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過去の礼拝説教

「主よ、目を開けてください」

2021年12月26日 聖書:マタイによる福音書 20:29~34

今朝の御言葉には、主イエスが、二人の盲人を癒された、という奇跡が語られています。
この出来事は、マルコによる福音書にも書かれています。
マルコによる福音書は、マタイによる福音書よりも先に書かれていて、マタイによる福音書の元になった書物です。
ところが、マルコによる福音書では、盲人は一人だけです。しかも、バルテマイという名前さえも記されています。
それなのに、なぜ、マタイによる福音書では、それが二人になっているのでしょうか。不思議ですね。
マタイによる福音書は、明らかに、この直前に書かれている、ヤコブとヨハネという二人の弟子たちの物語と、この二人の盲人たちの癒しの出来事とを、対比させています。
ヤコブとヨハネという二人の弟子と、二人の盲人。
この二組を対比させることで、私たちに大切なことを、教えようとしているのです。
この癒しの出来事は、エリコという町で行われました。
エリコは、エルサレムの北東22キロほどの所にある、オアシスの町です。
ガリラヤからエリコを通って、エルサレムに向かう街道は、当時の幹線道路でした。
ですから、大勢の人が、その道を通って旅をしました。
そういう通行人を目当てに、道端で物乞いをする人々も、たくさんいたようです。
今朝の御言葉に出て来る二人の盲人も、そういう物乞いの中の二人でした。
この人たちは、一日中座って、毎日、自分の前を通り過ぎる人の、足音を聞いていました。
一般に、目が見えない人は、とても聴覚が発達している、と言われています。
この二人も、毎日、自分の前を通り過ぎる人々の足音を聞きながら、自分たちを見て、足を止めて、施しをしてくれる人を、ひたすらに待っていたのです。
ですから彼らは、足音の違いを、大変敏感に感じていました。
ところが、その日、彼らは、人々の足音が、いつもと違うことに気が付きました。
主イエスがエリコを発って、エルサレムに向かわれようとしていたのです。
弟子たちだけでなく、大勢の群衆が、主イエスの一行に従っていました。
いつもと違う足音に気付いた二人の盲人は、「一体、何が起きているのですか」、と近くにいた人に聞きました。
そして、主イエスが、今まさに、ここを通られるところだ、と聞かされたのです。
この答えを聞いて、この二人の盲人は、突然、叫び出しました。
彼らは、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」、と叫び出したのです。
二人は、イエスというお方が、各地で病人を癒し、目の見えない人を見えるようにしたことを、風の便りに聞いていました。
そのイエスが、自分たちの前を、通って行こうとしている。
それを知った時、彼らは、大声で、叫び始めたのです。
二人は、主イエスが、今、どこにおられるのかを、見ることができないのです。
どこにいるのか分からない、その主イエスに、何とか自分の声を届かせようとして、大声で叫んだのです。
恐らく、四方八方に向かって、なりふり構わず、大声で叫んだと思います。
群衆は、彼らを、叱りつけて、黙らせようとした、と書いてあります。
主イエスが、彼らの願いを聞いて下さるとは、思わなかったからです。
彼らは、「ナザレのイエスよ」、と呼びかけてはいません。
「主よ、ダビデの子よ」、と呼びかけています。「ダビデの子」とは、救い主を表す言葉です。
イスラエルの希望を担う存在です。ユダヤの民全体の、願いをかなえてくれる存在です。
道端の物乞いの願いを、かなえてくれるような存在ではないと、群衆は思ったのです。
二人も、そのことを知っていました。それでも二人は、叫ぶことを止めなかったのです。
主イエスが、彼らの前を通っていかれる。それは彼らにとって、千載一遇のチャンスでした。
この機会を逃したら、彼らはもう二度と、主イエスと出会うことは、出来なかったでしょう。
そのただ一度のチャンスを捉えて、主イエスに向かって、全力で叫び、救いを求めたのです。
