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過去の礼拝説教

「何物にも優る宝」

2021年06月06日 聖書:マタイによる福音書 13:44~52

ヨーロッパに、古くから伝えられている、こんな小話があり、ます。
あるクリスチャン巡礼者が、村はずれの木の下で、野宿の準備を始めました。
そこへ突然、村の男が駆けつけてきて、息をはずませながら言いました。
「宝石、宝石、宝石をください。」 「いったい何の宝石ですか」、と巡礼者は尋ねました。
「先だっての夜、夢で天使のお告げがあったのです。夕暮れに村はずれに行けば、巡礼者に会える。その人が私に宝石をくれるから、私は永遠に大金持ちになれると。」
巡礼者は袋の中をかき回して、石を一つ取り出して、男に差し出しました。
「それは多分このことでしょう。二、三日前に、森の小道で見つけたものです。どうぞ持っていって下さい。」
村の男は石を見て驚きました。何とそれはダイヤモンドでした。しかも、恐らく、世界一大きなダイヤモンドに違いありません。なにしろ、握りこぶしほどもあったのです。
彼はダイヤモンドを受け取って、村に帰りました。
しかしその晩、どうにも寝つけず、床の中で悶々としている内に、夜が白み始めました。
彼は、日が昇ると直ぐに、巡礼者のところに出かけて行って、こう言い、ました。
「惜し気もなく、あれ程のダイヤモンドを手放せるのだから、あなたはよほどすごい宝をお持ちに違いない。私はその宝の方が欲しいのです。」
さて、この巡礼者が持っていた宝とは、一体何だったのでしょうか。なぜ彼は、世界一のダイヤモンドを、惜し気もなく手放すことができたのでしょうか。
先程読んでいただいた御言葉は、その答えを、私たちに与えてくれています。
今朝の御言葉の初めに、「畑に隠された宝」と、「高価な真珠」の譬えが語られています。
この二つの譬えも、先週ご一緒に聴きました、「からし種」と「パン種」の譬えに続いて、天の国について教えている譬えです。
先週も申しましたが、天の国とは、死んでから行く所ではなくて、神様が支配されている領域のことです。神様の救いに与れる場所のことです。
教会は、神様の御心によって支配されている場所です。ですから、教会は、この世における天の国である、と言うことができます。と言うことは、天の国は、もうここに来ているのです。
そうであるなら、天国に行く、という言い方はおかしいのです。
私たちは、よく天国に行くと言いますが、天の国はもう既に来ているのです。
ですから天の国とは、行くものではなく、入るものなのです。
もう既に、ここに来ている天の国に、あなたも入りなさい。主イエスは、そのように、私たちを招かれているのです。
今朝の御言葉では、初めに、「畑に隠された宝の譬え」が語られています。
主イエスの時代には、信頼できる保管場所などありませんでした。ですから、宝を壷に入れて、土の中に隠すことは、よく行われていたようです。
「タラントンの譬え」に出てくる、怠け者の僕がしたように、土の中に貴重品を隠すことは、強盗や敵の略奪から守るための、最も安全な方法であったのです。
ところが、宝を隠した本人が、突然死亡したりすると、その宝は、ずっと隠されたままとなってしまいます。
譬えの中で、宝を偶然発見した農夫は、雇われて畑を耕していた小作農でした。
他人の畑を耕していたとき、たまたま宝を掘り当てたのです。
それは、彼の労働の成果でも、また、彼の業績に対する報酬でもありませんでした。
そのように天の国とは、自分の行動や業績とは無関係に、一方的に与えられる宝なのです。
その農夫は、そんな宝を発見するとは、全く予期していませんでした。
しかし、その宝は、彼の人生を全く変えてしまう程の、桁違いの値打ちを持っていました。
当時の決まりでは、そのように偶然発見された宝は、その宝を発見した人ではなくて、宝が埋められていた、土地の所有者のものとされました。
そこで、その農夫は、その畑を手に入れるために、これまで彼の生活を支えていた、一切のものを売り払いました。
彼が大切にしていたもの、より頼んでいたものが、がらりと変わったのです。
彼の人生に、突然、飛び込んできた、天の国という、桁違いの宝。
この天の国という宝を得ることによって、彼は、それまでの、小作農としての借り物の畑、借り物の人生から、自分自身の人生を、生きる者へと変えられたのです。
天の国という宝を、何よりも大切にし、それを喜んで生きる者となったのです。
次に高価な真珠の譬えが語られています。古代においては、真珠は大変貴重なものでした。
