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柏牧師:過去の礼拝説教

「悔い改めない町々」

2021年03月14日 聖書:マタイによる福音書 11:20~24

今朝の御言葉を読まれて、皆さんはどのような印象を持たれたでしょうか。
ここには、主イエスの、激しいお叱りの言葉が、記されています。主イエスの感情が、そのまま、ほとばしり出ている、と思われるような箇所です。
私たち人間は、何かにつけて、直ぐに、カーとなったり、落ち込んだりして、感情に左右されてしまいます。
でも、主イエスは違う筈です。主イエスは、いつも平然としておられて、感情に左右されることなどない。カーとなって怒ったり、落ち込んだりなさらない。私たちは、そう思っています。
ですから、今朝の御言葉に、私たちは、戸惑ってしまいます。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」
こんな厳しい言葉で、人々を叱るなんて、主イエスらしくない。そう感じられた方も、おられるのではないでしょうか。
或いは、さすがの主イエスも、遂に、堪忍袋の緒を切られて、怒りを吐き出されたのだろう。
いくら素晴らしい奇跡をなされても、その本当の意味を、少しも理解しようとせず、次々に、更なる奇跡を求めてくる。
そんな自分勝手な願いばかりを、際限なくぶつけてくる人々に対して、主イエスが、遂に怒りを顕わにしておられる。そう採られた方も、おられるかもしれません。
しかし、主イエスはここで、感情的になって、怒っておられるのではありません。
悲しんでおられるのです。嘆いておられるのです。心に迫る悲しみと嘆きが、溢れ出るように、思わずほとばしり出ているのです。
では、主イエスは、一体何を、それほど深く、悲しんでおられたのでしょうか。
何に対して、それほど激しく嘆いておられたのでしょうか。
これから、ご一緒に、そのことを尋ねてまいりたいと思います。
今朝の箇所には、六つの町の名前が出てきます。
それらの内の三つ、コラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウム。これら三つの町は、主イエスが、熱心に伝道活動をされた、ガリラヤの町々の名前です。
主イエスは、これらの町々で、御言葉を宣べ伝え、病人を癒されました。
もう一つのグループ、ティルス、シドン、ソドム。これらは、主に旧約聖書に出てくる異教の町々です。信仰において、著しく堕落した町だと、預言者たちに責められた町です。
特に、ソドムという町は、最も堕落した町として、神様からの厳しい裁きを受けた町として知られていました。
ところが、主イエスは、それらの異教の町々よりも、ガリラヤの町々の方が、もっと厳しい裁きを受けるだろうと、言われたのです。
ティルス、シドン、ソドムの町々よりも、自分たちの方が、厳しい裁きを受ける。これは、ユダヤの人々にとっては、驚くべきお言葉でした。
コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、律法を与えられ、選ばれて神の民とされた、ユダヤ人の町です。
そして、主イエスが、度々そこを訪ねられて、御言葉を語ってくださった町々です。
主イエスが、素晴らしい御業を行われるのを、人々は、何度も見たのです。
主イエスの御声を、直接、聴いたのです。そのような、大きな恵みに与っていた町々です。
ですから、それらの町の人たちは、自分たちは、あのイエスというお方の身近にいる、という秘かな誇りを持っていたと思います。
特に、カファルナウムは、主イエスが、ガリラヤ伝道の拠点とされた町です。
ですから、カファルナウムの人たちは、主イエスを慕って人々が集まってくると、得意になったと思います。
今、評判になっているあのイエスという方は、私たちの町の住人だ、と鼻を高くしたのです。
そのように、得意になっているカファルナウムに対して、主イエスは言われました。
カファルナウムよ、お前は、今、得意になっているけれども、死の世界にまで落ちるだろう。
彼らは、自分たちが、主イエスの傍にいることを、誇りにしていました。しかし、そのことの故に、かえって厳しい裁きを受ける、と主イエスは言われたのです。
主イエスの傍にいることは、大きな恵みである筈です。それなのに、なぜ、そのような厳しい裁きが、これらの町々に、降されるのでしょうか。
20節には、「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」、と書かれています。
