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過去の礼拝説教

「我が家を神の言葉で満たそう」

2021年05月02日 聖書:マタイによる福音書 12:38~45

テレビのサスペンスドラマのクライマックスは、しばしばこのような展開になります。
犯人が、「そんなに私を疑うなら、証拠を見せてみろ」、とうそぶく。
すると、思ってもみなかった証拠を突きつけられて、犯人がうろたえる。
この場合、証拠を示すことは、事件を解決する正しい行為です。
しかし、今朝の御言葉で、主イエスは、証拠、ここではしるしと言っていますが、しるしを求めることは、よこしまだと言っておられます。
よこしまで、神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがる、と言われています。
裁判においては、しるしを求めることは、正しい行為です。
しかし、愛の世界においては、しるしを求めることは、よこしまな行為なのです。
証拠がなければ信じない、というのであれば、愛の世界は成り立ちません。
愛しているならしるしを見せろ、と言われて、しるしを見せたなら、愛は深まるどころか、色あせてしまいます。その時、信頼に基づく愛は、失われてしまうのです。
親が、子供から、「お父さん、僕を愛しているなら、その証拠として小遣いを増やして欲しい」、と言われたなら、親としては、何とも寂しい思いに、覆われるのではないでしょうか。
夫婦の間でも同じだと思います、絶えず、夫としての愛のしるし、或いは、妻としての愛のしるしを、示し続けなければならない、としたらどうでしょうか。
もう、しるしを求め合うことを止めて、もっと、信頼し合おうではないか。
もっと愛し合おうではないか、という気持ちに、導かれるのではないでしょうか。
しるしを求めるということは、愛と信頼が欠けているからだ、と気付くのではないでしょうか。
復活の主イエスは、戸惑うトマスに、十字架で傷ついた手を示して、言われました。
「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。」
信じるということは、見ないで信じることです。見た時には、もはや信じる必要は無くなります。
ただ確認するだけになります。
ですから、しるしを見て、初めて信じるというのは、実は、信じることではないのです。
律法学者やファリサイ派の人たちは、主イエスが、神の国をもたらすメシアであることの、確かなしるしを見せて欲しい、と詰め寄りました。
それに対して、主イエスは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と、はっきりと拒否されました。
ある人が、「信じて欲しければ証拠を見せろ」と言ったなら、それは、「私は、あなたを信じるつもりはありません」、と言ったことと同じことだ、と言っています。
ここで、律法学者やファリサイ派の人たちも、主イエスに対して、「あなたを信じるつもりはありません」、と言っているのです。
主イエスに、「私の心には、あなたをお入れする部屋はありません」、と言っているのです。
主イエスといえども、部屋が無ければ、入ることはできません。
ですから、主イエスは、この人たちに、しるしを与えることを、拒否されました。
神様からのしるしは、人間の要求によって、与えられるものではなく、神様の自由なご意志によってのみ、与えられるのだ、ということを、はっきりと示されたのです。
ここに、キリスト教と、新興宗教との、根本的な違いがあります。
多くの新興宗教は、これでもか、これでもかと、様々なしるしを示します。勿論、それらのしるしは、全て、こじつけで、まやかしです。でも、それらを、もっともらしく強調します。
そして、人々は、そのような、まやかしのしるしに、そそのかされてしまうのです。
教会に対しても、「神の存在を証明しろ」と、言いに来る人がいます。
賀川豊彦の『死線を超えて』という本の中に、こんな話があります。
ある時、酔っ払いが賀川豊彦の所に来て、「神を見せてくれ。そうしたら信じる」と言いました。
賀川は答えます、「よし、神を見せてあげよう。しかし神は私にとって最も大切なものだから、そう簡単には見せられない。もし君が一番大切なものを見せてくれたら、私も君に神を見せてあげよう。君にとって一番大切なものは何かね」。
「そりゃー、先生、命だよ」。「では、それを見せてくれ」。
その酔っ払いは、自分の背広の胸の辺りを叩いて、「これが命だ」と言いました。
「いや君、それは服だ」、と賀川が言うと、その人は服を脱いで、自分の胸を叩いて、「それじゃー、これが命だ」と言いました。「いや、それは君の胸だよ。命はどこにあるのかね」。
