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「ただ一人の善いお方」

2021年11月21日 聖書:マタイによる福音書 19:16~22

今朝の御言葉は、主イエスの弟子になり損なった、富める青年の話です。
主イエスの弟子たちというのは、漁をしている時や徴税所に座っていた時に、主イエスから、「私について来なさい」と声を掛けられ、直ちに従って行った人たちでした。
同じように、主イエスは、富める青年にも、「私について来なさい」と言われました。
ところが、残念ながら、この青年は、それができなかったのです。
言ってみれば、主イエスの弟子になる、入門試験に落第したのです。なぜ落第したのでしょうか。
それは、その青年が持っている全財産を貧しい人に施して、私について来なさい、と主イエスに言われて、その言葉に従うことができなかったからです。
この物語を読むと、私たちは、身に詰まされるような思いを、感じるのではないでしょうか。
富める青年は落第してしまった。では、私たちはどうなのか。果たして合格するだろうか。
そういう思いが迫って来るからです。
ここでの主イエスのお言葉は、あまりにも厳しいお言葉であるように聞こえます。
ですから、何のためらいもなく、私たちの心に、すんなりと入ってくる言葉ではありません。
でも、ここで、私たちが、思い出さなくてはならないことがあります。
それは、主イエスのお言葉は、福音であるということです。福音とは、喜びの言葉です。
ですから、福音である主イエスのお言葉を聴いて、嬉しくなるのが本当なのです。
たとえそれが、表面的には厳しいお言葉であったとしても、聴き終えた後には、喜びが満ち溢れて来る筈です。
そうでなければ、主イエスの御心を、聴き取ったことにはならないと思います。
そのような思いを持って、御言葉に聴いてまいりたいと思います。
この青年は、たくさんの資産を持っていました。安定した生活が約束されていたのです。
その上、信仰生活を規則正しく送り、聖書を理解する知恵もありました。
その意味では、大変恵まれた人でした。自信を持って生きていたに違いありません。
しかし、それでも、この青年は、思い悩んでいました。なお何かが足りない。
小さい時から、神様の戒めは、一生懸命に守ってきた。それでも、自分の生き方には、何かが足りない思いがする。
このままでは、永遠の命が受けられないという不安を、取り除くことができない。
永遠の命を得るためには、何が足りないのか。これが、この人の問いでした。
では、永遠の命とは何でしょうか。それは「不老不死」のことではありません。
また、あの世に生き続けることでもありません。
永遠の命というのは、神様の救いに与り、神様のものとされる、ということです。
神様のものとされて、神様の恵みによって、支えられて生きる生き方。
この世にあって、様々な苦しみや、悲しみがあっても、また死に直面しても、尚、絶望することなく、希望を持って生きることのできる人生。
それが、永遠の命なのです。
この青年の問いに対して、主イエスは、このように答えられました。
「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善いお方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」
あなたは、もっと何か善いことをしたい。そうすれば命に入ることができる、と思っている。
しかし私は、それに対する答えを、与えようとは思わない。
そもそも、救われるために、「どんな善いことをしたらよいでしょうか」、という質問自体が間違っているのだ。
問題は、あなたが、更に、何か善い業をすることができるか、どうかということではない。
私の答えは、ただ一人の善いお方を、見上げて生きなさい、ということなのだ。
唯一の善いお方である、神様を見上げて生きなさい。
そうすれば、永遠の命に入ることができる。死から命へと、移ることができる。そのことに、すべてがかかっているのだ。
あなたは、自分の行いばかりを見ているが、そうではなく、善いお方を見なさい。
主イエスは、そのように教えられたのです。この教えが、今朝の御言葉の急所です。
しかし、この青年は,そのことが分かりませんでした。ですから、更に問いかけました。
ただ一人の善いお方を見つめ、その戒めに生きなさい、と言われますが、それはどの戒めなのですか、と問い返しました。
これに対する主イエスのお答えは、簡潔です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え。また、隣人を自分のように愛しなさい。」
これは、モーセの十戒の後半と、レビ記19章18節の御言葉の引用です。
ユダヤ人なら、誰でも、子どもでも知っている御言葉です。
この答えは、この青年を失望させました。
「そういうことはみな守ってきました」、という彼の言葉には、失望感が感じられます。
十戒を守ることは、ユダヤの人々にとっては、当たり前のことだったからです。
特別立派なことでも、何でもないのです。
この人は、永遠の命を受け継ぎたいと、真剣に願っていました。
ですから、人一倍熱心に、十戒を守っていたと思います。
彼が聞きたいと思っていたのは、そんな当たり前のことではなくて、それ以上のことでした。