「悔い改めなかった」こと。それが、裁きの理由である、と書かれているのです。
主イエスの、素晴らしい奇跡を見た、ガリラヤの町の人々は、大いに喜びました。
病が癒されたことを喜び、神様に感謝し、神様を称えました。それは、正しいことです。
しかし、そこに留まっているだけでは、いけないのです。更に大切なことがあるのです。
彼らは、その、最も大切なことを、忘れていたのです。一体、それは、何でしょうか。
最も大切なこと。それは、悔い改めることでした。
悔い改めるとは、過去の過ちを、後悔することではありません。
あー、あんなことしなければ良かった、と悔やむことではありません。
悔い改めるとは、方向転換する、ということです。180度、向きを変えることです。
今まで、背中を向けていた神様の方に、まっすぐに向き直ることです。
自分中心に生きていた、今までの生き方を、神様中心の生き方に変えることです。
主イエスは、そのために奇跡を行われました。奇跡を行って、人々から感謝されることや、称賛を受けることを、願われた訳ではありません。それが目的ではありません。
奇跡という、大いなる神様の御業に触れた時、人々の心には、畏れが生じる筈です。
私は、今、神様の御前にいる。聖なるお方の御前にいる。そういう思いに導かれる筈です。
神様の聖なる光に照らされた時、私たちの心の内には、何が起きるでしょうか。
聖なる光に照らされた時、私たちは、自分の罪深さや、自分の汚れを、示される筈です。
あの日、ガリラヤ湖で、主イエスに命じられて、漁に出たペトロ。
彼の長年の経験からは、こんな日には、魚がとれる筈はない、と思っていました。
しかし、「主のお言葉ですから」と言って、しぶしぶ舟を出して網を下したところ、舟が沈みそうになるほどの魚がとれたのです。
その時、ペトロは、自分は、今、聖なるお方の前にいると知らされ、主イエスの足元にひれ伏して、思わず叫びました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです。」
神様の大いなる御業に接した時、私たちは、自分の罪深さを、示されます。
聖なるお方の前に立った時、自分の汚れに気付く筈なのです。
ガリラヤの町々で、主イエスは、数々の奇跡をなされました。人々は,その素晴らしい御業に驚き、神様を称えました。
しかし、残念なことに、そこから先には進まなかったのです。
そこから先に進んで、自分たちの罪深さを知り、悔い改めに向かうことをしませんでした。
方向転換して、自分中心の生き方から、神様中心の生き方へと、向きを変えることをしませんでした。与えられている恵みに慣れてしまって、それを、当然のように受け取っていたのです。
ですから、自分たちの罪に、気付くのが難しかったのです。悔い改めから遠かったのです。
それに対して、ティルスやシドンやソドムのような、異邦人の町の人たちは、何も持っていません。それだけ悔い改めに近い、と主イエスは、言われたのです。
もし、ティルスやシドンやソドムで、主イエスの奇跡が行われたなら、これらの町々の人たちは、きっと悔い改めていただろう。
だから、恵みに与ったにもかかわらず、悔い改めないガリラヤの町々よりも、ティルスやシドンやソドムの方が、まだ軽い裁きで済むだろう。主は、そう言われたのです。
ガリラヤの町々で、主イエスは、全力を注がれて、御業を行われました。
11章5節で読みましたように、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされた」のです。
人々に寄り添い、病を癒し、御言葉を宣べ伝えることに、すべての力を注がれたのです。
それなのに、人々は、自分の願いがかなえられることだけを求め、悔い改めて、神様の許に立ち帰ろうとしません。それでは、この町の人々は、滅びに至ってしまいます。
私が、これほどまでに、この町の人々を愛し、滅びから救おうとしているのに、人々は向きを変えようとせず、滅びに向かって歩んでいる。
主イエスにとって、これは本当に深い悲しみでした。身を切られるような、辛い思いでした。
主イエスは、コラジンとベトサイダに対して、「不幸だ」と言われました。
この「不幸だ」、と訳された言葉は、原語では「ウーアイ」という言葉です。
これは、叫びの言葉です。思わず心の中から出てくる叫びなのです。魂の奥底から、絞り出される呻きなのです。
「ああ、お前たち」、と主イエスは悲しみの叫びを、上げられたのです。
胸が締め付けられるような思いに駆られて、思わず呻かれたのです。愛するが故の、激しい呻きが発せられたのです。
主イエスは、何とかして、この町の人々、一人一人を救いたいと願われました。
