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過去の礼拝説教

「傷ついた葦を折らない方」

2021年04月11日 聖書:マタイによる福音書 12:9~21

ある安息日の朝、お腹が空いていた主イエスの弟子たちは、安息日礼拝へと向かう途中で、麦の穂を摘んで食べました。
それを見たファリサイ派の人たちは、弟子たちの行動は、安息日の掟に反する、と批判しました。それに対して、主イエスは、丁寧に答えられました。
そのお言葉に、ファリサイ派の人たちは、何の反論もできず、悔しい思いを味わいました。
その論争の後、主イエスは、礼拝を守るために、会堂にお入りになりました。
悔しい思いを強いられたファリサイ派の人たちは、何とその礼拝の場で罠を仕掛けました。
場所は会堂の中です。しかも、安息日礼拝という、聖なる集会の場です。
しかしそこには、礼拝の喜びも安息もありませんでした。ただ敵意だけが、その場を支配していました。
その会堂に、一人の片手が萎えた人がいました。
恐らく、主イエスを訴える口実を作るために、ファリサイ派の人たちが、この人を、敢えてこの場に呼び寄せたのだと思います。
今朝の御言葉で、問題となっているのは、安息日における、病の癒しです。
当時の掟では、命に係わる状況でない限り、安息日には病を癒してはならない、とされていました。
ファリサイ派の人々は、主イエスが、安息日にも人を癒すことを知っていました。
ですから、主イエスを陥れるために、この片手の萎えた人に、主イエスの目を止めさせて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」、と質問したのです。
そして、主イエスが、どうされるかを、じっと見ていました。
恐らく、その場には、異様な緊張感が、漂っていたと思います。
この人の場合、手の麻痺は命に係わることではなく、翌日まで待てるものであることは明らかでした。
ですから、主イエスは、日が暮れて安息日が過ぎてから、もう一度、私の所に来なさい、と仰ってもよかったのです。
日没になって、安息日が終われば、この人を癒すことは、何の問題もなくなるからです。
しかし主イエスは、そうされませんでした。それが、神様の御心ではなかったからです。
そして、主イエスは、まるで、ファリサイ派の人々の罠に、自らはまるかのように、敢えて、この人の手を癒してしまわれました。
この時、会堂には、たくさんの人がいたでしょう。しかし、神様の御前で、一緒に礼拝を献げていながら、この片手の萎えた人の癒しを祈る人は、誰もいなかったのです。
「どうか、この人の手を癒して下さい」と、主イエスに願った人は、一人もいなかったのです。
そこにあったのは、主イエスが、この人をどう扱うかという好奇心と、主イエスを、罠にかけて陥れたい、という思惑だけでした。
主イエス以外には、その人に対する、神様の憐れみを祈る人は、一人もいなかったのです。
神様が望んでおられた、まことの安息日を、味わっている人は、誰もいなかったのです。
そして癒された後も、その癒しの御業を、喜び称えるよりも、かえって主イエスへの殺意を、高めていったのです。
それらすべてをご承知の上で、主イエスは、癒しをなさいました。
その人のために、ここで、命を賭けられたのです。主イエスは、分かって欲しかったのです。
安息日とは、あなた方が、真実に神様の愛の中に、憩う日なのだ。そして、あなた方の傍らにいる、仲間の痛みに、心を寄せる日なのだ。そのことを分かって欲しかったのです。
マルコやルカの福音書には、この時、主イエスは、この人を会堂の真ん中に立たせた、と書かれています。
恐らく、この人は、会堂の隅で、うずくまっていたのだと思います。
ファリサイ派の考えでは、体を損なうことは、神様の祝福から落ちることだとされていました。
体の不自由な人は、神様の祝福から、最も遠いところにいる、と見做されていたのです。
ですから、片手が萎えた人も、肩身の狭い思いを持って、会堂の片隅に座っていました。
主イエスは、その人を、会堂の真ん中へと、導かれたのです。
「あなたのいる場所はそこではない、ここなのだ」と言われて、真ん中へと招かれたのです。
私たちは、礼拝において、会堂の真ん中にご臨在される、主イエスを見上げています。
しかし、そのとき、主イエスの傍らには、時には、片手の萎えた人が、時には、病気で苦しむ人が、或いは、困難の中にある人が、主イエスに招かれて、共に立っているのです。
そのことを大切にし、心に覚えながら、礼拝を守りたいと思います。
主イエスは、その人を、真ん中に招き寄せて、言われました。