十戒を守ることに加えて、更に、何をしたらよいのか、ということであったのです。
主イエスは、そのような彼の思いを、根本からひっくり返そうとされました。
自分が善い行いをし、善い者となることによって、永遠の命を得ることができるという、彼の思いは、根本的に間違っているのです。
永遠の命とは、自分の行いや努力で、獲得するものではないからです。
私たちが、何かをしたなら獲得できる、というようなものではないのです。
それは、ただ、神様が、恵みによって、与えて下さるものなのです。
ですから、それを得るためには、ただ一人の善いお方である、神様を見つめ、その恵みを求めていかなければ、ならないのです。
主イエスは言われました、大切なのは、あなたがする善いことではなくて、善いお方を見ることなのだ。
何をするかではなく、何を見つめるか、なのだ。自分の行いを見つめるのではなく、神様の恵みに、目を向けることなのだ。
しかし、この青年は、主イエスのお言葉の意味が、全く分かっていません。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
この言葉には、十戒のような当たり前のことではなくて、それ以上に、何をするべきかが知りたいのだ、という思いが込められています。
この青年は、主イエスのお言葉の意味が理解できず、あくまでも自分の善い行いによって、永遠の命を得ようとしています。
しかし主イエスは、この人を、決して、責めたり、批判したりしては、おられません。
むしろ、彼を愛して、慈しんでおられます。
その慈しみの眼差しの中で、主イエスは、「もし完全になりたいのなら」、と言われました。
このお言葉に、青年は、目を輝かせて、主イエスを見上げたのではないかと思います。
主イエスの答えに失望していたところに、「もし完全になりたいのなら」、と言われたのです。
「そうです、私が聞きたいのは、そのことなのです。完全になるために、私に、なお欠けているものとは、何でしょうか」。
彼は、期待をもって、主イエスの次のお言葉を待ったと思います。
ところが、主イエスが、次にお語りになったことは、彼の、度肝を抜くようなことでした。
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。
財産を全て売り払って、貧しい人々に施し、私に従って来なさい。
それが、あなたに、なお欠けている、一つのことだ、と主イエスはおっしゃったのです。
この言葉を聞いた途端に、彼の顔は曇りました。彼は、この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。
そんなことは、自分にはとてもできないと思ったからです。
私たちもまた、主イエスの、このお言葉に、たじたじとならずには、おられません。
永遠の命を得るためには、全財産を売り払って、貧しい人々に施し、何も持たずに、主イエスに、従っていかなければならない。
もし、それが、救われるための条件だとしたら、私たちも、この人と共に、気を落とし、悲しみながら立ち去るしかない、と言わざるを得ないと思います。
しかし、主イエスの、このお言葉は、永遠の命を得るための条件を、語っているのでしょうか。
もし、全財産を売り払って施すという行いが、永遠の命を得るための条件だ、というのなら、それまでの主イエスのお言葉と、矛盾してしまいます。
ですから、主イエスは、そういうことを、言っておられるのでは、ありません。
主イエスは、ここで、彼の生き方を、根底から、ひっくり返そうとしているのです。
自分の力で善い行いをして、その実績によって、救いを獲得しようとする。
そんな生き方を捨てなさい、と言っておられるのです。
この青年が、ずっとしてきたのは、自分の善い行い、という実績を、あたかも財産を貯めるように、せっせと積み上げることでした。
そして、その財産を増やしていくことによって、救いを獲得しようとしていたのです。
主イエスのところに来たのも、その財産を、更に増やす方法を、教えてもらうためでした。
しかし、主イエスが、彼に語ったのは、あなたが積み上げている財産を、全て放棄しなさい、ということです。
自分が貯め込んでいる、善い行いによって、救いを得ようとすることを止めて、ただ神様の恵みによって救いに与るという、新しい歩みを始めなさい、ということです。
それが、ここに語られている、「天に富を積む」、ということなのです。
全財産を売り払って、貧しい人々に施すことによって、天に富を積む。
これは、誰にも出来ないような、善い行いをすることによって、天の銀行に莫大な富を積んで、それによって救いを得る、ということではありません。
天の富、というのは、私たちの善い行いではなくて、神様の恵みのことなのです。
私たちが、自分の善い行いではなく、ただ一人の善いお方である神様により頼むことによって、その神様の恵みという富が、天に積み上げられていくのです。
逆に私たちが、自分の力、自分の善い行いを頼りにして、それによって、救いを得ようとするなら、神様の恵みという天の富は、失われていってしまうのです。
神様は完全な愛のお方です。完全な愛、完全な恵みを与えることができる、善いお方はただ一人、神様だけです。
主イエスは、この青年に対して、この神様の全き愛、全き恵みの中に、生きることを求められたのです。
