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過去の礼拝説教

「うわべではなく 結果が大切」

2022年01月30日 聖書:マタイによる福音書 21:28~32

「ところで、あなたたちはどう思うか」。
今朝の御言葉は、主イエスの、この唐突な問い掛けによって始まっています。
この問い掛けは、先週の「権威についての問答」に続いて書かれています。先週の御言葉の続きなのです。
ですから、ここにある「あなたたち」とは、先週の箇所で主イエスと問答をした、祭司長や民の長老たちのことです。
祭司長や民の長老たちに対して、主イエスは「あなたたちはどう思うか」と問われています。
一体何について、「どう思うか」と問われたのでしょうか。
主イエスは、この後語られる譬え話を、あなたたちはどう解釈するか、と問われたのです。
今朝の御言葉に出て来る譬え話は、「ぶどう園に行って、一緒に働いてほしい」と父親に頼まれた、二人の息子の話です。
この譬え話に続いて、33節以下には、もう一つのぶどう園の譬えが語られています。
その譬えを聞いた後で、祭司長たちは主イエスを捕らえようとした、と書かれています。
捕らえてどうしようとしたのでしょうか。捕えて殺すのです。十字架につけて殺すのです。
ですから、ここで主イエスは、ご自分の命の危険を感じながら、話をされているのです。
祭司長たちに、どうしても分かって貰いたかったので、命懸けで話されたのです。
そして主イエスは、今この話を聞いている私たちにも、同じような熱心さで、是非分かって貰いたい、と語り掛けられています。
ですから、ここで、主イエスが「どう思うか」と問われた「あなたたち」とは、他ならぬ私たちのことでもあるのです。
そのことを覚えつつ、御言葉に聴いていきたいと思います。
では、主イエスが、ご自分の命を懸けてまで伝えたいと思われたこと。
そこまでして分かって貰いたいと思われたこと。それは一体何なのでしょうか。
先週、私たちは、信仰とは、私たちが様々な質問を神様にぶつけて、その答えに納得した時に得られるものではない。
そうではなくて、信仰とは、神様からの問い掛けに、私たちが一つ一つ誠実に答えていく時に、生まれて来るものだと、教えられました。
その主イエスからの問いが、今朝の譬え話の中でも繰り返されています。
ですから、その問い掛けに、私たちがどのように答えるか。それが、大切なこととなります。
今朝の御言葉における、主イエスの、私たちに対する問い掛けは31節にあります。
「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。この問い掛けです。
この問い掛けに込められた主イエスの御心を探り、それにどのように答えていくか。
それが、今朝、私たちに与えられた課題です。
今朝の譬え自体は、難しい話ではありません。極めて簡潔です。
「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい。』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考えなおして出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった」。
譬え話自体は、とても簡単です。難しくありません。
ここにある父親とは、神様のことです。ですから父親の望みとは、神様の望みのことです。
主イエスは、この譬えを語られた後で、神様の望み通りの生き方をしているのは、兄か弟かと問い掛けています。
「どちらが父親の望みどおりにしたか」。その答えは明らかです。子供でも分かります。
でもこの問いは、あまりにも簡潔であるが故に、かえって私たちを恐れさせます。
そして、更に深い問い掛けを、私たちに投げ掛けてきます。
この問いに正しく答えるためには、先ず父なる神様は、私たちに何を望んでおられるのか。
この問いに真剣に向き合うことが必要になります。
父なる神様が、最も強く私たちに望んでおられること。
そのことを示された上で、では、あなたは、父なる神様が望んでおられる生き方をしていますか、と改めて問われることになるのです。
一体、父なる神様は、私たちに、どのような生き方を、望んでおられるのでしょうか。
どのような人が、父なる神様の望みに従って生きているのでしょうか。
今朝は、そのことを、ご一緒に、聴いていきたいと思います。
文脈からは、一度承知しながら、結局は父の望みに背いた弟は、祭司長や民の長老たちを指していることは明らかです。
一方、初めは断ったのに、後で出かけていった兄は、徴税人や娼婦たちを指しています。
でも祭司長たちは、自分たちが、この譬え話の中の弟であるとは、気づいていません。
ですから、「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」、という主イエスの問いに、「兄の方です」、とすんなりと答えています。
