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柏牧師:過去の礼拝説教

「藁にもすがる信仰」

2021年01月17日 聖書:マタイによる福音書 9:18~26

先ほど読ませていただいた御言葉には、二つの出来事が記されていました。
12年間も出血で苦しんでいた、一人の女性の癒しと、ある指導者の娘が生き返る奇跡。
この二つの出来事が、書かれていました。
癒しの奇跡の物語では、癒された人たちの信仰が、良く取り上げられます。
しかし、癒しの奇跡における、本当の主題は、癒された人たちの信仰ではなく、癒しを求める声を聞かれて、主イエスが、その御手を伸ばされた、ということにあります。
主イエスは、12年間も出血で苦しんでいた女性を癒され、指導者の娘を生き返えらせました。
しかし、主イエスにとっては、病を癒すということは、単に原状を回復する、ということではありませんでした。単に、時計の針を、元に戻すことではなかったのです。
むしろ、時計の針を、先に進めることであったのです。
私たちの人生の時計が、耐え難い悲しみや死によって、止まってしまう時に、それを突き抜けて、もっと先に進めるように、してくださるのです。
いくら癒されても、また元の罪の中に戻ってしまうなら、それは無意味なことだからです。
主イエスがなさることは、元へ戻ることではなく、先に進むことなのです。
主イエスは、死をも超える希望へと、私たちの人生を、引き上げてくださるお方なのです。
主イエスにあっては、どんな時でも、たとえコロナ禍の中でも、前へと進むことができるのです。
今朝の御言葉は、マルコやルカによる福音書にも書かれています。
マタイは、マルコの記事を元にして、福音書を書いています。しかし、この出来事に関しては、
マルコに比べると、マタイの記事は、ずっと短く、簡略化されています。
ですから今朝は、マルコの記事によって補いながら、御言葉に聴いていきたいと思います。
始めに登場するのは、ガリラヤの町に住む、ある指導者です。
マルコによれば、この人は会堂長で、ヤイロという名前であった、と書かれています。
会堂長は、律法の教師ではありませんが、人々から信頼され、尊敬されていました。
その人が、主イエスのもとにやって来て、その足許に、ひれ伏して願ったのです。
プライドや社会的立場をかなぐり捨てて、人々が見ている前で、主イエスの足許にひれ伏す。
これは、彼にとっては、大変勇気のいることだったと思います。
しかし彼は、恥や外聞に、こだわってはいられない、切羽詰まった状況にありました。
最愛の娘が死んでしまったのです。手塩にかけて育てて来た、最愛の娘が死んでしまった。
この人は、その残酷な現実の中で、ただ嘆き、悲しみ、うろたえるばかりでした。
「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」
この人の言葉は、立派な信仰告白のように聞こえますが、実は、そうではないと思います。
「もうあなたしか望みはないのです。何とかしてください。」
そのような、切羽詰まった、藁にもすがる思いの表明だと思います。
宗教改革者マルティン・ルターも、愛する娘エリザベトを病で失いました。
その深い悲しみの中で、彼は、親友のハウスマンに、こう書き記しました。
「彼女を失ったあまりの悲しみに、私は打ちのめされています。君、どうか僕の信仰が亡くならないように、僕のために祈ってくれ。」 ここに、偽らざる人間の姿があります。
私たちは、愛する者の死に際して、立派な信仰告白などできません。
ただ、悲しみ、落胆し、うろたえるばかりなのです。
しかし、そんな私たちであっても、主イエスの許に行くことを、許されているのです。
そして、主イエスは、そんな私たちを受け入れて下さるのです。それが私たちの救いです。
主イエスは、その会堂長の願いを聞き入れ、彼の家へと向かわれました。
死の現場で、この人が直面している現実を、共に受け止めて下さるためです。
家では、葬式の時に雇われる、泣き男や泣き女たちが、笛を吹いて騒いでいました。
主イエスは、その人たちに、「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」、と言われました。
それを聞いて人々は、主イエスをあざ笑いました。娘が死んだことを、知っていたからです。
死んだ人のことを、「眠っているだけだ」と言えば、聞いた人は、誰もがあざ笑うと思います。
そういう嘲りの中で、主イエスは、死に立ち向かわれました。
人々を追い出されて、一人だけで、死と対決されました。
誰よりも深く、人間の死を悲しまれたお方が、その現実に立ち向かってくださったのです。
そして、少女の手を取って、起き上がらせてくださいました。
死をも支配されている、全能の御力を、示して下さったのです。
