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柏牧師:過去の礼拝説教

「主の愛に触れた時」

2021年12月12日 聖書:マタイによる福音書 20:17~28

今朝の御言葉の初めに、主イエスご自身による、三回目の受難予告が記されています。
この三回目の受難予告は、前の二回に比べて、より詳しい内容となっています。
「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」、と主は言われました。
ここで初めて、十字架という言葉が、はっきりと語られています。
これまで、主イエスは、ただ「殺される」、としか言われていませんでした。
しかし、ここでは、はっきりと、十字架につけられ、神に呪われた罪人として殺される、ということを、明らかにされたのです。
しかも、ご自分が十字架につけられるために、「引き渡される」という言葉を、二回も使っておられます。
一体、誰によって、誰に引き渡されるのでしょうか。
2回目の19節の場合は、はっきりしています。
祭司長たちや律法学者たちが、主イエスを、異邦人に引き渡す、と語られています。
それでは、1回目の18節の場合はどうでしょうか。
そこでは、「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」、とだけ書かれています。
「引き渡される」と受け身で書かれています。
でも、誰によって引き渡されるかは、書かれていません。
一体誰が、主イエスを、祭司長たちに引き渡したのでしょうか。
ここで、私たちが、真っ先に思い浮かべるのはユダです。
ゲツセマネで、主エスが捕らえられた時に、その手引きをした、あのユダです。
原語の「引き渡す」という言葉は、「裏切る」という意味も持っています。
聖書では、全く同じ言葉が、「引き渡す」とも、「裏切る」とも訳されているのです。
そうであれば、私たちは、なお更、引き渡した主体は、ユダだと思うのではないでしょうか。
しかし、ある牧師は、引き渡した主体は、弟子たち全体である、と言っています
主イエスの目には、ユダの裏切りの姿も、三度も主イエスを否むペトロの姿も、主イエスを見捨てて、逃げ去る弟子たちの姿も、すべてはっきりと見えていた筈だ、というのです。
ですから、主イエスの、限りない孤独と絶望の悲しみが、そこにあった。
主イエスは、この時、既に、十字架の上での、孤独の苦しみを、苦しんでおられた。
それでも尚、そのような弟子たちを、主イエスは愛され、期待し、これに望みを置かれる。
そのような、主イエスの愛の切なさが、ここで語られているのだ、というのです。
これも興味深い、心惹かれる解釈です。
しかし、私たちは、ここで、もう少し注意深く、御言葉を味わってみたいと思います。
主イエスは、続けて、「そして、人の子は、三日目に復活する」、と言われました。
実は、この「復活する」という言葉は、原語では受け身で書かれています。
「そして、三日目に、彼は復活させられる」、と書かれているのです。
では、一体、誰によって、復活させられるのでしょうか。
言うまでもなく、父なる神様によってです。
父なる神様の他に、そのようなことができるお方は、おられません。
復活させられる、という言葉の主体が、父なる神様であるなら、引き渡される、という言葉の主体も、父なる神様である。
そのように考えることが、許されるのではないでしょうか。
引き渡され、復活させられる、と言われた時、主イエスは、実は、この言葉の主体は、父なる神様だと、言われているのではないでしょうか。
これらは、すべて、父なる神様のご計画なのだ、と言われているのではないでしょうか。
私は、この箇所を、何度も黙想している内に、主イエスは、このことを、弟子たちに伝えようとされているのではないかと、いう思いに導かれました。
これから、ご自身の身に起きようとしている出来事。
引き渡され、十字架につけられて殺され、三日目に復活させられる。
これらの出来事は、すべて、父なる神様が、起こされる出来事なのだ。
父なる神様が、ご計画されておられる出来事なのだ。
主イエスは、そのことを、弟子たちに、伝えようとされておられるのではないでしょうか。
主イエスが、十字架につけられて殺される。この出来事は、間違いなく、人間が起こした出来事です。
ユダヤ人の指導者たちが、主イエスのことを妬み、群衆は期待していたメシアとは違う主イエスに失望し、弟子たちも弱さの故に主イエスを見捨てて逃げた。
そういう人間の罪が重なって、主イエスの十字架の死、という出来事が起きたのです。
でも、そういう人間の罪が引き起こした出来事を用いられて、実は、神様が、ご自分のご計画を進めて行かれたのです。
一体、どのようなご計画でしょうか。人間の罪を赦すためのご計画です。
神様は、人間の罪を赦すために、人間の罪を用いられて、ご計画を進められたのです。
その出来事こそが、これから私がかかる十字架なのだ、と主イエスは言われているのです。
父なる神様は、御子イエス様に言われています。
「愛するイエスよ、人間の罪の責任を、罪ある人間ではなくて、あなたに取ってもらいたい。
この人たちの罪の責任を、あなたが取って、十字架にかかって欲しい。
あなたが、これらの人たちに代わって、私の罰を受けて欲しい。」
十字架の出来事とは、私たち人間の罪の結果です。それは間違いないことです。
