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過去の礼拝説教

「夕べになっても光がある」

2021年09月12日 聖書:ゼカリヤ書 14:7~9

今朝は、80歳以上の方々を覚えて、お一人お一人のご健康と、更なる主の祝福を祈りつつ、礼拝をささげています。
この後、高齢祝福の祈りを共にささげます。
また、キッズチャーチの子どもたちが描いた絵をデザインした高齢祝福カードを、80歳以上の方々にお送りさせて頂いています。
さて、私たちの人生は、誕生に始まり、幼少期、思春期、青年期を経て成人となり、壮年期そして老年期へと移り進んでいきます。
心理学者ユングは、人の一生を一日になぞらえて、40歳を人生の正午として、人生を日の出から日没までの4つの時期に分けました。
その4つとは少年期、成人前期、中年、老人の4つです。
しかし、現代はユングの時代よりも、更に平均寿命が延びていますから、人生の正午は45歳位だと捉えた方が良いのかもしれません。
ユングは、人生の黄昏を、朝と同じ計画に従って生きることは、不可能だと言っています。
一日には、朝や昼もありますが、また夕べもあります。
同じように、人生にも、朝や昼があり、また夕べがあります。
夕べには、朝の眩しい日の輝きや、昼過ぎの強烈な日差しはありませんが、夕暮れ特有の柔らかで落ち着いた日の光が差し、爽やかな風が吹き、美しい夕焼けが空を覆います。
夕暮れ時には、何かを成し終えた時に感じるような、充足感に満ちた、静かでまったりとした空気が流れています。
私は、夕暮れ時が好きです。特に、夕暮れ時の海辺が好きです。空気の澄んだ日の、夕暮れの海辺の美しさに、いつも感動を覚えます。
昼間の日差しの余韻を残した、凪いだ海風。刻々と変化する夕焼けの空。そして、遠慮がちに輝きだす星たち。
人生の日暮れ時にも、この夕暮れの海のような、幸せな想いを持ちたいと思わされます。
アメリカの詩人ロングフェロウはこのような美しい詩を残しています。
「異なった衣こそ着ているが、老いは若さにも増して恵まれたとき、黄昏が消えていく夕暮れどき、昼間には見えなかった星が空に満ちるから」
老いは若さにも増して恵まれたとき、昼間には見えなかった星が空に満ちるから。
老年期には、若い時には見えなかった恵みの星が見える、というのです。
何と素晴らしい言葉でしょうか。目が開かれる思いがします。
4年前に105歳で召天された日野原重明医師は、「老年期は衰退の時ではなく成熟の時だ」という言葉を遺されています。
老年期は、人生の総まとめの時と言われますが、言い換えれば「成熟の時」なのです。
それでは、その成熟に向けて、老年期をどう過ごすべきなのでしょうか。
御言葉から聞いていきたいと思います。
先程読んでいただきましたゼカリヤ書14章7節の御言葉は、「夕べになっても光がある」と言っています。
夕べになって、後はもう闇に包まれるだけだ、というのではないのです。「夕べになっても光がある」というのです。
この御言葉は、高齢者に希望と恵みを与えてくれる御言葉です。
なぜなら、夕べとも言える老年期にも、光はあると告げているからです。
それは神様からの光です。老年期は、神様からの光の中に、ますます輝いているのです。
聖書は、そのような夕暮れの光の中にいる、高齢者の存在を、極めて重要視しています。
旧約聖書の士師記2章7節に、このような御言葉があります。
「ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。」
ここには、エジプトを脱出し、約束の地カナンに入った後も、ヨシュアを始めとする長老たちが、重大な役割を担ったことが記されています。
ヨシュアの死後も、長老たちが、イスラエルの民を指導したのです。そして、長老たちの存命中は、イスラエルの民は主に仕えたというのです。
では、この長老たちとは、どのような人たちであったのでしょうか。
それは、「主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た」人たちでした。
民が主に仕えるためには、このような長老たちが、必要であったのです。
彼らは「主の大いなる御業」の証人たちでした。
エジプトを脱出して以来、イスラエルの民は、驚くような神様の恵みの出来事を、何度も経験して来ました。それを、つぶさに見てきたのが長老たちです。
長老たちは、そのような経験を通して、神様の摂理を知り、神様のイスラエルに対する愛を体験してきたのです。彼らは、その恵みの出来事の証人でした。
