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過去の礼拝説教

「この小さな者をも」

2021年10月10日 聖書:マタイによる福音書 18:1~14

私たちが暮らしている社会は、どんな組織であっても、多かれ少なかれ階級社会です。
ですから私たちは、その組織で、誰が一番偉いのか、そのことがどうしても気になります。
私が、会社勤めをしていたとき、よくお客さんを接待しました。
接待の準備で、最も気を使ったのが席順です。誰を上座の真ん中に座らせるか。その隣は誰にするか。慎重に準備しました。
もし、この順序を間違えますと、せっかくの接待が、台無しになってしまうことがあります。
中華料理の丸テーブルは、それを解決するために考えられたそうです。でも人々は、それでも、席順を気にするようになりました。
そしていつしか、ルールができてしまいました。
招いた側、つまりホスト役のトップが、部屋の入口に近い下座に座ります。
その正面が、接待を受ける側のトップ。その人の左側が二番目に偉い人。右側が、三番目に偉い人。という具合に、決められ、それを破ると、大変なことになります。
主イエスの当時のユダヤ社会も、今よりももっと厳しい階級社会でした。
ですから人々は、誰が一番偉いのか、といつも気にしていました。
今朝の箇所でも、そのことが問題にされています。
御言葉はこう語り始めています。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。」
このような弟子たちの順位論争は、この箇所と、20章20節以下にも記されています。
興味深いことに、これらはいずれも、主イエスが受難予告をされた直後の箇所です。
弟子たちは、主イエスのご受難とご復活の意味を考えるよりも、自分たちの席次の方に関心があったのです。
主イエスと弟子たちは、同じ道を歩んでいながら、全く異なる思いを抱いていたのです。
主イエスにとって、この歩みは、人々を罪から贖い出すために、十字架に向かう歩みでした。
人間的に見れば、「偉さ」とは全く逆に、ご自身を、極みまで低めていく歩みであったのです。
それに対して、弟子たちの歩みは、自分を高めていこうとする歩みでした。
主イエスが、ひたすらに心を傾けておられた、十字架への道とは全く違う方向に、弟子たちの心は向いていたのです。
この時の弟子たちの質問は、人間的な思いが、あからさまに出ている問いでした。
後になって振り返って見ると、恥ずかしいから隠しておきたい、と思うような問いでした。
しかし、弟子たちは、それを敢えて語り伝え、聖書に記したのです。何故でしょうか。
それは、確かに、弟子たちの質問は、まことに人間的で、恥ずかしいものでしたが、それに対する主イエスのお答えは、神様からのお答えだったからです。
主イエスは、弟子たちの人間的な問いを用いられて、救いの真理を教えて下さいました。
そして、それは、素晴らしい真理でした。
ですから、弟子たちは、是非ともこれを、教会に伝えなければならないと思ったのです。
そして教会もそれを大切に、次の世代に語り伝えていきました。
主イエスは、誰が一番偉いか、という問いに対して、こういう人が一番偉いとは、直ぐには答えられませんでした。
誰が一番偉いかではなくて、どうすれば天の国に入れるか、を教えられたのです。
主イエスの答えは、弟子たちの予想に、全く反したものでした。
主イエスは、小さい子供を傍に呼び寄せられて、弟子たちの真ん中に立たせて答えられました。
『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』
「あなたがたは、天の御国で、誰が一番偉いかと尋ねている。
しかし、悔い改めて、この小さな子供のようにならない限り、あなたがたは、天の御国に入ることさえできない。」
主イエスは、このように言われたのです。
この厳しいお言葉に、弟子たちは驚き、慌てたと思います。
なぜなら、彼等は、「自分たちは、主イエスの弟子であるから、天国に入ることは間違いない」、と思っていたからです。
天国に入れることは当然であるとして、その上で、誰が一番偉いかと議論していたのです。
ですから、主イエスのお言葉は、まことに衝撃的でした。彼らは激しく動揺したと思います。
それでは、「子供のようにならなければ」とは、どういう意味なのでしょうか。
この箇所で、よく誤解されることがあります。
それは、子供は素直で、純粋だ。でも、大人になると、次第にそれらを失ってしまう。
だから、子供のような気持ちに、帰らなければならない。このように捉えてしまう誤解です。
