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過去の礼拝説教

「絆を支えるもの」

2021年11月14日 聖書:マタイによる福音書 19:1~15

皆さんとご一緒に、マタイによる福音書を少しずつ読み進んでまいりましたが、今朝から19章に入ります。
この19章で、主イエスは、宣教の本拠地であったガリラヤを後にして、いよいよエルサレムを目指して旅立たれます。
それは、ゆっくりとした歩みのように見えますが、内に緊張を秘めた旅でした。
なぜなら、その旅は、十字架へと向かう旅であったからです。
主イエスが、この後、再びガリラヤに戻られるのは、復活された後のことになります。
ですから、十字架をしっかりと見つめながら、主イエスは、ガリラヤを去られて、エルサレムへと、その歩みを進めて行かれたのです。
しかし、弟子たちを始め、主イエスを取り囲んでいた人たちは、誰一人として、このエルサレムへの旅が何を意味するか、その本当の意味を知りませんでした。
この旅の途中で、様々な人たちが、主イエスに近付いてきました。夫々の思いや願いを、主イエスに投げ掛けたのです。
その最初に登場するのが、ファリサイ派の人たちです。
ファリサイ人たちは、結婚生活について、主イエスに質問しました。
彼らは、主イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」、と尋ねたのです。
この質問は、ファリサイ派の人たちの質問としては、少々的外れであると言えます。
なぜなら、何らかの理由によって、夫が妻を離縁する権利は、律法によって認められていたからです。
律法の専門家であるファリサイ派の人たちが、それを知らない筈はありません。
申命記24章1節は、こう言っています。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
このように律法は、夫が妻を離縁する権利を、はっきりと認めているのです。
但し、ここでは、夫が妻を離縁することについてのみ規定されています。
妻が夫を離縁することについては、語られていません。
当時は、妻の方から、離縁の手続きを起こすことは、考えられない時代だったのです。
なぜなら、妻は、夫の所有物とされていたからです。
それは、13節以下に登場する子供についても、同じでした。
当時、子供も、親の所有物と考えられていて、人格が認められていませんでした。
主イエスは、そのように虐げられていた女性や子供たちに、どこまでも寄り添われました。
人格が認められていなかった、弱い女性や子供たちを慈しまれ、大切にされました。
14節で主イエスは言われています。「天の国は、この子供たちのような者のものなのだ。」
この子供たちのように、自分は何もできない、自分には、何も誇るべきものがない。
だから、神様の恵みに依り頼んで生きるしかない。
そのように、自分を低くするものが、天の国に入ることができるのだ、と言われたのです。
そして、子供たちの頭に手を置いて、祝福してくださいました。
今朝、私たちは、子供たちへの祝福を祈る、ファミリー礼拝をささげています。
この子供祝福礼拝の朝に、13節以下の御言葉が与えられたことに、私は少なからぬ感動と喜びを感じています。
マタイによる福音書を、順に読み進んできましたが、この朝、子供祝福のファミリー礼拝において、図らずもこの御言葉にたどり着いた。
これは、偶然とは思えません。私たちの思いを遥かに超えた、神様のご配慮としか思えないのです。
昨年に続き、今年も、コロナ禍のため、お子様方を教会に招いて、一人一人に按手して祈ることができません。たまらなく残念な思いがいたします。
しかし、今朝の御言葉には、主イエスが、子供たちの頭に手を置いて祝福された、と書かれています。
私は、この御言葉から、今朝、教会に招くことができなかった、お子様方一人一人に、今、この時に、主イエスが手を置いて祝福してくださるお姿を、心の目で見させて頂いています。
そして、それぞれの場で、お子様方が、主イエスご自身から、豊かな祝福を頂いていることを信じて、お一人一人の健やかな成長を、主の慈しみの御手に、お委ねしたいと思います。
さて、結婚の問題に戻ります。
先程の申命記24章1節の御言葉について、当時、二つの異なった見解がありました。
夫に対して、厳しい立場を取っていた学者たちは、「恥ずべきこと」とは、「不品行」を意味していて、姦淫などの不品行以外の理由による離婚は許されない、との見解を取っていました。
一方、夫に対して緩い立場に立つ学者は、「恥ずべきこと」とか、「気に入らなくなったとき」という言葉を、非常に広く解釈して、どんな些細なことによってでも離婚できる、との見解に立っていました。
例えば「料理を失敗しておこげを作ったなら、離婚しても差し支えない」とか、「隣の家に聞こえるような大声を出したら、離婚しても構わない」、などと教えた学者もいたそうです。
そして当時は、男性にとってまことに身勝手な、この見解が主流となりつつあったようです。
いずれにしても、律法には、何か理由があれば離婚できる、とちゃんと書いてあります。
それにもかかわらず、なぜファリサイ派の人たちは、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」、と分かり切った質問をしたのでしょうか。
