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過去の礼拝説教

「聖霊の恵みに生かされる喜び」

2021年05月23日 聖書:使徒言行録 19:1~7

今朝、私たちは、ペンテコステ礼拝をささげています。
ペンテコステとは、「50番目」という意味です。
どこから数えて50番目かと言いますと、イースターの日曜日から数えて50日目がペンテコステなのです。
その日に、エルサレムの、とある家の2階に集まっていた弟子たちに聖霊が降り、その日から教会活動が、力強く始まったのです。
それまで、ユダヤ人の目を恐れて、ひっそりと隠れていた弟子たちが、その時から、力に溢れて、大胆に福音を語り出したのです。
そして、厳しい迫害をものともせずに、福音宣教の御業に命を懸けていったのです。
このように、キリスト教信仰の鍵は、聖霊を受けることにあります。
なぜ、聖霊を受けることが、それほど大切なのでしょうか。
それは、使徒パウロが、コリントの信徒への手紙一の12章3節で言っているように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」からです。
聖霊を受けなければ、誰も、2千年前に十字架刑で処刑された、一人の哀れな男を、自分の救い主として受け入れ、その人に生涯を委ねていくことなどできないのです。
神が人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって、人間の罪を贖ってくださった。
そして、復活されて、天の父なる神様の御許に、帰って行かれた。
その十字架の贖いによって、自分は罪の中から救い出されて、永遠の命を与えられた。
このことを、真正面から受け入れ、まともに信じていくのが、キリスト教信仰です。
しかし、これは、考えてみれば、不思議なことです。
2千年も前に、遠く離れたユダヤの地に生きた、見ず知らずの男を、命がけで信じていく。
顔を見たこともなく、その声を聴いたこともない、遠い過去の人物に、自分の人生を賭けていく。
人間の常識で考えれば、そんなことは考えられません。
人間の力を超える力。聖霊が働いて下さらなければ、そんなことを信じることはできません。
ですから、クリスチャンを自認しながらも、このことを、信じていない人たちがいます。
そういう人たちは、クリスチャンらしき人ではあっても、クリスチャンではありません。
パウロが訪れた、エフェソの町にも、そういうクリスチャンらしき人々がいました。
今朝の御言葉の1節にある、「何人かの弟子」、と言われている人たちがそうでした。
では、彼らには、何が欠けていたのでしょうか。
彼らは、伝道者アポロに導かれて、主イエスを信じた人たちでした。
アポロは、アレキサンドリアの出身で、聖書に詳しく、雄弁な伝道者でした。
彼は、各地で主イエスを力強く宣べ伝えていました。そのアポロが、エフェソに来て、主イエスについて、会堂で熱心に語りました。
その話をたまたま聴いていたのが、パウロの最大の理解者であり、また支援者でもあった、アキラとプリスキラの夫婦でした。
パウロの説教によって、正しい信仰を養ってきたこの夫婦は、アポロの説教には、何か足りないものがあると、直感的に気付きました。
それで、アポロを個人的に招いて、パウロから教えられた、主イエスの救いの真理を、丁寧に教えたのです。
アポロは、この二人によって自分の欠けに気づかされ、伝道者として更に整えられました。
アポロが、コリントへ去った後、入れ違いに、パウロがエフェソに来ました。
そこで、パウロは、アポロによって信仰に導かれた「何人かの弟子」に、福音を語りました。
しかし、どうも、彼らの信仰と嚙み合わないものを感じました。
彼らの信仰に、何か大切なものが、欠けていることに、気が付いたのです。
そして、この人たちは、未だ、聖霊を受けていないのではないか、と気づいたのです。
そこで、パウロは、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」、と尋ねました。
すると、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えたのです。
この人々の信仰は、聖霊を受けていない、信仰だったのです。
このようなことを聞いて、皆さんは、落ち着かない気持ちに、なられているかもしれません。
果たして、私たちの信仰はどうだろうか。聖霊を受けている信仰なのだろうか。
そもそも、聖霊を受けている信仰とは、どのような信仰なのだろうか。
そのような思いに迫られて、小さな不安を、覚えておられるかも知れません。
