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過去の礼拝説教

「恐れることはない」

2021年07月04日 聖書:マタイによる福音書 14:22~36

もし、皆さんが、教会を何かに譬えるとしたら、どんなものを思い浮かべられるでしょうか。
色々なものが思い浮かぶと思いますが、昔から、教会は、よく「舟」に譬えられてきました。
それも大きな、立派な船ではなくて、粗末な小舟です。
厳しい迫害や、信仰の戦いという荒波の中を、十字架のマストを真っ直ぐに立てて、航海していく小さな舟。教会は、この小舟に譬えられてきました。
教会だけでなく、私たちキリスト者も、この世の荒波に漂う、小舟のようなものです。
この後、ご一緒に歌います、讃美歌456番の作者、チャールズ・ウェスレーも、信仰生活を、荒波の中を航海する、船旅になぞらえています。
今朝の御言葉には、暗い嵐の湖を漂っている小舟を救うために、主イエスが近づいて来られる出来事が、記されています。
先週、私たちは、主イエスが、五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人を満腹にした、という奇跡物語を、ご一緒に聴きました。
この奇跡は、弟子たちが持っていたものを用いて、弟子たちの手を通してなされました。
実際にパンと魚を分けて配ったのは、弟子たちでした。
ですから、群衆は、主イエスだけではなく、弟子たちにも、感謝と称賛の言葉を、投げ掛けたと思います。恐らく弟子たちは、多くの称賛を受けて、得意の絶頂にあったと思います。
しかし、主イエスは、そのような弟子たちを、強いて舟に乗り込ませ、向こう岸へと、先に行かせました。
群衆にもてはやされていた、その場所。居心地の良い、その場所を離れて、向こう岸に船出するように、命じられたのです。
そのようにして、高慢の罪に陥りそうな弟子たちを、守ってくださったのです。
それから主イエスは、群衆を解散させられました。パンの奇跡の興奮に、尚も酔いしれていた群衆を見られて、主イエスは、こう思われたからです。
「私が、あなた方に与えたいのは、一時的な空腹を満たすパンではなくて、あなた方をまことに生かす、永遠の命なのだ。どうか、そのことを悟ってもらいたい」。
そして、群衆を解散させられた主イエスは、一人だけで山に登られました。
休息をされるために、山に登られたのでしょうか。そうではありません。
主イエスは、祈るために山に登られたのです。主イエスは、ひたすらに祈られたのです。
群集が、主イエスの奇跡のみに目を奪われ、主イエスのことを、誤って捉えることのないように、と祈られたのです。
また、群集にもてはやされると、直ぐに有頂天になるけれど、困難に出会うと、途端に恐れてしまう。そんな弱い弟子たちのために祈られたのです。
主イエスは、私たちの弱さも、すべて知っていてくださいます。
ですから、主イエスは、弱い私たちのためにも、まどろむことなく、祈ってくださっています。
たとえ私たちが、気付かなくても、主イエスは、今も、私たちのために、限りない愛をもって、祈ってくださっています。
私たちは、その主イエスの祈りによって、支えられているのです。
さて、弟子たちは、夕闇せまる湖へと、船出しました。
ガリラヤ湖は、周りを山でぐるりと囲まれています。その地形の影響で、時として、とても複雑な風の吹き方をすることがあるそうです。
静かだった湖が、突然大荒れになることも、しばしばあるそうです。この時も、そうでした。
「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」、と書かれています。
ヨハネによる福音書を見ますと「25ないし30スタディオン漕ぎ出した」とありますから、大体5キロくらいの距離です。
夕方から夜明けまで舟を漕ぎ続けても、5キロしか進んでいないのです。
ガリラヤ湖は、幅が10キロくらいですから、彼らは、湖のど真ん中で、嵐に巻き込まれたのです。
一生懸命漕いでも、激しい波と風の力で、押し戻されてしまって、前進できません。
しかも、こういう時に、いつも助けてくださった、主イエスが、今はおられないのです。
孤独と絶望の中で、弟子たちは必死にもがいていました。
教会も、そして、キリスト者も、同じように、逆風に悩まされることがあります。
しかし、そうした悩みに満ちた、教会や私たちのところに、主イエスは必ず来てくださいます。
信仰生活は、「嵐」のない生活ではありません。信仰を持っていても、嵐は来るのです。
むしろ、信仰者であるが故に、他の人よりも激しい逆風に、悩むことさえあります。
しかし、そのような嵐の中を、主イエスは必ず助けに来て下さいます。
