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過去の礼拝説教

「主が賜る平安」

2021年03月28日 聖書:マタイによる福音書 12:1~8

今朝、私たちは、棕櫚の聖日の礼拝を、ご一緒にささげています。
この棕櫚の聖日は、主イエスが、十字架にかかられるために、最後にエルサレムに入城された日です。主の十字架の恵みを、深く心に覚える聖日です。
久しぶりにこの会堂に集まって、皆が揃って礼拝を再開する日が、棕櫚の聖日であることは、偶然であるとは思えません。
これは、主のくすしきご配慮と受け止め、感謝したいと思います。
主イエスは、人々を、罪から解放し、まことの救い、まことの安息を与えるために、エルサレムに入城されました。
では、まことの救い、まことの安息とは、一体、どのようなことなのでしょうか。
今朝の御言葉は、そのことを、私たちに教えてくれています。
先週、ご一緒に聴きました御言葉で、主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、と言われました。
様々な不条理や困難が、渦巻くこの世にあって、重荷を負って苦労し、疲れ果てている人々。
その人々に対して、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、と慰めに満ちた言葉を語られたのです。これは、まことの安息への、愛の呼び掛けでした。
ところが、主イエスが、まことの安息を告げられた、まさにその時、主イエスとファリサイ派の人たちとの間で、激しい論争が起きました。それは、安息日を巡る論争でした。
安息日とは、その名の通り、安息する日です。創造主なる神様が、六日間働かれて、この世を創造され、七日目に休まれた。そのことに倣って、人間も七日目に休息する。
その日が安息日とされ、その日には、労働をしてはいけない、と定められたのです。
ある人が、こういうことを言っています。神様は、六日間働かれて、この世を創造された。
創造の御業を、完成された神様が、その後、最初になされたことは、休まれることであった。安息を取られることであった。
神様ご自身が、働かれた後、先ず休んでくださった。そして、私たちにも、同じように安息を与えてくださった。このことは、私たちにとって、大きな慰めである。
神様は、私たちに休みを与えるために、先ず、ご自身が、七日目に休みを取ってくださった。
私は、サラリーマン時代に、この言葉を聞いて、大きな感謝と共感を覚えました。
しかし、当時の安息日は、決して、心から休息できるような、日ではありませんでした。
当時、ユダヤでは、旧約聖書の律法には、書かれていませんが、言い伝えによって、安息日の厳しい掟が定められていて、人々は、これを厳格に守るように求められていました。
安息日にはしてはいけない労働として、39の禁止規定が作られていました。
例えば、安息日には、900メートル以上歩いてはならない。3kg以上の荷物を持って歩いてはいけない。手紙を2通以上書いてはならない。
調理もしてはならない。けれども、前の日に作った料理を、温めることは構わない。そのように、細かく定められていました。
このような規定は、現代でも、一部の極めて保守的なユダヤ人たちによって、守られています。
10年前に聖地旅行をした時、エルサレムで、ちょうど安息日になりました。
驚いたことに、安息日になった途端に、ホテルのエレベーターが、ユダヤ人用と外国人用に、区別されたのです。そして、ユダヤ人用のエレベーターは、すべて各階止まりになりました。
それは、降りる階のボタンを押す、という仕事をしなくて済むためです。
私たちから見ると、滑稽に思えるようなことでした。
しかし、ユダヤの人たちにとっては、安息日とはこのように徹底して守るべきものなのです。
キリスト教では、主イエスが復活された日曜日を、聖なる日、安息日と定めています。
日曜日は、礼拝で頂いた恵みによって、日々の歩みを軌道修正する日です。
信仰生活のリセットボタンを押して、心身ともにリフレッシュする日です。
しかし、主イエスの当時の安息日は、そのようなリフレッシュする日というよりは、安息日の細かい規定を守ることに、汲々としていた日でした。
そして、細かい規定は、他人の行動を監視し、批判する道を開くことになっていきました。
特に、ファリサイ派の人たちは、違反者はいないかと、監視の目を鋭く光らせていたのです。
しかし、人の目を恐れて、びくびくしながら暮すところに、まことの安息があるでしょうか。
今日はもう既に、定められた距離を歩いてしまった。けれども、どうしても行かなければならない用事ができた。見つからずに、行けるだろうか。
