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「命を得る道」

2021年09月05日 聖書:マタイによる福音書 16:21~28

アメリカ、ロッキー山脈に「Great Divide」と呼ばれる嶺があります。
北米大陸分水嶺とも呼ばれていて、この嶺に降った雨は、ほんの僅かな差で、一方は太平洋に、もう一方はメキシコ湾や大西洋へと、全く違う方向に流れていきます。そのような重要な分岐点となっている嶺です。
マタイによる福音書16章は、この福音書のGreat Divideとも言える、重要な分岐点です。
それは、16節にてペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したからです。
これは、主イエスを、「キリスト、神の子」と言い表した、人類最初の信仰告白でした。
更に、それに続く今朝の御言葉も、同じように、大変重要な箇所です。
21節には、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」と記されています。
この箇所は、主イエスによる最初の受難予告として、大変重要な意味を持っています。
主イエスは、「あなたこそメシア、救い主です。生ける神の子です」、と言い表したペトロの信仰告白を、喜びをもって、しっかりと受け止められました。
そして、その時から、主イエスは、ご自分が救い主であるとは、一体どういうことなのか。
そのまことの意味を、語り始められたのです。
ペトロよ、あなたは、私のことを、「生ける神の子、救い主」だと告白した。
その告白自体は正しい。私はその告白を喜ぶ。
でもあなたは、自分が告白した言葉の意味を、本当に分かっているのか。
あなたが今、口にした告白の意味とは、実はこういうことなのだ。
私が救い主であるとは、実はこういうことなのだ。
主イエスは、ここで初めて、十字架と復活の救いについて、語り始められたのです。
ご自身が成し遂げようとされている、救いの出来事。
それまでずっと、ご自身の心の内だけに、しまっておかれた救いの秘密を、ここではっきりと、打ち明けられたのです。
しかも「必ずそうなる」と断言されたのです。他の道はあり得ないのだ、と言われたのです。
なぜ必ずそうならなければいけないのでしょうか。なぜ他の道ではいけないのでしょうか。
それは、主イエスが、私たちに、単なる幸せを与えられる、救い主ではないからです。
ただ、苦しみや悲しみから救い出してくださるだけの、救い主ではないからです。
では、主イエスとは、一体どのような救い主なのでしょうか。
主イエスは、私たちを、罪から救い出してくださる、救い主なのです。
もし主イエスが、当時ユダヤの人々が期待していたような、ローマの支配から解放してくれる救い主であったなら、他にもっと適当な道があったと思います。
或いは、人々を、貧困や差別などの苦しみから、解放してくれる救い主であったなら、他の道はいくらでもあったと思います。
しかし、主イエスは、そのようなものには、目もくれませんでした。
十字架にかかって死なれて復活される。ただその道のみを進んで行かれました。
それは、私たちを、罪から救い出すためです。そのためには、この道しかないからです。
何としてでも、私たちを罪から救い出したい。それが、主イエスの切なる願いでした。
主イエスの願いは、ただその一点に集中していたのです。
これは私たちの願いではありません。主イエスの願いです。神様の願いです。
皆さん、どうでしょうか。私たちは、罪から救われるということを、それ程切実に願っていないのではないでしょうか。
神様が命を懸けるほどに大切なことだと、心から信じて、願っているでしょうか。
罪からの救いと言われても、今一つピンと来ない。そういうことはないでしょうか。
罪からの救いよりも、今、苦しんでいる、この問題から救い出してもらいたい。
そういう思いが心の奥底にある。それが、私たちの正直な姿なのではないでしょうか。
でも神様はそうではありません。本当に真剣に、命懸けで、私たちを罪から救い出そうと、願っておられるのです。
それは、神様が、罪のもたらす悲惨さを、知っておられるからです。
私たちは、罪の中にいるということが、どれ程悲惨なことかを、本当には知りません。
27節にあるように、この世の終末に再臨される主は、私たちの行いに応じて、それぞれに報いを与えられるのです。
それがどれほど厳しいものであるか、私たちは知りません。
でも神様は知っておられます。ですから、私たちを罪の中から救い出して、永遠の命に生かしたいと、真剣に、命懸けで願われているのです。