その主イエスを、見逃さずに、しっかりと見つめる信仰が、ここで求められているのです。
主イエスは、嵐に悩む弟子たちの姿を、山の上から、じっと見ておられました。
暗闇の中で、5キロも離れた弟子たちのことを、見ておられたのです。
なぜ見ることができたのでしょうか。それは、愛があったからです。
自分が愛している人であれば、その人がどこにいようと、その人のことが分かるものです。
主イエスは、ご自分の愛する弟子たちが、湖の真ん中で苦しんでいるのを、愛の目で、じっと見ておられたのです。
主イエスは、今も、世の荒波の中で、苦しんでいる、私たちのことを、見ていてくださいます。
私たちが、一人ぼっちだと感じて、孤独と絶望に覆われている時も、主イエスの愛の眼差しは、私たちの背中に注がれているのです。
そのことを、忘れないでいたいと思います。
25節には、「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」、と書かれています。
祈りを終えられた主イエスは、山を降りて、弟子たちの所に行こうとされました。
弟子たちは湖の上です。他に舟はありません。主イエスは、静かに湖の上に足を出されました。そして、水の上を歩いて、弟子たちの所に行かれたのです。
人間が水の上を歩く。あり得ないことです。これは奇跡です。
嵐の中で、苦しみ悩んでいる、愛する弟子たちの所に行くために、主イエスは奇跡を起こされたのです。
奇跡を起こしてでも、弟子たちの所に行こうとされたのです。
主イエスは、私たちのことをも、愛してくださっています。その私たちを救うためには、奇跡さえも起こされるお方。それが主イエスなのです。
嵐の海を歩いてでも、救いに来てくださるお方。それが主イエスなのです。
どのようにして、主イエスが、水の上を歩かれたのか。それは分かりません。
けれども、なぜ、主イエスは、水の上を歩かれたのか。それは、分かります。
そして、実は、その方が、遥かに大切な問いなのです。
どうやって、湖の上を歩かれたのかよりも、なぜ、主イエスは湖の上を歩かれたのか。
そのことを、私たちは、御言葉から、聴いていかなければならないのです。
主イエスは、ただ、ただ彼らの所に行きたかったのです。何としてでも、絶望と孤独の中にいる、彼らの所に、行こうとされたのです。
でも、その時は、水の上を歩くしか、方法が無かったのです。だから、歩かれたのです。
主イエスというお方は、奇跡を起こしてでも、私たちの所に来て下さるお方なのです。
嵐であろうが、何であろうが、この主イエスを妨げることはできません。
どんなものも、私たちを、この主イエスの愛から、引き離すことはできないのです。
しかし、湖の上を歩いて来られる主イエスのお姿は、弟子たちに恐怖を呼び起こしました。
幽霊が出たと思ったのです。弟子たちは、恐怖のあまり叫び声を上げました。
それを聞いて、主イエスは直ぐに声を掛けられました。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
この「わたしだ」という言葉は、原語では「エゴー・エイミー」という言葉です。
この言葉は、「私はいる」とも訳せる言葉です。主イエスは、「私はいる」と仰ったのです。
こんな嵐の中では、誰も、自分たちの所に来ることなど出来ない。
そう思っていた弟子たちに対して、主イエスが仰ったのです。「わたしがいる」。
しかも、この「わたしはいる」、「エゴー・エイミー」という言葉は、聖書の中で、神様がご自分のことを、言い表される言葉なのです。
出エジプト記3章14節で、モーセが神様に、ご自身のお名前を尋ねた時、神様は「わたしはいる」という名前だ、と答えられました。
主イエスは、その言葉を語られたのです。
「わたしはいる。ここにいる。神として、あなた方を救う者として、私はここにいる。だから安心しなさい。恐れることはない」。
このお言葉が、弟子たちを、そして、それに続く代々の聖徒たちを支え、生かしてきました。このお言葉が、迫害の中にあった、教会をいつも守ってきました。
「わたしがいる。確かにいる。あなた方を見捨てることは決してない」。
暗闇の中に聞こえる、この御言葉を聞いて、迫害の中でも彼らは信仰を守り通したのです。
この御言葉があったから、地下に潜ってでも、信仰を守り通せたのです。
ですから、この時の弟子たちの経験は、困難な中にいる、全ての信仰者の経験でもあるのです。困難の中を生きる、私たちの経験でもあるのです。
弟子たちだけではなく、私たちもその舟に、乗っていたのです。私たちも、その御声を聞いたのです。
困難の中で、絶望と孤独に捕らわれている私たちに、主イエスは、近づいてきてくださり、「恐れるな、私がいる。あなたを見捨てることは決してない」、と言って下さるのです。
