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過去の礼拝説教

「主は今、ここにおられる」

2021年10月17日 聖書:マタイによる福音書 18:15~20

マタイによる福音書18章は、主イエスが、教会生活について語っておられる、唯一の箇所です。
ここには、教会に対する教えが、集中して語られています。
ですから、この18章のことを、「教会憲章」と呼んでいる人もいます。
では、この18章全体を貫くテーマとは何でしょうか。
それは先週の箇所で、主イエスが最後に語られた御言葉に記されています。
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この御言葉が、18章全体を貫くテーマです。
私たちが、教会生活をしていく中で、いつも覚えていなければならないことがある。
それは、教会の中の小さな者が、一人でも滅びることは、天の父なる神様の御心ではない、ということです。
このことを忘れてはいけない、と主イエスは言われたのです。
先週の御言葉では、百匹の羊の内、一匹が迷い出たという譬え話が語られていました。
それを知った羊飼いは、どんな犠牲を払ってでも、その一匹を捜しに行きます。
それが、私たちの神様なのです。一匹たりとも失いたくない。それが神様の御心なのです。
その羊の譬え話に続いて、今朝の御言葉で取り上げられているのは、罪の問題です。
但し、ここでの罪とは、神様に背を向けて生きるというような、心の中で犯す罪のことではありません。
具体的な行為に現れてくる罪のことです。
例えば、金銭面で教会や教会員に迷惑をかけるとか、言葉や暴力によって人を傷つけるとか、姦淫の罪を犯すとか、違法行為を行うとか、そういう目に見える形での罪を犯すことです。
もし教会の誰かが、そのような罪を犯したなら、教会は、それを放っておいてはいけない。
それを正しく取り上げて、適切に処置をしなければならない、と主イエスは言われたのです。
そうでなければ、罪を犯した人は、迷い出た羊のまま置き去られて、滅んでしまうのです。
そして、それは、神様の御心ではないのです。
しかし、教会の中における罪の問題というものは、取り上げるのが非常に難しい問題です。
教会では、罪について、抽象的に理解したり、論じたりすることはしますが、それを具体的に問うことは、滅多にしません。
また、教会は聖なる場所であるから、罪がある筈がない、という期待と言いますか、思い込みのようなものもあります。
ですから、具体的に罪の問題が起こると、どう対処していいか、戸惑ってしまうのです。
また、実際に、教会において罪の問題を取り上げると、信仰をもって間もない信者が、教会に幻滅して、教会から離れてしまうのではないか、という恐れも生まれます。
ですから、一般に教会は、罪の問題を具体的に取り上げるのに、不慣れなのです。
教会や教団の規則に、「戒規」という規定があります。戒めの規定と書く「戒規」です。
一番緩い処置が、忠告を与える「戒告」です。次に一定期間、聖餐に与ることを禁止する「陪餐停止」。
そして、一番重いのが「除名」です。
しかし、この戒規が、実際に適用されることは、殆どありません。
ですから、実際に、その規定を適用しなければならないような事態が起こった時、殆どの教会は、途方に暮れて悩みます。
しかし、そのように悩み、祈ることは、決して無駄ではありません。むしろ必要なことです。
ある教会で、3か月間の陪餐停止という処置を行ったことがあったそうです。
その戒規の対象者は、そのことを謙虚に受け止め、心から悔い改め、3か月の時を過ごしました。
教会も、その人のために、熱心に祈りました。
そして、3か月後、その人が聖餐に与った時、教会全体が大きな喜びに包まれたそうです。
それを見た、その教会の牧師は、戒規とは、その人を罰するためのものではなく、その人を生かすためのものであることを、改めて教えられたそうです。
15節で、主イエスは言われています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」
ここにある「忠告しなさい」という言葉を、「指摘しなさい」と訳している聖書もあります。
まず、罪を正しく指摘して、その上で、どうすべきかを教えてあげる、ということです。
その人の罪をはっきりと示して、和解しなさい、ということです。
それによって、あなたは、あなたの兄弟を取り戻すことができる。
迷い出そうになっている一人の人を、教会に引き戻すことができる。
一人の人を、何としてでも滅びから救い出したい、と願われている父なる神様の御心に、沿うことができる。
それが教会の使命なのだ、と主イエスは言われたのです。
