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過去の礼拝説教

「インマヌエルなる主」

2021年12月19日 聖書:マタイによる福音書 1:18~25

インマヌエル、「神、我らと共にいます」。
今朝の御言葉は、主イエスとは、このインマヌエルという名によって呼ばれるお方だ、と言っています。
クリスマス主日礼拝の朝、私たちは、このインマヌエルという主イエスの呼び名を、改めて心に留め、主イエスご誕生の意味を、ご一緒に探っていきたいと思います。
主イエスのご誕生は、今の私たちと、どのような関わりがあるのか。そのことを、ご一緒に、御言葉から聴いてまいりたいと思います。
私が高校生の時、橋本ナホという婦人牧師に、聖書の授業を指導して頂きました。
この橋本ナホ先生のご主人、橋本鑑牧師は、病弱であったにもかかわらず、献身的に教会に仕え、若くして召された方でした。
橋本ナホ先生は、ご主人の命懸けの伝道の姿勢に、強い影響を受けられ、ご主人が召天された後、献身されました。
そして、東京用賀に教会をたてられ、熱心に伝道されました。
橋本ナホ牧師に、そのような強い影響を与えられた橋本鑑牧師。
彼は、日本のクリスチャンの信仰が、ただ知識だけで終わってしまうことを、常々、悲しまれておられたそうです。
そして、信仰を体で受け止め、生活の中で実践していくことの大切さを説かれました。
その実践の一つとして、キリストの名を唱え続ける、ということを、熱心に勧められました。
「インマヌエル。インマヌエル、アーメン」、と唱えよう。そのように提案されたのです。
多くの言葉を言う必要はない。ただインマヌエルと主の名を唱えよう。
そう言われて、ご自身もそれを実践されました。
信仰を持ち始めた方が、よく言われます。「祈りなさい、と勧められますが、どう祈ったら良いか分からないのです。」
そんな時には、この「インマヌエル、アーメン」と、一言祈ってみては如何でしょうか。
「インマヌエル。神様、あなたは私と共にいてくださいます。感謝します、アーメン」。
初めは、それだけで良いのではないかと思います。
何かにつけて、「インマヌエル、アーメン」と祈る。それをぜひ実践してみて下さい。
「神、我らと共にます」という信仰。どんな時も、どこにいても、神様は私と共にいてくださる。
キリスト教信仰とは、このことを信じ抜くことなのです。
5年前の教会創立記念礼拝で、かつてこの教会の牧師をされていた、小橋孝一先生が説教をしてくださいました。
その時、小橋先生は、こんなエピソードを紹介してくださいました。
小橋先生がまだ若かったころ、ある求道者がこんな質問をしたそうです。
「先生。キリスト教を信じると、どんなご利益があるのですか」。
小橋先生は、一瞬考えた後、こう答えられそうです。「クリスチャンになると、神様がいつも共にいてくださいます。」 
その質問者は、納得した様子で、帰って行ったそうです。
しかし、その人は、神様がいつも共にいてくださるという恵みを、本当に握り締めて帰って行ったのでしょうか。
インマヌエル。神様がいつも共にいてくださる。そのことを信じることは、それ程、簡単なことではありません。
どんな時も、どこにいても、神様が、私と共に生きていてくださる。
この思いは、ちょっとしたことで、直ぐに不確かになってしまうことがあります。
私たちは、困難や悲しみに出会った時、神様は、本当に、私と共にいてくださるのだろうか、と不安になります。
インマヌエルの信仰を貫くことは、決して容易なことではないのです。
だからこそ、主イエスは、生まれて来てくださったのです。
どんな時も、どのような状況にあっても、神様は私たちを見捨てずに、共にいてくださる。
主イエスのご誕生。クリスマスとは、神様がいつも共におられる、ということが、目に見える現実となった出来事なのです。
確かに、主イエスの地上でのご生涯は、その初めから、終わりまで、ご自身がインマヌエルなるお方であることを、証し続けられた歩みでした。
インマヌエルという呼び名で呼ばれるお方が、一人の人として、粗末な飼い葉桶に、生まれてくださった。
そして、私たちが経験する、あらゆる苦しみや悲しみを、ご自身で味わって下さった。
そのことを通して、どんな時も、どのような状況にあっても、私たちと共いて下さることを、証ししてくださった。
クリスマスは、そのことを感謝する時なのです。
教会は、このインマヌエルの信仰に生かされ、そのことを語り伝えているのです。
今朝の御言葉は、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と語り始めています。
しかし、実際に、主イエスが、どのようにしてお生まれになったかは、今朝の御言葉には書かれていません。それが書かれているのは、次の2章1節以下です。