主は、死のカーテンを押し破って、その先の光の中へと、少女を導いて下さいました。
ですから、先に申し上げた通り、ここでの主題は、人間の信仰ではありません。
死の現実に打ちのめされて、希望を失っている人間の姿。
それを見て、深く憐れまれた、主イエスの御心。
そして、藁にもすがるような、人間の切実な思いを受け止めて、癒しの御手を伸ばして下さった、主イエスの愛。それが、ここでの主題です。
救いのすべては、主イエスがなして下さったのです。私たち人間は、それを、ただ受け取るだけなのです。私たちの救い主、イエス・キリストとは、そのようなお方なのです。
さて、主イエスが、会堂長の家に向かって歩まれている途中で、ハプニングが起きました。
12年間、出血が止まらないため、苦しんでいた一人の女性が、主イエスの服に触れて、病が癒される、という出来事が起こったのです。
この女性について、マルコはこう言っています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。
この女性の病は、治る見込みのない、慢性的なものでした。
ですから、肉体的にも、また、経済的にも、大きな負担となっていました。
しかし、苦しみはそれだけではありませんでした。
この女性の病は、ユダヤ教では、「不浄な病である」とされていました。
そして、彼女に触れた者も、同じように汚れる、とされていたのです。
ですから、彼女は、神殿で礼拝することも、また公の場で人々と接触することも、許されませんでした。断りなしに、他人に触れることは、律法違反の重大な罪とされていたのです。
そのように彼女は、社会からも疎外されて、幾重にも重なる苦しみを負っていました。
すべてに望みを失っていたこの女性は、主イエスに、最後の望みを懸けようとします。
そうはいっても、公然と人前に出て、お願いできる身ではありません。
ですから、群衆に紛れて、後ろから主イエスの服に、こっそりと触れたのです。
この女性の行為には、主イエスに最後の望みを懸けた、必死の思いが滲み出ています。
もし見つかったら、律法違反者として、袋叩きに遭ってしまいます。
不安におののきつつ、藁をもつかむ思いで、主イエスの服にそっと触れたのです。
この女性の心は、藁をもつかむという思いにおいて、会堂長の心と、重なっています。
マタイには書かれていませんが、マルコによれば、この時、主イエスは、自分の内から、力が出て行ったことに、気づかれました。
病を癒すための力が、出て行ったことに、気づかれたというのです。
普通の触り方でなく、私の力がどうしても必要だ。そういう思いをもって、触った人がいる。
主イエスは、そのことに気付かれて、振り向かれました。そして、私に触れたのは誰かと、探されたのです。
その女性は、うろたえました。とんでもないことに、なってしまった、と思ったことでしょう。
皆から、袋叩きに遭うかもしれない。そういう恐れを持って、震えながら、ひれ伏して、ありのままを話しました。触れざるを得なかった。その思いを話しました。
「私は、信仰をもって触りました」、と胸を張って、信仰告白をした訳ではありません。
でも、主イエスは、その女性に言われました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、その時、この女性は、癒されたのです。
主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
では、その女性の信仰とは、一体どのような信仰だったのでしょうか。
「服に触れさえすれば治してもらえる」と思った。これが彼女の信仰です。
一見すると、御利益的で、魔術的な効果を、期待しているような信仰に思えます。
私たちが教えられてきた信仰とは、違うのではないか。そう思えるような信仰です。
私たちが教えられてきた信仰。それは、自分の罪を認め、その罪を代わって負ってくださった、主イエスの十字架の贖いを信じ、その恵みの内を生きる、ということです。
ところが、彼女の信仰は、そうではないように思えます。
ただ癒して欲しいという、一途な思いをもって、主イエスの服に触れただけです。
まさに、「溺れる者、藁をも掴む」。そのような気持ちで、主イエスに触れただけなのです。
果たして、そのような思いを、信仰と言って良いのでしょうか。
そう問われれば、そんなものは信仰とは言えない、と言う人が多いと思います。
しかし、とても信仰とは呼べない様な、この女性の思いを、主は受け入れて下さいました。
そして、その一途な思いを導き、誉めてくださるような信仰へと、高めて下さったのです。
愚かとも思えるような、この女性の行為。ただ取り縋るよりほかなかった、この女性の一途な思いを、主イエスは、受け止めてくださいました。
そして、まるで、「よく私に触ってくれたね」、とでも言うように、振り向かれたのです。