では、それほど恐ろしい罪とは、一体何なのでしょうか。
分かり易く言うなら、罪とは、自分を第一とし、神様を第二、第三としてしまうことです。
自己中心的な思いによって、神様を裏切り、悲しませてしまうことです。
その結果、自分と共に生きている人をも傷つけてしまう。それが罪です。
今朝の箇所の26節で、主イエスは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか」、と言われました。
ここで主イエスが言われている、全世界を手に入れようと欲すること。
それも、自己中心がもたらす罪の一つの姿です。
そう聞かれると、皆さんは、「私は、全世界を手に入れようなどと、考えたことはない。そんな大それた野望を持ったことなどない」、と仰るかもしれません。
でも神様は、こう言われているのです。
「あなたは、自分が生きている生活の全領域を、自分の思い通りにしたいと思っている。
自分の家庭を、自分の職場を、自分の教会を、自分の思い通りにしたいと思っている。
そして、その自己中心的な思いのために、自分の周りの人たちを傷つけている。
その結果、自分自身も傷ついている。そういうことはないだろうか。
自分が関わっている全場面を、自分の思い通りにしたいと願う。それは、全世界を手に入れたいという思いと同じなのだ。」
そういう自己中心的な思いによって、私たちは、遂には神様さえも、自分の思い通りに動かしたい、と思うようになってしまうのです。
主イエスは、それが罪なのだ、と言われているのです。そして、その罪の故に、あなた方は、自分本来の姿を見失っているのだ、と言われているのです。
自分の本来のあるべき姿を見失って、さまよって生きている。自分らしく生きられていない。
それが、命を失うことなのだ、と言われているのです。
そんなあなた方の罪を赦すために、私は、あなた方が受けるべき刑罰を代わって受ける。
私が、苦しみを受けて殺されるのは、そのためなのだ、と主イエスは言われたのです。
あなた方を、罪あるままに、罪なき者と認めて救い出す。それには、この道しかないのだ。
だから、私は、この道を歩んで行くのだ、と言われたのです。
それを聞いたペトロは、主イエスを脇にお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」、と言いました。
この時ペトロは、自分の思いの中に、主イエスを押し込めようとしていました。
救い主とは、このようなお方でなくてはいけないと、思い込んでいました。
神様を自分の思い通りにしようとしていたのです。
ですから主イエスは言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ここで主イエスは、サタンとはどのような者なのか、ということを明らかにしておられます。
サタンとは、私たちに「神のことを思わせず、人間のことを思わせよう」とする者なのです。
私たちが、神様のことを思い、神様の御心に従って行こうとする時に、サタンは、私たちの行く手を阻み、私たちを逆の方向、人間の思いの方向に、誘おうとするのです。
このとき、主イエスは、父なる神様の御心に従って、十字架に向かって、しっかりと歩み出そうとされていました。
しかし、ペトロは、人間的な思いから、それを阻もうとしたのです。
ですから、主イエスは、「サタン、引き下がれ」、と言われたのです。
この「引き下がれ」という言葉は、直訳すると「私の後ろに行け」、という意味の言葉です。
ここで、主イエスが、言われたことは、こういうことです。
「ペトロ、あなたの、私に対する思いは良く分かる。しかしあなたは、私の歩む道を塞ぐ者である。
どいてもらいたい。私の前に立ちはだかるのではなく、私の後ろに回ってもらいたい。
そうしたら、私が良く見える。そして、自分自身も良く見える。それが、私について来る、ということなのだ。」
主イエスの仰る通りなのです。主イエスの後ろに、回らなければ、主イエスに、ついていくことはできません。
主イエスの前を歩いて、「イエス様、こっちに行ってください。こっちに、行ってくださらなければ、困ります。私が望んでいるのは、こっちなのです。」
そうやって、私たちが、主イエスを引っ張り回すのではないのです。私たちは、主イエスの後についていくのです。
後ろに回ると、主イエスの背中が見えます。私を背負ってくださる、主イエスの背中が見えます。
そして、主イエスの足元が見えます。主イエスが、どのような道を歩もうとしておられるか。それを見極めることができます。