今朝の御言葉で語られているのは、主イエスがお生まれになるまでに、ヨセフが何を経験したのか、ということです。
もっと正確に言えば、ヨセフの深い悩みが、ここで語られているのです。
では、ヨセフは、一体、何を悩んだのでしょうか。
それは、婚約していたマリアが、自分の子ではない子を、身ごもったということでした。
しかも、こともあろうに、神様が、そのことを起こされたのだ、と知らされたのです。
マリアは、聖霊によって身ごもっている。ヨセフは、そのことを、御使いから知らされました。
しかし、これは、人間には信じられないことです。また、世間の人にも通用しません。
ヨセフは悩み、苦しみました。それだけではありません。20節に、「恐れず」とあります。
ヨセフは悩み、苦しんだだけではなく、恐れの中にもいたのです。
律法によれば、婚約中の女性が、他の男性の子を宿したなら、姦淫の罪に問われて、恐らく、石打の刑で殺されることになります。
愛するマリアが、そのような目に合うことは、何としてでも防ぎたい。
マリアの命を損なうようなことがあってはならない。ヨセフは、その事態を恐れたのです。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」、と書かれています。
ある聖書学者は、この「正しい」という言葉は、「憐れみ深い」、と言い換えた方が、聖書的には正しいと言っています。
ヨセフは、憐れみ深い人だったので、マリアの妊娠を表ざたにせず、秘かに離縁しようと思ったのです。
それが、マリアを守る唯一の道だ、との結論に至ったのです。
その後、離縁したマリアに子供が生まれ、人々がヨセフの子だと思い、自分の子を宿したマリアを離縁するとは何とひどいことをするか、と非難されても、甘んじて受けよう。
その恐れをも、引き受けよう。ヨセフは、悩みに悩んだ末に、そう決心したのです。
その悩みの中で、ヨセフは、御使いの声を聴くのです。悩みと苦しみの只中で、神様と出会ったのです。
ヨセフは、自分の深い悩みを、誰にも打ち明けられずにいました。
親にも、親しい友人にも、打ち明けられずにいました。理解してもらえる筈がないからです。
そのことが、彼の悩みを、さらに深くしました。誰にも言えない悩み。
しかし、そのただ中で、神様が出会ってくださったのです。そこで、神様と共に生きることを許されたのです。
神様が、インマヌエルなるお方であることを知ったのです。
御使いは言いました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」
なぜイエスと名付けられるのでしょうか。「この子は自分の民を罪から救うからである。」
それが、イエスと名付ける理由だというのです。
イエスという名は、旧約聖書に登場するヨシュアという名前の、ギリシア語の読み方です。
その名前は、「神は救い」、或いは「神が救う」、という意味を持っています。
「神様が私たちの救いとなってくださった」、という意味の名前なのです。
神様が、共にいてくださり、救ってくださったという、インマヌエルの信仰を表す名前です。
では、何から救ってくださるのでしょうか。病気や貧困からの救いや、自然災害からの救いも大切でしょう。
しかし、御使いは、「この子は自分の民を、罪から救う」、と言いました。
この子は、民を、罪から救う者となる、と宣言したのです。
では、罪とは何でしょうか。罪とは、人間を神様から引き離してしまう力です。
それによって、人間同士もお互いに引き離され、他者との関係も破壊されてしまいます。
その根底にあるのは、自分さえ良ければよいという、自己中心的な思いです。
神様との関係が崩れてしまうと、自己中心が頭をもたげ、私たちを支配してしまいます。
そしてそれが、全ての不幸の根本原因となります。
この罪から解放されなければ、人間が本当に救われる道はないのです。
この罪を克服するには、インマヌエルなるお方の愛に、私たちが、すっぽりと覆い包まれる以外にはありません。
このインマヌエルという呼び名は、この後、新約聖書には、二度と出てきません。
でも、福音書を読み進みますと、そのどこにでも、私たちと共にある神様、共にいてくださる主イエスのことが、語られています。
病気の人、飢えている人、悩み苦しみの中にある人に、どこまでも寄り添い、寝食を忘れて、救いの手を差し伸べられる、主イエスのお姿が語られています。
ですから、福音書は、「インマヌエル物語」と呼ぶべき書物なのです。
特に、私たちにとって慰めとなるのは、十字架において、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」、と叫ばれた主イエスのお姿です。
インマヌエルなる主が、死に至るまで、私たちと共にいて下さる。しかも、本来、私たちがかからなければならない十字架に、代わってついてくださっている。
