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過去の礼拝説教

「身近な者たちの無理解」

2021年06月13日 聖書:マタイによる福音書 13:53~58

哲学者へーゲルは、ある著書の中で、「召使に英雄なし」、という諺を引用しています。
英雄も、身の回りの世話をする召使から見れば、ただの人だという意味の言葉です。
英雄と言われている人も、日常生活においては、実は、だらしのない酒飲みだったり、人の目を気にする臆病者だったり、つまらないことでイライラしたりする。
そうなると、「英雄と言っても、一皮むけばただの俗物だ」、と思ってしまうというのです。
しかし召使の目でしかものを見ない人は、歴史的な偉業をなした人を、正しく評価することができません。
偉大な仕事をした人に対しても、「でも、あの人は、臆病で、短気で、飲んだくれだ」、などと言って、その業績を正しく評価することをしないのです。
召使いの目線、つまり自分が持っている知識や体験からしか、物事を見ようとしない人は、福音や救いという、上から与えられる出来事について、正しく捉えることができません。
同じように、主イエスの故郷の人々も、主イエスのことを正しく捉えることができず、主イエスのまことのお姿を、見ることができませんでした。
今朝の御言葉は、そのことを、私たちに語っています。
また、今朝の御言葉は、主イエスの生い立ちの一端をも、教えてくれています。
55節の御言葉は、主イエスは、大工の子として、育ったことを伝えています。
母の名はマリアで、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという、4人の兄弟がいたことも、明らかにされています。また、妹たちもいたことが記されています。
ここには、父ヨセフのことが語られていないので、ヨセフはこの時、もう既に、死んでいたのではないかと思われます。
ですから、この大家族を支えるために、主イエスも、若い時から、大工として働かれていたのではないか、と想像できます。
その主イエスは、30歳頃に家を出られて、救い主としての働きを始められました。
そして、ガリラヤの各地で、福音を語られ、素晴らしい奇跡を行われて、評判になりました。
今朝の御言葉は、その主イエスが、故郷に帰られた時の出来事を、記しています。
大工としてではなく、救い主としてお帰りになられた主イエスを、故郷の人々がどのように迎え、どのように対応したか。そのことが、今朝の箇所で、語られています。
ご存じのように、主イエスの故郷は、「ナザレ」という小さな村です。
本当に小さな村ですから、そこに住んでいる人々は、お互いをよく知り合っていました。
それぞれの家庭の、細かいことまで、みんな知っている。そんな狭い世界でした。
55節に、「この人は大エの息子ではないか」、という言葉があります。
この言葉を、正確に訳しますと、「この人は、あの大工の息子ではないか」、となります。
今評判になってるイエスという男は、皆が知っている、あの大工の息子ではないか、と言っているのです。
このように、ナザレの人たちは、主イエスの、職業も、家庭も、その氏素性のすべてを、よく知っていたのです。
その主イエスが、帰って来られて、会堂で説教されるというので評判となり、多くの人たちが集まりました。恐らく、村中の人たちが、会堂に集まったと思います。
皆が良く知っている、あのイエスという男が、どういう話をするのか。どんなことを行うのか。
皆が、固唾を飲んで、その時を待っていました。
そして、人々は、主イエスが語られた御言葉を聞いて、驚いたのです。
ナザレの人々は、主イエスの教えを聞いた時、「驚いて」、「この人は、このような知恵と力を、一体どこから、どうやって、得たのだろうか」、と言い合ったというのです。
ここにある「驚く」という言葉は、大変強い言葉です。「非常に驚いた」とか、「びっくり仰天した」、という意味の言葉です。
彼らは、主イエスの御言葉に込められた知恵と、奇跡を行う力に、非常に驚いたのです。
それは、これまでガリラヤの各地で、主イエスの御言葉を聞き、御業を見た多くの人々に起きたのと、同じ反応です。
その驚きの中で、多くの人々は、そこに、神様の御声を聞き、神様の御業を見たのです。そして、主イエスに、従って行く者たちが生まれたのです。
ガリラヤの各地における、主イエスに対する驚きは、そのように、信仰へと実を結んでいきました。
誤解を恐れずに言えば、驚きを伴わない信仰は、まことの信仰とは、言えないのではないかと思います。
こんな私が、なぜ救われたのか。なぜ、このような者のために、主は十字架にかかってくださったのか。なぜ私は、それほどまでに、主に愛されているのか。
