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過去の礼拝説教

「結果は主に委ねて」

2021年05月30日 聖書:マタイによる福音書 13:24~43

今朝の御言葉の冒頭の24節で、主イエスは、「天の国は次のようにたとえられる」、と言われました。ということは、今朝の御言葉は、天の国についての話、ということになります。
私たちは、天の国と聞きますと、死んでから行くところだ、と思ってしまいます。
しかし、聖書が言っている天の国とは、神様が支配されている領域のことです。
教会は、主の御心によって支配されている、信仰共同体として造られました。
ですから、本来、教会は、この世における、天の国でなければならないのです。
しかし、現実には、教会にも、様々な問題が存在します。それは、本当に悲しいことです。
教会とは、主にある、キリスト者の交わりの場である筈だ。そうであるならば、それに相応しく、清く、純粋で、愛に満ちた場である筈だ。それが、なぜ崩れてしまうのか。
教会は、その長い歴史の中で、このような嘆きを、繰り返して叫んできました。
今朝の御言葉でも、教会の中に、毒麦が生えてしまう、という現実が語られています。
そのような、現実の中で、私たちは、今朝の御言葉を、どのように聞くべきでしょうか。
教会も、所詮は人間の集まりだから仕方がない、と諦めの思いをもって、聞くのでしょうか。
それとも、「まことの天の国を実現するために、断固として戦うぞ」、という思いを新たにすべきなのでしょうか。そうではないと思います。
私たちは、この御言葉の中に、主の慰めを、聴き取っていきたいと思います。
毒麦が生じてしまう教会の中に生きながら、尚、主を褒め称えることを覚えたいと思います。
さて、今日の御言葉は、毒麦の譬えと、その譬えの説明の間に、天の国についての二つの譬えが、挟まれるように記されています。
「からし種」と「パン種」の譬えです。この二つの譬えが、毒麦の譬えの前提となっています。
この二つの譬えは、天の国の本質を、良く示しています。
天の国、それを教会と言い換えても良いと思いますが、教会は、今は、小さく見えても、やがて、必ず大きく成長する。
そのことを、主イエスは、「からし種」と「パン種」の譬えをもって、教えておられるのです。
からし種は、本当に小さな種です。でも、その小さなからし種が蒔かれて、成長すると、やがて空の鳥が巣を作るような大きな木になるのです。
そのように、神様のご支配は、最初は小さなものでも、やがて大きく成長し、誰の目にも明らかな現実となる、というのです。
教会も、初めは、本当に小さな種から、始まりました。しかし、福音の種には、それ自体の中に、大きく成長する、命の力が宿っています。
その力によって、教会は、世界中に、力強く広がっていったのです。
天の国が譬えられている、もう一つのものは「パン種」です。パン種とは、パン生地を発酵させる酵母、いわゆるイースト菌です。
このパン種は、ほんの僅かでも、パン生地全体を、大きく膨らませます。
ここで、主イエスが、「からし種」と「パン種」を、例に挙げられたのは、ご自分の業は、今は未だ小さいけれども、必ず大きく成長する、ということを、言っておられるのです。
主イエスの宣教の御業。それは、世界全体から見れば、パレスチナの片隅の、ガリラヤという片田舎での出来事です。からし種のように小さくて、パン種のように、隠れた存在です。
しかし、この小さな隠れた御業が、やがて芽生え、枝を伸ばして、空の鳥たちが、そこに憩うようになる。その御業が、今、ここに始まっている。主イエスは、そう言っておられるのです。
私たちが、今、ささげている礼拝においても、天の国が、もう始まっているのです。
礼拝において、天の国が実現しているのです。
この天の国は、初めは、からし種のように小さなものですが、それが育って、大きな木になった時、空の鳥が、その枝に宿るようになる、と主イエスは言われました。
原文では、この鳥は複数形です。一羽の鳥が、そっと羽を休めているのではないのです。
周りを見渡せば、多くの仲間がいるのです。皆が、「あぁ。ここに、こんなに大きな木があって、助かった。ここで安らぎ、生きる力を得よう」、と言って共に憩うのです。
それが教会です。主イエスが始めて下さった教会が、このように、今も、続いているのです。
それどころか、今や、全世界に広がって、成長し続けているのです。
茅ヶ崎恵泉教会も、小さな群れです。そこに集う私たちも、小さな存在です。その歩みも、険しい道のように、見えるかもしれません。