でも一方では、そういう人間を赦すために、神様が起こされた救いの出来事でもあるのです。
これは、本当に驚くような出来事です。一体、誰が、このようなことを想像したでしょうか。
でも、間違いなく、そのことが起きて、あなた方は、罪から救われるのだ、と主イエスは言われたのです。
主イエスは、やがて教会の基礎を築くことになる、12人の弟子たちに、そのことを、しっかりと覚えておいてもらいたい、と願われました。
十字架と復活の出来事。それは、これから、あなた方が、実際に目撃することだ。
そのことの意味を、よく分かって欲しい。
なぜなら、この出来事の上に、教会は立つからだ、と言われたのです。
教会は、他のことを信じているのではありません。ただこのことを信じているのです。
神様が、この出来事を起こして下さって、私たちを救い出して下さった。
教会は、このことだけを信じているのです。そのことだけに、より頼んでいるのです。
それが、私たち教会なのです。
この出来事に続いて、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネが、母と共に主イエスのもとに来て、何かを願おうとした、と書かれています。
ヤコブとヨハネは、ペトロと共に、12弟子の中でも、中心的な役割を果たしてきた兄弟です。
いつも、主イエスの最も身近にいた者たちです。
ですから、何も母親に頼らなくても、自分たちだけで、主イエスに直接、願えたと思います。
ここだけを読むと、この母親は、息子を溺愛する、モンスターペアレントのように思えます。
しかし、この母親は、サロメという名前であって、いつも主イエスと一緒に旅をして、主イエスを献身的に支えた、婦人団の一人であると、考えられています。
ゴルゴダの十字架の死に至るまで、最後まで、主イエスから離れることがなかった人です。
その母親が、息子と一緒に主イエスのところに来て、ひれ伏して何かを願おうとしました。
この母親は、自分からは願い事を言い出しません。
自分の願いの厚かましさを、わきまえていたのだと思います。
「何が望みか」と、主イエスに問われて、初めてこの母親は、正直に言いました。
「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
先々週、ご一緒に聴きました御言葉の中で、主イエスは、弟子たちに、「あなた方は、イスラエルの十二部族を治めることになる」、と言われました。
これは、新しいイスラエル、つまり新しい神の民である教会を、あなた方は、治めることになる、ということを意味していました。
しかし、それを聞いた弟子たちは、誤解しました。
主イエスが、この世に、御自分のご支配を打ち立てられる時に、弟子たちが、それぞれの領域を任せられることになる。そのように捉えたのです。
それならば、どうか、私の息子たちを、あなたに最も近いところに、置いてやってください。
母親は、このようにお願いしたのです。勿論、そこには大きな過ちがあります。
では、その過ちを、主イエスはどのように、ご覧になっていたのでしょうか。
主イエスはお答えになりました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
大変興味深いことに、ここで主イエスは、この母親に向かって、叱ってはおられません。
「そんな欲深い、厚かましい願い事をするな」、と怒っておられるのではないのです。
また、この母親や二人の息子たちの、無理解を嘆いておられる訳でもありません。
「良いだろう。あなたの言う通りにしてあげよう。あなたの願いを聞いてあげよう。
けれども、あなた方が願っていることが、実はどういうことなのか、あなた方は、本当に分かっているのか。
私の最も近くにいるとは、どういうことなのか。あなたがたは良く分かっていないようだ。
それは、私の飲む杯を飲む、ということなのだよ。」
主イエスは、そのように言われたのです。
ここで、主イエスが語られた「杯」とは、何を意味するのでしょうか。
教会生活を、長く続けておられる方々は、既に気付いておられると思います。
主イエスは、十字架にかかる前の晩に、このヤコブ、ヨハネそしてペトロの3人を連れて、ゲツセマネに行かれて、祈られました。
汗が血の滴りのようになるまでに、夜を徹して必死に祈られました。
マタイによる福音書に、その時の祈りが記されています。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。
この祈りは、三回も繰り返された、と書かれています。
主イエスが三度も、「この杯は勘弁してください」と祈られた。そのような杯なのです。
私自身も断りたくなるような杯を、あなた方は飲むことが出来るのか、と問われたのです。
これは、ただの「苦しみの杯」、というだけではありません。もっと厳しい杯なのです。
エレミヤ書が、何度も語っているように、この杯は神様の怒りの杯なのです。
神様の怒りを、まともに飲まなければいけない、という苦しみを表しているのです。
主イエスが言われた、「私が飲もうとしている杯」とは、まさにこの杯のことなのです。
主イエスは、人間の罪に対する、神様の怒りを、その身に、まともに受けようとされているのです。
神様の怒りを、お一人で負おうとしておられるのです。
ですから、ここで主イエスは、「あなた方も、神様の怒りに触れることが出来るのか。神様の怒りに触れて、苦しむことが出来るのか」、と問われたのです。