こういう人こそが、安息日の礼拝で、真ん中に座るべき人なのだ、と言われたのです。
安息日には、このような人こそ、真っ先に救われるべきなのだ、と言われたのです。
また、このような人の救いが、真剣に祈られていないなら、安息日礼拝は、神様の御心に適ったものとはならないのだと、言われたのです。
そして、主イエスは、ファリサイ派の人々に、譬え話をもって、問い掛けられました。
「あなたがたのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」
この譬えを通して、主イエスは、神様が、この片手の萎えた人を、どのように見ておられるかを、教えておられます。
この譬えの中の人は、一匹の羊を持っています。たった一匹です。
たくさん持っている訳ではないのです。一匹を失えば、全てを失ってしまうのです。
その大切な羊が、穴に落ちてしまいました。当然、羊は鳴いて、助けを呼びます。
その羊の、助けを呼ぶ鳴き声を聞いて、あなた方は、翌日まで待てるか、と主イエスは問われたのです。
あなた方が、本当にその羊を愛していたなら、次の日まで待ちなさい、とは言えない筈だ。
直ぐにでも引き上げて、その羊を胸に抱きしめる筈だ。
神様は、その羊よりも、はるかに大きな愛をもって、この人を見ておられるのだ。
だから、神様は待てない。そして、私も待てない。
長く耐えて来た、この人の苦しみを思えば、更にもう一日待てとは言えない。
だから私は、この人を癒すのだ。主イエスはそう言われて、この人を癒してしまわれました。
ファリサイ派の人たちにとっては、この片手の萎えた人は、主イエスを陥れるための、材料に過ぎませんでした。
しかし、主イエスは、この人を、そのような存在として、見てはおられませんでした。
たった一匹の、大切な羊に注ぐよりも、はるかに大きな愛をもって、この人を見ていて下さったのです。
ですから主イエスは、これは罠だと分かっていても、この人を癒されました。
もし癒せば、自分の命が狙われることが分かっていても、この人を癒してしまわれました。
それが神様の御心なのだ。神様とは、そういうお方なのだ、と主イエスは言われたのです。
主イエスはそう言われて、更に大勢の群衆の病気を癒されました。
静かに、目立たないように、愛の御業を、ひたすらに為されて行かれたのです。
福音書を書いていたマタイは、この主イエスのお姿を想い起した時、思わずここで、賛美歌を歌い出しました。
命を懸けてまで、ひたすらに人々を愛された、主イエスの御姿を想い起しているうちに、賛美せざるを得なくなってしまったのです。
18節以下の御言葉は、イザヤ書42章からの引用ですが、マタイによる、主イエスへの賛美の言葉となっています。
主イエスは、父なる神様に選ばれたお方であり、父なる神様の御心に適ったお方なのだ。
異邦人に正義を知らせるお方なのだ、と思わず賛美したのです。
正義そのものである、このお方は、争うことをされない。叫ぶこともされない、というのです。
この世において、正義を語る人は、大勢います。そして、正義を語る人は、争うことが好きなのです。叫ぶことが好きなのです。争ったり、大声で叫ぶことが多いのです。
なぜ、正義を語る者が、争うのでしょうか。それは、自分が正しいと思い込んでいるからです。
一方、争っている相手の方も、自分が正しいと思っています。
どちらも、自分が正しいと思い込んでいるのです。だから争いになるのです。
かつて、この教会の「恵みの集い」」にも、講師として来て下さった、フォトジャーナリストの桃井和馬さんは、多くの戦場を駆け巡って、貴重な写真を撮り続けられました。
その桃井さんが、こんなことを言っています。「正義の反対は悪だと思っている人が多いが、正義の反対は悪ではない。正義の反対は正義なのです。」
桃井さんが言っているように、双方が正義を振りかざして、正義のためと称して争う。
そういう戦いが絶えません。しかし、これは、まことの正義ではありません。
なぜ、人は、人を殺すことができるのでしょうか。自分は正しいと思っているからです。
正義のためには、多少の犠牲は、構わないと思うからです。
しかし、今朝の御言葉が言っている、主イエスの正義は、ちょっと違います。
主イエスがもたらしてくださる正義は、争わず、叫ばず、その声を聞く者は、大通りにはいないというのです。
そして、こう続きます。「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」 
これが主イエスの正義だというのです。
人間の正義は他人を裁きます。争います。叫びます。多少の犠牲も構わないと言います。