けれども、2千年前の、ユダヤの片隅に、ひっそりと蒔かれた、福音の小さな種が、今や、全世界に広がっている。
私たちは、その事実に目を留めて、現在の小ささに失望することなく、天の国の持っている、力強い成長力に、期待していきたいと思います。
からし種のように小さなものが、大きく成長していく。僅かなパン種が、粉全体を変えていく。そのように、天の国は、そして教会は、成長していくのだ、と主イエスは、言われました。
しかし主は、その成長していく過程において、また様々な問題が生じる、とも言われました。
主イエスは、それを、「毒麦の譬え」をもって、示されています。
主イエスは、教会という畑に、良い種を蒔いて下さいました。ところが、眠っている間に、敵である悪魔が来て、その畑に、毒麦の種を撒き散らしていったのです。
そのため、良い麦の畑だ、と思っていた教会に、毒麦が生えてきたのです。
悪魔は、極めて巧妙に、眠っている間に種を蒔きました。ですから、誰も気付かないのです。
宗教改革者のマルティン・ルターは、「神が教会をお建てになると、悪魔がその傍でチャペルを建てる」、と言ったそうです。
教会もチャペルも同じものです。見分けが付かないのです。それほど巧妙に、悪魔は入り込んでくるのだ、とルターは言ったのです。
もし悪魔が、黒いマントを着て、長い槍をもって入ってきたら、誰も騙されないと思います。
でも、悪魔は、そんなへまなことはしません。悪魔は、悪魔の顔をしては来ないのです。
見分けが付かないように、良い者を装って入り込んできて、毒麦の種を蒔くのです。
敵の仕業だと聞いて、僕たちは、「私たちが行って、毒麦をみな、引き抜いてしまいましょう」、と熱心に言いました。
しかし、僕たちの、その熱心さに対して、主人は、「育つままにしておきなさい」と言いました。
「待つように」、と言ったのです。待つが良い。必ず、刈り入れの時が来る。
その時には、私が、刈り入れをする人たちに、毒麦を集めて焼くように言いつける。
私が、すべての責任を引き受ける。だから、それまで待つが良い。そう言われたのです。
「毒麦をそのままにしておきなさい。なぜ、あなた方は、毒麦を抜くことに、そんなに夢中になるのか。それは私の仕事ではないか。私が責任をもってそれをする。」
主は、悪魔に入り込まれてしまう、人間の弱さを責め、直ぐに裁くことをされませんでした。
刈り入れまで待て。その全責任を、ご自身が引き受ける、と言われたのです。
更に主イエスは、終りの時に刈り入れるのは天使であって、人間ではないと言われました。
私たちは、自分は良い麦であって、あの人は毒麦だ、と思い込む時に、毒麦を処分したいという、強い思いに駆られます。
でも、主イエスは言われています。人間は誰もが、100%良い麦でもなければ、100%毒麦でもない。だから、誰も、刈り入れをする立場になど、立てはしないのだ。
そのような資格は、誰も持っていないのだ、と言われたのです。
「育つままにしておけ」、という言葉は、私が責任をもって良い麦を育てるから、安心しなさい、という主イエスの、愛に満ちたお約束なのです。
たとえ「毒麦」に囲まれていても、「良い麦」は「良い麦」として、私が責任をもって育てるから、安心しなさい、と言われているのです。
確かに、毒麦も育つのです。でも、同時に良い麦も育つのです。良い麦は、毒麦の間にいても、必ず育つのです。そして、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。
だから、今、焦って、毒麦を引き抜こうとしてはいけない、と主は言われているのです。
「育つままにしておけ」、と言い切る主のお言葉の奥には、私が、最後まで畑の面倒を見よう、という決断があるのです。
そして、その決断の、更にその奥には、主イエスの十字架があるのです。
ですから、「育つままにしておけ」というお言葉に、信頼してついて行くことが出来るのです。
この主イエスのお約束を信じて、私たちは、毒麦の中にあったとしても、結果は主に委ねて、自分の救いを全うすることだけを、ひたすらに願いつつ、歩んで行って良いのです。
この譬えを通して、主イエスは、他人を性急に毒麦と決めつけて、裁いてしまうことを、たしなめておられるのです。
それは、天の国である教会には相応しくない、と言っておられます。
人間が、神の立場に立って、終末の時に、主がなされる裁きを先取りして、先走って決着をつけてはいけない、と言われているのです。
勿論、私たちは、真理のために、戦わなければなりません。
しかし、私たちが、戦って、守るべき真理とは、一体何でしょうか。それは、主イエスの恵みの真理ではないでしょうか。
すべての人間を救いたいと願われている、主イエスの愛の真理ではないでしょうか。