15節に、「兄弟」という言葉が二度出てきています。原語では、二度とも「あなたの兄弟」、と書かれています。
罪を犯して迷っているのは、他の誰でもない、あなたの兄弟なのです。
そのあなたの兄弟に忠告して、あなたの兄弟を取り戻しなさい、と主は言っておられるのです。
主イエスが、ここで問題にしていることは、あなたの兄弟の罪によって、あなたがどれほど被害を受けたか、ということではありません。
私は、こんなに傷つけられた。だから、どのように償ってもらうか。
それが、ここで問題になっているのではありません。
そうではなくて、主イエスのお心が注がれているのは、罪を犯した、あなたの兄弟なのです。
罪によって、滅びようとしている、あなたの兄弟なのです。
そのあなたの兄弟が、滅んではいけないのです。
たとえ、教会員の全ての人が、あの人はもう救いようがない、と諦めてしまったとしても、神様は諦めておられません。
神様の御心は、その人が救われることなのです。
その人は、百匹の羊のうち、一匹だけ迷い出てしまうような、過ち多き人です。
でも、その人が、滅んでしまうことを、神様は、何としてでも防ぎたいのです。
考えて見れば、私たち一人ひとりも、迷っていました。滅びにさらされていたのです。
その私を、神様はどこまでも捜し求めてくださり、滅びの中から救い出してくださったのです。
その同じ神様が、あなたの兄弟をも、滅びから救い出したいと願っておられるのです。
滅びたら大変だから、すぐに行って忠告しなさい、と言っておられるのです。
皆さん、私たちが、兄弟に忠告できるのは、私たちが正しいからではありません。
そうではなくて、私たちも、主によって罪赦され、救い出された者であるからなのです。
キリストは、私のために、そして、この兄弟のためにも、死なれたのです。
そうであるなら、その人が、私のまことの兄弟になるために、その人のところに行って、罪を指摘しなければならないのです。
「あなたは、そのままでは滅びてしまう。でも、それは神様の御心ではない」、と忠告しなければならないのです。
その人の罪を、糾弾するのが目的ではありません。その人を、神様の恵みの中に、もう一度、招き入れるためです。
そして、もう一度、私の兄弟になってもらうためです。
主イエスは、そのことを、私たちに勧めておられるのです。
でも、面と向かって罪を指摘し、忠告することはとても難しいことです。
二人だけの場合は、特に難しいかもしれません。その人の反応が、直接、自分に帰って来るからです。
私も、牧師であっても、なかなか言うべきことが言えないことがあります。言うべきだと分かっていても、なかなか言えないことがあります。
なぜ言えないのでしょうか。
理由はただ一つです。私に、愛がないからです。愛が足りないから、言えないのです。
もし、本当に愛していたなら、言える筈です。「あなたは、そのままではいけない。あなたは滅んではいけない」、と言える筈です。
でも、それが言えないのは、愛が足りないからです。
ですから、言わなければならない時は、「主よ、どうか私に、勇気を与えて下さい」と祈るのではなく、「主よ、どうか私に、愛を満たして下さい」、と祈っています。
過ちを犯した人が出た場合、通常は、その人は、組織から除外されます。
学校であれば、退学処分になります。会社や役所であれば、懲戒免職になります。
でも教会は、その人を、追放して終わりにすることはしません。
なぜなら、教会は、人が集まって作る組織ではないからです。
教会は、主イエスによって呼び集められた者の集まりです。
ですから、主イエスと、一人一人の結びつきが、教会の基礎なのです。それが無ければ、教会は成り立ちません。
教会が教会であるためには、そこに主イエスがいて下さることが、絶対に必要なのです。
主イエスがおられないなら、何百人の人が集まっても、それだけでは教会にはなりません。
そのことを言い表しているのが20節です。『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。』
私たちがすべきことは、罪を犯した人を、追放するのではなく、主の前に連れて行くことです。
主が聞いてくださるのです。主が赦しを与えてくださるのです。
罪を犯した人と、忠告する人が、主の名によって集るなら、二人だけでもよいのです。
19節でも、「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」と、主は言われています。
ここでも二人です。
たとえ二人だけであっても、主の名によって集まり、罪の悔い改めがなされるなら、そこに主はおられ、その悔い改めを聞いてくださり、赦しを与えてくださるのです。