イスラエルの民が、主に仕えるには、この長老たちを必要としたのです。
同じように、教会が主に仕えるには、長老たちが必要です。長老というと、とても重たい言葉に聞こえますので、高齢者と言い換えても良いと思います。
教会が信仰を保っていくためには、神様の恵みの証人としての、高齢者が必要なのです。
理不尽な社会の現実の中で、どこに神様の恵みがあるのか。それが見えないとき、教会は、高齢者の方々の信仰体験を必要とします。
高齢者の方々は、矛盾や試練に満ちたこの世にあって、神様の恵みに生かされ、信仰を保ってこられました。その尊い体験が、教会を支えるのです。
私が育った教会の老牧師は、何か困ったことがあって相談すると、口癖のように「大丈夫ですよ。神様が必ず守ってくださいますから」、と笑顔で応えていました。
もし、若くてまだ駆け出しの牧師が、同じことを言ったなら、恐らくそんな言葉は信用できない、という思いを持ったかもしれません。
しかし、長年に亘って教会に仕えて来られ、数多くの試練や、困難を経験してきた老牧師がそう言われると、その言葉を心から納得し、信用できるという思いに導かれました。
教会を支えているのは、高邁な神学思想ではありません。このような信仰体験なのです。
教会が、主に仕えていくためには、このような高齢者の信仰体験が必要なのです。
私の愛唱讃美歌の一つに、1954年版讃美歌の532番「ひとたびは 死にし身も」という曲があります。聖歌では「いちど死にし われをも」という歌詞で歌われています。
この532番の2節は、このように歌っています。
「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにもみあと見ゆ」。
信仰生活を長く続けて来ると、様々な試みや悲しみを経験します。しかし、振り返って見ると、それらの試みや悲しみは、すべて主イエスが経験されたものであったことを示されます。
「いずこにもみあと見ゆ」と歌われている通りなのです。
誰もこの悲しみを分かってくれないと思っていたら、十字架の主イエスが、既にそれ以上の悲しみを味わっておられた。
そのことを示されるのです。これは感謝の発見です。喜びの発見です。
高齢の信仰者は、このような感謝の発見、喜びの発見を、何度も経験して来られました。
私たちのために十字架にかかられ、そして復活された主イエスの足跡が、いずこにもついているのを知って喜ぶ。
そういう経験に裏打ちされた信仰。それが教会を支えているのです。
今まで主は、どんな時も必ず私を守って下さった。そして、これからも、主は必ず共にいて下さる。
未知の世界である将来も、しっかりと主の御手の内にある。そのことを信じて喜ぶ。
これから先に、どのような試練や悲しみが待っていようとも、主は決して私たちを見捨てず、共にいてくださる。
そのことを信じて、将来に向かって、希望を持って歩んで行く。
信仰に生きた高齢者は、そのような歩みに、踏み込んでいくことができるのです。
高齢になることは、暗闇に覆われた未知の世界に、入って行くことではありません。
「いずこにもみあと見ゆ」なのです。未知の世界だと思っていても、そこにも主イエスの「みあと」が、既についているのです。
そこにも、主の御顔の光が、差し込んでいるのです。
ですから、「夕べになっても光があるのです」。人生の夕暮れにも、喜びと希望の光があるのです。
ゼカリヤ書の御言葉は、終わりの日に「主の日」が来ると言っています。
そして、その主の日においては、もはや昼もなければ、夜もない、というのです。
「夕べになっても光がある」のです。この光は、命と深く結びついています。
夕べになっても光がある、ということは、高齢になっても、命を豊かに生きることができる、ということなのです。
8節の御言葉は、その日には、命の水が全世界に及ぶ、と言っています。
そのように、信仰者の人生には、夕べになっても、命の水が豊かに溢れているのです。
信仰者の高齢の日々を、主ご自身が、希望の光で照らしてくださり、豊かな命の水で満たしてくださるのです。
信仰者が高齢になるということは、夕べになっても光がある、という希望に生きることができる、ということです。
命の水が溢れ出る喜びに生きることができる、ということです。
今、私たちが置かれている現実は、闇の中にいるように思えるかもしれません。
コロナ禍を始めとして、様々な試練や困難に覆われているかもしれません。
しかし、私たちは、既に主イエスの愛を知り、その主イエスの愛によって捕らえられ、十字架の救いを信じて、希望に生きることを許されているのです。