私たちは、使徒信条において、「我は聖霊を信ず」、と告白しています。
しかし、「あなたは、その聖霊を、受けていますか」と、改めて問われたらどうでしょうか。
「聖霊を受けた、という体験はしていません」、と答える人が、多いのではないでしょうか。
ということは、私たちの信仰も、エフェソの人々と、余り変わらないということなのでしょうか。
「聖霊を受けていますか」。これは、私たちにとっても、見過ごしにできない、問いかけです。
「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」。そう答えた人たちに、パウロは、少し角度を変えて、問い直しました。「それなら、どんなバプテスマを受けたのですか」。
この事から分かることは、聖霊を受けているか、ということは、どんなバプテスマを受けたか、ということと、密接に結びついている、ということです。
「どんなバプテスマを受けたのか」。このパウロの問いを直訳すると、「あなた方は、何の中に洗礼されたのか」、となります。
「洗礼する」という言葉は、元々は「どっぷりと浸す」、という意味です。
ですから言い換えれば、「あなた方は、誰の中へどっぷりと浸されたのですか」となります。
「ヨハネの洗礼を受ける」とは、「ヨハネの中にどっぷりと浸される」、ということです。
そして、「イエスの名による洗礼を受ける」とは、「主イエスの中に、どっぷりと浸される」、ということになります。
エフェソの人々は、「私たちは、ヨハネの中にどっぷりと浸されたのです」、と答えました。
誰の中へどっぷりと浸されるか。それは、その人の生き方を、決定づける出来事です。
ヨハネの中へ、どっぷりと浸されるならば、ヨハネの信仰や教えが、その人の生き方を、決定づけます。では、ヨハネが教えたこととは、何だったのでしょうか。
それは、迫ってくる神の怒りを免れるために、悔い改めて、禁欲的な生き方をしなさい、ということでした。パウロが、エフェソで出会った人々は、そのような信仰に生きていました。
ですから、パウロは、心を込めて語りました。悔い改めることは、とても大切です。私は、そのことを、軽んじる気持ちはありません。
しかし、分かって頂きたいのですが、悔改めそれ自体が、罪の赦しを、もたらすのではありません。罪の赦しのためには、代価が支払われなければ、ならないのです。
主イエスの十字架は、そのために支払われた、とてつもなく大きな代価なのです。
主イエスは、十字架と復活を通して、私たちの救いを、完成してくださったのです。
そして、今は、天の父なる神様の右に座しておられ、そこから、私たちのために、聖霊をお遣わしになっておられます。
その聖霊の力によって、私たちは、この救いの恵みを、自分のものとして、掴み取ることができるのです。
この主イエスというお方の中に、どっぷりと浸される時、その救いの恵みを、聖霊によって、分からせていただけるのです。パウロは、エフェソの人たちに、そう語りました。
エフェソの人々は、主イエスの救いの恵みの中に、どっぷりと浸されていなかったのです。
ですから、彼らの中には、救われたことへの、感謝や喜びが、見られませんでした。
彼らは、パウロの言葉を聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けました。
ヨハネの中ではなく、主イエスの中に、どっぷりと浸る者に、変えられたのです。
ヨハネの中に浸されていた時には、悔い改めと禁欲的な生活に、生きようとしていました。
しかし、主イエスの十字架の救いの中にどっぷり浸され、一方的に与えられる、赦しの恵みに生かされた時、彼らは、喜びと、感謝と、賛美に、満たされたのです。
そして、「イエス・キリストは、私の主です」、とはっきりと告白したのです。
それが、聖霊を受けた、ということなのです。
皆さんは、聖霊を受けるということを、どのように理解されておられるでしょうか。
先ほどの御言葉、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。
これを逆に言えば、イエスを主と告白する者は、皆、聖霊を受けている、ということです。
聖霊を与えられた、と聞きますと、何か特別な、霊的興奮状態になって、恍惚の境地に至ることの様に思いがちですが、そうではありません。
心から、イエスを主と告白する者は、皆、聖霊を受けているのです。
罪のない神の独り子が、罪ある人間の身代わりとなって、十字架に死んでくださった。
そのことによって、私たちの罪が、無条件で、そして無制限に、赦された。
そのことを、真正面から信じる者は、皆、聖霊を受けているのです。
さて、聖霊の導きによって、禁欲的生活から、感謝と喜びの生き方へと変えられる回心。
