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過去の礼拝説教

「主イエスとは誰なのか」

2021年08月22日 聖書:マタイによる福音書 16:13~20

私が若い頃にヒットしたミュージカルに、「ジーザス クライスト スーパースター(Jesus Christ Superstar)」というロックオペラがありました。
50年も前のことですが、ニューヨークに勤務していた時、ブロードウェイの劇場で、何度もこのミュージカルを見ました。
そして、見るたびに新たな感動を覚えました。
このミュージカルの中で、テーマソングのように歌われていた曲に、「私は分からない、あの人が」という歌があります。
この歌の元々の題は、「I don’t know how to love him」です。直訳すれば「私は、彼をどのように愛したら良いか分からない」という意味です。
ミュージカルの中では、マグダラのマリアとイスカリオテのユダが、この曲を歌っています。
二人とも、人間としての主イエスを、理解できない、分からない、と言って悩むのです。
「私は、彼をどのように愛したら良いか分からない。どう向き合って良いか分からない。
彼のことは、どうしようもなく気になる。彼を愛さずにはおられない。
でも、どのように愛したらよいのか。私は、彼によってこんなにも変えられた。
彼はただ一人の男に過ぎないのに、私を恐れさせる。どうしたら良いのか。」 
このように、繰り返して歌われます。
特に主イエスを裏切ったユダが、自殺する直前に「私は分からない、あの人が」と絶叫するように歌う場面は強烈で、今でも鮮明に覚えています。
マグダラのマリアやイスカリオテのユダだけではありません。
主イエスに出会った人たちの多くは、「私は分からない、あの人が」と言って悩み、様々な名で主イエスを呼びました。
そして、それは、二千年経った今でも同じです。どうしてでしょうか。
それは、人間社会で用いられている、どんな名称でも、主イエスを完全に言い表すことが出来ないからです。
確かに、主イエスというお方は、どのように理解すればよいのか、とても難しい存在でした。
主イエスの周りには、いつも不思議な空気が満ちていました。
主イエスは、いつも御自分を低くせられて、卑しい僕の立場に立たれました。
でも、それにも拘らず、その気高い愛と品性の尊さは、内側からにじみ出て、自然に外に顕れていたのです。
ですから、人々は、主イエスに親しみを感じて、喜んで近づいて行きました。
しかしまた同時に、言いようのない聖なる畏れも、感じないではいられませんでした。
ですから、このお方を、どのように呼んで良いのか分からずに、戸惑っていたのです。
主イエスに対して、様々な考えがありました。今も尚、様々に言う人たちがいます。
しかし、大切なことは、世の人々が、どのように考え、どのように呼ぼうとも、私たち自身が、「主イエスとは、こういうお方なのだ」という、確かな信仰告白をしていくことなのです。
聖書が、どうしても伝えたいと願っていることは、この「主イエスを信じる」ということです。
主イエスが語られた御言葉や、主イエスがなされた御業を信じる、ということではなくて、「主イエスご自身が、神そのものであられる」、ということを信じるのです。
聖書は、そのことだけを語っているのです。
先週学んだ、ファリサイ派やサドカイ派の人たちは、自分たちにとって都合の良い神様の像を、勝手に造り上げて、それに合わない神様は、認めようとしませんでした。
しかし、それは、信仰ではありません。
信仰とは、主イエスがどういうお方であるかを、聖書が伝えるままに信じることなのです。
主イエスを、どのようなお方と呼ぶか。これは、信仰者にとって、決定的に重要なことです。
いつでも、どこでも、主イエスこそ、私の神、私の救い主である、と信じることが出来るか。
順風満帆で、得意絶頂の時にも、すべては、私の神、私の救い主である、主イエスの恵みであると、主イエスに感謝し、主イエスに栄光を帰すことが出来るかどうか。
或いは、逆境のどん底においても、尚も主イエスを救い主であると告白し、希望に生きることが出来るかどうか。そのことが、信仰生活における鍵なのです。
今朝の御言葉で、主イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。
「人の子」というのは、主イエスが、ご自分のことを仰る時に用いられた言葉です。
「人々は、この私を何者だと言っているか。」 この問いに、弟子たちは勇んで答えました。
弟子たちの答えの中に、三人の名前が出てきています。
最初にバプテスマのヨハネ、次にエリヤ、そしてエレミヤです。三人とも偉大な預言者です。