そうであるならば、人を毒麦と決めつけて、その人を根絶やしにすることばかりに夢中になることは、主イエスの愛の真理に反しています。
私たちは、自分を、神様に並ぶ絶対者に、仕立ててはならないのです。
たとえ、あの人の考えは間違っている、あの人は毒麦だ、と思っても、その人を引っこ抜いてしまおう、と裁いてはいけないのです。それは、主がなされることなのです。
私たちには、隣人を愛し、迫害する者のために祈ることが、求められているのです。
主イエスは、「育つまで待て」と言われました。それは、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」からです。
毒麦は、穂が出るまで、麦と非常によく似ていて、見分けがつきません。
ですから、毒麦だと思って引き抜いたら、実は麦だった、ということがあり得るのです。
また、毒麦と麦の根は、同じ畑の土の中で絡み合っています。ですから、毒麦を抜こうとすると、麦も一緒に抜いてしまうということが、起こり得るのです。
毒麦を抜くという作業に、あまりにも一生懸命になっている時、いつの間にか、良い麦まで一緒に抜いてしまうということがあるのです。
悲しいことに、時々教会や、教団の中に分裂が起こります。お互いが、お互いを毒麦と決め付けて、排除しようとするのです。
しかし、主イエスは言われています。「あなたは、これは毒麦だ、と言うけれども、もしかしたら、毒麦ではないかも知れない。また、毒麦の中に、良い麦が混じっているかも知れない。生かすべきものがあるも知れない。
もし、それを一緒に引っこ抜いてしまったらどうなるのか。殺してはならないものまで、殺してしまうことになるではないか。そんなことが許されるだろうか。」
皆さん、ここで立ち止まって、少し考えてみましょう。
一体私たちの誰が、自分は毒麦ではないと、確信を持って言い切ることができるでしょうか。。
この譬え話は、教会のことを言っていますが、私たち一人一人のこととして、捉えることもできます。
私たちは、この譬えを読んでいる時、無意識のうちに、自分は毒麦ではないと思っています。
あの人は、毒麦だろう。しかし、私はそうではない。そのように思い込んでいます。
しかし、今、毒麦だろうと決め付けている人も、神様の限りない愛の中に置かれていることを忘れています。この兄弟のためにも、キリストは死なれたのだ、という事実を忘れています。
主イエスは、ご自分を十字架につけた人のためにさえ、祈られました。
「父よ、彼らを赦してください」と言って、祈られたのです。
それでは、今、ここで視点を変えて、私たちを毒麦だと考えてみましょう。
私たちを、毒麦だと捉えるなら、この譬えの意味するところは全く違ってきます。
私たちは、毎週、礼拝において、御言葉という良い種を、心の畑に蒔いて頂いています。
それにもかかわらず、私たちの心の中には、次々と毒麦の芽が生えてきます。
それを何とか引き抜こうとしても、尚も、毒麦の芽は、生え続けます。
自分の罪深さに、絶望しそうになった時、私たちは、主の御言葉を聴くのです。
「私が蒔いた良い種は必ず育つ。だから、あなたは、毒麦を引き抜こうと、焦らなくてよい。
どうしても引き抜けないと言って、絶望しなくてもよい。その毒麦は、私が引き受けて、私が担う。
そして、あなたから引き受けた毒麦は、私が、十字架において、焼き尽くして滅ぼす。
だから、あなたは、私が蒔いた種の力を信じて、喜びをもって、希望の人生を生きて行って良いのだ。」
皆さん、私たちの心の畑に、毒麦が生えていても、主は、直ぐには、その畑を焼き払うようなことはされません。
愛と忍耐をもって、待っていて下さるのです。そして、最後に、十字架において、全ての毒麦を、焼き払って、滅ぼして下さるのです。
私たちは、そのことを信じて、喜びと希望に生きることが許されているのです。
主イエスは、誰一人見捨てられることなく、すべての人を救いに招かれています。
誰もが、主イエスが蒔かれた御言葉の種によって、新しくされる恵みに招かれているのです。
そして、この主イエスによって、最後には、毒麦が刈り取られ、滅ぼされる日が必ず来ます。
そのような、主の愛と忍耐の世界に、私たちは招かれているのです。
その主の愛と忍耐の光に照らされる時、私たちは、自分自身の中に、毒麦の種が蒔かれていることを、素直に認めることが出来る者とされます。
そして、自分が、十字架の贖いによって、「赦されている毒麦」である、という恵みを知ることができるのです。
その時、私たちは、十字架の上から語り掛けて下さる、主の執り成しの祈りの言葉を、心からの感謝をもって、聴くことが出来るのです。