主イエスは、私たち一人一人にも、そのようなチャンスを、与えてくださいます。
私たちの人生の歩みの中で、主イエスが、近づいて来てくださる時があります。
そのチャンスを逃さないで、しっかり捉えたいと思います。
主は必ず、私たちを顧みてくださり、立ち止まってくださいます。
彼らは、「主よ、憐れんでください。主よ、憐れんでください」と、繰り返して叫びました。
この言葉は、その後、教会で繰り返して祈られた、公同の祈りの言葉となりました。
「主よ、憐れんでください」。この言葉のラテン語訳が、「キリエ・エレイソン」です。
「キリエ・エレイソン、主よ、憐れみたまえ」。教会は、この祈りを大切にしてきました。
私たちが、どう祈ったら良いか。それすらも分からない、大きな苦しみや悲しみの中にある時、「あなたは、こう祈りなさい」と、教会が教えてきた祈り。
それが、「主よ、憐れみたまえ。キリエ・エレイソン」という祈りです。
どんな時にも、この祈りなら祈れるはずだ、と教会が教えてきた祈り。
それが、「主よ、憐れみたまえ。キリエ・エレイソン」、という祈りなのです。
図らずも、この二人の盲人は、この教会の祈りを、導いた人たちとなりました。
ここで二人が叫んだ、「憐れみたまえ」という言葉は、一般的な憐れみを意味する言葉です。
それに対して、34節で主イエスが示された、「深い憐れみ」は、もともとは「内臓」を意味する言葉です。
「はらわたが痛むほどに深く憐れむ」ことを意味する言葉です。
福音書の中では、父なる神様と主イエスだけにしか、使われていない言葉です。
私たちが、普通に求めた憐れみに対して、主イエスは、自らのお体を痛めつけるような、深い愛をもって、答えてくださるのです。
私たちの主とは、そういうお方なのです。
ある牧師が、何人かの文学者たちと対談した時のことです。
文学者の一人がこう言いました。
「教会に行くと、「恵まれた」とか、「恵みを受けた」という言葉を、よく耳にする。
でも、あれは良くない。何か、自分が、お恵みを頂いている、乞食になったように感じる。」
それを聞いて、その牧師は、心の中でこう思ったそうです。
「神様の恵みを、乞食のように願って、何が悪いのか。
私たちは、神様の前では、皆、何も持っていない乞食なのだ。ただ、恵みを願うことしか、できない者なのだ。」
この牧師の言う通りだと思います。
私たちは、ただ神様の憐れみによって、生かされている者なのです。
そうであれば、私たちは、もっと神様に、憐れみを乞い願って、良いのではないでしょうか。
カッコつけないで、「神様、憐れんでください」、ともっと祈って良いのではないでしょうか。
いや、本当は、この祈りしか、祈れないのではないでしょうか。
「憐れんでください」という叫びを聞かれて、主イエスは、立ち止まられました。
そして、「何をしてほしいのか」と、二人に優しく問われました。
ヤコブとヨハネに対しても、主イエスは、同じように「何が望みか」、と尋ねておられます。
その時、二人の弟子たちは、「一人はあなたの右に、もう一人は左に座れる」ようにしてください、と答えています。
これに対して、二人の盲人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」、と答えました。
彼らは、名誉でも、お金でもなく、ただ「主よ、目を開けていただきたいのです、それだけです」、と願ったのです。
そして、その願いが聞き入れられました。主が、その願いを喜ばれたからです。
二人の盲人は、すぐ見えるようになって、主イエスに従っていきました。
彼らは、肉体の目だけではなく、心の目も開かれて、主イエスの弟子となって、従っていったのです。彼らは、本当に見える者とされたのです。
これに対して、二人の弟子たちの肉体の目は、もともと健やかです。よく見えています。
しかし、その心の目は見えていませんでした。
本当は、彼らもまた、ここで、このように願うべきであったのです。
「主よ、憐れんでください。私たちの信仰の目を開いてください。あなたのお姿を、正しく見ることのできる目を与えてください。
あなたは、ご自分が侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されると、私たちに告げられました。