人々は、これらの預言者のイメージの中に、主イエスを見ることが出来ると考えたのです。
しかし、これらの預言者は、いずれも、約束されたメシア、救い主の先駆者に過ぎません。
どんなに高く評価されようとも、主イエス御自身を表すことは出来ません。
主イエスが、どのようなお方であるかを、部分的に表すことは出来たとしても、主イエスの本質を指し示すことは出来ないのです。
弟子たちの答えを聞いた後で、主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、と問われました。
あなた方は、これまで私と共に旅を続け、喜びも、悲しみも、苦しみも共にしてきた。
そのあなた方は、この私を、どういう存在だと見ているのか。主イエスは、そのように、弟子たちに、改めて聞かれたのです。
「人々は私を何者だと言っているか」。この問いに対しては、弟子たちは雄弁に語りました。
主イエスに対する、人々の様々な評価を、先を競って報告しました。
しかし、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた時、弟子たちは、一瞬たじろぎ、言葉を詰まらせました。
聖なる緊張感が、その場を覆いました。
他の人々が、私を、どのように言っているか。そのことは分かった。
ではあなた方は、この私を、どういう者だと思っているのか。他の人はどうであれ、あなたは、私を何者だと言うのか。
主イエスは、弟子たちに、そのように迫られました。
この主イエスの問いは、弟子たち一人一人に、そして私たち一人一人に向けられています。
ですから、その答えは、「私たち」ではなく、「私はあなたのことを、こう信じています」、と言わなければならないのです。
私たちは、それぞれ異なった道筋を通って、信仰を持つに至りました。
親に勧められて、夫に、また妻に勧められて、或いは学校の先生に勧められて、信仰を持つに至った方もおられます。その道筋は様々です。
でも、どのような道筋を辿ったにせよ、「あなたは、私のことを何者だと信じているのか」、と主イエスは、私たち一人一人に、問い掛けておられるのです。
親がこう言っている、夫や妻がこう言っている、先生がこう言っている。
そうではなくて、あなたは、私のことを、どういう者だと信じているのか、と問われているのです。
その問い掛けに、私たちは一人一人、自分の言葉で答えなくてはならないのです。
「主よ、私は、あなたが、神様だと信じています。救い主だと信じています」、と自分の口で答えなくてはならないのです。
信仰生活においては、私たちがどう生きるか、ということは、本質的なことではありません。
勿論、どう生きるかということは大切なことです。しかしそれが、第一のことではありません。
私たちが、主イエスを、どのようなお方だと信じているか。それが第一のことなのです。
自分がどのように生きるべきかではなく、主イエスを、どのようなお方だと信じているか。
これが第一のことなのです。すべてのことは、ここから始まるのです。
主は、「私はあなたの神だ」と言われて、手を差し伸べて下さいます。
その手を、しっかりと握り返して、「はいそうです。あなたは私の神です」と答えていく。それが信仰です。
主イエスに、「あなたは、私を何者だと言うのか」と問われて、弟子たちが、口籠っていた時、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」、と答えました。
メシアとは救い主のことです。このメシアのギリシア語訳がキリストです。
ペトロは、「あなたこそ生ける神の子、救い主キリストです」と、はっきりと言ったのです。
ここに、初めて、人間の言葉、人間の口をもって、ナザレの大工であるイエス様が、神の子であり、救い主であるという信仰告白が、明確に語られたのです。
この告白の中には、ペトロが、主イエスと出会って、それまでに経験した、すべてのことが、凝縮されています。
ペトロは、今まで、数々の奇跡を見て来ました。数々の御言葉を聴いて来ました。
それらすべてを振り返った時、このお方は、神様なのだ、救い主なのだと示されたのです。
勿論、この時ペトロは、主イエスが、どのような仕方で、人々を救ってくださるのか、まだ分かっていませんでした。
主イエスが、これから成し遂げようとされている、十字架と復活の救いの意味は、全く分かっていませんでした。
でも、このお方は神様なのだ。他に言いようがないお方なのだ、と示されたのです。
このペトロの告白を、主イエスは喜ばれて、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。
あなたにこれを示したのは、人間の力ではないと言われたのです。
