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柏牧師:過去の礼拝説教

「御心が地に行われる喜び」

2020年07月19日 聖書:マタイによる福音書 6:10

私たちは、この礼拝で、「主の祈り」から、御言葉に聴いています。
主の祈りは、二つに分けられます。初めは、神様に関する願いです。
御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。
次は、自分に関する願いです。
日ごとの糧を与え給え。私たちの罪を赦したまえ。誘惑に遭わせず悪より救い出したまえ。
そして、最後に、頌栄の言葉が続きます。
ある人が、神様に関する三つの願いは、私たちの正直な思いと、違っているのではないかと言っています。
私たちの正直な思いは、神様の御名が崇められるよりも、自分の名が高められることではないか。御国が来るよりも、自分の縄張りが大きくなることではないか。御心が行われるよりも、自分の願いが、実現することではないか、というのです。
だから、長年祈っていても、その言葉の意味を、深く考えないようにして、敢えてサラっと祈っている。そういうことがあるのではないか。その人はそう言っているのです。
反発したくなりますが、残念ながら、確かにそういう面も、多少なりともあるかもしれません。
しかし、それでも尚、私たちは、主の祈りを祈ります。心を込めて祈ります。
それは、この祈りが、私たちの、自己中心的な狭い思いを突き破って、神様の恵みの世界へと、私たちを解放してくれる祈りだからです。
自己中心的な小さな生き方の中に、閉じ籠ろうとする私たちを、自由で、活き活きとした、恵みの世界へと、引き上げてくれる祈りだからです。
今朝の御言葉は、その第二の祈り、「御国が来ますように」と、第三の祈り、「御心が行われますように」、という祈りです。
ここにある御国とは、神の国のことです。マタイによる福音書では、天の国と言っています。
神の国、或いは天の国というのは、死んでから行く場所ではありません。また、国土のような、ある特定の場所を意味しているのでもありません。
ここで言っている国とは、「支配の及ぶ領域」のことです。
神の国とは、人間の支配が打ち破られて、ただ神様の愛のみが支配する状態を言っているのです。
ですから、この祈りは、主よ、どうか、あなたの愛のご支配が、罪に満ちたこの世を、覆い包んでくださいますように、と祈っているのです。
主イエスは、この先の6章33節で、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」、と言われました。
あなた方は、神様の愛のご支配が、この世に実現することを、第一に求めなさい、と主は言われているのです。そうすれば、他のものも、すべて与えられるというのです。
「御国が来ますように」、という祈りは、主イエスの福音の中心となっている言葉です。
ですから、主イエスは、宣教活動に入られた時、最初にこう言われました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
主イエスは、「私が来たことによって、神の国が近づいた、いやもう既に来ている」、と言われたのです。「私が来たことによって、神の国が、あなた方の所に来たのだ」と言われて、人々を招かれたのです。
ある牧師がこんなことを言っています。「主イエスは「神の国は近づいた」と言われた。これは、子供のためのお楽しみ会を始める時に、『これから、お楽しみ会を始めま~す』と係の人が言ったようなものです。」
主イエスは、「これから、神の国を始めま~す」、と言われた、というのです。
それを読んだ時に、私は、「まさか、バラエティー番組の司会者でもあるまいし、この言い方は、いかにも軽過ぎるのではないか」、と思いました。
しかし、よく考えてみると、この言い方は、案外、的を射ているとも言えます。
主イエスに先立って、洗礼者ヨハネも、同じことを言っています。
ヨハネも、主イエスが現れる直前、「神の国は近づいた」と宣言しています。
しかし、ヨハネと主イエスとでは、言われた言葉の意味が、違っています。
駅のホームで電車を待っていたとします。そこにアナウンスが流れます。
「電車が来ますから、下がってお待ちください」。電車が間もなく来るから、準備をしなさい。そう語ったのは、洗礼者ヨハネです。
そして電車に乗ると、運転手である主イエスの声が流れます。「ご乗車ありがとうございました。この電車は、神の国行きです」。
主イエスは、「神の国は近づいた」と言われただけでなく、神の国を、実際に始めてくださったのです。神の国をもたらす、救い主ご自身であったのです。