この商人は、世界中を旅して、美しい真珠を捜し求めて歩いていました。
ところが、ある時、今までに見たこともないような、素晴らしい真珠を発見したのです。
その商人は、大喜びをして、持ち物すべてを売り払って、それを買いました。
この二つの譬えは、お互いに相違点と共通点を持っています。
まず、相違点ですが、「隠された宝」の譬えの場合、農夫は全く偶然に、予期しない形で宝を得ています。
一方、「高価な真珠」の場合は、苦労して探し回った結果、真珠を買うことができています。
このように、人々が、天の国に入るには、様々な道筋があります。
偶然の出来事のように信仰に入る人もいれば、長い求道の後に、信仰に入るものもいます。
たとえば、徴税人マタイは、いつものように徴税所で、淡々として仕事をしていました。
その時、突然主イエスから、「私に従ってきなさい」と、声をかけられ、自分の家族も、財産も、徴税人としての特権も、すべてを捨てて従って行きました。
彼の場合は、「隠してある宝」を、偶然見つけた人に、似ているのではないでしょうか。
一方、パウロは、自分の救いの完成を目指して、タルソで志を立て、エルサレムで有名なラビ、ガマリエルの許で熱心に学び、ファリサイ派の人々と共に、厳格に律法を守り、その熱心さは、教会迫害のリーダーを務めるほどでした。
そのように、長く救いを求めて、あれかこれかと、模索していた時、ダマスコ途上において、主イエスによって捕らえられたのです。
このように、天の国に入るには、様々な道筋があるのです。
私たちも、皆、それぞれ異なった道筋を通って、天の国に導かれた者たちです。でも、皆が等しく、同じ恵みに与っているのです。
では、この譬えの共通点は、何でしょうか。
それは、宝や真珠という、桁外れに高価なものを発見した人が、すべてを犠牲にしてそれを手に入れた、ということです。
この二つの譬えは、天の国の救いが、どんなに尊いものであるかを教えています。
もう一つの共通点は、畑を買った農夫も、真珠を買った商人も、その畑や真珠を、売らずに持っている、ということです。
これは不思議なことです。農夫も、商人も、全財産を処分して、畑や真珠を買ったのです。
ですから、無一文になってしまった筈です。
普通であれば、手にした宝や真珠を、より高い値段で売って、それを元手に商売をしようとする筈です。そうしなければ、無一文のままです。
でも、農夫も、商人も、宝や真珠を売って、金儲けをしたとは書かれていません。
では、彼らは、何をしたのでしょうか。御言葉は、「彼らは喜んだ」、と言っています。
天の国と言う宝を手に入れて、彼らは、ただただ喜んだのです。それだけなのです。
天の国の救いに与って、もうこれ以上何もいらないという喜びに、彼らは満たされたのです。
私のような者が、天の国に入れられた。神様と共に歩む者とされた。それだけでもう十分だ。
ここには、神様と共に生きる喜びがある。それだけで良い。それだけで十分だ。
農夫も、商人も、この喜びを得たのです。大切なのは、この喜びなのです。
皆さん、天の国は、このような喜びの世界なのです。
では、翻って、私たちを見つめてみましょう。果たして、私たちは、天の国に入るために、全財産を売り払ったでしょうか。多少の犠牲は、払ったかもしれません。
でも、全財産を売り払ってはいません。でも、私たちは、天の国の救いに与っています。
では、私たちは、どうやって、そんな高価な宝を、手に入れたのでしょうか。
それは、私たちではなく、他の誰かが、全財産を投げ出してくれたからです。
では一体誰が、私たちのために、全財産を投げ出してくれたのでしょうか。
私たちの救いのために、全財産を投げ出してくれた人。それは、神様です。
神様は、全財産にまさる、独り子の命を犠牲にまでして、私たちを、ご自分のものとしてくださったのです。そして、私たちを、天の国に、迎え入れて下さったのです。
神様は、最も大切な、独り子の命を投げ捨てて、私たちを捕えてくださり、ご自身のかけがえのない宝としてくださいました。
そして、その宝を得たことを、この上ない喜びとして、喜んでくださっているのです。
皆さん、天の天の国は喜びの世界です。主が、「あなたはもう私のものだ」、と喜んで私たちを握りしめてくださり、私たちが、「私のような者を救ってくださり感謝します」、と喜びをもって応える。
天の国とは、この喜びが響き合う所なのだと、主イエスは言われたのです。
主イエスは、天の国について、更にもう一つの譬えを語られました。網で魚を獲る話です。
これは、世の終わりの裁きのことです。