そして、自分の足を、主イエスの足跡に合わせることができます。
また、主イエスの肩越しに、父なる神様のお姿をも、仰ぎ見ることができるのです。
ですから、前に立ち塞がるのではなくて、後ろに回らなければ、ならないのです。
皆さん、私たちは、主イエスの後ろではなく、前に立ち塞がっていないでしょうか。今一度、自分を吟味したいと思います。
主イエスの後ろに回るということは、自分を殺すということです。自分を捨てることです。
あれもこれも、自分の思い通りにしたいという思いを捨てて、自分を捨てて、主イエスに従って行くことです。
その時、あなた方は、自分の命を得ることが出来るのだ、本来の自分を生きることができるのだ、と主イエスは言われたのです。
主イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
では、自分の十字架を背負うとは、どういうことでしょうか。
それは、単に、人生の労苦を背負う、ということではありません。
十字架を負うのですから、それは明らかに、自分の死と関係があります。
でも、それは、肉体的な死ではありません。私が、私が、という自己主張を捨て、自分の価値観をも捨てる。そういう徹底した自己否定に生きることです。
自分の十字架を負うとは、自分に死ぬこと、自分を捨てることです。そして、主イエスの後ろを歩くことです。
「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。こういう言葉を聴いて、皆さんは、随分と厳しい言葉だな、と思われるでしょうか。
しかし、そう思う時、私たちは、同じマタイによる福音書の11章28節、29節の御言葉を想い起したいと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
これら二つの御言葉は、違ったことを言っているのでしょうか。
そうではないと思います。「自分の十字架を背負いなさい」ということと、「わたしの軛を負いなさい」ということは、同じことなのです。
自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従うこと。それは、主イエスの軛を負って、主イエスと共に歩むことなのです。
主イエスが負われた十字架を、主イエスと共に負って歩むことなのです。
主イエスは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
でも、その時、私たちは、一人で十字架を背負うのではないのです。
共に歩まれる主イエスもまた、十字架を背負っておられるのです。
私たちはそれを見て、それに倣って、自分の十字架を背負って行くのです。
ではどうして、主イエスは、十字架を背負われたのでしょうか。
それは、私たちを愛してくださったからです。人を愛する者は、十字架の重荷を負うのです。
家族を愛する者は、家族のために重荷を負うのです。教会を愛する者は、教会のために重荷を負うのです。重荷を負わないで、人を愛することはできません。
そうやって、重荷を負って歩んでいる時、私たちは主イエスのお言葉を聴くのです。
「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
私の許に来なさい。そして休みなさい。
この御言葉を聴く時、私たちは示されるのです。私たちは、自分一人で重荷を負っているのではなく、主イエスが共に負ってくださっているのだ。そのことを、示されるのです。
主イエスが、私たちのために負って下さっている重荷の、ほんの一部を私たちも負うに過ぎないのです。でも、そうであるのに、主イエスは、私たちに語り掛けて下さいます。
「私のために、教会のために、重荷を負ってくれているのだね。本当にありがとう。」
その言葉に対して、私たちは、「いえ、主よ、あなたが私のために負われた十字架の重荷に比べたら、とても比較になりません。取るに足りません。」
そのように主イエスにお答えした時、私たちにとって、十字架はもはや重荷ではなくなります。
ある人が、「私たちが十字架を担って歩む時、その十字架が私たちを担ってくれる」と言っています。
確かに、十字架を負うことの重荷に疲れ、歩くことも、立ち上がることも、出来なくなる時があるかもしれません。
そんな時、私たちは、十字架の主の御声を聞くのです。
お前のために、私はお前よりも深く苦しみ、傷つけられている。お前を愛するが故に。
この御声を聞くとき、主イエスの十字架と、私たちが負う十字架が一つになります。
そして、その時、私たちは、本来の自分を生きることができるのだと思います。