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過去の礼拝説教

「ペトロの涙、主の涙、父の涙」

2021年04月02日 聖書:ルカによる福音書 22:54~62、23:34

今朝は、受難日礼拝をご一緒にささげています。
主イエスが十字架にかかられた、この日、多くの涙が流されました。
ゴルゴダへ向かう悲しみの道、ヴィア・ドロローサを、十字架を背負って歩まれる主イエス。
その主イエスを見て、多くの婦人たちが涙を流しました。
また、十字架の下では、主イエスの母マリアやマグダラのマリアなど、ガリラヤから従ってきた婦人たちが、涙を流して嘆き悲しみました。
この日流された多くの涙の中で、今朝は、特に、ペトロの涙と、主イエスご自身の涙と、父なる神様の涙。
この三つの涙に込められた、深い意味を探っていきたいと思います。
先程読んでいただいた、ルカによる福音書 22:54~62は、ペトロが、主イエスのことを、三度も、「あんな人知らない」と、否んだ出来事を、記しています。
ペトロは、数々の失敗を、犯しています。でも、主イエスのことを、三度も知らないと言った、あの夜の出来事は、その中でも、最も深刻な失敗です。
悔やんでも悔み切れない、まさに、痛恨の出来事です。
ペトロの、主イエス否認の出来事は、四つの福音書の、すべてに記されています。
四つの福音書のすべてに、書かれている出来事は、実は、それほど多くはありません。
教会にとって、極めて大切な事柄だけです。
考えてみてください。この出来事は、ペトロしか知らない、出来事の筈です。
それなのに、なぜそれが、四つの福音書のすべてに、書かれているのでしょうか。
それは、ペトロが、この出来事を、何度も、何度も、教会の中で、語って聞かせたからです。
普通であれば、こんなに弱くて、みっともない、自分の姿は、隠しておきたい、と思う筈です。
しかし、ペトロは、それを、繰り返して、語ったのです。なぜでしょうか。
それは、この出来事を通して、主イエスの無限の愛が、豊かに語られているからです。
主イエスは、鶏が鳴く前に、ペトロが三度も、「あんな人知らない」と、主イエスのことを否認する、と予告されました。
そして、予告した通りの出来事が、起きたのです。
61節の御言葉は、鶏が鳴いた時、主イエスが振り向かれて、ペトロを見詰められたと言っています。
この時の主イエスの眼差しは、どんな眼差しであったのでしょうか。二つの見方があります。
一つは、それは、ペトロの弱さを裁くような、厳しい眼差しであった、という見方です。
もう一つは、それは、ペトロを赦す、慈しみの眼差しであった、という見方です。
一体、どちらの眼差しであったのでしょうか。その答えは、明らかだと思います。
ペトロを赦す、慈しみの眼差しであったに、違いないと思います。
なぜなら、その眼差しに触れて、ペトロは激しく泣いた、と書かれているからです。
もし、裁きの眼差しであれば、ペトロは、激しく泣くことはなかったと思います。
むしろペトロは、無言の内に、抗議の眼差しを、主イエスに、返したかもしれません。
イエス様、あなたは、私を裁くけれど、私たちの期待を裏切った、あなたにも、非があるのではないでしょうか。
あなたは、もっと、賢く振舞えたはずです。すべてを捨てて、あなたに従ってきた、私たちの期待を、あなたは裏切ったのです。
もし裁きの眼差しであったなら、ペトロはこのような抗議の眼差しを、返したかもしれません。
しかし、この時の、主イエスの眼差しは、裁きの眼差しでは、ありませんでした。
裏切りを、無条件で赦す、赦しの眼差しでした。弱いペトロを、覆い包んでしまう、慈しみの眼差しでした。
離れていこうとするペトロを、捕らえて離さない、無限の愛の眼差しでした。
弱い自分を、赦してくださり、慈しみの眼差しをもって、尚も捕らえてくださる。
この主イエスの愛に、迫られたからこそ、ペトロは、激しく泣いたのです。
「あんな人知らない」と言って、ペトロは、主イエスを否認しました。
しかし、主イエスは、ペトロに「私も、お前なんか知らない」とは、決して言われませんでした。
「私のことを知らない」という、弱さを持ったペトロよ。私は、そのお前の弱さをよく知っている。
それにも拘らず、お前は私の大切な弟子なのだ。私は、そういう弱いお前を、愛している。
私は、そういうお前を、救うために来たのだ。
私が、ここで、嘲られ、唾かけられ、鞭打たれているのは、そのためなのだ。
弱いお前を、救うために、私は、これから、十字架にかかるのだ。
主イエスの眼差しは、そう語りかけていました。この眼差しに、ペトロは支えられたのです。