実は、彼らの質問の真意は、こういうことではないでしょうか。
律法は、何か理由があれば離婚できる、と言っている。そのことは、勿論知っている。
でもそういうことで、まことの結婚生活は成り立つのか。結婚生活とはそういうものなのか。
彼らは、このことを聞きたかったのだと思います。
今日の教会においても、結婚について、同じような質問を問われることがあります。
このような質問です。「教会で結婚式を挙げたら、離婚できないのですか」。
この質問も、ファリサイ派の人々の質問と同じように、少々的外れです。
なぜなら、私たちは誰でも、法律上は、夫婦で合意したなら離婚できる、ということを知っているからです。
教会が何と言おうとも、法律上は、離婚は可能なのです。
でも、それを知った上で、尚も、そういう質問をするのです。
もし、この問いに対して、このように答えたなら、どうなるでしょうか。
「そうです。教会で結婚したら、絶対に離婚はできません」。
或いは逆に、「大丈夫、離婚などいつでもできますからご安心ください」。
もしこう答えても、そのどちらの答えにも、質問者は納得しないと思います。
なぜなら、その人が、本当に聞きたいことは、教会は結婚のことを、どう考えているのか、ということだからです。
婚姻届けを出せば夫婦になり、離婚届けを出せば夫婦でなくなる。
夫婦というのは、それだけのものなのですか。結婚とは、それだけのものなのですか。
どうも、それは納得できない。一体、教会は結婚というものを、どう考えているのか。
夫婦というものを、どう考えているのか。それを聞きたい。これが質問の真意なのです。
主イエスは、この問いに対して、創世記1章と2章の御言葉をもって、答えておられます。
離婚の条件について問われましたが、結婚の意義を説かれたのです。
創世記1章27節は、このように語っています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
主イエスは、創造主なる神様は、初めから人を、男と女とに造られたのだ、と言われました。
あなた方人間は、天地創造の初めから、男として、或いは女として、造られた。
それは、言い換えると、男性は女性なくしては生きることができない。そして、女性も男性なくしては生きることができない、ということなのだ。
お互いに、かけがえのない存在として造られたのだ。主イエスは、そう言われたのです。
これは、人間のみに語られていることです。神様は、動物をも創造されました。
しかし、動物を、雄と雌とに創造されたとは、書かれていません。なぜでしょうか。
その答えは、「神は御自分にかたどって人を創造された」、という御言葉の中にあります。
神様にかたどって、とはどういうことでしょうか。
神様の本質は愛です。神様は、私たち人間を、ご自身の愛の対象として造られました。
また人間同士も、お互いに愛し合う存在として、造られたのです。
神様にかたどって、男と女が創造されたということは、お互いを愛の対象として、必要不可欠な存在として造られた、ということなのです。
男と女も、お互いを愛の対象として、受け入れ合うことが、神様の御心なのです。
私は、結婚準備講座において、必ず次のことを語らせて頂きます。
まず、結婚しようとされているお二人に質問します。
「お二人は、なぜ結婚するのですか、結婚の目的は何ですか」。
「なぜ結婚するの」、と結婚の目的を尋ねられた時、多くの人が、「好きだから」、「愛し合っているから」、と答えます。この答えは、間違ってはいません。
お互いが、愛し合っているから結婚するのです。結婚は、愛を動機としています。
しかし、愛は、結婚の動機であるだけではありません。愛は、結婚の目的でもあるのです。
今、愛し合っているから、だけでなく、これからも、愛するために、結婚するのです。
二人が結婚するのは、勿論、今、お互いに、愛があるからです。しかし、それ以上に、これからも、お互いに、愛し合っていくために結婚するのです。
結婚は、これからの人生を、愛を持って、一緒に生きていくためにするのです。
共に生きていくこと。これが、結婚の目的であるべきなのです。
更に、主イエスは、創世記2章24節の御言葉を引用されて、こう言われました。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
結婚は、神様の御心によるのである。神様の御心によって、夫婦は、一つのからだ、一つの人格を造るのだ。主イエスは、そのように言われたのです。
ここで主イエスは、夫婦は一体となるべきだ、と命じられたのではありません。
一体となるように、と勧められたのでもありません。一体なのだ、と言われたのです。
でも、自分の結婚生活の実態を見る時、一体なのだ、と言われても、とてもそうは思えない。
行き違いや、言い争いが絶えない。とても、一体です、とは言えない。
そう思われる方が多いかもしれません。でも、神様の目から見れば、一体なのです。
あなた方は、私の目には、一体である。結婚して夫婦となるということは、そういうことなのだ、と主は言われているのです。
ですから、主イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と言われたのです。
