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「主を動かした祈り」

2021年07月25日 聖書:マタイによる福音書 15:21~28

私たち信仰者には、共通する一つの願いがあります。
それは、信仰がもっと深められますように、という願いです。私たちは皆、もっと信仰深くなりたい、と願っています。
でも、具体的には、それは、どういうことなのでしょうか。
今朝の御言葉の最後で、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われています。
この「立派だ」と訳された言葉は、もともとは「大きい」という意味の言葉です。
主イエスは、この婦人に向かって、「あなたの信仰は大きい」、と言われたのです。
興味深いことに、主イエスは弟子たちに対して、全く逆のことを言われたことがあります。
マタイによる福音書は、弟子たちがガリラヤ湖で、激しい嵐に出会った出来事を、二回も書き記しています。
そしてその二回とも、弟子たちは不安と恐れに駆られて、主イエスに助けを求めています。
脅えて、「主よ、助けてください」、と叫んでいます。
そして、主イエスから、「信仰の薄い者たちよ」、というお叱りを受けています。
この「信仰が薄い」と訳された言葉は、もともとは「信仰が小さい」という意味の言葉です。
主イエスは、この時の弟子たちを、「なんと信仰の小さい者たちよ」、と言われたのです。
一方、今朝の箇所で主イエスは、異邦人であるカナンの婦人に向かって、「あなたの信仰は大きい」と言われました。
この婦人も、弟子たちと同じように、主イエスに助けを求めています。
自分の愛する娘が、難病に罹って苦しんでいる。でも、自分ではどうすることもできない。
途方に暮れて、「主よ、どうかお助け下さい」、と叫んでいます。
婦人も弟子たちも、同じように、主イエスに助けを求めています。
しかし、主イエスは、いつもご自分と一緒にいて、ご自分のことを、一番よく知っている筈の、弟子たちの信仰を、小さいと言われました。
それに対して、主イエスのことなど、ろくに知らない、この異邦人の婦人の信仰を、大きいと言われたのです。
このことから分かることは、信仰が大きいか、小さいかは、主イエスについての知識が深いか、浅いかということには、関係がないということです。
それは、神学的な勉強をしているか、していないかとか、或いは、教会生活が長いか、短いか、ということにも関係ないのです。
もし、そういう量りで見るなら、信仰が最も小さいと言われるような、この婦人に対して、主イエスは、「あなたの信仰は大きい」、と言われたのです。
なぜでしょうか。今朝は、そのことを、ご一緒に尋ねていきたいと思います。
今朝の御言葉の舞台になっているのは、ティルスとシドンという地方です。
ティルスとシドンというのは、地中海沿岸にあるフェニキアの都市、つまり異邦人の町です。
この時、主イエスは、ますます激しくなってきた、ユダヤ人指導者たちとの対立を避けて、異邦人の地であるティルスとシドンの地方に、一時的に退かれたのです。
静かに、誰にも知られずに、束の間の休息を取ろうとされたのだと思います。
しかし、そうはいきませんでした。主イエスが来られたと聞いて、駆けつけて来た人がいたのです。この地方に生まれ育った、カナンの婦人です。
この婦人が、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」、と叫び続けて、主イエスについて来たのです。彼女の娘が、難病に苦しめられていたからです。
この婦人は、「主よ、私を憐れんでください」、とひたすらに願いました。
「主よ、私を憐れんでください」。この言葉の、ラテン語訳が、「キリエ・エレイソン」です。
「キリエ・エレイソン」。「主よ、憐れみたまえ」。
これから後、この叫びが、教会の祈りの言葉となりました。「キリエ・エレイソン」。「主よ、憐れみたまえ」。とても簡単な、短い祈りです。
けれども、教会の中で、この祈りほど、多く献げられた祈りはありません。
そしてまた、この祈りほど、真剣に祈られた祈りもありません。
ある人が、「悩みが大きければ、大きいほど、祈りの言葉は短くなる」と言っています。
言葉に言い表せないほどの悩み。どのように祈ってよいのか分からないほどの苦しみ。
その只中で、私たちは、「主よ、憐れみたまえ」、と祈るほかありません。
婦人は叫び続けました。「キリエ・エレイソン」。「主よ、憐れみたまえ」。
しかし、主イエスは、何もお答えになりません。
お言葉がないのです。叫び続けているのに、お言葉が与えられないのです。
婦人は悩みの中で、主イエスの沈黙に遭いました。
しかし、その主イエスの沈黙にもめげず、婦人は叫び続けたのです。