ペトロは、自分がこんなにも弱い人間であったことを、この時、初めて知りました。
その弱い自分を、どこまでも赦し、どこまでも慈しんでくださる、主の愛に触れて、泣きました。
主イエスは、私たちの弱さを、既に、知っていてくださるお方です。私たちの弱さは、既に主イエスによって、知られている弱さなのです。
私たちが、自分の弱さに気付くことは、大切なことです。しかし、それ以上に大切なことは、その弱さを、主イエスが、既に、知っていてくださるということです。
主イエスは、私たちの弱さを、私たちが気付く前から、既にご存知なのです。
そして、その弱い私たちのために、主イエスは、十字架についてくださったのです。
ペトロは晩年、いつも祈りの中で、泣いていたと、伝えられています。
それは、二つの涙であったそうです。
一つは、主イエスを、裏切ってしまったことに対する、深い懺悔の涙です。これは、思い出す度に、身を切られるような、辛い失敗の出来事です。
もう一つは、そのような駄目な自分を、主が赦してくださり、用いて下さっていることへの感謝の涙です。このペトロの涙は、私たちの涙でもあります。
私たちも、主イエスを、裏切り続けています。その度に、懺悔の涙を流します。
しかし、そんな私たちを、主は、決して見捨てることなく、十字架で新たな血を流して、赦し続けて下さいます。
その主イエスの愛に触れる時、感謝の涙を流さざるを得ないのです。
次は、主イエスの涙です。
福音書には、主イエスが涙を流された場面が、いくつか記されています。
主イエスは、愛する友、ラザロの死に際して、悲しみの涙を流されました。
また、滅びに向かっているエルサレムの町を眺めて、嘆きの涙を流されました。
しかし、最も深い涙は、十字架の上で流された涙です。
ルカによる福音書は、主イエスが十字架につけられた場面を、極めて簡潔に記しています。
「そこで人々はイエスを十字架につけた」、と記しているだけです。
主イエスが、どんなに苦まれたか。そういうことは、一切記していません。
まるで感情を、押し殺すかのように、淡々と、事実を述べているだけです。何故でしょうか。
恐らく、ルカは、このことについては、何の説明も要らない、と思ったのだと思います。
主イエスが、十字架についてくださった。それがすべてなのだ。
人間の言葉による説明は要らない。いや、どんな人間の言葉も、この神の御業の深みを、言い尽くすことはできない。
だから、簡潔に「人々はイエスを十字架につけた」とだけ記し、その人々のために、主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った。それだけを記しています。
ルカは、主イエスを十字架につけたのは、ローマの兵士でもない、ピラトでもない、律法学者や祭司たちでもない。それは「人々」であった、と記しています。
主イエスの周りにいた全ての人々が,主イエスを十字架につけたのだ、と言っているのです。
その中には、弱いペトロも含まれています。そして、私たちも含まれています。
そのすべての人々に対して、主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。
では、ここに出てくる人々は、この時、何をしたのでしょうか。
ここで、ルカが繰り返して語っていることは、人々が、主イエスを嘲った、ということです。
民衆も、議員たちも、ローマの兵士も、そして主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人までもが、主イエスを嘲りました。
しかも、この嘲りの言葉は、すべて同じ内容を持っていました。
「お前は、キリストではないか。お前は、多くの病人を癒したではないか。それなのに、自分を救うことができないのか」。そう言って嘲ったのです。
他人を救っても、自分を救うことができない。そんな者が、救い主と言えるのか。
常識で考えれば、この人たちの嘲りは、尤もだと思います。
もし、私が、これらの人々の中にいたなら、同じことを言ったかもしれません。
ですから、この御言葉を読む人は、誰でも、この「人々」の中に、自分もいる。
この人々とは、自分のことだ、という思いに導かれます。
そして、主イエスが、「父よ、彼らを、お赦しください」と言われた、その「彼ら」の中に、私も含まれている。
これは、私に対する執り成しの祈りだ、という思いに導かれるのです。
そしてこの私のために、主が十字架にかかられた。それが分かった時、信仰が生まれます。
主イエスは、救い主であるにも拘らず、無力にも、十字架につけられたのではありません。
そうではなくて、まことの救い主であるからこそ、十字架についてくださったのです。