しかし、主イエスの正義は、一人の小さな人をも、その御手の中に、覆い包んでくださるのです。
愛してくださるのです。傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、というのです。
直ぐにでも折れてしまいそうな、傷ついた葦。使い物にならないような、傷ついた葦。
でも、主イエスは、そんな傷ついた葦を、決して折らないのです。
少し風が吹けば、あっという間に消えてしまいそうな、小さなローソクの火。
でも主イエスは、その火を、決して消されないのです。
弱い葦の傷が癒えるのを、じっと待っていてくださるのです。
消えかかったローソクの火が、再び輝きを取り戻すまで、待っていてくださるのです。
主イエスは、小さな命、小さな心を、決して無視されないのです。どうしてでしょうか。
主イエスの正義には、愛があるからです。慈しみがあるからです。祈りがあるからです。
主イエスにとって、愛のない正義、慈しみのない正義、祈りのない正義はあり得ないのです。
ですから、異邦人たちは、このお方の中に、望みを見出すのです。
私たち自身も、傷ついた葦や、くすぶる灯心のようになる時があります。
為すべきことや、進むべき道が分からず、思い悩むときがあります。
大きな困難の前にして、ただ茫然と立ちすくむ時があります。
しかし主イエスは、私たちが、再び立ち上がり、再び輝きだすのを、待っていてくださいます。
忍耐をもって、じっと待っていてくださいます。主イエスとは、そのようなお方なのです。
さて、ここで、視点を変えて、この片手の萎えた人に、注目してみたいと思います。
主イエスは、この人に「手を伸ばしなさい」、と言われました。この時、大勢の人の視線が、この人に注がれました。
ここで、癒されるということは、安息日の掟を破る行為となる。
そのことを、この人も知っていました。手を伸ばすことは、主イエスによる、安息日の掟破りの、手伝いをすることになる。
そうすれば、自分も非難されるだろう。
そんな中で、この人は、勇気ある一歩を踏み出しました。手を伸ばしたのです。
そしてその時、この人は、主イエスの恵みの世界に、招き入れられました。
実は、私たちも、片手の萎えた者なのです。
片方の手は大丈夫です。
でも、もう片方の手は、弱さや、汚れや、卑しさを握り締めていて、真っ直ぐに伸ばすことができないでいます。
ですから、いつも隠しています。そして、普段は片方の手だけで、生きています。
しかし主イエスは、その萎えた片方の手を、私の方に伸ばしてごらんと言われているのです。
インドのある孤児院に、道端で餓死しかかっていた男の子が運ばれてきました。
孤児院には食べ物がいっぱいあって、もう何の心配もいりません。
不思議なことに、その男の子は、いつも左手をギュッと握り締めていて、決して開きません。
スタッフの人たちが心配して、その子がぐっすり眠っている時に、その左手をこじ開けました。
すると中には、干からびた小さな肉片があったのです。
その子は、いざとなった時は、この肉を食べようと思って、決して手放さなかったのです。
周りには食べ物が一杯あって、何の心配もいらないのに、その手を開かなかったのです。
これは、私たちの姿です。神様は、私たちのすべてをご存知です。
それなのに、私たちは、自分の弱さや、汚れや、卑しさを、神様にさえ隠そうとします。
それらを、片方の手に握り締めて、神様にさえ見せないようにしています。
多くの人に愛されている讃美歌、「慈しみ深い、友なるイエスは」の1節の歌詞に、「悩み苦しみを 隠さず述べて」、とあります。
この部分は、以前の讃美歌では、「心の嘆きを 包まず述べて」、となっていました。
主イエスは言われています。あなたは、自分の悩み苦しみを、自分で覆い包んでしまっている。
でも、その悩み苦しみを、包まずに述べて良いのだ。
あなたの萎えた方の手を、私に差し伸べなさい。
あなたが、自分の手で握りしめて、隠しているものを、私に包まず、打ち明けなさい。
自分でも見ることが怖い。自分でも許せない。自分でも認めたくない。だから隠している。
神様にも、見せたくないと思っている。それらを私に打ち明けなさい。
あなたの心の内を、私に開いて見せなさい。
私は、それを受け入れ、あなたと共に、それを担って行こう。私が、それを担ってあげよう。
主イエスは、そう言って下さっているのです。
この主イエスの恵みに委ねて、勇気をもって、手を伸ばしていく者でありたいと思います。
そして、主の祝福を、思い切りいただく者となりたいと思います。
そのことを、主イエスご自身が、一番喜んでくださるのです。