このような驚きをもって、救いに至るのが、信仰の世界なのではないでしょうか。
個人差はあると思いますが、私たちは、皆、救われた時に、多かれ少なかれ、このような驚きを体験していると思います。
しかし、ナザレの人々には、そういうことが起りませんでした。
主イエスに対する驚きが、信仰に結びついてはいきませんでした。
一方で驚きながらも、他方では主イエスにつまずいたのです。
彼らは、そこで、「この人は、このようなことを、どこから得たのだろう」、と問うたのです。
この問い自体が、問題なのではありません。それはむしろ、当然生じる大切な問いです。
問題はその問いに続いて、彼らが言った言葉にあります。
「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い…」。
彼らは、あくまでも、人間としての主イエスだけを、見つめ続けました。主イエスの中に宿っている、人間を超える力を、見出そうとはしなかったのです。このことが問題であったのです。
彼らは、主イエスのことを、誰よりも良く知っている、と思っていました。
ですから、自分の知識の範囲内で、主イエスの御言葉や御業を、理解しようとしたのです。
主イエスに注がれている、神様の御力と栄光を、見ようとはしなかったのです。
その結果、彼らは、主イエスにつまずきました。信じることができませんでした。
ナザレの人々は、幼い頃から主イエスを知っていました。その主イエスに対する知識や、先入観に捕らわれてしまって、それを超えることができなかったのです。
その結果、主イエスの御言葉と御業に、せっかく驚いたのですが、驚きながらも、つまずいてしまったのです。
主イエスの御言葉や御業に驚くことから、信仰が生まれていくか、それとも、驚いてつまずくか。これは、私たちにとって、決定的な分かれ道です。
私たちは、驚いてつまずくのではなく、驚いて信じる者になりたいと願わされます。
ナザレの人たちは、主イエスの知恵と力は、一体どこから来たのか、と呟き合いました。
彼らは、そのことを、呟くだけでなく、徹底的に、とことんまで、追求すれば良かったのです。
主イエスは、どこから、この知恵と力とを、得られたのか。そのことを、どこまでも追及していけばよかったのです。
そうすれば、驚きがつまずきではなく、驚きが信仰に至る道が、開けた筈なのです。
大工としての主イエスではなく、救い主イエスに出会う道を、見出せた筈なのです。
あるご婦人の一人息子が、若くして亡くなりました。その息子さんは、どちらかというと、内向的で、何事にも消極的な性格でした。
その息子さんが、教会に行き、洗礼を受けてから、見違えるように変わりました。
それまでは、暗い顔をしていることの多かった息子さんが、明るく、活き活きとした青年に変わったのです。
その息子さんを亡くしたご婦人は、息子さんをそのように変えた力が、一体、どこから来たのかを知りたくて、教会に来るようになりました。そして、熱心に求道しました。
やがて、息子さんを変えたのは、人間の力ではない、と感じるようになりました。
そして尚も、ひたすらに尋ね求めた結果、息子さんを変えたお方、神様と出会ったのです。
どこからその力が来たのか。それを真剣に、どこまでも尋ね求めたので、神様と出会うことができて、自分自身も救われたのです。
ナザレの人たちも、知識や先入観を捨てて、どこまでも問い続けていけば良かったのです。
しかし、ナザレの人々は、自分が知っている人間イエス、自分が理解できる人間イエスだけを、見つめ続けました。そのために、主イエスに、つまずいてしまったのです。
マタイによる福音書13章において、主イエスは、ずっと天の国について語られて来ました。
恐らく、このナザレの会堂においても、主イエスは、天の国について語られたのだと思います。
あなたの力はどこから来るのか。そのように問う人々に対して、主イエスは、天を指差されて、私の力は天から来ている。神様から来ている、と言われたと思います。
そして、主イエスの力が、天から来ていることを、受け入れて信じたなら、この時、ナザレの会堂には、天の国が実現していたのです。
人々は天の国の直ぐ近くにいたのです。入ろうと思えば、直ぐにでも入れる所にいたのです。
でも、残念ながら、ナザレの人々は、天の国に入りませんでした。主イエスが指し示してくださったように、天を見ることをしなかったのです。では、彼らはどこを見たのでしょうか。
自分たちの周りを見たのです。そして「この人は、大工の息子ではないか」、と言ったのです。
この男が、どれ程すばらしいことを言っても、結局、ここにいる我々の仲間ではないか。