もし、彼らが、自分たちはこの話の中の弟に譬えられている、と分かっていたなら、すんなりと答えることをせずに、主イエスに反論したと思います。
主イエスは、鈍い彼らに分からせるために、ずばりと言われました。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」
この主イエスの言葉を、誤解しないように、注意して頂きたいことがあります。
それは、徴税人や娼婦たちの方が、祭司長たちよりも立派な行いをしていた、ということではないということです。
徴税人や娼婦たちの方が、善い行いをしていた訳ではないのです。
彼らは律法を守ることができずに、ユダヤ人社会の秩序を崩していた者たちでした。
日常の行いを比べるなら、祭司長たちの方が、遥かに立派だったのです。
彼らの方が、善い行いをしていたことは明らかなのです。
ではなぜ、徴税人や娼婦たちの方が、祭司長たちより先に、神の国に入るのでしょうか。
そこで、もう一度、主イエスの問い掛けに、戻ってみたいと思います。
主イエスは、「どちらが父の望み通りにしたか」、と問われました。
ここで問題になっているのは、父親の望みです。
私たちの天の父は、望みを持っておられるのです。願いを持っておられるのです。
その願いとは、神の国で私と一緒に働いてほしい、という願いです。
その願いを持って、兄に声を掛けられたのです。そして弟にも声を掛けられたのです。
声を掛けられた兄は、最初は断りました。「いやです」と冷たく答えたのです。
父親は、随分がっかりしたと思います。深く悲しんだと思います。
でもこの兄は、初めは断ったけれども、後で思い直して出掛けています。
「一緒に働いてくれないか」と声を掛けられた。けれども「いやです」と言って断ってしまった。
しかし、その時の父親のがっかりした顔、悲しそうな声。それがずっと心の中に残っていて、何度も思い返す。
そして、やっぱりお父さんの言う通りにしよう、と思い直したのです。
この兄は、「いやです」と言ったけれども、お父さんの言葉を、忘れてしまった訳ではないのです。
それが、ずっと心の中に残っていて、何度も思い返したのです。
心の中に、父親の思いが残っていて、それをずっと持ち続けていたのです。
こういうことは、私たちの誰もが、多かれ少なかれ、経験するのではないでしょうか。
神様から、「一緒に働こう」と呼び掛けられて、「はい喜んで!」と、二つ返事で答えられる人などいないのではないでしょうか。
誰もが、ためらい、怖じ惑うのではないでしょうか。
あのモーセがそうでした。「エジプトに行って、我が民を奴隷の家から救い出しなさい」、と言われて、様々な言い訳をして断ろうとしました。
エレミヤがそうでした。国家滅亡の危機に際して、この困難を受け止めて、神の時を待つようにと預言しなさいと言われて、「私は若者に過ぎません」と言って断ろうとしました。
しかし、神様の召しの力は、そういう人間の抵抗を押しのけて、進められて行くのです。
モーセやエレミヤとは、とうてい比ぶべくもないのですが、私もそのような経験をしました。
献身者としての召命を受けた時です。とても相応しくないという思いに覆われました。
ですから、「主よ、百日間祈らせてください」、とお願いして祈りました。
百日の祈りの中で、自分の至らなさが示され、あの召命の言葉は、自分の勝手な思い込みだったと示されるのではないか。そのように秘かに期待したのです。
案の定、祈り始めると、自分の至らなさが次々に示され、やはりあれは自分の勝手な思い込みだったのだ。そのような思いが強まっていきました。
ところが、やがて百日目を迎えようとする時、突然一つの御言葉が胸に迫ってきました。
士師記6章14節の御言葉です。「あなたのその力を持って行くがよい。…わたしがあなたを遣わすのではないか」。 これは主からの語り掛けでした。
「私は元々、お前の力などに期待していない。お前がどれほど無力であるか、私が一番よく知っている。
だが、この私がお前を遣わすのだ。だからお前の、その無きに等しい貧しい力を携えて行け」。
この言葉に押されて、ためらっていた私は、否応なしに立ち上がらされたのです。
神様が、私の心の中に居続けて下さったから、この言葉が与えられたのだと思います。
譬え話の兄の心の中にも、父が存在し続けました。ですから思い直すことができたのです。
ところが弟は、「承知しました」と、非常に丁寧な言葉で答えましたが、行きませんでした。
表面的な従順とは違って、心の中では、父親の願いを裏切っていたのです。
なぜでしょうか。父親の願いや思いが、弟の心の中には残っていなかったからです。
ここで大事なことは、ぶどう園に行って働いたかどうか、ではありません。
勿論、それも大切なことですが、もっと大切なことは、どちらが父親の願いを、その心で真剣に受け止めたか、ということです。