ご飯が足らなくなってしまったが、こっそり料理しても、見つからないだろうか。
このように、人の目を恐れて暮しているところに、真実の安息があるのか。
主イエスは、そのことを、問題にされました。
マックス・ルケードという人が書いた「たいせつなきみ」、という絵本があります。こんな話です。
あるところに、エリという彫刻家によって造られた、木彫りの小人たちの村がありました。
小人たちは、金色と灰色のシールをいつも持ち歩いて、互いにくっつけ合って暮らしていました。
素晴らしい才能を発揮した者には金色のシール、失敗した者には灰色のシールがつけられました。
何をやっても、上手にできないパンチネロは、からだ中、灰色のシールだらけです。
彼は、すっかり自信をなくして、外にでるのもいやになってしまいました。
そんな時、パンチネロは、不思議な女の子、ルシア に会います。
彼女には、金色のシールも、灰色のシールも、一枚も付いていません。
ルシアは、彫刻家のエリに会いなさい、とアドバイスします。
パンチネロは、エリの工房を訪ねます。エリはパンチネロを抱き上げて言いました。
「どんなシールがもらえるか。そんなことばかり、気にしていると、シールの方がお前にくっついてくるんだよ。お前が、私の愛を信じたなら、シールなんて、どうでもよくなるんだよ。」
そして、エリは、パンチネロに、「私はお前のことを、かけがえのない宝だと思っているのだよ。お前は私の自信作なんだ」、と言います。
パンチネロが、その言葉を信じたとき、彼の体についていた灰色のシールが、次々に、地面に落ちていった。こういう話です。
皆が、お互いに監視し合っている世界。そこには、安息はありませんでした。
しかし、他人の目を気にしないで、自分を愛してくれる人の眼差しの中で生きる時、まことの安息に生きることができたのです。
さて、今朝の御言葉で、ファリサイ派の人たちが問題にしたのは、主イエスの弟子たちが、他人の麦畑を通りながら、無断で麦の穂を摘んで食べたことです。
無断で他人の畑の麦の穂を摘む。これは、私たちから見ても、問題だと思われます。
しかし、実は、他人の麦畑の穂を、摘んで食べることは、何ら問題ではなかったのです。
それは、律法で認められていたのです。申命記23章26節はこう言っています。
「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」
空腹の時に、他人の麦畑に入って、麦の穂を摘んで食べること。それは、律法で許されていたのです。ただ、鎌を使って収穫することは、禁じられていました。
ですから、ファリサイ派の人たちも、弟子たちが、麦の穂を摘んだことは、全く問題にしていませんでした。問題は、それを安息日にした、ということであったのです。
ファリサイ派の人たちは、弟子たちの行為が、安息日には許されない労働だと考えました。
一体、何が、いけなかったのでしょうか。
まず、穂を摘んだこと。これは、刈り入れをしたことになる。次に、手で穂を揉んだこと。これは、脱穀をしたことになる。そして、籾殻を除いたことは、食事の用意をしたことになる。
まるで、こじつけのような、レベルの低い批判です。こんな低次元の批判など、無視してもいいのではないか、と思ってしまいます。
しかし、主イエスは、こうした批判を無視されることなく、真正面から受け止められて、丁寧に答えられました。
主イエスは、まず、サムエル記上21:1~7を引用されて、ダビデと連れの者たちが、聖別された供えのパンを食べたことを示されました。
供えのパンは、祭司だけが、食べることを許されていました。
それをダビデと従者たちが、食べたのです。これは、明らかに掟を破ったことになります。
更に、主イエスは、もう一つのことを言われました。それは、祭司たちは、安息日にも働いている、ということです。
ダビデは、祭司たちしか、食べることを許されないパンを、食べたではないか。
祭司たちは、安息日にも、働いているではないか。
あなた方は、それをどう思うか。そのように、問われたのです。
それに対して、ファリサイ派の人たちは、心の中で、こう反論しようと思ったかもしれません。
「いや、あれは、神から油注がれた、ダビデだから許されたことなのです。
また祭司たちは、神との交わりのために、律法に定められた、祭儀を行っているのです。
でも、あなたの弟子たちは、日常の行為の中で、掟を破ったではありませんか。」
しかし、主イエスは、そのような反論の余地を、与えないかのように、言葉を続けられました。
「神殿よりも偉大なものがここにある。」