そして、神様に捨てられるという、絶望の叫びを上げておられる。
罪のないお方が、神様に打ち捨てられるという、究極の苦しみさえも、引き受けてくださっているのです。
私たちが、どんなに深い絶望を覚えても、どんなに深い苦しみの中にあっても、そのもっと深い所に主イエスはおられるのです。
そして、私たちの悩み苦しみを、下から支えてくださっているのです。
その光景を目撃したローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」、と思わず口にしました。
ここに神がおられる、インマヌエルなるお方がおられる、と示されたのです。
インマヌエルなる主は、究極の苦しみの只中でも、私たちと共にいてくださるお方なのです。
中国を訪れたある牧師が、このようなことを書いています。
中国のキリスト教会を訪れると、いくつもの教会の正面に、なにやら漢字で同じ「以馬内利」の4文字の言葉が書かれている。
以上の以と、馬と、内外の内と、利益の利。この4文字が掲げられている。
この漢字は、何と書かれているのですか、と質問したところ、「インマヌエル」と書かれているのだ、と説明を受けた。
そこで、なぜインマヌエルなのですかと質問をしたところ、それは文化大革命のとき、教会は大変な苦難の時を過ごした。
その時のことを思い返すためだというのです。
そのような苦難の時を乗り越えることができたのは、インマヌエルなるお方を信じることが出来たからだ。
だから、会堂の正面にこの文字を掲げているのだというのです。
福音書は、そのインマヌエルなる主を、証ししている書だと言いましたが、それは、このマタイによる福音書の最後の言葉まで、一貫しています。
復活された主イエスは、ガリラヤの山の上に、弟子たちをお呼びになられて言われました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これは、まさに、インマヌエルの約束です。
復活の主が、天に帰られる前に、最後に語られたお言葉が「インマヌエル」であったのです。
マタイによる福音書は、主イエスの誕生の時と、昇天の時に、インマヌエルを語っています。
主イエスのご生涯は、この二つのインマヌエルによって、囲われているのです。
そうであれば、主イエス誕生の目的が、はっきりしてきます。
それは、「いつも私たちと共におられるため」、であったのです。
粗末な飼い葉桶に生まれ、悩み苦しむ人々にどこまでも寄り添い、十字架にかかって死なれ、復活されて天に昇られた主は、今も、私たちと共にいてくださいます。
今、ここに、この礼拝の場にいてくださいます。
ですから私たちは、礼拝をささげることができるのです。主がいてくださらなければ、礼拝しても無意味です。
主が共にいてくださるから、私たちは礼拝し、伝道するのです。
主イエスの誕生の目的が、「インマヌエル、神われらと共にいます」、ということであれば、私たちの誕生の目的は、「私たちも神様と共にいるため」ではないでしょうか。
そのために、私たちは生まれ、生かされているのです。
今年は、新型コロナウィルスという疫病に、世界中が翻弄された一年でした。
16世紀初頭においても、ヨーロッパにペストが大流行したことがありました。
その時、犠牲者のために献身的に働いた、フリードリヒ・シュペーという修道士がいました。
感染を恐れて、教会の教職者たちも、皆こぞって逃げていく中で、シュペーは僅かな者たちと残って、ペストの患者たちを看取り、自分もペストに罹って、若くして召されました、
そのシュペーは、残って働く仲間たちに、祈りを勧めています。
何を祈るように勧めたのでしょうか。シュペーはこう勧めました。
何も他のことを言うことはない。ひざまずきながら、深く、深く身をかがめて、「ああイエスよ、ああイエスよ」、と主の名を呼ぼう。それだけで良い。
シュペーは、疫病の恐ろしい力の前に、何もできない自分の無力さを痛感し、途方に暮れる思いに陥ったこともあったと思います。
でも、そのような中でも、尚も、共に働く仲間たちに、呼びかけているのです。
「イエスの名だけを呼ぼう」。ひざまずいて、深く、深く身をかがめて、「ああイエスよ」、と御名を呼ぼう。それだけで良いのだと、呼び掛けたのです。
主イエスが、共にいてくださることを信じて、その御名に依りすがって呼び掛ける。
冒頭で、橋本鑑牧師が、ただ「インマヌエル、アーメン」と祈りなさい。
他の言葉は無くても良い。それだけで良い。それだけを祈りなさい、と勧めたことと重なってきます。
「ああイエスよ」。「インマヌエル、アーメン」。そう祈ったら、立ち上がれる。
私たちも、そのことを信じて、主の名を呼び続けていきたいと思います。
インマヌエルなる主の名を、呼び続ける群れでありたいと、心から願います。