しかし、私たちには、あなたの、その恐ろしいお言葉の意味が分かりません。
どうか、あなたを分からせてください。あなたを正しく見ることのできる目を開いてください。」
彼らは、本当は、このように、願うべきであったのです。
弟子たちも、また、霊的に盲目であったことを、はっきりと知るべきであったのです。
では、翻って、私たちはどうでしょうか。
もし私たちが、主イエスから、「何をしてほしいのか」、と問われたら、何と答えるでしょうか。
あなたの心の一番奥底にある、本当の願いとは何ですか。
もし、皆さんが、主イエスから、そう問われたら、何と答えられるでしょうか。
宗教改革者カルヴァンは、青少年の信仰を導くために、ジュネーブ教会信仰問答を作りました。
その第1問は、こう問いかけています。
問1 人生のおもな目的は何ですか。
あなたの人生の目的は何ですかと、ずばりと聞いています。
これさえ得られれば、人生の目的はかなえられるというもの。あなたにとって、それは何ですか、と問うているのです。
そして、その答えが示されています。
答  神を知ることです。
神を知る。これは、知識として、神様を知ることではなく、心の奥底で、神様と出会うことです。神様と深く交わることです。
心の奥底で、神様と本当に出会い、まことの交わりを持つこと。
これされ得られれば、生きていくことができる。人生の目的は、かなえられるというのです。
「何をしてほしいのか」。この主イエスの問いも同じです。
私たちもまた、この信仰問答のように、答えたいと思います。
「主よ、憐れんでください。私たちの目を開いてください。そして、主のお姿を正しく見させてください」。
私たちも、このような願いをもって、答えていく者でありたいと思います。
盲目の牧師として、尊く用いられた青木優先生は、医者になる直前のインターンの時に、突然失明しました。
青木先生は、この時、三つの苦痛を経験したと語られています。
不自由な暗い生活を強いられる、肉体的苦痛。医師への道を断念せざるを得ない、精神的苦痛。
そして、社会的無能力者になってしまったという、絶望の苦痛。この三つです。
入院先の病室に、しばしば牧師が来て、神様の愛を語ってくれましたが、あまりにも辛い現実に圧倒されて、素直に信じることができませんでした。
もし、神様が愛してくれているなら、その証拠を見せて欲しい。この目を見えるようにして、医者として立たせて欲しい。そう思ったそうです。
彼の母親は、毎日病室を訪れて、彼に食事を食べさせ、身の回りの世話をし、それが終わると新聞を読んで聞かせました。
しかし、母親は、老眼で字が良く見えませんでした。また読み方も下手でした。
ある日彼は、朝からイライラしていて、新聞を読んでくれている母親に、「お母さん、もっとすらすら読んでよ。何を読んでいるのか解りゃしない」、と思わず怒鳴ってしまいました。
それを聞いてお母さんは涙を流しました。
彼は、「あー、申し訳ないことを言ってしまった」と思って、直ぐに「お母さん、わがまま言って、すみません」と謝りました。
すると、お母さんは泣きながら、こう言ったそうです。
「あなたがわがままを言ったから、それが辛くて、泣いているのではないのよ。
今まで、新聞でも何でも、自由に読んでいたあなたの、その不自由さを思うと辛くてね。
できるなら、私の両方の目をあなたにあげたい。
それで、あなたが見えるようになって、医者になれるなら、私は一生、何処にも行けずに座ったままでいても幸せなのに」。
この言葉は、青木優牧師の心に、深く突き刺さりました。
愛する者のために、自分の目をあげたい、と言って泣く母親の愛に心を打たれたのです。
そして、その時、青木先生は、突然の様に示されたそうです。
「イエス様は、両方の目だけでなく、手も足も命までも、自分に差し出してくださったのだ」。
そのことが、本当に良く分かったそうです。心の目で、主イエスを見ることが出来たのです。
青木先生はその後、洗礼を受け、肉体の病を癒す医者ではなく、魂を癒す牧師としての道を進んで行かれました。