これを私たちに、よく示してくれるサンプルがあります。
茅ヶ崎恵泉教会のルーツでもある、メソジスト教会。そのメソジスト教会を創立した、ジョン・ウェスレーの生涯です。
彼は、名門オックスフォード大学で学んでいた頃から秀才の誉れ高く、若くして英国国教会の司祭になりました。
大変真面目で、まるで修道士のような、規則正しい、禁欲的な生活をしていました。
ですから、「メソジスト」という、あだ名がつけられたのです。メソジストとは、「規則正しい几帳面屋」という意味です、
32歳の時、彼は、当時、新大陸と言われていた、アメリカのジョージア州に宣教師として出かけて行きました。無教養な移民たちやインディアンたちを、回心させるためです。
ところが、アメリに向かう航海の途中、激し嵐に遭って船が沈みそうになりました。
その時、彼は、自分の内に、死に対する恐怖が、満ちていることに気付かされます。
船の中では、司祭として、皆を集めて、聖書研究会をし、また聖餐式も司式しました。
しかし、その彼が、死の恐怖に襲われて、自分の信仰に戸惑いを覚えたのです。
でも、その嵐のさなか、同じ船に乗っていたモラビア派の人々は、小さな子どもからお年寄りまで、讃美歌を歌いながら、静かにその時を過ごしています。
ウェスレーは、彼らと自分の差は、いったい何なのだろう、と思いました。
そこで、そのグループのリーダーを訪ねました。すると、そのリーダーは、ウェスレーに矢継ぎ早に質問をしました。
「あなたは、本当にイエス・キリストを知っていますか。あなたは本当に、自分の罪が赦されているという確信を持っていますか、あなたは本当に自分を知っていますか」。
ウェスレーは、力なく、「はい、知っています」と答えたものの、それらが空しい言葉であると、自分では分かっていました。
これは、雄弁にキリストを語りながらも、聖霊を知らなかったアポロと同じです。
自分の内に聖霊が住んでいてくださり、その聖霊が私を、「肉なる人」から「霊の人」へと変えてくださる。この聖霊の働きに、彼は目覚めていなかったのです。
結局、ウェスレーのアメリカ伝道は大失敗で、彼は惨めな思いでイギリスに帰国しました。
彼は、「私はインディアンを救いに行ったが、いったい誰が私を救ってくれるのだろうか」、と日記に記しています。
ウェスレーがどっぷりと浸っていたのは、ヨハネのバプテスマでした。ですから、その心には、喜びも感謝もありませんでした。
その彼が、無条件の罪の赦しを信じ、神様の愛を喜び、感謝する人に変えられていきました。
それが1738年の5月24日の出来事、有名なアルダスゲートの回心の出来事でした。
今日は5月23日です。5月24日に最も近いペンテコステの聖日です。
ですから、私は、今日この日に、アルダスゲートの回心の出来事を、語らずにはいられない、という思いに迫られています。
この日の夜、ウェスレーは、ロンドンのアルダスゲート街の集会に行きました。
その集会で、ある人が、ルターの「ローマの信徒への手紙」の説教の序文を読んでいました。
そして、司会者が、キリストを信じる信仰を通して、神様が心のうちに働いてくださる変化について語った時に、ウェスレーは、自分の心が、不思議に熱くなるのを覚えたのです。
神様が、この私の罪さえも取り去ってくださり、滅びの死から救ってくださる、という確証が与えられたのです。これが、ウェスレーの福音的な回心、アルダスゲートの回心です。
彼は、この日、ヨハネのバプテスマではなく、主イエスの名によるバプテスマに与り、聖霊の油注ぎを受けたのです。
そして、神様の赦しの愛が初めて分かり、こんな自分でさえも、主イエスの十字架によって赦され、神様の愛に包まれていることを実感したのです。
彼は、主イエスの名による聖霊のバプテスマを受け、主イエスの愛の恵みに浸されました。
規律正しく、几帳面一点張りの、堅苦しい生活から、喜びに満ちた賛美の生き方に、変えられていったのです。
聖霊によって、新しく生まれ変わる時、エフェソの信徒たちが変えられたように、そしてウェスレーが変えられたように、私たちも活き活きとした、喜びの生活へと変えられていきます。
今、私たちは、コロナ禍で、先が見えないような、不安の中にいます。皆が集まって、共に礼拝をささげることができないでいます。これは、本当に辛く、悲しいことです。
しかし、聖霊なる主は、離れ離れになっている私たちと、いつも、共にいてくださいます。
聖霊の働きによって、私たちは離れていても、同じ主を見上げ、同じ恵みに与っています。
コロナ禍にあっても、聖霊によって結ばれていることが、私たちの喜びであり、希望です。
聖霊に満たされて歩む、喜びと希望の人生を、共に歩んでいきたいと、切に願っています。