼拝しなさい。
澄んだ清らかな心で、賛美をささげなさい。それを私は喜びます。」
自分の正しさやプライドを守る事のみに、心を奪われている限り、和解はできません。
しかし主は、そのような私を赦すために、十字架についてくださり、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」、と祈ってくださったのです。
そして、私たちを救い出すために、最後の1クァドランスを支払うまでの、完全な贖いを果たしてくださったのです。
皆さん、私たちは、この主を見上げましょう。
そして、あの人も、主の限りない愛の対象なのだ。主は、あの人のためにも死なれたのだ。
この信仰に堅く立ちましょう。その時、私たちにも、和解の道が開かれます。
私のために、そして、あの人のためにも、主は死なれた。その十字架の主イエスを見上げる時、私たちは主の前に、初めて本当の意味で一つとされます。
そして、その時、主に喜ばれる、まことの礼拝をささげることが出来るのです。