主イエスは、この女性が触れた時に、汚らわしいと言って服を払うことをされませんでした。
また、知らん顔をして、そのまま前に進まれることも、されませんでした。
主は、振り向かれたのです。この一人の女性のために、立ち止まり、振り向かれたのです。
ここに、主イエスの愛があります。女性は、この主イエスの愛に、すべてを委ねました。
その時、そこに、信仰が生まれたのです。
私たちは祈ります。諦めないで祈ります。悩みの中で、病人の傍らで、様々な試練や不条理の中で、私たちは祈り続けます。
私たちの祈りが、そのまま適えられるかどうか。私たちには、明らかにはされていません。
でも、私たちは、祈り続けます。なぜなら、私たちが祈り続けるとき、主は、必ず振り向いてくださることを、私たちは知っているからです。
主は、必ず振り向いて、私たちの傍らに来てくださいます。私たちは、それを信じるのです。
主イエスは、この女性の、迷信的な信仰をも受け入れ、それを確かな信仰へと導いてくださいました。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださいました。
こうしてみると、信仰さえも、主から与えられる賜物だ、ということが分かります。
この女性の、ご利益信仰的な願いを、主イエスは、「あなたの信仰」と言って下さいました。
溺れる者が、藁をも掴むような思いを、主は、「あなたの信仰」と言われたのです。
私たちは、そういうものが果たして信仰なのか、と思ってしまいます。
そんな信仰は、教理的に間違っている。もっと聖書を読んで、しっかり勉強しなければいけないのではないか。そう思う方もおられると思います。確かに、学びは大切だと思います。
しかし、信仰において、一番大切なことは、そのような学びではありません。
最も大切なことは、ひたすらに取り縋る、一途な思いなのだと、今朝の御言葉は、教えてくれています。
教理をよく学んでいるけれども、この一途な思いに欠けた信仰よりも、少々考えが足りなくても、ひたすらに願い求める、この一途な信仰の方を、主イエスは受け容れられるのです。
もし、教理的に至らないところがあれば、主イエスが教えてくださるでしょう。
理解が間違っていれば、主イエスが正してくださるでしょう。
足らないところがあれば、主イエスが補ってくださるでしょう。
知識が足りないことは、信仰においては、本質的な問題ではありません。
もっと大事なことは、主イエスに対する、ひたすらな信頼です。主イエスの助けを求める一途な思いです。
この女性にあったのは、「助けて下さい」という一念だけでした。それ以外には何もありませんでした。しかし、そもそも、信仰とは、「何もない」ということなのです。
自分の中には、誇るべき何物もない。誇れるような正しさもなければ、愛もない、聖さもない、知恵もない。何もないのです。
ただ、「主よ、憐れんでください」という、一途な思いだけがある。
それが、信仰の出発点であり、またゴールなのです。
この女性の、全身をぶつけていくような必死な思いが、主イエスから愛を引き出しました。
そして、主イエスは、そのことを喜ばれました。
「私から愛を引き出してしまう程に、ひたすらなあなたの信仰が、あなたを救ったのです。本当に良かったね」、と言われたのです。
この主イエスの愛を、ひたすらな思いをもって、引き出していく信仰。
そのような信仰に生きる、お互いでありたいと願います。
私たちの信仰が、どんなに貧しくても、それが、ひたすらに求める思いに支えられているなら、主イエスは、必ず受け入れてくださいます。
そんなものは信仰ではない、と言って退けられることは、決してなさいません。
「あなたの信仰が、あなたを救った」、と言って下さるのです。
「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉を語るために主イエスは来てくださいました。
そして、この言葉を現実のものとするために、主イエスは十字架について下さったのです。
この十字架の救いに、ひたすらに依り縋っていく時に、私たちは、「あなたの信仰があなたを救った」、という言葉を、確かに聞くのです。
私の信仰が小さいの、薄いの、と言って嘆くことはないのです。
私たちが主に、ひたすらに依り縋っていくとき、主は、私たちに振り向いてくださり、「あなたの信仰があなたを救ったのだよ」、と言ってくださるのです。そこに私たちは希望を見出すのです。
取るに足らない信仰であっても、主の十字架の許に立ち、主の御顔を仰ぎ見て、そこで「あなたの信仰があなたを救った」、という恵みの言葉を聞いていくのです。
コロナ禍の只中にある今、私たち教会は、この主の御声をしっかりと聞き、希望の光を、世に向かって、発信していく群れとされたいと願います。
今こそ、暗闇を突き抜けて輝く、主の救いの光を、輝かせていく群れでありたいと思います。