ですから、ここで主イエスは、「どちらがぶどう園に行ったか」ではなく、「どちらが父親の望み通りにしたか」、と問われたのです。
社会の中心にいるあなた方よりも、社会から排除され、人々から蔑まれている、徴税人や娼婦たちの方が、神様の心を真剣に受け止めているではないか、と言われたのです。
どうかそれを分かってもらいたい、と主イエスは言われているのです。
さて、ここで、もう一度最初の問いに戻って考えて見たいと思います。
父なる神様の望み。それは一体何か、という問いです。
32節で、主イエスが、それを明らかにしておられます。
「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
ここには、「信じる」という言葉が、三度も繰り返して出てきます。
父の望みとは、信じて生きることなのです。父なる神様を信じて生きるということなのです。
父なる神様を信じるとは、神様が愛であることを、信じるということです。
父なる神様は、私たちを愛してくださっています。
その父なる神様の望み。それは私たちとの、愛の交わりを持つことなのです。
神様が私たちを愛し、私たちが神様を愛する。この愛の交わりに生きることなのです。
主イエスは言われました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この御言葉は、福音書全体の要約である、と言われています。
最愛の独り子の命さえも、私たちのために与えて下さった神様の愛。
ここに神様の愛が、凝縮して語られています。神は愛なのです。
私たちが、「神は愛である」ということを信じ切ること。それが、父の切なる願いなのです。
どうか、私が愛であることを信じて欲しい、と父なる神様は願っておられるのです。
その父は、私たちが、ぶどう園で共に働くことを望んでおられます。
ぶどう園で共に働く。それは、父の愛の中で生きる、ということです。
どうか、私の愛の中を生きて欲しい、と父はひたすらに願っておられるのです。
それなのに、私たちは、何と「いやです」と言って、父の招きを冷たく断るような者なのです。
皆さん、私たちは、今までに一体何度、主の招きに、「いやです」と答えたでしょうか。
数え切れないほど、主の招きを断り、主の御心を悲しませてきたのではないでしょうか。
でも父は、決して諦めることをされません。ずっと待ち続けておられます。
私たちが心を変えて、立ち帰ることを待ち続けておられます。
父が望んでおられること。それは、私たちが父の愛に立ち帰っていくことです。
たとえ一旦は、「いやです」と答えながらも、思い直して、父と共に生きるために、ぶどう園に行くことです。
ぶどう園で、父の愛の中で、共に働くことです。父の願いは、ただそれだけなのです。
「ここに帰って来なさい。この私の愛の中に」。
父は、そう言って、御手を広げて待っておられるのです。
徴税人や娼婦たちは、その父の愛に立ち帰りました。
自分たちのような罪人は、到底救われない。神様の愛の中を生きることなど許されない者だ、と思っていたのです。
でも、洗礼者ヨハネが来て、心から罪を悔い改めるなら、神様の救いに入ることができる、と説いたのです。
それを聴いて、父の愛に立ち帰ったのです。父の赦しの中を生きる者とされたのです。
一方、祭司長たちは、ぶどう園に行きませんでした。
自分たちは、徴税人や娼婦たちのような罪人ではなく、正しい者だと思い込んでいたのです。
ですから、父の赦しの愛の中に飛び込んで行かなかったのです。
主イエスは、彼らに言われています。「あなた方は、私が語っている神の言葉を聞き、その言葉に「はい」と言っているようでも、実は、父の望み通りに生きていないではないか。
自分は正しいと思い込み、自分の正しさにより頼んで、父の愛に身を委ねていないではないか。父と共にぶどう園で働いていないではないか。」
「私の赦しの愛の中を生きなさい」。徴税人や娼婦たちが気付いたこの父の望みに、どうか、あなたたちも気付いてもらいたい。
主イエスは、そう言われたのです。父の望みは、一人でも多くの人が父の許に立ち帰り、一緒に働くことなのです。
皆さん、今朝、私たちに問われていることも、そのことです。
主イエスは、今日も、ぶどう園に行き、そこで働いておられます。
そして、私たちがそこに来て、一緒に働くことを望んでおられます。
それは、明日ではありません。そのうちいつかでもありません。
父は言われます。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。
私たちは今日、この時、神様に招かれているのです。
私たちは、父なる神様が、今、何を望んでおられるのか。今、何をしたら、父なる神様の望みに応えることができるか。
それを、日々問い続けていく者でありたいと思います。
そして、父なる神様の愛の中を生きることを、第一として歩んで行きたいと願います。
それが父なる神様の切なる願いであるからです。