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柏牧師:過去の礼拝説教

「自分を見つめると見えてくるもの」

2020年09月20日 聖書:マタイによる福音書 7:1~6

世界で一番分からないものは、自分自身である。昔から、よくそう言われています。
確かに、自分自身ほど、捉えにくいものはありません。
他の人のことはよく分かります。でも、自分の事になると一向に分からない。それが私たちです。
原始社会をそのまま生きているような、未開の地に行った人が、そこの住民を、ポラロイドカメラで写真に撮って見せてあげました。
それを見た人が、興奮して言いました。「あっ、これは爺様だ,これは叔父さんだ。これは息子だ」、そう言って喜んで、指差しました。
ところが、一人、見知らぬ人が写っています。これは誰だろう。
実は、それは自分自身だったのです。鏡を見たことがなかったので、生まれてから一度も、自分の姿を、はっきりと見たことがなかったのです。
これは、私たちにとっては、ジョークとしてきこえます。現代に暮らす私たちは、外見上の姿については、自分のことをはっきりと見ることが出来ます。
しかし、内面についてはどうでしょうか。この未開の人と同じように、自分の姿を、はっきりと見ることが、出来ないでいるのではないでしょうか。
私たちは、人のことはよく見えますが、自分のことは見えないものなのです。
そういう私たちが、今朝の御言葉を読んだ時に、どのように捉えるでしょうか。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」
これは、普通に捉えれば、「人の悪口を言えば、必ず仕返しをされるから、言わない方が良い」、という処世術を教えている言葉に聞こえます。
実際、私たちは、そのような場面に、頻繁に出会います。
例えば、夜遅くに帰って来た娘に、父親が注意したとします。すると、娘が言い返します。
「何言ってるの。お父さんだって、毎晩お酒飲んで、遅くに帰って来るじゃないの」。このように言い返されてしまう。
人には皆、欠点があります。ですから、安易に他人の欠点を批判したり、裁いたりすると、いずれ自分に返って来る。だから、裁かない方が良い。
確かに、それは言えるかもしれません。例えば、こんなことが起きるかもしれません。
ある人が、人を裁いてばかりいる人に、こう言ったとします。
「君は、直ぐに人を裁く。しかし、人を裁く者は、天に唾するようなもので、自分に返ってくるんだよ。君は、どうしてそんなに人を裁くのか。だからダメなんだ。本当に困った奴だ。」
お分かりでしょうか。この人は、人を裁いてはいけない、と諭しているのです。それなのに、気付かない内に、実は、相手を裁いています。
人のことは見えていても、自分のことが見えていないのです。それが私たちです。
ちょっと試してみて下さい。私たちが、他人を指さして、「お前が悪い」、と言う時、人差し指以外の4本の指は、どっちを向いているでしょうか。
親指は自分の足許を指しています。そして残りの3本は、自分の方を向いています。
つまり「お前が悪い」と指さす時、4本の指は、実は自分を指しているのです。
問題はあの人だ、と思っていても、実は、自分にあることが多いのです。
だから、人を裁かない方が良い。おせっかいをやかない方が良い。
あなたの目にも、おが屑があるではないか。今朝の御言葉はそう言っているのでしょうか。
お互いに欠点を批判し合っても、結局は、大差ないではないか。五十歩百歩ではないか。
どちらの目にも、おが屑があるではないか。そうであるなら、裁き合うのは止めなさい。
今朝の御言葉で、主イエスは、そのようなことを言われているのでしょうか。
そうではありません。ここで、主イエスは、他人を批判して、要らない反発を買わない方が得策だ、という世渡りの知恵を、説いておられるのではありません。
では、主イエスは、私たちに、謙遜に生きることを、勧めておられるのでしょうか。
他人には欠点がある。でも自分にも欠点がある。私たちは、他人の欠点を見るよりも、先ず自分の欠点を見つめて、謙遜に生きなさい、と言われているのでしょうか。
教会でよく言われる譬えがあります。
それは、「自分の善と、他人の悪とは、望遠鏡を逆さまにして見なさい。しかし、他人の善と、自分の悪は、顕微鏡で見なさい」、という言葉です。
自分の善や、他人の悪は、望遠鏡を逆さまにして見るように、小さく見なさいというのです。
そして他人の善と、自分の悪は、顕微鏡を通して見るように、大きく見なさいというのです。
もし、そういう謙遜な生き方が出来たなら、何と平和な毎日を送れることでしょうか。
