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過去の礼拝説教

「神に出遭う体験」

2021年09月19日 聖書:マタイによる福音書 17:1~13

神奈川県愛川町に愛川伝道所という教会があります。
今年1月に、当教会の会員であった村木恵子姉妹がその愛川伝道所に転会されました。
この教会の牧師は茅ヶ崎ご出身の星野正興先生です。
その星野先生が、20年程前に書かれた、「神様の正体」という本があります。
この本の題名にはフリガナがふってあって、「正体」という漢字の脇に「いるところ」と書かれています。
「神様の正体」と書いて、「神様のいるところ」と読ませているのです。
「神様の正体」など、恐れ多くて、とても私たちには書けそうもありません。
しかし、「神様のいるところ」ならば、掴むことができそうな気がします。
私は、あの時、あそこで、神様と出会った。そういう経験をお持ちの方は多いと思います。
神様は、目に見えないお方ですから、どこにでも、どんな時にもおられる。
その神様と、あの時、あそこで、確かに出会った。それは、神秘的な信仰体験です。
今朝の御言葉において、三人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが、そのような神秘的な信仰体験をしています。
高い山の上で、確かに神様と出会ったのです。
そして、そこで、主イエスの正体を、一瞬ではありますが、しっかりと見させて頂いたのです。
この日の六日前にペトロは、「あなたこそ生ける神の子です」、と告白しました。
でも、「主イエスこそ生ける神の子」であるとは、実際にはどういうことなのでしょうか。
ペトロたちは、山の上で、そのことを、目に見える形で、はっきりと見させて頂いたのです。
主イエスが、生ける神の子であることを、明確に示して頂いたのです。
今朝の御言葉は、古くから「山上の変貌」として、親しまれている箇所です。
しかし、この「変貌」という古めかしい表現のために、私たちは誤解してしまうことがあります。
それは、主イエスが、これまでとは全く別の、何者かに変わってしまわれた、と考えてしまうことです。
もし、そのように考えるなら、それは大きな間違いです。
そうではなくて、ここでは、主イエスが、ずっと持ち続けていらした、神としての「本性」が顕されたに過ぎないのです。
星野先生流に言えば、主イエスの「正体」が顕されたのです。
神様ご自身が、卑しい人間の姿を取られて、この世に来られた。
この考えられないような奇跡が、ここで一時的に中断された。そのように捉えても良いと思います。
それでは、それまで弟子たちが見ていた、人間としての主イエスのお姿は、真実のお姿ではなく、仮のお姿であったのでしょうか。
そんなことはありません。
ベツレヘムにお生まれになり、ナザレで育たれ、弟子たちと寝食を共にされて、福音宣教の御業に励まれた主イエス。
私たちと同じ肉体を持たれ、一人の人間として、この世に生きられた主イエス。
それもまた、主イエスの真実のお姿なのです。
そのお方が、神の子としての、もう一つの正体を、ここで一時的に明らかにされたのです。
ある人が、主イエスのことを、「神にとっての眞の人、人にとっての眞の神」である、と言いました。
この言葉は、実に的確に、主イエスの正体を、一言で言い表しています。
まさに、そのことが、ここで明らかに示されているのです。
ペトロたちは、眞の人間となられて、目の前におられた主イエスが、眞の神としての正体を、一時的に明らかにされたのを見たのです。
この時主イエスのお顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったと書かれています。
この主イエスのお顔の様子が変わった、ということを、出エジプト記34章が伝えている、モーセの顔が光り輝いたという出来事と、重ねて理解する人がいます。
しかし、モーセの顔の光は、神様と面と向かって、語らい合ったことから来る光でした。
つまり、神様の御光を、反映したものに過ぎませんでした。
それに対して、主イエスのお顔の様子が変わったのは、神の子としての、主イエスご自身の、本来の栄光が顕われたものです。
ですから、モーセと同じではないのです。
主イエスご自身が、栄光そのもの、光そのものなのです。
その隠されていた、主イエスご自身の光が、ここに初めて顕わにされたのです。
モーセと違って、主イエスの場合には、変わったのは、お顔の様子だけではありませんでした。着ておられた衣服もまた、真っ白に輝いたのです。