しかし、ここで主イエスが言われたことは、そのようなことではありません。
子供だって、決して素直で、純粋で、欲がない訳ではありません。
子供は子供なりに、競争し、欲を持ちます。嘘もつきますし、妬んだり、ひがんだりします。
ノアの洪水が収まった後、神様は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」と言われました。
神様は、人間が心に抱くことは、幼い時から悪いことを知っておられます。
ですから、主イエスがここで言われていることは、子供のように素直で純粋になりなさい、ということではありません。
ここで主イエスが言われていること。それは、子供は無力であるということです。
社会的に見れば、子供は手がかかるだけで、役に立たない者です。大人の世話にならなければ生きていかれない、小さな弱い者です。
そのように、自分の無力さ、弱さを知って、ただ神様の恵みに依り縋って生きる。
自分は、自分の中に頼るべき何物も持っていない。自分は全く無力で、弱い者なのだ。
だから、神様に頼らざるを得ない存在なのだ。
そのような者として生きることが、天国に入るために必要なのだ、と主は言われたのです。
ここで「偉い」と訳されている言葉は、原語では「大きい」と言う意味の言葉です。
自分は大きい者だ、という思いから、自分は何も持たない小さな者だ、という思いに、方向転換することが、ここで教えられているのです。
そのように、何も持たない自分。偉くない自分が、主イエスの名の故に、受け入れられている所。それが教会なのです。
「このような一人の子供を、主イエスの名のために受け入れる」。それは、どんなに弱く、無価値だと思われるような人をも、主イエスに免じて受け入れる、ということです。
主イエスに受け入れられた者同士として、小さい者がお互いに受け入れ合う。
教会は、そのような場所である筈だというのです。
教会が小さい者を受け入れるのは、私たちの側にその根拠があるのではなく、主イエスの御名の故によるのです。
主イエスの名のために、主イエスに免じて、どんな小さな人をも、受け入れるということです。
そして、主イエスに免じてとは、主イエスの十字架に免じて、ということです。
そのことを、パウロは、第一コリント8章11節で、「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです。」と言っています。
「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださった」。
どんなに弱く、小さく見えるような人でも、主イエスが、十字架の死によって、贖い取った人なのです。主イエスが命がけで愛しておられる人なのです。
「キリストがその兄弟のために死なれた」という信仰が、受け入れの根拠なのです。
このことの、一つの展開として、6節以下の言葉が語られています。
主イエスは、6節以下で言われています。「小さい者を受け入れる教会になりなさい。小さい者を軽んじる教会になってはならない。小さい者を躓かせてはならない」。
主イエスは、教会が小さな者を躓かせてしまう危険を、激しい言葉をもって戒めています。
なぜこれほど激しい言葉で語られたのでしょうか。それは、実際に、教会において躓くことが多いからです。
キリスト教は好きだが、教会に躓いた、と言う声はよく聞きます。
それでは教会は、どういうところで、躓きを与えるのでしょうか。
それは、小さな一人の人の扱い方においてです。
教会に連なる一人ひとりが、一人の信仰者として、本当に尊重されているかどうか。
小さい者にどれだけ目を留めているかどうか。
それが忘れられているなら、教会は躓きの石になってしまう、と主イエスは言われるのです。
この弱い、小さい人のためにも、主イエスは十字架にかかられたのだ。
もしそのことを、見ることができないなら、そのような目は捨ててしまいなさい、と主は言われています。
神の国に入るために、妨げになるものがあるなら、思い切って捨てなさいと言われるのです。
非常に厳しい言葉です。これは私たち一人ひとりに対する言葉であると共に、教会全体に対する言葉でもあります。
もし教会から迷い出そうな人がいるなら、その人を軽んじてはならない。
その人を無視してはならない、と主イエスは厳しく言われました。
それでも、迷い出た人、離れて行った人がいたなら、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
捜しに行くのです。どこまでも捜しに行くのです。
12節以下には、「迷い出た羊」の譬えが語られています。