もし、茅ケ崎恵泉教会が、そのような目で見る人で溢れているなら、何と恵みに満ちた教会になることでしょうか。
しかし、私たちの見方は、往々にして、この逆であることが多いと思います。
自分の善や、他人の悪は、顕微鏡を通して見るように、大きく見てしまい、他人の善と、自分の悪は、望遠鏡を逆さまにして見るように、小さく見てしまうことが多いのです。
そういう私たちに、主イエスは、あなた方は、謙遜を身に付けて、自分の欠点を正しく見つめなさい、と言われているのでしょうか。
人の目にあるおが屑を見る前に、自分の目にあるおが屑を、まず見詰めなさい。
そして、先ず、自分の目にあるおが屑を、取り除きなさい。その後で、人の目にあるおが屑を取り除きなさい。主イエスは、そのように、謙遜な生き方を勧められたのだ。
今朝の御言葉を、そのように解釈する人もいます。それも、一つの読み方かもしれません。
しかし、よく読んでみて下さい。主イエスは、他人の目におが屑があるように、あなたの目にも、おが屑があるではないか、とは言われてはいません。
あなたの目には、おが屑ではなく、大きくて太い丸太がある、と言われているのです。
自分の欠点を、顕微鏡で拡大して見るまでもなく、元々あなたの欠点は、丸太のように、大きくて太いのだ。そんなあなたに、人を裁く資格があるのか、と言われているのです。
この主イエスの言葉を、正しく受け入れないと、今朝の御言葉が分かったとは言えません。
この御言葉は、人生を生きるための知恵とか、処世訓ではないのです。
御言葉は、言っています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」
「裁かれないためである」と、受け身で語られています。
では、誰によって、裁かれないようにするのでしょうか。裁いた相手によって、でしょうか。
その相手に、復讐されるかも知れないから、気を付けなさい、と言っているのでしょうか。
そうではありません。神様によって、裁かれないようにするためなのです。
あなたが人を裁く時、それと同じ秤で、神様があなたを裁かれる、と言っているのです。
ですから、この御言葉は、人の悪口を言うと、あなたも言い返されるぞ、と言っているのではないのです。神様によって裁かれるのです。もっと、ずっと深刻なのです。
私たちは、自分の秤では、自分の目の中にある丸太を、見つけることができません。
せいぜい、おが屑を顕微鏡で見る程度にしか、拡大できないのです。
しかし、神様の光に照らされた時、自分の目に、大きな丸太が横たわっていることが、初めて分かるのです。
この丸太は、私たちの罪、と言い換えても良いと思います。
神様の御前に立つ時、私たちは、自分の罪の大きさを、初めて知らされるのです。
神様の前とは、自分の罪が、他のどの人よりも大きく見える場所なのです。自分の罪よりも、他の人の罪の方が大きく見える時には、私たちは、まだ神様の前に立っていないのです。
では、その罪の大きさは、どのようにして、量ることができるのでしょうか。
それは、主イエスの十字架によって、量ることが出来るのです。いえ、主イエスの十字架によってしか、量ることが出来ないのです。
私たちの目にある丸太の大きさ。それは、あの十字架の大きさと同じなのです。
私たちの罪の丸太と、匹敵する大きさの丸太。それは、あの十字架の木なのです。
丘の上に立てられた、荒削りの木。そこに、主イエスが釘付けにされた木。あの木と同じ大きさの丸太を、私たちは、抱え込んでいるのです。
その丸太を、主イエスは、代わって負ってくださったのです。私たちの罪の大きさは、あの十字架をもってしか、量り得ないのです。十字架でしか、贖い得ないのです。
私は、主イエスを、私の罪という丸太でできた、十字架につけてしまった、とんでもない罪人なのだ。
この罪の大きさに気付かないままで、人の目にあるおが屑を裁くことは、正しくないのです。そんなこと、出来る筈がないのです。
神様の澄んだ瞳にさらされる時、私たちの罪の大きさが、明らかにされます。その時、私たちは、あの人が悪い、などとは言えなくなるのです。人を裁くことなどできなくなるのです。
私たちは先ず、自分の目に丸太があることに気付き、それを取り除かなければなりません。
では、どうやって取り除くのでしょうか。
主イエスが、私の丸太を、私に代わって背負ってくださり、ゴルゴダへの道を歩んでくださった。そして、その丸太の上で、尊い命をささげてくださった。
この救いの恵みを、自分のものとする時、私たちの目の丸太が取り除かれます。
そして、丸太が取り除かれた時に、私たちは、初めて、人の目にあるおが屑を、正しく見つめ、それを取り除く道が開かれるのです。