主イエスは、人々の病を癒しました。これは、神の国が来たことの「しるし」でした。
主イエスは、徴税人や罪人たちと、喜んで一緒に食事をされました。これも、神の国が来たことの顕れでした。
また、主イエスは、弟子たちや人々に、神の国の御言葉を語ってくださいました。
そして、主イエスは私たちの罪を贖うために、十字架にかかってくださいました。
そして、死の闇を打ち砕くために、復活してくださいました。
罪人の私たちが、神の国で生きることが出来る道を、開いてくださったのです。
このように、主イエスが来てくださったことによって、神の国が始まりました。
神様のご支配、愛のご支配が、既に、この世に始まったのです。
しかし、それは未だ完成してはいません。この世は未だ、罪の支配下にあります。
ですから、私たちは祈るのです。「主よ、御国を来たらせたまえ。あなたの愛のご支配が、罪のこの世を、完全に覆い包んでください」、と祈るのです。
主イエスは、私たちに、神の国を宣べ伝えなさい、と言われました。しかし、あなた方の手で神の国を造りなさい、とは言われませんでした。
なぜでしょうか。それは、神の国とは、人間の努力によって作ったり、完成させたりすることが、できるものではないからです。
古くから教会には、神の国とは、人間が努力して、地上に築き上げることができる、理想的な社会のことである、と捉える傾向がありました。
人間の倫理感が高められ、愛が増し加えられ、精神的に純化されると、理想社会が実現する。そこに神の国が実現する、と考える人たちがいたのです。
しかし、神の国とは、人間の働きによってもたらされる、地上の天国ではありません。
それは、神様のみがもたらしてくださり、神様のみが完成させてくださる国なのです。神様のみが支配しておられる国なのです。神の国を来たらせるのは、神様ご自身の他には、誰もできません。
私たちは、「御国を来たらせたまえ」と祈り、神の国を宣べ伝えることしかできないのです。
その神の国は、主イエスが来られたことによって、既に、始まっているのです。
ですから、主イエスは、ルカによる福音書の17章で、こう言われました。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国は、既に、私たちの間に来ています。主によって集められた、私たちの只中に、神の国が既にあるのです。この教会において、神の国が始まっているのです。
たとえ、それが、本当に小さな群れであっても、しかも、欠けだらけの群れであっても、既に、そこに神の国があるのです。
主イエスはルカによる福音書12章32節で、こう言われています。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
私たちは、「たとえ小さな群れであっても、神の国を与えてくださる」という主の約束を信じて、歩んで行きたいと思います。
私たちは、主イエスが来られたことによって、神の国が既に始まっていることを知っています。しかし、また同時に、それがまだ、完全な姿ではないことも知っています。
教会は、罪人の集まりです。欠けに満ちた人間の共同体です。そこには、争いもあり、様々な問題もあります。しかし、そこには、主イエスがおられます。
もし、主イエスがおられるなら、そこは神の国です。
それが、どんなに小さな群れでも、どんなに問題に満ちた群れでも、そこに主イエスがおられるなら、天の父は、喜んで、神の国を与えてくださいます。神の愛のご支配が、満ち溢れる場となります。
私たちは、そのことを信じ、「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、先立ってくださる主の後に、従って行きたいと思います。
さて、第三の願いはこう言っています。「御心が行われますように。天におけるように地の上にも」。神様の御心が、この地上においても、なされますように、と祈っているのです。
ここにある「御心」を、単に、愛の業を行うとか、他人に善行を施すとか、平和のために働く、ということであると捉えるなら、これは、とても受け入れ易い祈りになります。
そういうことであるなら、世間一般の人も、この祈りに共感し、一緒に祈ってくれるでしょう。
いえ、別に教会で祈らなくても、多くの人が、この世の中が、愛と善意と平和に満ちたものでありますようにと、既に祈っています。
世の人々は、「これは善いことだ」、と思われていることは、皆、神様の御心であると思っています。そういう意味で、御心がなされるようにと、祈っています。
そうであれば、この祈りは、信仰者でなくても、また教会でなくても、祈れる祈りとなります。