主イエスは、ご自身が、神殿よりも大いなるお方として、ここにおられる、と言われたのです。
主イエスは、御子なる神様です。ですから、主イエスが居られるということは、神様がそこにおられるということです。
神殿で、神様のために働いている祭司たちは、安息日に何でもすることが許されている。
そうであるなら、神ご自身である、主イエスに仕えている弟子たちが、安息日に麦の穂を摘むことも、許される筈ではないか。主イエスは、そのように言われたのです。
そして、主イエスは、ホセア書6:6の御言葉を引用されて、更に続けられました。
「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない」。
この御言葉の意味を知っているかと、問われました。
神様が、望まれるのは、神殿においてささげられる、形式的な祭儀ではなくて、神様の憐れみの中に生きることである、と言われたのです。
父なる神様は、憐れみの神様なのだ。その神様の憐れみに、生かされることなくして、本当の安息があるのか、と主イエスは問われたのです。
神様の憐れみの中にあってこそ、人間は、真実に憩うことが出来るのだ。まことの喜びを、味わうことが出来るのだ。
その時に、人間同士もまた、お互いに、憐れみに生きることが出来る。
ただ掟に従って休むのではなくて、神様の憐れみの中に憩うことこそ、本当の安息なのだ。
元々、律法の心は、そこにあった筈なのに、その憐れみを、どこに捨ててきてしまったのか。
主イエスは、深い悲しみをもって、問いかけておられるのです。
そして、私こそが、そのような安息を与える者なのだ、と言われたのです。
「人の子は安息日の主なのである」、という御言葉は、そのような約束の御言葉なのです。
今、私たちが住んでいる世界にも、様々な規則があります。
それらは、共同生活を営んでいく上で、必要なものです。
しかし、一旦、規則が出来上がると、規則だけが一人歩きしてしまい、それが作られた、元々の意味を、見失ってしまうことが、多く見られます。
学校にも、様々な規則があります。生徒が、正しい生活を送れるようにと、定められたものです。生徒を、正しく生かすための規則です。
以前、遅刻をしてはいけない、という規則を守らせるために、始業時間になると、正門を閉めていた学校があって、閉めかけた門に挟まって、生徒が死亡した事件がありました。
生徒を生かすための規則が、生徒を殺してしまったのです。
教会でも、そのようなことがあるのではないでしょうか。教会とはこうあるべきだ。信仰とはこうあるべきだ。このような確信を持つことは必要なことです。
しかし、自分の持っている教会観を型にはめ、その型を他の人にも押し付け、強制しようとするなら、教会は安息の場ではなくなります。
「自分は正しい」、「自分は間違っていない」という思いから、御言葉の剣で、人を傷つけてしまうことがあります。
しかし、主が求めておられるのは、憐れみです。神様の憐れみが、教会に満ち溢れ、その憐れみを受けることによって、私たちが、お互いに、憐れみに生きることです。
安息日の主である主イエスは、私たちを殺すような掟から解放してくださり、私たちを生かす憐れみへと、導いて下さるお方なのです。
今、多くの車に、カーナビがついています。カーナビは、目的地への様々なルートを示してくれます。私たちが、間違えて違う道を行っても、直ぐに修正ルートを示してくれます。
何度間違えても、その度に、新しい修正ルートを示してくれます。
決して諦めることがありません。間違えてばかりいる私たちに、どこまでも寄り添い、忍耐強く新たな道を示してくれます。
ファリサイ派の人たちが説く掟は、一つのルートしか示さないカーナビです。
決まった一つの道しか、進むことを認めないカーナビです。
しかし、主イエスは、一人一人に合った、ルートを示して下さいます。
そして、たとえ私たちが間違えて、道を踏み外しても、それを修正する新たな道を示してくださいます。
間違えても、間違えても、また違う、新たな道を示して下さいます。
踏み外しても、踏み外しても、尚も、そこから、恵みに至る、新たな道を示して下さいます。
そのような、憐れみと忍耐に満ちた導き手。それが主イエスなのです。
このお方と共に歩む時、私たちは、まことの安息を得られます。このお方の御声を聴いていく時、私たちは安らぐことが出ます。
まことの安息とは、憐れみと忍耐の主の御許に、安らぐことです。
私たちの内なる騒音を鎮めて、聖霊の静かな、細き御声に、耳を傾けることです。
主は、今も私たちを招かれています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」