ルカは、この場面を簡潔に記しました。主イエスの感情や表情については、何も書いていません。
しかし、私は、この時、主イエスは、涙を流しておられたと信じています。
涙ながらに、私たちのために、執り成しの祈りを、祈ってくださったと、私は信じています。
あなた方を救うために、十字架にかかっている私を見て、嘲っている人々よ。
あなた方は、自分の罪にも気付かずに、滅びへと向かっている。
しかし、あなた方は、滅んではならない。救われなくてはならない。そのために、私は、ここで、命をささげているのだ。
どうか、この私の愛に気付いて、立ち返って欲しい。
そして、父なる神様の赦しを得て欲しい。これが私の、切なる願いなのだ。
この思いを込めて、主イエスは、涙を流しながら、執り成しの祈りを、献げて下さったのです。
そして、この主イエスの涙が、父なる神様の涙と相俟って、一つに溶け合って、私たちに注がれ、私たちの救いを成し遂げて下さったのです。
では、父なる神様の涙は、どのような涙であったのでしょうか。それを知る鍵は、あのゲツセマネの祈りにあります。
主イエスは、ゲツセマネでの激しい祈りの中で、父なる神様に、このように願われました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。
主イエスは、出来ることなら、十字架の死を避けたいと、父なる神様に訴えておられます。
この時、主イエスは、十字架における肉体的な苦しみを、恐れておられたのでしょうか。
確かに、十字架は、極限の苦しみの末に、死に至らしめる、最も残酷な刑罰でした。
しかし、この時、主イエスが、恐れられたのは、肉体的な苦しみではなかったのです。
肉体的な苦しみを超える、もっと大きな、もっと深い苦しみがあったのです。
それは、私たちの代りに、神に呪われ、神に見捨てられることに対する、恐れ、苦しみです。
主イエスにとって、耐え難い苦しみとは、最愛の父と、引き裂かれることでした。
主イエスは、父なる神様と、本当に一つでした。
父なる神様と一つであること。それが、主イエスの最大の喜びであり、支えであり、すべてでした。父なる神様と一つであれば、どんなことにも耐えられる。
しかし、ここでは、主イエスは、恐れておられます。
最愛の父なる神様に敵対する者として、父なる神様から呪われ、断罪され、打ち捨てられることを恐れておられるのです。
神なき世界の恐ろしさを、主イエスは、誰よりもよくご存知だったのです。
最愛の父から、完全に見捨てられることの、悲しみ、苦しみ。神なき世界の暗黒に、打ち捨てられることへの恐れ。
それこそが、主イエスにとって、最も恐るべき苦しみであったのです。
ですから、主イエスは祈られたのです。必死になって、血の汗を流して、祈られたのです。
そして、激しい祈りの末に、十字架の死を、引き受けてくださいました。
もし、この時、主イエスが、十字架の死を拒否されたなら、私たちが、神に見捨てられる苦しみを、味合わなければならなかったのです。
しかし、本来、私たちが飲むべき苦い杯を、主イエスは、選び取ってくださいました。
聖書には、この主イエスの祈りに、父なる神様が答えられたとは、書かれていません。
父なる神様は、この主イエスの必死の祈りに、一言も答えておられません。終始無言です。
父なる神様の答えは、「沈黙」でした。父なる神様であっても、この時、語る言葉を持っておられなかったのです。
それほどまでに、父なる神様もまた、苦しまれたのです。悶え、苦しまれたのです。
最愛の独り子を、御自分の敵として、滅ぼさなければならない。
最愛の独り子、主イエスと引き裂かれる苦しみ。父なる神様もまた、この時、同じ苦しみを味わっておられたのです。
祈り、叫び、訴える独り子の声を聞きつつ、答える言葉を持っておられなかったのです。
じっと、ただ、沈黙される他なかったのです。
恐らく、この時、父なる神様も、涙を流されていたと思います。
そして、主イエスは、その父なる神様の涙を、ご覧になられたのです。それが、父なる神様の答えであると、受け取られたのです。
背き続ける人間を、尚も愛し続け、何とかして救いたいと願われる御心。
そのためには、人間に代わって、最愛の独り子が、彼らの罪を背負って、十字架に死ぬ他はない、と決心された御心。
そのために涙を流された父の御心を、主イエスは受け取られたのです。
父なる神様と、御子イエス様が、深い沈黙の中で、涙を流し合う。
その涙によって、私たちの救いが、成し遂げられたのです。
主イエスの十字架の血潮は父の涙でもあるのです。
この大いなる愛。計り知れない愛を、心から感謝していくお互いでありたいと思います。