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「限りなく豊かな食事」

2021年06月27日 聖書:マタイによる福音書 14:13~21

新訳聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、四つの福音書が収められています。
福音書というのは、主イエスの御業や御言葉を、書き記したものです。
しかしそれは、二千年も前の出来事を、ただ記録しているだけの書物ではありません。
福音書は、私たちに、こう語りかけています。
ここに書かれている主イエスの御業や御言葉は、今のあなたにとって、意味あることなのですよ。今のあなたにとって、大切なことなのですよ。
遠い昔の出来事ですが、これは今のあなたのために、主イエスがなされた御業なのです。
主が、今のあなたのために、語られた御言葉なのです。福音書は、そう言っているのです。
実は、福音書は、その出来事が起こった後、直ぐに記録されたものではありません。
その出来事が起きてから、何十年も後に書かれたものなのです。
初めの内は、主イエスの御業や御言葉は、書き記されてはいませんでした。口から口へと語り継がれていったのです。
でも時間が経つにつれて、忘れてしまわないように、しっかり記録しておこうということなって、文字として残されたのです。
「人の噂も75日」、と言われているのに、どうして、主イエスの御業や御言葉は、何十年もの間、人々によって、語り伝えられていったのでしょうか。
それは、主イエスの御業と御言葉が、本当に嬉しい出来事だったからです。本当に慰められる出来事だったからです。
ですから福音書を読む時、私たちは、どうしてこの出来事が喜びだったのか。なぜこの御言葉が慰めだったのか。そのことを尋ねつつ、読むことが大切なのです。
主イエスが、五つのパンと二匹の魚で、五千人の人を満腹にしたという、「パンの奇跡」も、そういう出来事として、語り伝えられていったのです。
福音書には、多くの奇跡物語が記されていますが、四つの福音書のすべてに記されている奇跡はこれだけです。
このことは、初代教会において、この物語が、広く語り伝えられてきたことを示しています。
教会は、厳しい迫害の中でも、この物語を大切にして、何十年も語り伝えていったのです。
なぜ、この物語が、それほど大切とされたのでしょうか。今朝は、そのことを、ご一緒に考えていきたいと思います。
皆さんは、聖書の中の奇跡物語を、どのように捉えておられるでしょうか。
奇跡物語が無いなら、聖書はもっと読み易くなるのに、と思う人が多くいます。
こんな子供だましの話が書いてある聖書など、信頼できないという人もいます。
そういう時に、私たちが良くすることは、奇跡を合理的に説明しようとすることです。
この「パンの奇跡」で、昔から良く知られているのは、このような合理的解釈です。
実は、群集の殆どは、弁当を持って来ていた。
でも、もし、ここで弁当を広げたら、持って来なかった人に、分けない訳にはいかない。
人にあげるには十分な量ではない。だから自分だけで、こっそりと食べて満腹したい。
そう思っていたら、主イエスと弟子たちが、僅かな食べ物を、喜んで人々に分け始めた。
それを見て、自分の身勝手さを恥ずかしく思った人たちが、次々に、持参した弁当を広げて、分け合うようになった。
その結果、五千人もの人々が、皆、食べることが出来た。こういう説明です。
これはとても分かり易い話です。これなら、誰もが納得します。
しかし、この説明ですと、この物語は、奇跡物語ではなく、人道的な美談となります。
そして、そういう話として理解してしまうと、逆に分からなくなってしまうことがあります。
何が分からなくなるかと言いますと、では、どうしてそんな話が、厳しい迫害の中にある教会で、大きな喜びと慰めを与える話として、語り伝えられていったのだろうか、ということです。
この説明の通りであるならば、それは確かに心温まる話です。
しかし、何十年も命がけで語り伝え、四つの福音書のすべてに記し、そして二千年後の私たちにまで伝えたい、と願うほどの出来事ではないのではないか、と思われるのです。
初代教会の人たちは、厳しい迫害の中で、命がけで信仰を守っていたのです。
その人たちが、この物語を読んで、本当に慰められ、励まされていったのです。
単なる人道的な美談が、命懸けの信仰を守り抜いてきた人たちに、そのような生きる力を与えるでしょうか。とてもそうは思えません。
ですから、この話を、皆がお弁当を分け合ったというような、単なる美談にしてしまう訳にはいかないのです。聖書は、これを奇跡の話として伝えているのです。
