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柏牧師:過去の礼拝説教

「将来と希望の茅ヶ崎恵泉教会」

2021年11月07日 聖書:エレミヤ書 29:10~11

最近読んだ本に、興味深いことが書かれていました。このような記事です。
「前」という言葉があります。進んでいく方向を「前」と呼び、過ぎ去ったところを「後ろ」と呼びます。
「前」は、希望、明るさ、積極性を感じさせますが、「後ろ」には何となく暗く、消極的なイメージがつきまといます。
ところが、この「前」という言葉は、もう一つの意味を持っています。
「十年前」と言うと、一昔前の過ぎ去った過去のことです。「百年前」と言うと、もっと昔のことになります。
進んでいく方向が「前」なのに、なぜ、過去を「前」と言うのでしょうか。
「前」の「ま」は、「まぶた」、「まなこ」、「まばたき」の「ま」、つまり「目」を意味しています。
そして「え」は、「窓辺」とか「海辺」、「山辺」の「辺(へ)」で、方向や場所を表しています。
つまり、「前」とは、目で見ることのできる方向、と言う意味なのです。
普通は進んでいく方向が、目に見える「前」ですが、時間は過ぎ去った過去しか見えません。
ですから、過去が「前」となる訳です。未来は、見ることができないからです。
これを読んで、「なるほどなぁ」と思いました。
確かに私たちは、時間の世界では、過去しか見ることができません。
ところが、聖書は、私たちに、未来を見なさいと言っています。
一体、どうやって、未来を見ることができるのでしょうか。聖書は、こう言っているのです。
神様の御言葉によって、未来を見なさい。神様の約束によって、未来を望み見なさい。
主イエスは、過去に縛られるのではなく、未来を見つめることを勧められています。
私たちは、自分の力では、過ぎ去った過去しか見ることはできません。
しかし、主の御言葉は、私たちに未来を見させてくれます。未来を信じさせてくれるのです。
主イエスは言われます。「さあ、未来を見よう。聖書の御言葉を通して、未来を見よう。
その未来には、神様の素晴らしい御計画。愛の御業、慈しみの御業が用意されています。
未来は、その御業が、一人一人に顕される時なのです。その未来を見ようではないか」。
全能の神様は、過去も、現在も、未来も支配されておられます。
その神様の御言葉によって、私たちは未来をも、望み見ることができるのだ、と主は言われているのです。
そして、それは、素晴らしい御計画、愛の御業、慈しみの御業の中にある未来なのだというのです。
今朝、私たちは、茅ヶ崎恵泉教会の創立70周年を記念して、感謝礼拝をささげています。
私たちは、今、70年前を見つめています。
この地に、主の御体なる教会がたてられ、70年の間、守られ、養われてきた。その恵みに目を向け、感謝する時を持っています。
70年間に与えられた、主の恵みの数々に目を留めて、感謝と喜びに満たされています。
しかし、主イエスは言われています。そこに留まっていてはならない。
70年間に与えられた恵みをしっかりと見つめたらな、今度は、その目を未来に向けなさい。
あなた方に用意されている未来を、御言葉を通して見つめ、新しい歩みを踏み出しなさい。
聖書の御言葉によって、あなた方は、約束された未来を、望み見ることができるのです。
主イエスは、そう言われているのです。
今朝、私たちに与えられた聖書の御言葉は、エレミヤ書29章10節~11節です。
この御言葉から、私たちは、どのような未来を見るのでしょうか。
エレミヤ書29章は、故郷を離れて、不本意にも、見知らぬ土地に住むことを、余儀なくされた人たちに宛てられた手紙です。
戦いに敗れたイスラエルの人々は、住み慣れた土地から、見ず知らずの地、バビロンへと、強制的に移されました。
神殿も、エルサレムの町も破壊され、家族からも切り離されて、異郷の地へと移されたのです。
それが、バビロン捕囚でした。
イスラエルの人々は、言葉も、生活慣習も、宗教も全く異なる土地で、不本意な生活を送ることを余儀なくされたのです。