ですから、何とか、悔い改めて、方向転換して欲しいと、激しく迫っておられるのです。
「お前たちは不幸だ」。この言葉は、怒りの言葉ではありません。いえ、たとえ怒りの言葉であったとしても、その怒りは、憎しみに落ち込んでいくのではなく、悲しみに至るのです。
嘆きに変わるのです。呻きとなって、発せられるのです。
どうしてでしょうか。主イエスは、私たちを愛してくださっているからです。
「お前たちは不幸だ」。この言葉の背後には、私たち一人一人を救うために、全力を注がれた主イエスの愛があります。
その愛ゆえに、主イエスの怒りは、悲しみとなり、嘆きとなり、呻きとなったのです。
主イエスは、この世を滅ぼすためではなく、この世を救うために、来られたお方なのです。
主イエスは、悔い改めようとしない人々を、諦めて、見捨てられることをされませんでした。
では、何をされたのでしょうか。主イエスは、悔い改めない人々を救うために、ご自身が裁きを受けられたのです。十字架へと向かって歩まれたのです。
主イエスは、悔い改めない人々の、かたくなさを嘆かれながら、その嘆きの中から、立ち上がられ、十字架へと進んで行かれたのです。
それほどまでに、私たちを愛してくださり、私たちを救いたいと願われたのです。
この主イエスのお姿から、想い起される人がいます。
三浦綾子さんの自伝的小説、「道ありき」に出てくる、前川正さんと言う人です。
クリスチャンの前川さんは、綾子さんの幼馴染で、二人は婚約していました。
しかし、前川さんは肺結核の悪化で、帰らぬ人となってしまいます。綾子さんが、三浦光代さんと出会う前のことです。
その頃の綾子さんは、信じていた価値基準が、敗戦でずたずたに引き裂かれ、自暴自棄になっていました。
綾子さん自身も、結核を患っていましたが、入院した病室では、お酒を飲み、タバコを吸い、二人の男性と、二重婚約をするなど、荒れた生活をしていました。
前川さんは、そんな綾子さんを立ち直らせようと、根気よく説得します。しかし、綾子さんは毒づくばかりか、海への入水まで図ります。
深く嘆いた前川さんは、旭川市街を一望できる丘に、綾子さんを誘い出します。
そこで前川さんは、信仰を持って、前に向かって生きるように、懸命に綾子さんを諭します。
しかし、そんな前川さんを、綾子さんは、覚めた目で眺めながら、たばこを吸っていました。
前川さんが、心を尽くして、何回も何回も、主イエスの愛を語り続けても、綾子さんは、堅く心を閉ざして、受け入れようとしません。
普通の人なら、「これほど言っても分からないのか。もう勝手にしろ」、と言って怒り出すところです。しかし前川さんは、そこで、悲痛な叫びをあげました。
「綾ちゃんだめだ。このままでは、綾ちゃんは、また死んでしまう」。
そう言って、彼は、傍にあった小石を拾いあげると、突然自分の足を、ゴツンゴツンと続けざまに打ちだしたのです。
血がにじむ足を見て、「何するの。止めて」、と綾子さんが叫びました。
その綾子さんに対して、前川さんは言いました。
「僕は今まで、綾ちゃんのために、どんなに激しく祈って来たか。綾ちゃんが前向きに生きてくれるなら、自分の命もいらないと思ったほどです。
でも、信仰の薄い僕には、あなたを救う力のないことを、思い知らされた。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです。」
足を血だらけにして泣く、前川さんの姿の背後に、綾子さんは、今まで知らなかった光を見たような気がしました。
やがて綾子さんは、主イエスの愛を受け入れ、信仰の道へと歩み出すことになります。
前川さんは、綾子さんを怒るのではなく、自分を怒ったのです。
この愛する女性一人さえ導けない自分は、何と情けない、何と力不足なのか、と自分を怒ったのです。
主イエスも、悔い改めない町々を嘆かれ、心に怒りを覚えられたと思います。
しかし、その怒りは、どこに向けられたのでしょうか。何と、ご自身に向けられたのです。
そして、その怒りが、十字架へと、主イエスを突き動かしたのです。
悔い改めない町々のために、ご自身が傷つき、ご自身が命をささげられたのです。
綾子さんが、前川さんの背後に見た光。その光を、ガリラヤの町の人々は、主イエスの背後に見ることができず、主イエスを、悲しませ、嘆かせ、呻きを呼び起こしました。
皆さん、今朝、私たちは、思い起こしたいと思います。
私たち一人一人に、主イエスが、どれほど熱い思いをもって、迫っておられるか。どれほど強い愛をもって、迫っておられるか。
主イエスの、「あなた方は不幸だ。ウーアイ」という呻きの声を聴いて、是非それを思い起こして頂きたいと思います。