前にもお話ししましたが、この奇跡について、ある人が、こういうことを言っています。
田んぼや畑で、種が蒔かれる。その蒔かれた一粒の種から、自然に芽が出て、水と空気と太陽の光によって、何十倍、何百倍の実を結ぶ。
私たちは、その収穫の恵みを、毎年受け取り、それによって命が支えられている。
これは毎年、当然のように、繰り返される出来事なので、誰も奇跡とは思わない。
しかし、よく考えてみれば、これは不思議なことなのだ。
ここで、主イエスがなさったことは、神様が毎年繰り返して、畑でなさっていることを、一瞬の内に、その手の中でなさった、ということなのだ。
主イエスとは、そういうお方なのだ。そういうお方が、私たちと同じ人間となられて、私たちの所に来てくださったのだ。聖書はそのことを、喜びをもって語っているのだ。
そうなのです。聖書は、主イエスというお方は、奇跡を起こす力をお持ちの方なのだ、と言っているのです。突き詰めて言いますと、福音書が語っていることは、ただ一つです。
この主イエスというお方は、神様だということです。
神であられるお方が、私たちの只中に来て下さった。聖書はそのことを語っているのです。
そして、このことは、今のあなたにとって、本当に大きな意味があるのですよ。
これは、あなたのために起こった出来事なのですよ、と言っているのです。
夕食の時間になったので、弟子たちは、「群衆を解散させて、自分たちで食べ物を買いに行かせてください」、と主イエスに頼みました。
それに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」、と言われました。
主イエスに、そう言われて、弟子たちは、自分たちの手の中にあるものを数えてみました。
そこには、パン五つと、魚二匹しかありません。これでは、主イエスと弟子たちを養うにも、十分ではありません。
しかし、主イエスは言われました。「それをここに持ってきなさい」。
弟子たちは、「これは自分たちが食べる、大切な弁当だ」、と思っていました。
でも、主イエスは、それを手放して、私のところに持ってきなさい、と言われたのです。
自分たちが食べるための、大切な五つのパンと二匹の魚。それをここに持ってきなさい、と主は言われるのです。主よ、あなたは、何ということを言われるのですか。
恐らく弟子たちは、そのように思ったことでしょう。
そう思いながらも、弟子たちは持っている僅かなものを、主イエスの足元に差し出しました。
そして、その時、奇跡が起こったのです。
弟子たちは、持っているものを、一旦手放して、主イエスの御手に渡したのです。そして、それを、再び、主イエスの御手から、頂いたのです。
その時、パンは、分けても、分けても、減らないパンとなったのです。魚も、分けても、分けても、減らない魚になったのです。
これは、パンと魚だけの話ではありません。私たち自身の話なのです。
私たちは、自分の人生を、自分の命を、誰にも渡すまいと、しっかりと握り締めています。
これは、一番大切なものだから、絶対に手放さない、と握り締めています。
でも、主イエスは、それを手放して、私のところに持ってきなさい、と言われるのです。
あなたの人生を、あなたの命を、私に委ねなさい、と言われるのです。
そして、私たちが、自分の人生を、そして自分の命を、主の許に差し出した時、主は、それを祝福して下さり、新しい人生、新しい命として、再び与えて下さるのです。
その新しい人生や命は、今までとは比べ物にならない程、豊かなものとなるのです。
分けても、分けても、無くならない。いえ、分ければ、分ける程、増えるものになるのです。
主の恵みは、分けても、分けても、無くならないのです。いえ、むしろ、分ければ、分ける程、更に豊かに、増し加えられるのです。
ですから、私たちは、自分の人生を、そして自分の命を、主に献げていきたいと思います。
「主よ、どうぞ、この私を用いて下さい」、と私たち自身を、主の御手の中に、献げるのです。
その時、主は、私たちの思いを遥かに超えて、豊かに用いて下さいます。
五つのパンと二匹の魚しかない現実。たったこれだけしかない。
私たちも、同じ経験をしています。日本におけるクリスチャンは、人口の1%以下です。
教会のメンバーはこれだけしかいない。しかも年々減ってきている。
こんな状況では、人々の必要を満たすことなど、到底できない。
二千年前も、今も同じです。もし、私たちが、自分の力だけに頼るならば、同じです。
そこには、たったこれだけしかない、という絶望的な現実しかありません。
しかし主イエスに、その僅かなものを差し出していく時に、それが、主イエスの手の中で、限りない豊かさへと変えられていくのです。