世の終わりの時に、神様は、全ての人をご覧になられて、良い者と、悪い者とを、より分ける。
そして、良い者は器に入れ、悪い者は、焼き捨てられてしまう、というのです。
この話を読む時、私たちは、恐ろしさに震えてしまいます。
聖なる神様の御前で、誰が、この裁きに耐えられるだろうかと、大きな不安に駆られます。
しかし、心配しなくても良いのです。恐れる必要はないのです。
確かに、世の終わりに、天の国において、裁きが行われます。でも、そこで裁きを行うお方は、私たちが知らないお方ではありません。私たちが、良く知っているお方、神様なのです。
そして、その神様の傍らには、助け主として、主イエスがいてくださるのです。
そこで、私たちのすべての罪が、明らかにされます。しかし、主イエスが言ってくださいます。
「父よ、確かに、この者は多くの罪を犯しました。ですから、悪い者として、焼き捨てられても当然の者です。
しかし、この者の罪は、私がすべて十字架で贖いました。そしてこの者は、その救いを受け入れて、信じたのです。ですから、どうかこの者を、良い者として、器に入れて下さい。」
この主イエスの執り成しによって、私たちは、本来は、悪い者として、焼き捨てられる者であるにもかかわらず、良い者の器に入れて頂けるのです。
ですから、私たちは、恐れる必要はないのです。怖がらなくて良いのです。
恐れず、怖がらずに、今、なすべきことを、誠実になしていけば良いのです。
では、今なすべきこととは、一体何でしょうか。
それは、しっかりと神様を見ることです。私のような者を、探し出してくださって、罪あるままに、罪なき者としてくださった、神様の御業を、確かに見つめることです。
こんなに汚れている私のことを、かけがえのない宝、高価な真珠として、喜んでくださる神様を見ることです。
「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、という御声を聴くことです。
そして、この汚れた、貧しい私が、それ程までに喜ばれている、という事実を信じることです。
天の国は、この神様の喜びが支配するところです。
そして、その神様の喜びに応えて、私たちも、心からの喜びをもって、生きていくところです。
この喜びの上に、私たちの教会は立っています。この喜びに満たされているのが、私たちの教会の、本来の姿なのです。
主イエスは、色々な譬えを用いて、天の国のことを、教えてくださいました。
ですから、弟子たちは、そしてその後に続く、私たちは、天の国の学者になったと言えます。
その弟子たちに、そして、また私たちに、主イエスは言われています。
「あなた方は、もう宝を見つけている。真珠を見つけている。だからもうあなた方は、私についての専門家なのだ。天の国のことを学んだ学者なのだ。
それなら、天の国の学者として、新しいものと古いものとを、自由に取り出せる筈だ。」
では、ここにある古いものとは、何でしょうか。それは、人々が昔から知っていたものです。
言い換えれば、旧約聖書を通して示された、神様の教えです。
そして、新しいものとは、主イエスが語られた福音であると、解釈することができます。
私たちは、それらを、自分たちの心の倉に、収めています。そして、それらの新しいものも、古いものも、人々の必要に応じて、自由に取り出して、用いることができるのです。
これを、もう少し狭く、私たちに当てはめてみると、古いものとは、茅ヶ崎恵泉教会の70年の歴史を通して培われた、伝統の良さである、と捉えることができます。
そして新しいものとは、私たち一人一人が、実際の信仰生活の中で、新たに体験した、救いの恵みです。私たちは、それらを自由に用いていくことが、許されているのです。
主イエスが言われたように、私たちは、天の国の学者とされているのです。
隠された宝を見つけることを許され、高価な真珠を探し当てることを許された者なのです。
そうであるなら、私たちは、天の国の学者として、夫々が置かれた場所で、小さな天国学校を開くようにと、期待されているのではないでしょうか。
「私の様な者でも、宝や真珠を見つけることが出来たのです。ですから、どうかあなたも、同じ様に、宝を見つけて、救いに入ってください」。
人々を、このように招くようにと、神様から期待されているのではないでしょうか。
宝さがし、真珠探しの喜びへと、周りの人々を招く者とされているのではないでしょうか。
そこにこそ、伝道の出発点があるのだと思います。伝道は、喜びのお裾分けなのです。
私たちが生かされている天の国。その限りない喜びの世界に、愛する人たちを招き入れ、共に生きていきたいと、心から願います。