しかし、「地にもなさせたまえ」という祈りは、原文では、受け身で書かれています。
主語は、私たちではなく、御心なのです。私たちが、自分の努力で、御心を行うことができますように、と祈っているのではありません。
私たちが考え、私たちが望む御心を、私たちが行うのではないのです。
神様がお望みになる御心が、なりますように。神様のご意思が、行なわれますように、と祈っているのです。
御心を行うとは、私たちが思っている、善い行いをする、ということではありません。
神様のご意思が、実現しますように、とひたすらに祈っていくことなのです。どこまでも、神様のご意思を尋ねていくのです。
私たちが、「これこそが社会にとっても、私にとっても、善いことなのだ」、と思うこと。
それが、行なわれることを、祈るのではありません。
私たちの望みに関わりなく、神様の望まれることがなされますように、と祈っていくのです。
それは、主イエスが、ゲツセマネで祈られた、あの祈りと同じです。「私の願いではなく、御心が行われますように」。
これは、厳しい祈りです。自分の生活の只中で、神様の御心が実現することを、真剣に祈るならば、それは厳しい戦いの祈りとなります。
内村鑑三が、最も信頼した信仰者と言われる、笹尾鉄三郎という人は、アメリカ留学中に、伝道者としての召命を受けました。しかし、その召命に、応えるべきか、大いに悩みました。
神様の御心が示された時、果たして、自分は、それを受け入れ、行うことが出来るか、という恐れが、強く迫り、遂に主の祈りが、祈れなくなってしまったそうです。
悶々とした心の葛藤の中で、彼は、主イエスの命懸けの愛の深さを示されました。
そして、その愛の主が、「笹尾よ、私が、お前のためにならない計画をすると思うのか」という御声を聞いたのです。
この主イエスの呼び掛けに、彼は、心を明け渡して、主の愛のご支配に委ねて、伝道者として立ち上がったそうです。
果たして、神様の御心を行なって行けるだろうか。これは伝道者だけの話ではありません。
すべてのキリスト者が、この世で生きていく時に、直面する真剣な問いです。
御心が地にも行われることを願う、ということは、何よりもまず、自分の生活の中で、御心がなされることを、願うことである筈です。
自分の家庭で、自分の職場で、自分の学校で、自分が置かれている、それぞれの場所で、御心が実現されることを願う。それが、信仰に生きるということの筈です。
これは厳しい戦いを必要とします。なぜなら、社会は全体として、神様の御心とは、逆の方向に流れているからです。そういう中で、御心に従って生きることは、戦いとなります。
ですから、私たちは、苦しみ、悩みます。およそ、社会にあって、この祈りを真剣に祈る者は、皆、激しい戦いを経験し、苦しみ、悩み、傷つきます。
しかし、それは、避けられない、必要な痛みです。それを安易に避けるならば、私たちの祈りは、形だけにものとなってしまいます。
そして、苦しみ、悩み、傷つきながらも、尚もひたすらに祈っていく時、私たちも、笹尾鉄三郎が聞いた御声を聞くのです。「私が、お前のためにならない計画をすると思うのか」。
そして、私たちは示されるのです。神様の究極の御心は、何よりも、人間を救うことなのだ、ということを。
神様は、迷った羊を、どこでも探し求める愛をもって、人間を救おうとされておられます。
主イエスの、ゲツセマネでのあの祈りの戦いも、何としても私たちを救いたいと願われる、父なる神様の御心を、受け入れるための戦いであったのです。
そして、主イエスは、苦しみの末に、十字架への道を引き受けられました。何とかして、人間を救いたいという、父なる神様の御心に、主イエスは、従われたのです。
私たちは、祈りの戦いを通して、この神様の究極の御心を、知らされるのです。
そして、その時、私たちは、そこまでして、私たちを救いたいと願われている、神様の限りない愛の中に、すっぽりと覆い包まれていることを、実感するのです。
その愛に押し出されて、その愛に励まされて、私たちは、祈りの戦いを続けていくのです。
御心が行われますように、天にも、地にも、そして、私にも。私の生きている生活の場においても、御心が行われますように。
すべての人を救いたいと願われる、あなたの御心が行われますように。そして、その御心を実現するために、この私を用いてください。
罪深く、欠け多き者ですが、あなたの御心が行われるために、どうか用いてください、と祈っていくのです。
「御国を来たらせたまえ、御心をなさせたまえ」。この祈りは、私たちを、伝道へと、駆り立てる祈りなのです。すべての人を救いたいという御心を、自分の願いとする祈りなのです。
主よ、この私を用いて、御心をなしてください、と祈りつつ、共に歩んで行きたいと思います。