躓きが起こることは避けられない。迷い出る小さな者たちは必ず出る。
しかし、その一人さえも滅びることは、神様の御心ではない。
一人ひとりは、神様の前にかけがえの無い存在なのだ。
だから、教会から一人の脱落者も出してはならない。それは、神様の御心ではない、と主イエスは言われているのです。
百匹の羊の内、一匹が迷子になったら、羊飼いは九十九匹を残してでも、その一匹を捜しに行く。
そのように、一匹たりとも滅びないようにする。それが御心なのだというのです。
でもこの話をする時に、いつも問題になることがあります。それは、山に残してきた九十九匹は、どうなるのかということです。
一匹を救うために、九十九匹を犠牲にしても良いのか、ということです。
でも、そんなことを心配する人は、この羊飼いのことを知らない人です。
この羊飼いは、そんなことは考えないのです。見失ったら、必ず捜しに行くのです。
小さい者が一人でも滅びることは、この羊飼い、つまり神様の御心ではないのです。
羊飼いなる神様は、一匹と九十九匹を天秤にかけて、どちらが大切かなどと迷うことをしません。
一匹が迷い出たと知ったら、何をおいても先ずまず捜しに行くのです。
ですから、主イエスは、「捜しに行かないだろうか」、と言われたのです。
「当然、行くだろう」、と言われたのです。この羊飼は必ずそうする筈だ。そこには、何のためらいも、迷いもない筈だ、と言われたのです。
でも、これは理屈に合いません。常識では、そんな馬鹿なことをする人はいないのです。
その馬鹿なことを、この羊飼いは、躊躇なくするのだ、と主イエスは言われたのです。
私たちの神様は、そういう羊飼いなのです。九十九匹を犠牲にしてでも、迷い出た一匹をどこまでも捜しに行く。そういうお方なのです。
一人を救うために、犠牲の大きさは厭わないお方なのです。
だから、独り子主イエスの命を犠牲にしてでも、私たちを捜し求めて、救おうとされたのです。
もし神様が、九十九匹と一匹を天秤にかけて、迷われるお方であったなら、恐らく主イエスの命を惜しまれたと思います。
そうしたら、私たちを救うことができなかったと思います。
でも神様は、独り子主イエスの命さえ顧みないで、私たちを捜し求めて下さったのです。
「主は私の羊飼い。私には何も欠けることがない」。この御言葉は真実です。
私たちの神様が、そのような羊飼いでいて下さることを、心から感謝したいと思います。
ここで、私たちが忘れてはならないことがあります。
「天の国で、誰が一番偉いのですか」、と弟子たちが質問したのに対して、主イエスは、「天の国では子供のように小さくて無力な者が、一番偉いのだ」、と言われました。
その時、弟子たちは、この御言葉の意味が分からなかったと思います。
でも弟子たちは、最後まで分からなかった訳ではありません。それが分かった時があったのです。
それは、主イエスが、十字架につけられた時です。
「死んでもあなたに従って行きます」と豪語したのに、主イエスが捕らえられると、一斉に逃げてしまったあの時。
主イエスのことを、三度も「知らない」と言ってしまって、男泣きに泣いた、あの時です。
その時、初めて分かったのです。主イエスが言われた、あの「子供のような者」とは、まさに自分のことだったのだ。
何の役にも立たない無力な者とは、他の誰のことでもない、この私のことだったのだ。
そして、そういう自分が、主イエスに守られ、導かれて、ここまで来たのだ。
だから、弱くて無力な故に、天の国で一番大切にされている者とは、他の誰のことでもない、この自分のことだったのだ。そのことが、初めて分かったのです。
その通りなのです。信仰の未熟な彼らが、躓かないように、信仰から離れてしまわないように、祈って下さったのは、主イエスなのです。
神様の教えから逸れて、迷い出た羊のようにさまよっていた彼らを、どこまでも捜しに来て下さったのは、主イエスなのです。
あの時、主イエスが語られた御言葉は、全てこの自分に対する言葉だったのだ。
十字架と復活の主イエスに出会った時、彼らは、そのことに気付いたのです。
そして、そのことに気付いた彼らは、この羊飼いの許に、他の羊を連れて来る者とされたのです。
子供のように無力で、躓き易い私が、十字架の恵みによって赦され、生かされている。
あなたも、どうか、そのことを知って欲しい。どうか、その恵みの中で生きて欲しい。
心からそう願う者とされたのです。この願いによって、教会は生まれました。
「どうか、この恵みの中を生きて欲しい」。この願いによって、教会の交わりは支えられてきました。
そして、私たちの茅ヶ崎恵泉教会も、この願いによって支えられているのです。