「先生、命は確かに在るけど、見せることはできないよ」、とその人が言うと、賀川は「神も同じように、確かに存在するが、見せることはできないお方なのだよ」と答えたそうです。
ファリサイ派の人たちは、この酔っ払いよりも、たちが悪いと思います。
なぜなら、彼らは、主イエスの数々の奇跡を見ていたからです。
また、群集が、「権威ある教えだ」と言った、主イエスの御言葉も聞いていました。
既に、しるしは十分に与えられていたのです。それにも拘らず、尚もしるしを求めました。
つまり、彼らの気に入るような、しるしを求めたのです。
もし、自分を納得させるようなしるしを見せれば、信じてやろう、というのです。
自分からは、一歩も踏み出さず、神様の方から出て来い、という姿勢です。
これは、十字架の主イエスに対して、「十字架から降りてみろ。そうすれば信じよう」、と言った群集の姿と同じです。
しかし、これは、私たちも、犯しやすい過ちであるかもしれません。
私たちも、神様の語られる御声に、謙虚に耳を傾けることをせずに、自分が勝手にイメージする神様を、求めてしまいがちです。自分の願う神様の御業を、求めてしまいがちです。
そして、もっと、神様らしい証拠を示してください。そうすれば、もっと信じることができます。
そのように呟くことが、あるのではないでしょうか。
しかし、そのような時こそ、言葉にならない、切なる呻きをもって、今も語り掛けられる、主の御声に耳を傾けたいと思います。
今も生きて働かれておられる主に、しっかりと目を向けていく者でありたい、と願わされます。
主イエスは、心から信じたいと求めない限り、しるしは与えられない、と言われました。
そして、与えられる唯一のしるしは、ヨナのしるしだけである、と言われたのです。
ヨナは、旧約聖書に出てくる預言者です。ある時、ヨナは、神様から、敵の国の都である、ニネベに行くように命じられます。
しかしヨナは、その命令に従おうとせず、反対の方角に向かって、船出してしまいます。
ところが、神様が嵐を起こしたため、海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれてしまいます。
そして、その魚の腹の中で、三日三晩を過ごしました。
主イエスは、このヨナの物語を通して、ご自分が十字架につけられて、殺され、墓に入れられ、三日目に復活されることを、示されたのです。
主イエスがメシアであることは、十字架と復活の出来事によってしか、明らかにされないのだ、と言われたのです。
人々を、まことの救いに導くのは、十字架にかけられ、三日目に復活するメシアなのだ。
だから、これ以外には、メシアについてのしるしは与えられない、と言われたのです。
ヨナは、大きな魚の腹の中から、神様によって救い出されて、ニネベの町に行きました。
そして、ニネベの町の人々の罪が、とても大きいので、主なる神様が怒っておられる。
だから、この町は、あと四十日で滅びる、という神様の御言葉を告げたのです。
ヨナは、何か特別の奇跡を行なったわけではなくて、ただ御言葉を告げただけです。
ニネベの人たちも、ヨナに、しるしを見せろとは、言わなかったのです。
しかし、ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて、皆が、悔い改めました。
ファリサイ派の人たちは、自分たちは、ニネベの人たちのような罪人ではない、と思っていました。
でも主イエスは、彼らに言われました。あなた方は、ヨナにまさる者である、この私が来て、神の国の福音を語り、数々の業を示したにも拘らず、悔い改めることをしなかった。
だから、悔い改めて、神に立ち帰ったニネベの人々が、あなた方を裁くことになるのだ。
続いて42節で、旧約聖書のもう一つの出来事が、語られました。
「南の国の女王」についての話です。これは「シェバの女王」と呼ばれている人のことです。
彼女は、ソロモンの素晴らしい知恵を伝え聞き、地の果てからはるばる会いに来たのです。
そして、ソロモンの知恵を示され、驚き恐れ、このような知恵を授けた神様に、謙遜な思いを抱いたのです。
主イエスは言われました。しかし、ここに、ソロモンにまさる者、この私がいるではないか。
あなた方は、この私の言葉を聞いているのに、驚きも、恐れもせず、謙遜にもならず、かえって高慢な思いを募らせている。
だから、裁きの日には、シェバの女王は、あなた方を裁く者となるのだ、と主イエスは言われたのです。
南の国の女王も、ニネベの人々も、イスラエルの民ではない、異邦人です。
ところが主イエスは、この人々が、神様の民であるイスラエルを、裁く者となる、と仰ったのです。その理由はただ一つです。