視力を失った青木先生が、心の目で主イエスを見ることができた時、暗かった彼の心に、光が差し込んだのです。暗闇に、まことの光が差し込んだのです。
私たちも、まことの光である主イエスを、はっきりと見ることができるように、「主よ、目を開けてください」と、叫ぶ者でありたいと思います。
私たちが、この二人の盲人から学ぶべきことが、もう一つあります。
それは、この二人の熱心に求める姿勢です。彼らは、主の憐れみをひたすら願いました。
群集が、叱りつけて、黙らせようとしましたが、ますます大きく叫んだのです。
何故、そんなに激しく叫んだのでしょうか。主イエスが、彼らのところを、通り過ぎて行かれようとしていたからです。
このままでは、主が、通り過ぎてしまわれる。だから、彼らは必死で叫んだのです。
彼らの熱心は、通り過ぎようとされていた、主イエスの足を止めてしまいます。
「私のところを、通り過ぎないでください。そのまま行かないでください」。
彼らは、そう叫んだのです。そう叫ばずにはいられなかったのです。
それが、どんなにみっともないことであっても、叫ばない訳にはいかなかったのです。
彼らは、叫んで、叫んで、主イエスの足を止めさせ、そして癒される恵みをいただきました。
ファニー・クロスビーというアメリカの女性讃美歌作家がいます。
彼女は、眼科医の治療ミスのため、生まれてから僅か6週間で視力を失ってしまいました。
しかし、信仰深い祖母の影響で主イエスを信じる者とされ、美しい豊かな心の持ち主に育てられました。
そして、生涯に二千もの讃美歌を作り、多くの人々に喜びと慰めを与えました。
彼女はいつも喜びに溢れていて、その顔はいつも輝いていたそうです。
人々が、彼女のそばに行くと、その喜びに感染したと伝えられています。
すごいですね。私たちも、コロナ感染者ではなく、そのような喜びの感染者になりたいですね。
そのファニー・クロスビーが作った讃美歌の一つに、聖歌540番があります。
聖歌540番はこう歌っています。「主よ、わがそばをば過ぎ行かず/汝が目をば我に/向けたまえ。主よ、主よ、聞き給え/切に呼びまつる/わが声に」。
出だしの言葉は、「主よ、わがそばをば、過ぎ行かず」と訳されていますが、元々の歌詞は、「優しい救い主よ、私の所を通り過ぎないでください」という言葉です。
「優しい救い主よ、私の所を通り過ぎないでください」。
これは、ファニー・クロスビーの切なる祈りの言葉だと思います。
主が私に目を留めてくださったから、たとえ目が見えなくても、私は光の中を生きていける。
でも、もし主が、私の所を通り過ぎてしまわれたら、私は、暗闇の中に取り残されたままとなってしまう。
ですから、主よ、どうか、私の所を通り過ぎないでください。
ファニー・クロスビーは、心から主にそう訴えているのです。
そして、主は、彼女のこの祈りを聞いてくださり、彼女の心に、ご自身のお姿を、示し続けてくださったのです。
私たちの信仰生活は、常に順風満帆であるとは限りません。
主を見失いそうになりことがあるのです。そのような時には、ファニー・クロスビーのように、そしてこの二人の盲人ように、必死に叫びたいと思います。
主は、必ず立ち止まってくださいます。そして、ご自身の身を削るような痛みをもって、憐れみのお言葉を掛けてくださいます。
私たちに、「何をしてほしいのか」と、優しく問いかけてくださいます。
その時は、はっきりと言いましょう。
「主よ、目を開けて頂きたいのです。あなたをもっとはっきりと見ることができますように。
あなたをもっと親しく見ることができますように。どうか、この私の目を開けてください」。
その時、私たちは、私たちの目に優しく触れてくださる、主イエスの御手の暖かさを、きっと感じることができると信じます。
それは、私のために、十字架にかかってくださった、お方の御手です。
十字架の釘跡が、はっきりと刻まれた、限りなく尊い御手です。
その御手で、触れられ、その御手で、握りしめられ、その御手の中で、生かされる恵みを、心から感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。
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