この婦人は、母としての無力さを、痛いほど感じていました。
娘に対して何もしてやれない。そんな自分の無力さを、思い知らされていました。
ですから、「私の娘を憐れんでください」、とは叫んでいません。「私を憐れんでください」と言っているのです。
娘の苦しみは、それ以上に、母親の苦しみであったのです。
この婦人の信仰の大きさは、この人が、実に熱心に祈ったということです。
私たちも祈りの中で、主イエスの沈黙に出会うことがあります。お言葉を聴けないことがあります。
しかし、諦めずに、更に熱心に祈り続けることが大切です。祈り続ければ、必ず答えは与えられます。
ついに、弟子たちが、たまりかねて、主イエスに訴えます。
「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
もしかすると、この時、弟子たちは、主イエスの沈黙に、疑問を抱いたのかもしれません。
いつもの先生だったら、こんなことはされない筈だ。
主よ、いつものように、この女の願いに応えて、娘を癒してあげて下さい。そうでないと、この女は、いつまでも、付き纏ってきます。
弟子たちは、そう言いたかったのかもしれません。
その弟子たちに、主イエスは、お答えになりました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」
この言葉は、私たちを、戸惑わせます。私たちは、この言葉に、愕然としてしまいます。
なぜなら、この言葉は、いつもの主イエスらしくないからです。排他的で、愛に欠けた言葉に聞こえます。
いつもの主イエスの、愛の姿勢と矛盾しているように思われます。
私たちにとって、この言葉は大きな謎です。なぜ聖書の中に、こんな言葉があるのか。
こんな言葉が無ければ良いのに、とさえ思います。
しかし、私は、何度も黙想している内に、この言葉は、決して、愛に欠けたお言葉ではない、と示されました。
そうではなくて、この言葉は、イスラエルの家の失われた羊を、どこまでも愛し抜こうとされる、主イエスの苦悩のお言葉なのだ、と示されたのです。
主イエスは、父なる神様から、先ず、イスラエルの民を救うことを、託されました。
先ず、イスラエルの民に対する救いの業がなされる。その後、その救いが、ユダヤ、サマリアの全土、そして地の果てにまで伝えられていく。
それが、父なる神様のご計画でした。
ですから、主イエスは、イスラエルの中で、特に祝福から漏れていると見られている人々。
徴税人や、遊女、或いは重い皮膚病を患っている人々など、世の中で「罪人」、或いは「汚れた人」、と呼ばれている人々の救いのために、全力を注がれました。
そして、また同時に、選ばれた民であるイスラエルの家全体が、飼い主のいない羊のような状態でさ迷っている。
そのことで、お心が悲しみでいっぱいになっていたのです。
それだけ深く、イスラエルの民を愛しておられたのです。
私は、この主イエスのお気持ちに思いを巡らす時、旧約の預言者ホセアを通して示された、神様の愛を想い起さざるを得ません。
ホセア書11章には、背き続けるイスラエルの民を、尚も愛され、その強すぎる愛の故に、自ら痛み、苦しまれる、神様の御姿が語られています。
そこで神様は、悲痛な嘆きを語られています。「ああ、イスラエルよ、お前を見捨てることができようか。私は激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」。
この「憐みに胸を焼かれる」、という言葉を、ある英語の聖書は、こう訳しています。
「My love for you is too strong」。私のあなたに対する愛は強すぎる、というのです。
イスラエルに対する愛が、強すぎるので、その強すぎる愛の故に、神様は苦しまれている。
主イエスは、この父なる神様の御心を、よくご存じでした。
ですから、先ず、この失われた神の民を呼び戻すことが、父から託された私の使命なのだ。
先ず神の民、イスラエルの救いの業がなされる。そして、その次に、全世界の民の救いの業が始まる。
この父なる神様のご計画のために、私は遣わされたのだ、と言っておられるのです。
だから先ず、そのことに集中する。今は、そのことに私の力のすべてを注ぐ。
ここでは、そのような、主イエスのお心が、語られているのだと思います。
この時主イエスは、愛に欠けていたのではありません。
そうではなくて、自分に背き続けるユダヤ人を、尚も愛し抜こうとされる思いで、その愛で、お心がいっぱいだったのです。
一見冷たいとも思えるような主イエスのお言葉にも拘らず、この婦人は諦めませんでした。
それどころか、主イエスと弟子たちの間に、割り込むようにして、この婦人は主イエスに近付きました。
