「主の愛の大きさ」
2021年10月31日 聖書:マタイによる福音書 18:21~35
ある女性作家が幼い子どもを亡くしました。最愛の子どもを失って、その人は、言い様のない深い悲しみに覆われました。
そして、ああしてやればよかった、こうしてやればよかった、と悔やむ日々が続きました。
何年も、その子のことが、石の塊のように、心の底に重く沈んでいました。
ところが、それが、ある時、すーっと消えてなくなったそうです。
それは、何も特別のことがあった訳ではありません。
ある日、街角で、真っ赤に輝く、美しい夕焼けを見たのです。
まるでその日、初めて夕焼けを見るような思いがしたそうです。
自分が、悲しみの中に閉じ籠って、うなだれて、外の世界に対する目を閉じていた時にも、自分の外には、ずっと変わらずに、美しい夕焼けが広がっていた。
天地を創られた神様が、人が見ようと見まいと、何百年、何千年、何万年も、この美しい夕焼けを、地上に送り続けて下さっていた。
そうであるならば、幼い子どもの死も、この夕焼けのように、神様の美しい愛の御心の中にあるに違いない。
この思いが、理屈を超えて、心に迫って来たそうです。
そして、そこから、新しい歩みが始まったそうです。
今朝、私たちは、召天者記念礼拝をご一緒に献げています。
普段、教会に来られることが少ない方々も、天に召されたご家族を偲んで、ここに集まっておられます。
私たちは、この礼拝で、美しい夕焼けを見る訳ではありません。しかし、聖書の御言葉を聴きます。
私たちが、愛する人を失って、悲しみにうなだれていた時にも、神様は夕焼けのように、いえ、それよりももっと美しい御言葉を、私たちに与え続けて下さっていました。
そのことを想い起して、愛する人の死も、神様の愛の御心の中にあるということを、今朝ご一緒に、覚えたいと思います。
今は天におられる、私たちの愛する人たちは、夕焼けよりの美しい、聖書の御言葉を通して、神様の愛を知り、その愛の中を生かされ、地上のご生涯を全うされました。
神様は、今も、聖書を通して、遺された私たちに、ご自身の愛を、語って下さっています。
今朝、私たちは、その神様の御言葉を共に聴き、今は天におられる愛する人たちと、御言葉を通して、繋がっていきたいと思います。
今朝、私たちに与えられた御言葉は、マタイによる福音書18章21節~35節です。
この御言葉から、先に召された方々は、どのような恵みを与えられたのでしょうか。
この18章において、主イエスは、罪とその赦しについて、大変具体的に語っておられます。
主イエスは、「罪を犯した者は、赦されなければならない」、と言われました。
それを聞いたペトロが質問します。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
当時、ユダヤ教のラビたちは、「三度までは、赦してやりなさい」、と教えていました。
ペトロは、その世間の常識を超えて、「七回までですか」と尋ねました。
七回までと言えば、きっと主イエスから、誉めてもらえると思ったのかもしれません。
ところが主イエスは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。
七の七十倍までも赦しなさい、ということは490回まで赦しなさいということではありません。
無制限に赦しなさいということです。
ナチスに抵抗したために、終戦直前に処刑された、ボン・フェッファーというドイツの牧師は、今朝の御言葉からの説教の中で、このように語っています。
「七度ではない、ペトロよ、七度を七十倍するまでも赦しなさい、とイエスは言われる。
ペトロよ、数えてはならない。無限に赦すがよい。それが赦しなのだ。
そして、それがあなたに対する恵みなのであり、そうすることがあなたを自由にするのだ。
あなたが、なおも数えている限りは、実際には未だ一度も赦していないことを、あなたは気づかないのか。数えることから自由になれ。」
ボン・フェッファーは、「数えている限りは、実際には未だ一度も赦していないのだ。数えることから自由になれ。赦すということは、自分自身から解放されることなのだ。だから、それは、喜びである筈なのだ」、と言っています。
私たちは、そのことを、頭では分かっています。しかし、それを実行することが、どんなに困難なことであるかも、よく知っています。
無制限に赦すなど、私たちには、とても出来ない。どうしたら、そんなことが出来るようになるのだろうか。なぜ、主イエスは、こんなに難しいことをせよと、言われたのだろうか。
このような、呟きが、私たちの心に湧いてきます。
主イエスは、その理由を教えるために、23節以下の譬え話をされました。
不思議なことに、この譬えの中で、主イエスは、七回の七十倍まで赦すのはなぜか、ということを、直接的な形で、説明してはおられません。
では、ここで教えられていることは、どういうことなのでしょうか。
三回までしか赦さない人より、七回まで赦す人の方が偉い。七回の七十倍まで赦す人は、とても偉い。そのようなことを、言っているのではないことは明らかです。