しかし、もしその人が、尚も主の前に心を開かないときには、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」、と主は言われました。
数が増えたのは、主のご臨在が、より確かになるためです。そして、それだけ、そこで語られる言葉が、より真実になるためです。
「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と勧められています。
そのように、兄弟愛をもって、段階を踏んで、一人の人を悔い改めに導くために、あらゆる努力をするように、勧められているのです。
しかし、もし教会の言葉にも聴き従わなかった時には、どうしたらよいでしょうか。
「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
この言葉は、そんなに頑なな人は、教会から除外しなさい、と言っているように聞こえます。でも、本当にそうなのでしょうか。
ここで、私たちは、主イエスが、絶えず異邦人や徴税人に対して、愛をもって、温かく接してこられたことを、想い起こさなければならないと思います。
主イエスは、異邦人や徴税人が、神様から断ち切られた、罪人と見做されていることに、お心を痛めておられました。
ですから、主イエスは、何度も言われています。「わたしは罪人や徴税人と、食事を共にするために来たのだ」。
主イエスは、異邦人や徴税人のような罪人と、最も近いところにご自身を置かれました。
そうであるなら、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」ということは、その人を、主イエスに最も近いところに、もう一度置くということではないでしょうか。
「主よ、あなたの御手にお委ね致します。どうぞ宜しくお願いいたします」、と主イエスの愛に委ねることではないでしょうか。
「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」ということは、教会から締め出す、ということではなくて、主イエスの恵みが、最も激しく注がれた徴税人と同じところに、その人を置くということだと思います。
兄弟の罪を正しく処置するために、教会は祈らざるを得ません。
心を合わせて、祈ることがどうしても必要なのです。ですから、19節でこう言われています。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。
ここで、「心を一つにして」と訳された元の言葉は「シュンフォネオー」という言葉です。
この言葉から、英語の「シンフォニー」という言葉が生まれました。
心を一つにするとは、心を合わせて、共に響き合うということなのです。私たちが心を一つにして祈る時、シンフォニーが響き合うのです。
オーケストラには、様々な楽器があります。しかし、それぞれの楽器が音を出すときに、それが一つの調和を持った、美しい響きとなります。
教会にも、様々な個性の人がいます。それでよいのです。茅ヶ崎恵泉教会に集る者が、皆一つの色に染まる必要はありません。
皆それぞれに、神様から与えられた個性、賜物に生きています。
それぞれの音色を持っているのです。しかし、心を一つにする時に、そこに美しいシンフォニーが響くのです。
そうであれば、私たちは、礼拝において、「茅ヶ崎恵泉教会交響楽」を演奏していることになります。
でも、それが、調和の取れた、美しいハーモニーとなるためには、一つの決まりごとがあります。
それは、「主イエスの名によって」集まり、祈るということです。
それぞれが奏でる響きは違っても、「主イエスの名によって」祈り、願うならば、茅ヶ崎恵泉教会交響楽団は、調和の取れた美しい演奏を奏でることが出来るのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」、と主は約束してくださいました。
「その中にいる」とは、「真ん中にいる」という意味です。「私はその真ん中にいる」と主は言われたのです。
誰に一番近く、誰から一番遠い、ということはないのです。真ん中というのは、誰からも等距離、誰にも一番近いところ、まさに、ど真ん中に主イエスはいてくださるのです。
しかも、いつも変わらずに、確かな存在として、いてくださるのです。その主イエスの存在に支えられて、今、私たちはここにあるのです。
主イエスは、私たちの交わりの中心に、いてくださいます。
私たちの、愛の結び目の真ん中に、いてくださるのです。
教会は、私たちの真ん中におられる主イエスによって、生かされている者の群れなのです。
その群れの一人とされている幸いを、心から感謝したいと思います。