過去を想い起しては涙し、惨めな思いに沈む日々を送りました。
でも、このような体験は、決して、バビロン捕囚だけに限ったことではないと思います。
私たちも、様々な形で、不本意な環境に置かれて、望まないことを強いられ、不当な仕打ちを受けるということを、体験することがあります。
バビロン捕囚のような時を、生きなければならない時があると思います。
今、置かれている状況に、言い様のない辛さを感じ、魂の安らぎが得られず、生きることにも疲れを覚えてしまう。
何か別の未来に夢を託そうとしても、そんな夢は見つからない。
日本にいながら、この茅ヶ崎に住みながら、バビロン捕囚を生きているような現実に、悩み苦しむ。そういうことがあるかもしれません。
しかし、エレミヤは手紙で語り掛けます。29章5節、6節で、エレミヤはこう言っています。
今、あなたのいるバビロンで、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。
そちらで人口を増やし、減らしてはならない。」
エレミヤは、異郷の地にあっても生きよ、しかも積極的に生きよ、と言っているのです。
これが、エレミヤを通して、バビロン捕囚の民に与えられた、神様の御言葉なのです。
過去を振り返って、ただ嘆いてばかりいるイスラエルの民。
過去に縛られ、絶望しているイスラエルの民に対して、目を上げて、未来を見つめなさい、と勧めているのです。
置かれた土地で、腰を落ち着けて、家を建て、果実を植え、それを食べ、そして家庭を築き、息子、娘を育てなさいと言っているのです。
あなたが、今、置かれている場所は、全く希望のない、地獄のような場所に見えるかもしれない。
しかし、神様は、そこを祝福の満ちる場所とされるのだ、というのです。
これは、異郷の地に生きる神の民への、恵みの言葉です。神様からのエールです。
詩編の詩人も、同じことを、神様から示されました。詩編37編3節はこう詠っています。
「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」
詩人は、この地に住み着き、信仰を糧として生きよ、という神様の御言葉を聴きました。
この地に住み着いて前を向いて生きよ。あなたをこの地に住まわせたのは、この私なのだ。だから、私を信頼し、私の言葉によって歩みなさい。
詩人も、同じように、神様からのエールを頂いたのです。
「この地に住み着き、信仰を糧として生きよ。」
この御言葉は、茅ヶ崎の地に住む、私たち一人一人にも、語られています。
この神様からのエールに続いて、語られているのが、「祈りなさい」という勧めです。
29章7節で、エレミヤは祈ることを勧めています。
「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。
その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」
エレミヤは、バビロンのために祈れ。敵のために、災いではなく、平安を祈れ。シャロームを祈れ、と勧めています。
今、あなたが置かれている、辛く、苦しい現実を、呪うのではなく、そこでこそ、シャロームを祈りなさい。
バビロンの平安を祈りなさい、と言っているのです。
神の民は、置かれたその町のために、執り成しの祈りをすべきなのです。
なぜなら、その町に、その民を送られたのは、神様だからです。
教会は、どこにあっても、この祈りをしなければならないと思います。
私たちが送られたこの町、この茅ヶ崎のために、執り成しの祈りを献げる。
ここに神様の平安がありますように。神様の賜るシャロームがありますようにと祈る。
それが、その地に生きる教会の、あるべき姿なのです。
この日本の国、この茅ヶ崎の地は、まことの神様を知らない土地です。
神の国から遠い異郷です。だからこそ、この国、この町のために、執成して祈るのです。
そのために神様は、ここに教会をたてられ、私たちをその教会に、呼び集められたのです。
70年目の節目に当たって、私たちは、そのことを、改めて覚えたいと思います。
そして、「70年先を見る」、という主の言葉が、続いて語られています。