主イエスは、ここで、赦しの我慢比べをしなさい、と言われているのではありません
主イエスが、この譬えを通して、私たちに教えようとされていることは、私たちが、神様に対して、とてつもなく大きな負債、罪を負っている、ということです。
あなたがたは、神様に、計り知れないほどの、大きな負い目を負っているのです。
まず、そのことを知りなさい、と言われているのです。
この譬えの中に、デナリオンとタラントンという、二種類のお金の単位が出てきます。
1デナリオンというお金は、当時の労働者の、一日分の労賃に相当する金額です。
今の日本で言えば、1万円位でしょうか。
そして、1タラントンは、6,000デナリオンです。6千日分の労賃に相当する金額です。
1デナリオンを1万円とすれば、1タラントンは6千万円になります。
この譬えの中で、家来が王様から借りたお金は、一万タラントンですから、6千億円という途方もなく大きな金額になります。
普通の人が一日も休まずに働き続けても、このお金を返すのに、16万4千年という、気が遠くなるような年月が掛かります。通常では絶対に返すことができない、膨大な金額です。
一方、家来が仲間に貸した金額は百デナリオンです。今のお金で、百万円位です。
これも、一般の人にとっては、決して小さいお金ではありません。
この百万円を赦すということは、自分がその百万円の損を引き受ける、ということです。
罪とは、どこかに消えて行ってしまう、というようなものではありません。
相手の人が、自分の罪を赦すと言ってくれたなら、それは、その人が、自分の罪の負債を、引き受けてくれたことなのです。
そうでなかったら、罪は赦されないのです。
百万円の罪を赦す、ということは、百万円の損を、自分が引き受けることなのです。
ですから、罪を赦すのは難しいのです。
主イエスは、私たちが、他人の罪を赦すことは難しいことを、よくご存知なのです。
よくご存知の上で、尚も赦しなさい、と言われているのです。
ここで問題になっていることは、金額の大きさです。
百万円は、決して小さい額ではありません。しかし、王様から借りた、6千億円という膨大な金額の、六十万分の一です。
百万円の損失を引き受けることは、決して易しいことではありません。
しかし、王様から借りた膨大な金額と比べた時、百万円は初めて赦せる金額になるのです。
現実には、一個人が、こんなに多額の借金をすることは、考えられません。
考えられるのは、その家来が、何か大失敗をして、王様に大きな損失を与えてしまった、というケースです。
自分の失敗によって、王様が膨大な負債を負ってしまった。
そういうことはあり得ると思います。
あなた方は、大失敗をして、王様に、6千億円の負債を負わせてしまったのだ、と主イエスは言われているのです。
このように、非現実的とも思われるような、巨額の借金を示すことによって、主イエスは、私たち一人ひとりが、神様に対して負っている、罪の負債の大きさを示そうとされたのです。
それは、私たちが持っているすべての物をもってしても、決して償い切れないものなのです。
でも、私たちは、この負債の事実を、神様によって示されるまで、気が付かないのです。
神様を知るというのは、こういうことです。
神様の愛は、自分の負い目の大きさを知ることなしには、本当に知ることはできないのです。
そして、この巨額の負債は、ただ一方的な神様の憐れみによって、無条件で赦されました。
人間の側には、赦されるべき理由は、全くなかったのです。
ただ、神様が「憐れに思って」借金を帳消しにしてくださったのです。
この「憐れに思って」という言葉は、「はらわた」と言う言葉に由来しています。
福音書の中では、主イエスと神様だけに、使われている言葉です。
罪の中で、どうしようもなくうごめいている人間を見られて、神様は、はらわたが痛むほどに、深い憐れみを覚えられたのです。
そして、すべての借金を帳消しにしてくださった、というのです。
でも、どうやって、そんなに大きな借金を、帳消しにされたのでしょうか。
その膨大な借金を、全て、ご自身の最愛の御子、イエス・キリストに負わせたのです。
主イエスに、全ての負債を引き受けさせたのです。
主イエスは、そのために、十字架にかかって、死んで下さいました。
家来は、神の御子の命という、とてつもなく大きな代償によって、負債を免除されたのです。
ところが、この家来は、百デナリオンの負債のある仲間を、赦すことが出来ませんでした。
自分が赦された額に比べれば、その六十万分の一の負債を、赦さなかったのです。
そこで、王である神様は、この家来のことを、「不届き者」と言って、牢に入れてしまいます。
一万タラントンという、巨額の負債を作っても、王様は家来を、「不届き者」とは言われませんでした。
しかし、その家来が、仲間を赦さなかったときに、王様は、彼を「不届き者」と言って、永遠に出られない牢に閉じ込めたのです。どうしてでしょうか?