言い換えれば、「あなた方は、私と同じように死ねるのか」、と問われたのです。
ですから、ある人は、このように言っています。「ゼベダイの子らの母は、知らずして、自分の息子たちの死を願っている。そして、それを主は、受け入れられたのだ」。
ヤコブもヨハネも、「できます」と答えています。
何も知らないで、出来もしないのに、「できます」と答えたのです。
ところが、ヤコブもヨハネも、この後、主イエスが「杯」を、実際にお飲みになった時には、不安と恐怖に駆られて、逃げ出してしまいました。
でも、主イエスは、そのことをご存知の上で、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」、と言われました。これはどういう意味でしょうか。
主イエスは、この二人の、ずっと先の姿までも、見ておられたのです。
この後、復活の主イエスに出遭って、全く造り変えられた二人は、この杯を飲むことを、恐れない者とされていったのです。
ヤコブは、ヘロデ・アグリッパ王によって、エルサレムで殉教の死を遂げたと伝えられています。十二使徒の中で、最初の殉教者になったのです。
ヨハネは、十二使徒の中で、ただ一人殉教せず、かなり長生きをしたと伝えられています。
しかし、その生涯は、苦難と迫害の連続でした。そして最後は、パトモス島に流刑にされ、そこで生涯を閉じたと伝えられています。
主イエスは、彼らの、このような生涯の歩みを、見ておられたのだと思います。
ですから、「そうだね、確かに、あなたがたは、わたしの杯を飲むことになるね」、と言われたのです。
さて、主イエスと、ヤコブ、ヨハネ、彼らの母とのやり取りを聞いて、他の十人の弟子たちが、腹を立てたと、御言葉は記しています。
自分たちを、出し抜こうとした二人に、憤慨したというのです。
そこで、主イエスは、こう言われました。
「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。
あなた方の中で、と言われていますが、これは、教会において、と言い換えてもよいと思います。或いは、神様のご支配の中で、と言ってもよいと思います。
教会において、神様のご支配の中で、真実に大きな者とは、自分を小さくして、人に仕える喜びを知る者なのだ、と主イエスは言われているのです。
主イエスは、弟子たちに、お互いに仕え合うことを求められました。
それは、ご自身が、仕える者として、この世に来られたからです。
主イエスは、このように言われています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
主イエスが、御自分の死を、「身代金」だと説明されたのは、ここが最初で最後です。
一般的な「贖い」という言葉とは、違う言葉なのです。
皆さん、ここで、ご自分が、人質として捕らえられていることを、想像してみてください。
テロリストに突然襲われて、囚われの身になっているのです。
もし、自分の家族が、身代金を払ってくれなければ、殺されてしまいます。
ところが、犯人が要求しているのは、法外な身代金なのです。
自分の家族には、とても工面できそうもない、多額のお金が要求されているのです。
もうだめだ、私は殺される。そのように覚悟した時に、その巨額の身代金を、誰かが、支払ってくれた。
しかも、お金ではとても支払いきれないので、その人は、自分の命と引き換えに、私を解放してくれた。諦めていた命が救われた。
私が、それだけの価値があるので、その人が命と引き換えに、私を解放してくれたのではないのです。
私は、その人のこと理解することもできないほど、愚かな者なのです。
いつも的はずれなことばかりして、的はずれな生き方をし続けている者なのです。
それにもかかわらず、その人は身代金を払ってくれた。私は、それによって、自由にされた。
もし、そのようなことが起きたとしたら、どうでしょうか。
私たちは、その人のために、生きなければなりません。
もし、この無限の愛に触れたなら、それと同じ愛に、私たちは駆り立てられていく筈です。
それと同じ愛へと、押し出されていく筈です。そうせずにはいられない筈です。
主イエスは言われました。
「あなたがたは互いに仕え合いなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
「同じように」と言われたのです。主イスが、十字架で、私たちのための身代金となられたのと、同じように、あなたがたも、お互いに自分の命を、十字架の上で献げる思いをもって、仕え合い、愛し合いなさい、と言われているのです。
これは、驚くべき言葉です。「とんでもない。とてもそんなことはできません」と、私たちは思います。しかし、主イエスは言われています。
「あなたがたにはできる。私と同じように仕え合い、愛し合うことができる。もし私が払った身代金の大きさを、本当に理解しているなら、もし私の愛に真実に触れたなら、出来る筈だ。」
主がそう言われるからには、私たちはそのお言葉を信じて、一歩踏み出すしかありません。
主が、私のために支払ってくださった身代金の大きさを、本当に分からせていただきたいと心から願います。
主の真実の愛に、もっと深く、触れさせていただきたいと願います。
その時、あなた方は、私と同じように、仕え合い、愛し合うことができる、という主の約束を信じて、小さな一歩を踏み出したいと思います。