29章10節以下で、エレミヤはこう語ります。
「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。
わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
70年は長い時です。今は、エレミヤの時代よりも、平均寿命がずっと長くなっていますから、70年前のことを知っている人は、珍しくなくなりました。
しかし、エレミヤの時代の70年は、世代がすっかり入れ替わる時間の長さでした。
一つの世代を超えた、その先にある、神様のご計画を、遥かに望み見て生きる。
神様の御言葉を信じて、まだ見ない未来を望み見て、希望に生きることを、エレミヤは勧めているのです。
なぜなら、その神様のご計画は、災いではなく平和、シャロームの計画であるからです。
私は、将来と希望を与える、平和の計画を用意しているのだ、と主は言われているのです。
70年先は、この神様のご計画に信頼することによって、初めて見ることができるのです。
本来は、過ぎ去った過去しか見ることが出ない私たちです。
70年前しか見ることができない私たちが、70年先を見ることができるのは、神様の御言葉に信頼することによって、初めて可能になるのです。
イスラエルの人々は、主の御言葉を信じて、70年先の将来と希望に生きました。
私たちも、この教会を、70年間守り、導いて下さった主のご計画を見つめます。
そして、これから先の70年間も、同じ恵みのご計画の中にあることを信じて、未来をしっかりと見つめていきたいと思います。
茅ヶ崎恵泉教会は、これまでも、そしてこれからも、将来と希望に満ちた、主のご計画を信じ、そのご計画にこめられた恵みを、信仰の目で見つめつつ、歩んで行きたいと思います。
この茅ヶ崎の地に、しっかりと根を張り、茅ヶ崎のために執り成しの祈りを祈りつつ、御言葉に導かれて、歩んで行きたいと思います。
この朝、私たちは、茅ヶ崎恵泉教会の歩みを振り返り、注がれた主の恵みと愛に、感謝する時を共に過ごしています。
この茅ヶ崎恵泉教会は、70年前に茅ヶ崎教会と分かれて、別の道を歩むことを選択した結果、誕生した教会です。
ですから、元々は茅ヶ崎教会と一つであったのです。
そして、母体であった茅ヶ崎教会の前身は、1928年に設立された茅ヶ崎美普教会です。
当初、茅ヶ崎美普教会は、平塚美普教会(今の平塚教会)の指導を受けて、平塚美普教会の枝教会のような形で、スタートしました。
ですから茅ヶ崎恵泉教会は、茅ヶ崎教会や平塚教会と、歴史的な関わりを持っているのです。
茅ヶ崎教会や平塚教会と、信仰のルーツを共有している、と言っても良いと思います。
今、美普教会という、聞きなれない言葉が出てきました。
美普とは、美しいという字の「美」と、普通の「普」という字を、繋いだ言葉です。
美しくて普通である。それが教会と、どう関わるのか。見当もつかないと思います。
それもその筈です。この美普という字は、それ自体には意味がない、当て字だからです。
アメリカのことを「米国」、イギリスのことを「英国」と呼んでいるように、字そのものには、意味はありません。発音から考えられた当て字なのです。
美しいの「美」は、「メソジスト」という言葉を表しています。そして普通の「普」は、「プロテスタント」という言葉を表しているのです。
ですから、「美普」とは、「メソジスト・プロテスタント」を略した、当て字なのです。
茅ヶ崎恵泉教会のルーツは、茅ヶ崎メソジスト・プロテスタント教会なのです。
このメソジストというキリスト教の教派は、18世紀のイギリスで、ジョン・ウェスレーという人が起こした、信仰覚醒運動によって生まれた教派です。
十字架による罪の赦しを頂いた者は、その恵みに応えて生きなければならない。
汚れたままであるのに、真白な衣を着させていただいたのなら、中身もそれに相応しく、少しずつでも白くなるように、応えていかなければならない。
これを聖化と言います。聖書の「聖」と、変化の「化」を繋げた言葉です。
この聖化に生きることが、ジョン・ウェスレーが起こした、メソジスト運動のエッセンスです。