彼らは、ソロモンの知恵を示され、またヨナの説教を聞いて、それを受け入れ、信じました。
しかし、イスラエルの人々は、主イエスの言葉を聞き、その御業を体験しても、信じようとしなかったのです。自分が気に入るしるしでなければ、信じないと言ったのです。
主イエスは、「ここに、ソロモンにまさるものがある」、と仰いました。
主イエスこそ、ソロモンの知恵に、遥かに優る知恵を、お持ちのお方なのです。
また、「ここに、ヨナにまさるものがある」、とも仰いました。
主イエスこそ、ヨナの説教にまさって、神様の御言葉を、伝えるお方なのです。
そのように、主イエスが、ヨナにまさる説教を語り、ソロモンの知恵にまさる知恵を示しているのに、悔い改めようとせず、その御言葉を信じて、受け入れようとしないのです。
だから、ニネベの人々や、南の国の女王という、異邦人たちが、あなた方を裁く者となる、と主イエスは言われたのです。
続いて語られているのは、主イエスによって追い出された、汚れた霊が、休む場所を探して、砂漠をうろついた挙句、場所が見つからないので、元の家に戻って来る、という話です。
悪霊は、「出て来たわが家に戻ろう」、と言っています。悪霊にとって、私たち、人間こそが「わが家」なのです。最もくつろげる、安心できる場所なのです。
ですから、一旦は追い出されても、いつかは戻って来よう、と狙っているのです。
主イエスは、「あなた方は、汚れた霊にとって、居心地のよいわが家になってはいないか」、と問い掛けておられます。
私たちは、悪霊が「わが家」と呼んで、喜んで住むような家に、なってはいないでしょうか。
神様は、私たちを、悪霊が住むための家として、お造りになったのではありません。
私たちを、聖なる霊が住むための、聖霊の宮として、造って下さったのです。
それなのに、もし私たちが、聖霊の宮ではなく、悪霊に「わが家」と呼ばれるようになっているのなら、神様は、どんなに悲しまれるでしょうか。
洗礼を受けて教会員になって、熱心に教会生活を送っていた人が、いつしか教会に来なくなってしまう、ということがよくあります。
一度、主イエスの力によって、自分をきれいに掃除して頂いたのに、その後、信仰から離れてしまう。一旦は、主イエスのことを、心に迎え入れたのに、いつの間にか、主イエスがいなくなってしまう。空き家になってしまう。
そうすると、前よりも、もっと悪くなってしまう、と主イエスは言われているのです。
一旦は、主イエスの御力によって、自分をきれいに掃除して頂いた。そして、主イエスに、そこに入っていただいた。神の言葉で、心を満たして頂いた。
ところが、いつの間にか、その家が、空き家になっている。
おられるべき主イエスが、おられない。心に満ちていた神の言葉が、消えてしまっている。
そうすると、あっという間に、悪霊に満たされてしまう。そして、最初の状態よりも悪くなってしまう、というのです。
汚れた霊が戻って来ると、元の家は、きれいに掃除され、整えられていました。
それで、「こんな良い所があるなら」ということで、「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」のです。
悪霊が追放された後に、神様による新しい支配がなされないなら、その人の心の状態は、空き家同然となってしまいます。
しかし、新しい主人を迎える用意は、すっかり整っているのです。
そこで、一旦は追放された悪霊が、更に悪い仲間たちを引き連れて、戻ってきてしまう。
「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」、という事が起きるのです。
一体、何がいけないのでしょうか。空き家になっている、ということが、いけないのです。
では、そうならないためには、どうすればよいのでしょうか。
答えはただ一つです。いつも主イエスに、この家に住んでいただくことです。
大切なことは、自分という家に、主イエスをお迎えすることです。いつも、主イエスに、私たちの家の主人と、なっていただくことです。
イエス様、私たちの心は、ベツレヘムの家畜小屋のように汚れています。けれども、どうかお入りください、とお願いするのです。主イエスは、喜んで入って来て下さいます。
新会堂も同じです。きれいに整えられた新会堂が完成しても、それが空き家であっては、直ぐに悪霊の住み家となってしまいます。
新会堂に、主エスが主人として、しっかりといてくださり、御言葉で満たされていなければ、ここは神の家とはなりません。
悪霊が、喜んで住み着く新会堂ではなく、主イエスを、しっかりとお迎えする、新会堂とするために、ご一緒に、祈りつつ歩んでまいりましょう。