この「結び合わせる」という言葉は、もともとは、「共に」という言葉と、「くびき」という意味から、作られた造成語で、本来は「共にくびきを負う」、という意味です。
ですから直訳すると、「神が共にくびきを負うようにとされた」、ということになります。
互いにくびきを負って生きて行く。それが、「二人はもはや別々ではなく、一体である」ということの、本来の意味なのです。
事故のため、首から下が全く麻痺してしまった星野富弘さんが、その著書の中で、このようなエピソードを書いておられます。
「先日も妻に任せっぱなしで食事をしていたら、おかずが口に運ばれてくるばかりで、いくら待っても、ごはんを食べさせてもらえない。
同じ箸で、私に食べさせながら自分も食べているので、妻は私の口に入れたおかずを、自分で食べたと勘違いして、自分では、ごはんばかりを食べていたのである。」
この「勘違い」は、なんと見事な一体性を示していることでしょう。
「一体となる」とは、このように、共にくびきを負いつつ、生きていくことではないでしょうか。
しかし、もし、何らかの理由によって、結婚生活に破れが生じたら、まず、赦すことによって、その破れを修復し、交わりが回復されることを、主は望まれておられます。
赦し合うことこそ、夫婦の関係を支え、深める鍵なのです。
互いに赦し合い、相手の欠けを担い合い、執り成しの祈りをささげる。
そのことによって、夫婦は真実に一体となっていくのではないでしょうか。
主イエスの十字架という渦によって起こされた、愛の波紋、赦しの波紋は、先ず最も身近な人へと、伝えていかなければならないのです。
しかし一方で、主イエスは、特殊な状況における、正当な離婚の可能性を、全く排除することはなさいませんでした。
結婚の意義が、全く否定されるような困難な状況にある時。しかも、そのような状況が正される見込みが、全くないような時には、離婚もあり得ると言われたのです。
結婚生活においては、思いがけないことが、起こります。
いくら努力しても、「互いに愛し、敬い、助け合う」ことが見込めないのなら、それは、祝福された結婚生活とは言えないと思います。
離婚の方が、祝福された生活に、繋がる場合もあるのです。
結婚の危機に遭遇した時には、主イエスの十字架の赦しの愛を、夫婦の間にもうー回立てる、ということが大切です。
しかし、それでも尚、離婚せざるを得ないような状況にある場合、主イエスの十字架は、意味を持たなくなるのでしょうか。そんなことはない筈です。
その時こそ、私たちの心は、主の赦しへと、向かわざるを、得ないのではないかと思います。
その赦しの中で、離婚した者が、或いは、再婚した者が、もう一度、主イエスの、十字架の恵みの中で、やり直そうとすることも、また許される筈です。
十字架の恵みの中での再婚は、許されるだけでなく、祝福されるのではないかと思います。
今朝の御言葉で驚かされることは、主イエスが、結婚について、実に、多様な考え方を、認めておられるということです。
主イエスは、ここで、結婚している人と、独身で生きている人と、どちらの方が偉いか、などと比べてはおられません。
結婚という生き方が重んじられるように、結婚しないという生き方も重んじられるべきだ、と言われているのです。
主イエスは、結婚に生きるにしても、独身で生きるにしても、大切なことは、その道を受け入れるということなのだ、と言われています。
この「受け入れる」と訳されている言葉の原語は、「場所を作る」という意味の言葉です。
自分の心の中に、場所を作るのです。何のための場所でしょうか。
神様の御心を、受け入れる場所を作るのです。
祈りのための場所、御言葉を聴くための場所を、心の中に作るのです。
そうすることによって、初めて、真実の意味で、妻と或いは夫と、共に生きることも始まるのです。また、結婚せずに、一人で暮らす生き方も定まってくるのです。
私たちは、直ぐに、自分でこの道を選び、この人を選んだのだと、思い込んでしまいます。
しかし、私たちは、妻を、夫を、或いは家族を、神様から与えられているのです。
その与えられた人たちとの、愛の絆に生きることを、神様から命じられているのです。
そのためには、まず、主の御心を受け入れる場所を、作らなければなりません。
まず、主の愛を受け入れる場所を作ることが必要なのです。
御言葉によって、日々主の愛を受け入れていくとき、私たちの結婚生活もまた、確かな愛の絆に生きることが出来るのです。
先の世界大戦の時の話です。東京の富士見町教会に遣わされた、若い牧師が徴兵され、満州に出征することになりました。
いよいよ入隊するという前の晩に、この牧師は、奥さんと二人で聖書を読み、これからは、お互いに、この箇所から始めて、毎日1章ずつ読んでいくことを約束して、出発しました。
数年後に、この牧師は帰ってきました。そして、その帰国第一日目に、お互いに開いた聖書の箇所が、ぴったり一致したということです。
この夫婦は、主の愛を受け入れる場所を作っていました。ですから、お互いを受け入れる場所をも、用意できたのです。
私たちは、主の愛を受け入れる場所を塞いでしまいがちです。そのようなときには、主の十字架のもとに立ち返りましょう。
それによって、結婚生活を、或いは家庭生活を豊かにし、夫婦や家族の関係を、実りあるものとすることが出来るのだと信じます。
御言葉は言っています。「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」