この青年が、目指していたのは、自分の力で、救いを得ることでした。
しかし主イエスは、彼に、そのように、自分の力で、歯を食いしばって、生きていこうとすることを止めて、私についておいで、と言っておられるのです。
永遠の命とは、何か特別に善いことをすることではなく、ひたすら神様の恵みにより縋ることによって、与えられるのです。
ですから、この話は、先週の、「天の国はこの子供のような者たちのものである」と言われた、主イエスのお言葉と結びつきます。
子どもたちは、天の国に入るための、どんな条件も満たすことができないのです。何も誇るべきものを持っていないのです。
ただ恵みによって、天の国に入れて頂くだけ、それが子どもたちです。
「何か善いことをしたいのですが、それを教えてください。私はそれを行います」などという、生意気な質問もしないのです。
その子どもたちを、主イエスは受け入れておられるのです。
主イエスは、この青年にも、「この子供のようになって、天の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。
ところが彼は、主イエスの、この招きを、受けとめることができずに、気を落として、悲しみながら立ち去ってしまいました。
それは、たくさんの財産を、持っていたからである、と語られています。
では、自分は金持ちではない、と思っている人にとっては、今朝の御言葉は、関係のない話なのでしょうか。
私たちは、自分を、そんなに大金持ちだとは、思っていません。
では、自分たちの方が、財産を捨てるのが簡単だと、果たして言えるでしょうか。
必ずしも、そうではないと思います。
少なければ、少ないなりに、むしろそれに、しがみつくということが、実際にはあります。
財産などとは、言えないほどの、僅かなものであっても、それに固執して、それを手放せないという現実が、あるのではないでしょうか。
ですから、この人の姿は、他人事ではありません。むしろこの人は、私たちの代表です。
では、もし、私たちが、主イエスから同じことを言われたなら、私たちもまた、悲しみながら立ち去ることになるのでしょうか。
確かに、この人の姿は、私たちと重なっています。
しかし、私たちは、この人のように立ち去ることはしません。立ち去らないで、毎週、聖日礼拝に出席しています。
どうして私たちは、立ち去らないのでしょうか。
私たちが、この人よりも、優れているからでしょうか。そんなことはありません。
また、どれほど金持ちであるかが、問題なのでもありません。
今朝の御言葉が、私たちに、問い掛けているのは、私たちが、自分の力や、自分の善い行いという自分の富に、より頼んでいることが、いかに多いか、ということです。
私たちは、誰もが皆、自分の善い行いや、自分の立派さという、たくさんの財産を持ち、それを大切にし、それにしがみついています。
それから手を離して、神様の恵みのみに、身を委ねることが、なかなかできないのです。
そういう、私たち一人一人の姿が、ここに描かれているのです。
悲しみながら、立ち去っていく、この人を、主イエスは、どのような目で、見つめておられたのでしょうか。
この後で、讃美歌197番を歌います。その1節はこの場面を歌ったものです。
「ああ主のひとみ、まなざしよ、きよきみまえを去りゆきし、富める若人見つめつつ、なげくはたれぞ、主ならずや」。
立ち去っていく、この人を見つめて、主は嘆いておられます。
しかしそれは、「嘆かわしい」という、怒りや裁きの思いではありません。主イエスは、この人を、愛と慈しみの眼差しで、見つめておられたのです。
去っていく彼にも、その愛と慈しみの眼差しは、注がれているのです。
この人は、主イエスのお言葉に、悲しみながら立ち去りました。
しかし、ここで悲しんでいるのは、この青年だけではありません。
「悲しみながら立ち去った」という、この言葉の裏に、主イエスご自身が悲しみ、苦しんでいるお姿が、隠されているのではないでしょうか。
主イエスご自身が、その人と同じように、悲しみ、苦しんでいるお姿が、そこにあったのでは、ないかと思います。
悲しみながら立ち去った、この青年のためにも、主イエスは、十字架にかかって、死のうとしておられます。
去って行く彼を、主イエスは、そういう恵みと慈しみの眼差しで、見つめておられたに違いないと思います。
私たちも、全てを捨てて、私に従いなさい、という御言葉の前に、うなだれて、立ち去るしかない者です。
しかし私たちが、そのような自分の姿を知り、その自分を悲しむ時、そこから、新しい道が開かれていくのだと思います。
私たちのために、十字架にかかって、死んで下さった、主イエスの恵みに、ただより縋っていくという、新しい道です。
主イエスは、愛と慈しみの眼差しをもって、私たちを、その道へと、招いておられます。
その招きに応えて、主イエスにより縋っていく時に、私たちは、何か、立派なことをしなければ、救いを得ることができない。
自分のしていることは、まだ足りないのではないか。
そのような不安から、解放されて、喜んで主イエスに従っていく者と、されるのだと思います。
悲しみながら立ち去らざるを得ないような私たちが、尚も、毎聖日の礼拝で、主の前に立ち続けることができるのは、この主の愛と慈しみの眼差しに、生かされているからです。
そのことに、心から感謝しつつ、共に歩んで行きたいと思います。