私たちがすべきことは、目の前の貧しさを、嘆くことではありません。
貧しい自分を、主イエスに差し出していくことです。その時、主は、驚くべき御業をもって、私たちを用いてくださいます。
スペインの修道女テレサは、生涯に17の女子修道院と、15の男子修道院を建てました。
ある時、今までで一番大きな修道院を建てる計画を発表しました。
その席上で、「今、手許にどれくらいの資金があるのですか」、と尋ねられたテレサは、「ここに二つのコインがあります」と言って、そのコインを見せました。
皆は、「それが一体何の役に立つのですか」、と言って笑いました。
すると彼女は大声で答えたのです。「皆さんは、掛け算を知っていますか。この二つのコインに、神様を掛けたら、いくらになると思いますか」。
そして、彼女は、その二つのコインに、神様を掛けて、見事に大事業を成し遂げたのです。
これは、私たちも、会堂建築において、実際に体験した恵みです。
主は、私たちの小さな行為をも、用いてくださいます。ですから私たちは、どんなに貧しくても、どんなに小さくても、真心を込めて、持っているものを主に献げていきたいと思います。
ところで、この奇跡の特徴の一つは、これが弟子たちの手を通して、また、弟子たちが持っていたものを用いて、行われたということです。
主イエスは、弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」、と仰いました。
弟子たちは答えました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
しかし、主イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになったのです。そして、群衆に配らせたのです。
「弟子たちはそのパンを群衆に与えた」、と書かれています。何でもないことのように、実に淡々と書いています。
しかし、この時の弟子たちの気持ちを、ご一緒に想像してみましょう。
配っても、配っても、パンは無くならないのです。次々に新しいパンが生まれてくるのです。
次々に与えられるパンを、今度は、自分たちが、群衆に分け与える。
弟子たちは、パンを与えながら、言葉に言い尽くせない喜びと、畏れで、胸が震える思いに、満たされたと思います。
この偉大な奇跡に、自分たちのような者が用いられている。
弟子たちは、この感動を、生涯忘れずに語り続けたと思います。
大いなる喜びと畏れをもって、事ある毎に、語り伝えたと思います。
ですから、この奇跡が、四つの福音書のすべてに記されているのです。
「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」、と書かれています。
パン屑と書いてありますが、地面にポロポロと落としたものではないと思います。
食べ切れずに残したものだと思います。それが十二の籠に一杯になったというのです。
弟子たちは、籠いっぱいのパンを抱えて、神様の恵みの重さ、その大きさを、ずっしりと感じたに違いありません。
神様の恵みは、そういう重みを持っているのです。そういう手応えのある恵みなのです。
この十二の籠に満ちているパン。それは、その日、その場にいなかった人たちのための、パンではないでしょうか。
これを私たちの教会に置き換えるなら、それは、未だ洗礼を受けていないので、聖餐の恵みに与れない人たちのために、主が備えていてくださるパンである、と言うことができます。
主イエスは、すべての人が救われて、主の食卓に着くことを、心から願っておられます。
一人の人も失いたくない。一人の人も滅んで欲しくないのです。
ですから、今は未だ食卓につけない人たちのために、十二の籠いっぱいに満ち溢れるパンを用意して、待っていてくださるのです。
そうであるなら、私たちは、すべての人が一緒に、聖餐の食卓に着くことが出来るように、もっと真剣に、祈り求めていきたいと思います。
そして、そのために、自分自身を、主の足元に差し出していきたいと思います。
主イエスは、茅ヶ崎恵泉教会によって、この町を養おうとしておられるのです。
私たちが、この町を巡り歩いて、パンを配るようにと、期待しておられるのです。
そうであれば、主のご期待に応えて、私たちは、貧しく、弱い者ですが、自分自身を、主に差し出して、用いて頂きたいと思います。
主は、それがどんなに貧しいものでも、喜んで手にしてくださり、それを何倍にも豊かにして、用いてくださいます。
私たちは、その希望に生かされていることを喜びつつ、共に歩んでまいりたいと思います。