そして、主イエスの前にひれ伏して叫びます。「主よ、どうかお助けください」。
主イエスの後について、叫んでいた婦人は、とうとう主イエスの前に回り込んで、その足元にひれ伏して祈ったのです。「主よ、どうかお助けください」。
イエス様、あなたには、この私の悲鳴が聞こえないのですか。あなたは、ユダヤ人の救いが先だとおっしゃいます。その通りかも知れません。
しかし、今、このように悲鳴を上げている、私の救い主でもあるのだ、とは言ってくださらないのですか。
私も「失われた羊」ではないのですか。そうです、私も、失われた羊なのです。「今、悩みのどん底にある者なのです。
私はあなた以外に、行くところはありません。どんなに退けられても、他のどこにも行くところはないのです。
この婦人の叫びに、とうとう主イエスは、婦人の方に振り向かれます。
しかし、振向いて、主イエスは何と言われたでしょうか。
主イエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」、と答えられました。
「子供たち」というのは、ユダヤ人のことです。「小犬」というのは、異邦人のことです。
今、私にとって、大切なことは、イスラエルの家にいる子供たちを養うことなのだ。小犬の養いは、その後のことなのだ。
そのように、主イエスは言われたのです。これは、明らかに、拒否の回答です。
婦人は、初めに主の沈黙に出会い、そしてその後で二回も、はっきりとした拒否の言葉を聞いたのです。
ここまではっきりとした拒否にあったら、普通なら、「もういい」と言って、この場を去ってしまっても不思議ではありません。
でも、驚いたことに、この婦人は、主イエスのこのお言葉を、そのまま受け入れたのです。
「こんな言葉は主イエスらしくない」とか、「それでも愛の人ですか」とか、「神様ってそんな方なのですか」とか、そういう非難がましいことは、一言も言わなかったのです。
その代わりにこう言ったのです。「主よ、ごもっともです」。
「はい、主よ、その通りです」、とこの婦人は言ったのです。
この婦人は言いました。「あなたは私の主です。その主のお言葉は、全く正しく、その通りです。
しかし、今、あなたは、小犬とおっしゃいましたね。野犬ではなく、家で飼われて、愛されている小犬と言われました。
そうです。私も、あなたの家の中に入れて頂いています。
あなたは、私を子どもに次ぐ存在として、ユダヤ人に次ぐ存在として、見ていて下さいます。
それなら、子どもが食べ飽きた後に、その食事の余り物で、小犬は養われる筈です。
犬のことまで考えて、あなたは、子どもの食事を、作られるのではありませんか。
あなたは、今は、ユダヤ人の救いのために働かれる、と言われました。それは、父なる神様のご計画ですから、当然のことでしょう。
しかし、そこから溢れ出る愛は、異邦人の私にも、注がれるのではないでしょうか。
私が、その恵みのおこぼれに、少しだけでも与ることは、許されないのでしょうか。
そのようなことさえ、許されないあなたではない筈です。
私は、あなたが、そのようお方ではないことを信じています。
あなたは、イスラエルの民の神だけではありません。私の神でもいて下さる筈です。」
この婦人は、主イエスの沈黙と拒否の中で、尚も失望することなく、主イエスの前にひれ伏して、その愛に信頼し、願い続けました。
このカナンの婦人の必死の願いに、主イエスは心を動かされました。
そして、こう仰いました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ、あなたの信仰は大きい」。
そして「あなたの願いどおりになるように」と言ってくださって、娘を癒してくださいました。
皆さん、私たちは、自分の信仰の小ささを、嘆くことが多いと思います。
この朝、そんな私たちの目の前に、このカナンの婦人の姿が映し出されます。
私たちも、このカナンの婦人のような信仰に生きることが許されています。
そのために、主は、この婦人の姿を私たちに、お示しくださっているのです。
この婦人の信仰の大きさとは、何であったのでしょうか。それは、この婦人が実に真剣に、実に熱心に祈った、ということです。
実に厳しく、主イエスに迫った、ということです。この婦人の、祈りの激しさが、主イエスを振り向かせ、主イエスのお心を動かしたのです。
主の沈黙と拒否の中で、それでもなお、主に頼るしかないことを知り、失望せずに、祈り続けた信仰。
主の沈黙と拒否の中にあっても、自分のことを小犬と呼んでくれた、一筋の主の愛の光を見逃さず、その愛にすがっていく信仰。
その信仰を、主は「あなたの信仰は大きい」と言って下さいました。
私たちは、そのような信仰に生きたいと願います。そのことを私たちの願いとして、共に歩んでいきたいと願います。