二千年間、教会を支えてきた、この約束は確かです。私たちを裏切ることはありません。
このお言葉を聞いて、ペトロが興奮のあまり叫びました。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。
ペトロはこの時、「私に命令してください」、と言いました。
「私が行きますから、待っていてください」、と言ったのではありません。
イエス様、「私の所に来なさい」と、どうか命令してください。ただお言葉を下さい。
そうしたら、私はあなたの所に行けます。水の上を歩けます。ペトロはそう言ったのです。
もしこの時、ペトロが、「イエス様、今からあなたの所に行きますから、待っていてください」と言って、足を踏み出したら、直ぐに沈んだに違いありません。
でも、主イエスが、「私の所に来なさい」と言われて、私たちが、それを信じて、一歩踏み出す時、私たちは、水の上を歩くような、驚きの人生を歩むことができるのです。
今まで、全く考えもしなかったような、新しい人生を歩むことが出来るのです。
「私の所に来なさい」。これは私たちが、洗礼を受ける時に聞く言葉です。そう言われて、私たちは、小さな一歩を踏み出しました。
しかし、これは、洗礼を受ける時だけではありません。「私の所に来なさい」という言葉に、応え続けていくのが、私たちの信仰生活なのです。
主イエスは、すべての人に「私の所に来なさい」と呼び掛けておられます。
「あぁ、イエス様が私を呼んでおられる。私の許に来なさい、と言っておられる。新しい人生に踏み出しなさいと言っておられる」。
もし、このように、主イエスのお言葉を、自分自身に語られた言葉だと信じて、一歩踏み出すなら、私たちは新しい人生を歩むことが出来ます。
ペトロは、主イエスのお言葉に従いました。そして、水の上に足を踏み出しました。
すると、本当に不思議なことが起こりました。ペトロも水の上を歩いたのです。
「私の所に来なさい」。この主イエスのお言葉を聴いて、信じて、一歩踏み出した時に、あれほど自分を悩ませていた嵐も、恐れも乗り越えることが出来たのです。
しかし、残念ながら、ペトロのこの歩みは、長続きしませんでした。
主イエスのお言葉だけを聞いていれば良かったのに、思わず嵐に目を向けてしまいました。そのとたんに、足が沈み始めたのです。
これも、私たちが良く経験することです。
主イエスだけを見つめて、足を踏み出した筈なのに、つい主イエスから目を逸らせて、周りの困難を見て、恐れおののいてしまう。そして、沈んでいってしまう。
溺れそうになったペトロは、叫びました。「主よ、助けてください」。
主はすぐに手を伸ばして、助けてくださいました。
そして、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
皆さん、一体、私たちは、何回この主イエスのお言葉を聞いたでしょうか。「信仰の薄い者よ」と何度言われたことでしょうか。
でも、主イエスは、何度でも助けてくださいます。
主イエスのお言葉だけ聞いていれば良かったのに、他のものに目を向けて、溺れそうになる。そして、思わず「助けてください」と叫ぶ。
そんな自分勝手な、弱い私たちです。
でも、その度に、「信仰の薄い者よ。しょうがない奴だな」と言って、主イエスは助けてくださるのです。
この「信仰が薄い」という言葉は、正確には、「信仰が小さい」という意味です。私たちの信仰は小さいのです。
主イエスは、「信仰が小さい」と言われました。でも「信仰が無い」とは言われませんでした。
「お前の信仰は小さいね。でも小さくても信仰はある」、と仰ってくださいました。
それは、ペトロが、主イエスに叫んだからです。
「主よ、助けてください」と叫んだからです。
私たちも同じように、何度も沈みます。そして、その都度、「主よ、助けてください」と叫びます。
そして、その都度、「お前の信仰は小さいね」と言いながらも、主イエスは、差し伸べた手を掴まえて、引き上げてくださるのです。
このお方が、私たちという舟に、乗り込んでくださると、私たちの心に、吹き荒れていた嵐は、嘘のように、収まり、静かになります。
その時、私たちは、気づくのです。実は、この嵐は、このお方と、一緒にいなかったために、吹き荒れた嵐だったのだ。そのことに気がつくのです。
ですから皆さん、教会という舟に、そして私という舟に、いつも主イエスにいて頂きましょう。
そして、平安を与えられて、この世の荒波を乗り越えていきましょう。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。
この主の御声に励まされつつ、共に歩んでまいりましょう。