人間の知恵によるのでもなければ、人間の経験によるのでもない、と言われたのです。
そうではなくて、聖霊の導きによるのだ。神様が働いてくださったのだ、と言われたのです。
父なる神様が与えてくださる、聖霊によらなければ、主イエスを本当に信じることは出来ないのです。
このことは、聖書が繰り返して、私たちに教えています。
例えば、第一コリント12:3には、このように書かれています。
「また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」。
主イエスが、救い主であることを信じることは、神様の導きによらなければ、できないことなのです。
私たちの知恵や経験によっては、主イエスを、救い主と信じることはできません。
聖霊の働きによって、私たちは初めて、二千年も前に、ローマの総督によって殺された、一介のナザレの大工が、私たちの救い主であることを、信じることが出来るのです。
考えてみれば、これほど不思議なことはありません。
何の縁もゆかりもない、大昔の一人のユダヤ人が、自分の人生を決定する。これは、まことに不思議なことです。
神様がなされたのでなければ、あり得ないことです。
ですから、主イエスはペトロに言われたのです。これは、あなたが、人間の力や人間の知識によって言えたことではなく、ただ神様の導きによって、言い得たことなのです。
そして主イエスは、「あなたという岩の上に、私の教会を建てる」、とペトロに言われました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロの信仰告白。
それを土台の岩として、その上に、私は、私の教会を建てる、と主イエスは言われたのです。
教会は、この岩の上に建てられています。ペトロと同じように、主イエスこそ私の神、私の救い主です、と信仰を告白する人々を、土台の岩として建てられているのです。
教会は、この信仰告白の岩の上に建っています。
この岩は、どんな問題や、悩みの中にあっても、私たちに、生き抜く力を得させてくれます。
「あなたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対して、「あなたは私の救い主、私の神です」と応える。この神様との活き活きとした交わり。
これが、教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのです。そして、この土台の岩は、どんな悩みや苦しみにも耐える岩なのです。
そのような岩の上に建てられた教会に対しては、「陰府の力も対抗できない」と、主イエスは言われました。
陰府の力とは、死の力と言い換えても良いと思います。
教会が、主イエスを、「生ける神の子、キリストです」と確かに告白する時、その教会には、死の力も対抗できないというのです。
恐ろしい死の力も、手出しできないのです。
「私はこの者たちの神だ。この者たちは私のものだ」、と主は言ってくださいます。
この主の御言葉に対しては、死の力も対抗できないのです。
死に打ち勝って復活された主イエスのものとされたなら、私たちも、死にも打ち勝つことができるからです。
死の力も手出しできない、命の力が満ちている所。それが、私たちの教会なのです。
主イエスは、ペトロに対して、更に言われました。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
ペトロは、そしてペトロに続く教会は、天国の門を開ける、鍵を持っているというのです。
死の力に打ち勝つことが出来る教会は、更に、天国の門をも開けることができるのです。
なぜなら、教会においてのみ、天国への道筋を、見出すことができるからです。
ですから、天国の鍵は、ペトロ個人に与えられたのではなく、教会に与えられたのです。
天国の鍵が与えられている教会の願い。それは、一人でも多くの人が、天国に入って頂くことです。
教会は、そして教会に生きる私たちは、そのことを切に願っています。
「シモン、あなたは幸いだ」。この主イエスのお言葉を、一人でも多くの人が聞くことができること。それが、私たちの願いなのです。
「あなたも、主イエスから、幸いだと言っていただいたのですね。本当に良かったですね」。
このような喜びの輪が、広がっていくこと。そして、その喜びの輪の中を、共に手を取り合って歩んで行くこと。それが、私たちの切なる願いなのです。
主イエスに対して、「あなたは私の神です。私の救い主です」、と喜びをもって告白し、主イエスから、「私はあなたの神だ。もうあなたは私のものだ」、という力強いお言葉を聴いていく。
そのような幸いの中を、共に歩んでいきたいと、心から願います。