主イエスは、人としてこの地上を生きられました。舗装などされていない道を、サンダルのようなものを履いて歩き回られました。
当然、足は埃にまみれ、衣服も埃で、黄色く変色していたに違いありません。
或いはお顔も、日焼けされていて、埃がついていたかも知れません。
そのような、埃で汚れたお顔、黄色く変色した衣服が、突然の様に、神の子の栄光を示す光を放ったのです。
それは、本来は、限りない栄光の中におられるべきお方が、このように、埃にまみれて、この地上を歩き回ってくださった、ということを表しています。
この埃にまみれた主イエスのお姿に、実は、神様の栄光が、隠されていたのです。
神様の本質である愛と義が、埃にまみれたお姿の中に、隠されていたのです。
全世界の支配者であるお方が、限りなく低くなられて、埃にまみれたお姿で、私たちの所にまで来てくださった。
限りない高みにおられるべきお方が、ここまで低くなられた。
そのような、考えられないようなことをされるお方。それが、私たちの神様なのです。
眞の神が、眞の人として、この世に来てくださり、私たちと同じように、埃にまみれて下さった。
その埃で汚れたお顔。変色した衣服。そのお姿の中にこそ、眞の神様の恵みと愛が、隠されているのです。眞の神様の栄光が、そこに隠されているのです。
その隠されていた栄光が、この時、山の上で、表に顕われ光り輝いたのです。
栄光に輝く、眞の神としての主イエスの正体が、一瞬の間ですが、三人の弟子たちに示されたのです。
この栄光に輝くお姿は、復活の主イエスのお姿を現しています。
この後、三人の弟子たちは、復活の主イエスにお会いします。その時、彼らは初めて、この時の出来事の、本当の意味が分かりました。
あの時の主イエスの栄光のお姿は、復活の主イエスのお姿を、予告していたのだ。
主イエスの復活を信じられるように、あの時主イエスは、予め復活のお姿を、私たちに先取りして、示して下さっていたのだ。
だから、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と、命じられたのだ。
復活の主イエスにお会いしなければ、この山の上での出来事の、本当の意味を理解することができない。
だから、主イエスの復活が、確かな事実になるまで、沈黙していなさい、と言われたのだ。
自分たちが、今見た、素晴らしい奇跡を、興奮して、安易に話してしまうと、間違ったメシアのイメージを、膨らませてしまうことになる。
主イエスは、そのことを戒められたのだ。
ペトロたちは、後になって、そのことを分からせて頂きました。
更にこの時、二人の人が現れて、主イエスと語り合っているのを、弟子たちは見ました。
その二人とは、モーセとエリヤでした。
モーセは、旧約聖書の律法を代表する人です。そして、もう一人のエリヤは、旧約聖書の預言者を、代表する人です。
律法と預言者の代表が、主イエスと語り合う。それは、旧約聖書と新約聖書が一つとなって、主イエスを証ししている、ということです。
聖書66巻全体が、主イエスの正体を証ししている、ということです。
そうであるなら、それは、輝いて当然です。それが、輝かない筈はありません、
ペトロは、思わず「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と、喜びと興奮に満ちて言いました。
ここで「すばらしい」と訳されている言葉を、ある聖書は「慰めに満ちている」と訳しています。
「主よ、私たちがここにいるとは、何と言う慰めでしょうか。あなたが、このような神の子であられると言うことは、何と言う慰めでしょうか」。
このように、ペトロは言ったのです。
そのペトロの言葉に答えるように、雲の中からはっきりと、神様の声が聞こえました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
ここにある「私の愛する子」という言葉は、詩編2編7節に出てくる言葉です。この詩編2編は、王としての主を称えている詩編です。
神様は、主イエスのことを、世界を支配されている王である、と言われたのです。
一方、「わたしの心に適う者」という言葉は、イザヤ書42章1節に出て来る言葉です。
このイザヤ書42章は、「苦難の僕の歌」と呼ばれる、四つの詩の最初の詩です。
つまり、苦難の僕を表す言葉なのです。
人々の罪を代わって負って、苦しみ悩む僕。そのような僕こそが、「わたしの心に適う者」なのだ、と父なる神様は言われたのです。
世界を支配される王であるお方が、同時に、人々の罪を背負って苦しまれる。
それが、父なる神様が、私たちに示している救い主の御姿なのです。
ペトロよ、お前は今、「こんなに美しく、慰めに満ちたことが、あるだろうか」と言ったね。