主イエスは、このように語っておられます。
「自分が、どんなに大きな罪を赦されたかを思い出してみなさい。そうすれば、他の人を赦さないではいられなくなる筈です。
もし、あなたが「赦せない」というなら、それは自分の罪の大きさが分かっていないからです。自分が頂いた赦しの大きさを、分かっていないからです。
私の十字架が、どれほど大きな痛みであったか、分っていないからです。」
自分の罪の大きさを知らされ、それが無条件で赦されたことを示されたにも拘らず、その恵みの中を生きようとしない。
十字架の恵みに生きようとしないなら、もはや、あなたに救いの道はないではないか。
もし、私の十字架の価値を、本当に分かっているなら、あなたは、仲間の罪を赦さずにはいられない筈ではないか。
この譬えを通して、主イエスは、このように私たちに語っておられるのです。
うつ病に苦しんでいたある牧師夫人が、不思議な体験をされました。
その牧師夫人は、このように語っています。
「当時、私は、自分が世界で一番惨めで、一番かわいそうな人間だと思っていました。
しかし同じような悩みの中にいる人の、救いの証を聞いていた時、不思議な体験をしました。
ある場面が、頭の中にイメージされ、それが、まるで目の前に見えるかのように、活き活きと示されたのです。
そこには、天の父なる神様と、私がいて、その間に、イエス様がおられました。
そして、イエス様が、父なる神様に「この人のすべての罪のために、私が十字架にかかりました。どうかお赦し下さい」と頭を下げて言ってくださっているのです。
そして、父なる神様が「赦す」とおっしゃってくださったのです。洗礼を受けた時の感動が、よみがえってきました。
ところが、その次の瞬間、なぜか場面が変わり、イエス様の向こう側に、私がかつて傷つけた人たち、私が謝らなければならない人たちが立っているのです。
そして、その人たちに、イエス様が「私が、この人に代わって十字架にかかりましたから、この人が、あなたたちにしたことを赦してください」と言って、頭を下げておられるのです。
私は驚きました。あぁ、イエス様が、私に代わって、謝ってくださっている。もう、イエス様の十字架によって、解決されているんだ。
そう思うと、ホッとして、嬉しくて、肩の荷がすべて降りたような安心を得て、喜びがこみ上げてきました。
その時、今度は、十字架のイエス様が、私の方を向かれたのです。そして、イエス様の背後に、かつて私のことを傷つけ、私が赦せないと思っている人たちが立っているのです。
そして、イエス様が、私に向かって「あなたを傷つけた人たちに代わって、謝ります。辛かったでしょう。私が、十字架にかかりましたから、赦してください。」とおっしゃったのです。
私は、全身を貫かれたようなショックを覚えて、「赦します。赦します。赦せない自分を赦してください」と思わず叫びました。
「赦します」と言った時、それまで長い間、自分を縛っていたものから、解き放たれ、言いようのない平安の中に、自分が覆い包まれていくのを感じました。』
主イエスの巨大な赦しの渦。ひとたびこの愛の渦が生じたら、それは波紋となって、自然に広がっていきます。それは、広がらざるを得ないのです。
ある人が、これを「愛の波紋」と呼びました。主イエスの十字架の愛は、自然に広がっていく力を持っています。
この家来の過ちは、この愛の波紋を妨げ、崩してしまったことにあります。
折角、主イエスが、十字架という愛の渦によって、起こしてくださった愛の波紋を、私たちが崩してしまうなら、神様はどんなに悲しまれるでしょうか。
さて、主イエスは、「七の七十倍まで赦しなさい」、と言われました。このことに、もう一度思いを巡らせてみたいと思います。
私たちは、毎週礼拝で、過ぎ去った一週間に、思いと言葉と行いにおいて、神様の御心に背いて来たことを想い起こし、懺悔の祈りをささげます。
一体これは、どれ位の借金になるのでしょうか。
そして、その私たちの罪が、この礼拝において、すべて赦されるのです。
赦されているから、今、私たちは、聖なる主の御前に、ぬかずくことができるのです。
そして、そういうことを、私たちは、もうどれ位、繰り返してきたでしょうか。
毎週、日曜日毎に、これを繰り返してきました。年に52回です。
10年で520回です。主イエスは、七の七十倍まで赦しなさい、と言われました。490回です。
随分多いなぁ、と思われるでしょうか。でも私たちの中には、もう遥かにそれを超えて、千回も、二千回も赦されている方も、少なくないのではないでしょうか。
でも、神様は、赦し続けて下さるのです。
今朝、私たちは、先に召された方々を想い起して、礼拝を献げています。
先に召された方々は、そのような神様の赦しの中を、歩み続けられたのではないでしょうか。
一万タラントン、6千億円は、私たちが、神様に犯した罪の金額です。しかし、また、同時に、神様が、私たちに与えて下さった、赦しの金額です。十字架の赦しの金額です。
私はあなた方を赦すために、私の命を十字架に献げた。それは6千億円を遥かに上回る。
そうであれば、あなた方も、百デナリオンの負債を、赦し合う者となってもらいたい。
私が起こした、愛の波紋を、崩すのではなく、それを広げて行ってもらいたい。
主イエスは、今も、私たちにそう言っておられます。
今は天におられる方々も、その愛の波紋を広げる歩みを歩まれました。
私たちも、それに倣って、後に従って歩んで行きたいと、心から願います。