ですから、既に、「夕べになっても光がある」希望に生かされています。確かな救いに与っているのです。
礼拝の最後に祈られる祝祷はこう言っています。
「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」。
これは民数記6章25節の御言葉ですが、この御言葉は、「夕べになっても光がある」という希望と喜びが、あなたの恵みとなりますように、という願いなのです。
私たちは、その願いを、毎週、礼拝の度毎に、確認させて頂いているのです。
11年前にチリで起きたサンホセ鉱山の崩落事故。
33名の作業員が地下634メートルの坑道内に69日間も閉じ込められました。
絶望的な状況の中で、彼らは、神様を礼拝することによって、お互いに励まし合い、奇跡的に全員が救出されました。
この時、彼らは、トラックのバッテリーを使ってヘルメットのランプを灯して明かりとしました。
もし、この小さな明かりが無かったなら、彼らは、全くの暗闇の中で69日間も生き続けることはできなかったと思います。
全くの暗闇の中では、恐れと不安が増して、遂にはお互いに傷つけ合うような状況に至ったかもしれません。光が全くないところでは人は生きて行かれません。
主イエスというお方は、私たちのことを、光のように覆い包んで、愛してくださるお方です。
暗闇の中にただ一人いる、と思っているような時にも、主イエスは、愛の光のぬくもりで、私たちをそっと温めてくださいます。
「夕べになっても光がある」。それは光そのものである主イエスが、共にいて下さるからです。
主イエスが共にいてくださるから、「夕べになっても光がある」のです。命の泉から、豊かな聖霊の水を飲むことができるのです。
もし主イエスが、共にいてくださらなかったなら、夕べは夜の暗闇へと向かう、寂しいだけの時となってしまいます。
でも、主イエスは、必ず共にいて下さるのです。
幼い子供と遊ぶ時、よく「いないいないばあ」をします。親もしますが、子供も喜んでします。
子供が「いないいないばあ」をする時には、必ずそこに親がいることを信じています。
でも、もし「いないいないばあ」と言って、子供が顔を上げた時に、そこに親がいなかったらどうでしょうか。子どもにとって、そんなに恐ろしいことはありません。
自分で顔を隠していても、パッと手をのけて目を開けたなら、必ずそこに親がいる。
だから、この遊びは楽しいのです。何回でも繰り返して遊びたくなるのです。
私たちが、自分勝手な思いで、神様から目を逸らし、神様に対して、自分の顔を覆っていても、パッと手をのけて、目を開けたなら、そこに必ず神様はいてくださるのです。
もし目を開けた時、そこに神様がおられなかったなら、そんなに恐ろしいことはありません。
でも、神様は、必ずそこにいてくださいます。たとえ私たちが、神様から目を逸らして、顔を隠していたとしても、神様は私たちの前から、いなくなってしまうということはないのです。
「夕べになっても光がある」。それは、主が必ず共にいてくださるからです。その主の光に覆われているからです。
ある人が、高齢の方にこのようなことを言いました。
「あなたの人生は、これからが勝負です。どうか、後に続く人たちのために、自分のこれからの人生を『贈り物』とするつもりで生きてください。」
皆さん、今朝は、この言葉を、しっかりと胸に刻んで、礼拝を終えてください。
自分のこれからの人生を、後に続く人たちの「贈り物」とするつもりで生きる。
これは、ご高齢の方々だけに当てはまる言葉ではありません。お若い方でも、毎日を、このような気持ちで生きていくことが、求められているのだと思います。
私たちは、愛する人に、何か役に立つものを残したい、という願いを持っています。
でも、最も尊い贈り物は、あなたの人生そのものなのです。
そう言われたからと言って、立派な生き方をしようと、背伸びをしたり、肩肘を張って生きていく必要はありません。そんなことでは「贈り物」は遺せません。
私たちは、私たちを照らしてくれる、主の光を反射して生きていけば良いのです。
「夕べになっても光がある」。
夕べにも、御顔を向けて、私たちを照らしてくださる、主の光を反射していけば良いのです。
そういう生き方が、後に続く人たちへの「贈り物」となるのです。それは、決して色あせることもなく、朽ち果てることもない贈り物です。
共にいてくださる主の光の内を歩むことによって、そういう人生を、後に続く人たちへの「贈り物」として残していけますように、ご一緒に歩んでまいりたいと思います。
茅ヶ崎恵泉教会を、そのような贈り物の宝庫とするために、日々主の光の中を、共に歩んでまいりたいと思います。