でも、お前は、その慰めの本当の意味を、分かっているのか。
世界を支配される神が、卑しい僕の姿を取ってこの世に来て、人々の罪を負って、苦しみを受ける。それが、お前が言っている、慰めの意味なのだよ。
神様は、そう言われたのです。
主イエスの正体を知る。それは、そのような主イエスを、自分にとって、かけがえのない救い主として、受け入れることなのです。
さて、主イエスと三人の弟子たちは、栄光の山の上から、地上へと降って行きました。
その地上には、主イエスに敵対する人たちが待ち構えています。
弟子たちは、主イエスに尋ねます。旧約聖書のマラキ書は、メシアがくる前に、まずエリヤが再来すると言っています。
でも、そのエリヤは、まだ来ていない。だから、エリヤに続いて現れる筈の、救い主もまだ来ていないことになる。
だから、イエスは、メシアなどではないと、人々は言っている。
これはどういうことでしょうか。弟子たちは、不安を抱きつつ、主イエスに尋ねました。
主イエスは、答えて言われました。実は、そのエリヤは、もう来たのだ。
あのバプテスマのヨハネこそが、再来のエリヤだったのだ。
けれども、人々は彼を認めず、好きなようにあしらった。そして、人びとは、この私のことをも、好きなようにあしらうだろう。
だから、私も、人々から苦しめられることになる。
洗礼者ヨハネが来た時に、人々は、一方では歓迎しながら、他方では、結局殺してしまいました。
好きなようにあしらったのです。やりたいように、やったのです。
結局人々は、エリヤが来ようが、救い主が来ようが、自分のしたいことをやるだけなのです。
誰が来ても、自分勝手に振る舞うのです。そして主イエスもまた、殺されることになるのです。
しかし主イエスの場合は、ヨハネと違って、殺されて終わりではありませんでした。
主イエスは復活されたのです。
この十字架と復活の主イエスに真実に出遭い、それを信じた時、私たち自身も変えられます。
十字架と復活の出来事は、私たちの内に、変化を起こさずにはおかないのです。
主イエスの変貌の出来事は、キリスト者自身の変貌にも、繋がっていきます。
皆さん、私たちの究極の目標とは、何でしょうか。それは造り変えられて、主イエスの御姿に、似た者とされることではないでしょうか。
私たちが、十字架と復活の主イエスの正体を知り、その恵みと愛に迫られた時、私たちは、造り変えられます。
私たちが、主イエスと真正面から出遭う時、私たちは変貌します。いえ、変貌させられます。
私たちが、祈りの中で、主イエスと出遭う時、私たちは変えられます。
御言葉を聴いて、主イエスと出遭う時、私たちは変えられます。
礼拝では、御言葉が読まれ、祈りがささげられます。ですから、この礼拝は、私たちを、変貌させます。
この礼拝の、前と後では、皆さんの顔つきは、変わっている筈です。
たとえ皆さんが自覚しておられなくても、変わっている筈なのです。
少なくとも、神様の目から見た時、皆さんは間違いなく変えられているのです。
この変貌山の出来事の後、主イエスは、まっしぐらに、十字架に向かって歩まれます。
主イエスは、栄光の変貌山から、苦しみのカルバリの丘に向かわれたのです。
変貌山の栄光の主イエスと、カルバリの十字架の主イエス。そのどちらも主イエスの正体を顕しています。
変貌山では、主イエスの御顔は、輝いていました。
カルバリでは、主イエスの御顔は、卑しめられました。
変貌山では、主イエスの衣は、真っ白でした。
カルバリでは、主イエスの衣は、血で赤く染まっていました。
変貌山では、主イエスの傍らには、二人の聖人が立っていました。
カルバリでは、主イエスの傍らには、二人の強盗が木にかけられていました。
変貌山では、栄光の雲が、湧き上がっていました。
カルバリでは、濃い暗い雲が、辺りを覆いました。
変貌山では、「これは私の愛する子」、という御父の声が聞こえました。
カルバリでは、御父は全く沈黙されていました。ただ主イエスの苦しみの声だけが聞こえました。
主イエスは、栄光の変貌山から、そのまま天に帰られても良かったのです。
それなのに、なぜ、わざわざ山を降りられて、苦しみのカルバリに、向かわれたのでしょうか。
それは私たちを、愛してくださっていたからです。私たちを救うためです。
そうであれば、私たちも、変貌山からカルバリに向かわれた、主イエスの後に従って、私たちに、与えられた使命を、果たしていく者でありたいと、思います。
私たちの使命とは、私たちの愛する者を、救いに導くことです。私たちは、この使命を、自分に与えられた十字架として、担って行く者でありたい、と思います。
変貌させられた者としての使命を、果たしていきたいと思います。