4節の「あなたの目からおが屑を取らせてください」、という言葉は、「おが屑を取らせて頂けますか」、という丁寧な言い方です。
主によって、目から丸太を取り除いて頂いた者は、「あなたの目に、おが屑がありますよ。
ご不便でしょう。お辛いでしょう。よろしかったら、取って差し上げましょうか」、という愛の行為に導かれるのです。
愛の視力を回復させて頂いた者として、今度は、他者を生かす目に生きるのです。
人を責めたり、批判したり、糾弾したりするのではなく、相手を敬いつつ、愛をもって、その目にあるおが屑を取り除かせて頂くのです。
時には、それは、人知れず、そっと行う行為となるかもしれません。
そのように、「裁くな」という主イエスの命令は、愛をもって互いに仕え合いなさい、という勧めに繋がるのです。
裁きは、神様がなさることです。では、私たちは他人の過ちを見過ごしにして、ただ黙っていれば良いのでしょうか。波風を立てないように、ただじっとしていれば良いのでしょうか。
いえ、違います。主イエスは、過ちを犯している人のために、祈りなさいと言われました。
しかし、その主イエスが、6節でこう言われています。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
ここでは、人のことを、犬とか豚と言っています。これは、まさに、裁きの言葉ではないか。
そう採られても、仕方がないような言葉です。ですから、この言葉は、多くの人のつまずきになってきました。一体、主イエスは、ここで、何を言われているのでしょうか。
ここにある「神聖なもの」とか「真珠」とは、私たちの目にある丸太を取り除いて下さる、神様の恵みのことです。言い換えれば、それは、主イエスご自身のことです。
私たちは、丸太を取り除いて頂いた者として、私たちの周囲の人々にも、この主イエスという恵みを、伝えたいと願います。
しかし、誰でもが、それを快く受け入れてくれる訳ではありません。いくら熱心に伝えても、分かってもらえないことが多いのです。
逆に、向き直って、噛みついてくることさえあるのです。
一生懸命に伝えた主イエスの恵みが、無残にも踏みにじられる、ということがあるのです。
主イエスは、人々を救うために、天の御座から、降って来てくださり、命の御言葉を語って下さいました。限りない高みにおられたお方が、限りなく小さく、弱く、低くなって、人々に仕えて下さったのです。
しかし、人々は、それを受け入れず、この尊い救い主を、踏みにじってしまったのです。
そして、最後は、十字架にかけて、殺してしまったのです。
私たちが、この救い主を伝えようとする時、同じようなことを体験します。
一生懸命に伝えた福音が、拒否され、踏みにじられることがあります。
そんな時、私たちは悲しみます。何とかしたいと思います。どうしたらよいかと悩みます。
しかし、そこで、主イエスは言われるのです。
「無理をしなくても良い。力づくでは伝道はできない。
あなた方が、噛みつかれたり、踏みにじられたりすることはない。それは、私の仕事だ。
踏みにじられることは、私が引き受ける。
あなた方が、無理をして、傷ついてまでして、神聖なるものを犬に、真珠を豚にあげることはない。あなた方が、犬や豚に、噛みつかれることはない。それは、私の務めなのだ。
私は、傷けられ、踏みにじられるために、やって来たのだ。」
主イエスはそう言われているのです。
犬や豚に踏みにじられた、神聖なもの、尊い真珠。それは、主イエスご自身です。
主イエスは、徹底的に踏みにじられ、足げにされました。今も、され続けておられます。
しかし、主イエスは、それを、じっと黙って、引き受けて下さっているのです。
私は、あなた方に捨てられ、踏みにじられるために、この世に来たのだ。それによって、あなた方の罪、あなた方の目の丸太を引き受けて、その上で磔になるために来たのだ。
それしか、あなた方の目から丸太を取り除く術がないからだ。
主イエスは、そこまで、弱くなられ、小さくなられ、低くなられました。
しかし、この主イエスの弱さの故に、私たちは赦され、生かされているのです。
この主イエスこそが、犬にもなり、豚にもなってしまうような人間を、どこまでも憐れんでくださり、愛してくださるお方なのです。
私たちも、自分が、犬になり、豚になってはいないか、福音を踏みにじってはいないかと、自らに問い続けていきたいと思います。
そのような聖なる緊張感を持って、主の眼差しの中を、歩んで行きたいと思います。
与えられている、神聖なもの、尊い真珠を、大切な宝として、しっかりと握り締めて、歩んで行きたいと思います。