茅ヶ崎恵泉教会は、この信仰の流れを受け継いでいるのです。
また教会創立時には、茅ヶ崎平和教会にも、大変助けて頂きました。
茅ヶ崎教会と別の歩みを始めた当初、教会員の多くは、一時的に、茅ヶ崎平和教会にお世話になり、養われたのです。
私たちは、そのような教会の歴史を忘れることなく、近隣の教会との交わりを大切にしていきたいと思います。
今、70周年委員会の方々が、「70周年記念誌」を編集して下さっています。
大変丁寧に、細かいところまで気を配りつつ、忍耐の要る作業を黙々と担って下さっています。その地道なご努力には、本当に頭が下がります。
この「70周年記念誌」もそうですが、どこの教会の記念誌にも、付帯資料として、年表が含まれています。
その年表には、外部講師を招いて、特別な礼拝や集会を、行ったことが記されています。
しかし、教会の歴史は、そのような外部講師によって、作られるものではありません。
また、牧師一人によってのみ、作られるものでもありません。
そうではなくて、70年誌の年表に、一度もその名を記されないような、多くの信徒の方々によって、教会の歴史は作られているのです。
特別集会で、教会の歴史が作られるわけではありません。もしそうであれば、絶えず特別集会をして、著名な講師を招かなければなりません。
主を信じる信徒の群れがあり、そこで確かな信仰の告白がなされているなら、教会の歴史は作られていくのです。
礼拝から礼拝へ、祈祷会から祈祷会へと、教会の歴史は繋がれて行くのです。
茅ヶ崎恵泉教会の70年の歴史を振り返る時、歴代の牧師たちや役員の皆様方のご苦労を、思わずにはいられません。
しかし、同時に、この茅ヶ崎・共恵の地に、毎聖日集まられた、信徒お一人お一人が、ここで礼拝を重んじて生きられた。
その事実によって、教会は生きて来たのです。それによって、教会の歴史が刻まれたのです。
毎週、静かに礼拝の席に座られて、嬉しそうに賛美をささげ、黙って御言葉に耳を傾ける。
目立った働きはされなくても、信仰の年輪が、滲み出ているような信徒の方々。
そういう地道な信仰の歩みによって、教会の歴史は作られてきたのです。
幼な子のように、ただひたすらに神様を愛し、神様に愛され、神様の愛の中を生きる。
そういうお一人お一人によって、茅ヶ崎恵泉教会の歴史は作られてきたのです。
そして、これからも、それが続いていくのです。
ですから、今、編集して頂いている「70周年記念誌」は、特定の方に書いて頂くのではなく、そのように、ただひたすら信仰の歩みを続けて来られた、お一人お一人に寄稿して頂いて、作り上げたいと願っています。
目立たないかも知れませんが、忠実に礼拝を守り、人知れず教会のために祈って下さった、お一人お一人によって、茅ヶ崎恵泉教会の歴史は作られてきたからです。
今年度、私たちに与えられた年間主題聖句は、イザヤ書43章19節です。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」
主は、茅ヶ崎恵泉教会に新しいことを行う。今や、それは芽生えている、と言われています。
私たちは、この70年目に、新しいスタートを切ることを、主によって期待されているのです。
昨年、今年と、コロナ禍のために、計画していたことが、思ったように進みませんでした。
挫折感と無力感に覆われ、暗く沈み込んでしまうこともありました。
しかし、主は言われています。「私は、あなた方のために、既に計画を立てているのだ。
それは、将来と希望に満ちた、平和の計画なのだ。荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる、栄光の計画なのだ。
そして、それは既に芽生えている。あなた方は、それを悟らないのか。
さあ、目を上げて、あなた方の前に、私が備えた未来を、望み見なさい。」
愛する兄弟姉妹、この素晴らしい約束の未来を、信仰の目でしっかりと見つめて、新しい70年へと、ご一緒に歩みを踏み出していきたいと思います。
主が用意して下さっている、将来と希望に満ちた計画を信じて、新たな一歩を踏み出していきたいと思います。