我々は、この男が、はなたれ小僧であった時から、知っているのだ。そんな男が、天の国とか、神とか言っても、信じることはできない。
まして、この男を救い主として受け入れて、ひざまずくことなど、どうしてできるだろうか。
そう言って、人々は主イエスにつまずいたのです。
主イエスは、その人たちをご覧になられて、悲しみを込めて言われました。
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。
皆さん、私たちは、このことを、自分自身の体験として、知っているのではないでしょうか。
信仰者となった私たちは、家族や、親しい人たちに、御言葉を伝えていく、務めを託されています。しかし、それが、なかなか難しいのです。
特に、家族伝道は、他人に対する伝道よりも、はるかに困難なのです。
それは、家族は、自分のことを、よく知っているからです。
家族は、自分の姿を、全部見ています。自分の良い点だけでなく、欠点も、だらしない点も、すべて知っているのです。
そういう相手に、福音を伝えようとしても、「お前は偉そうなことを言うが、お前自身の生活は、どうなのか。それでクリスチャンと言えるのか」。
そのように言われると、反論できなくなってしまうのです。
私たちは、心を尽くして言います。「クリスチャンになるとは、聖人君子になることではないのですよ。
むしろ弱くて、罪深い者だからこそ、主イエスの救いに、よりすがって生きているのです。
そして、主イエスは、このような私の欠けも、弱さも、すべてご存知の上で、受け入れてくださり、十字架の贖いによって、赦してくださっているのですよ。どうか、分かってください。」
私たちは、愛する家族に、この福音を語ります。しかしそれが、なかなか伝わらないのです。
自分の欠点の故に、福音を伝えようとしても、まともに聞いてもらえない、という残念な体験を、私たちは何度も味わっています。これは、私たちにとって、本当に悲しいことです。
しかし、皆さん、そこで諦めてはいけないのです。なぜなら、主イエスは、決して諦めることをされなかったからです。
主イエスは、決して諦めずに、私たちを救うために、十字架にまでついてくださったのです。
ですから、私たちは、伝道に行き詰まった時には、諦めるのではなく、そこでこそ、十字架の主を見上げたいと思います。
十字架の上で、尚も、執り成しの祈りを祈っていてくださる、主を見上げたいと思います。
その主に励まされて、もう一度、小さな一歩を、踏み出していきたいと思います。
ところで、ある人が、この御言葉からの説教の中で、この時、ナザレの人たちは、主イエスを妬んだに違いない、と言っています。
自分たちと同じ村の出身で、同じような暮らしをしていた、イエスという男が、突然、評判になって、多くの人たちから尊敬されている。そのことを妬ましく思って、素直に喜べない。
そういう思いになっていたのではないか、というのです。或いはそうかもしれません。
妬みの故に、この時ナザレの人たちは、主イエスの本当の姿を、見ることができなかったのかもしれません。
でも主イエスの本当の姿を見ることができなかったのは、ナザレの人たちだけだったでしょうか。
主イエスにつまずいたのは、ナザレの人たちだけだったのでしょうか。
他の人たちは、どうだったのでしょうか。本当の意味で、主イエスを受け入れたでしょうか。
確かに、一時は、主イエスの周りに多くの人たちが、集まりました。しかし、その人たちも、最後には、主イエスの許を去っていきました。
主イエスが、自分たちが期待するもの、自分たちの欲しいものを、与えてくれないと分かったからです。そして失望して、主イエスを十字架につけてしまったのです。
ですから、主イエスにつまずいたのは、ナザレの人たちだけではありませんでした。
全ての人たちが、主イエスに失望し、主イエスにつまずいて、主イエスを十字架につけてしまったのです。
しかし、憐れみ深い神様は、私たちの、その愚かな行為さえも用いられて、救いの御業を成し遂げて下さいました。十字架において、私たちの罪を、滅ぼして下さったのです。
ですから主イエスは、「十字架の上で死んだのは、実は私ではなく、あなた方の罪なのだよ」、と言って下さっているのです。
主イエスは、この救いの御業を通して、私たちを、神の子とする道を開いて下さったのです。
私たちが、今、救われて、ここにいるのは、この神様の働きがあったからです。
皆さん、神様は生きておられます。そして、私たちの救いのために、今も働いておられます。
その神様の大いなるご計画によって、私たちは、今、この礼拝の場にいるのです。
そのことに、大きな驚きと感謝をもって、ご一緒に、十字架の主を見上げつつ、救いの恵みに与ってまいりたいと思います。