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柏牧師:過去の礼拝説教

「ここは祈りの家、それとも?」

2022年01月16日 聖書:マタイによる福音書 21:12~22

今朝の御言葉は、主イエスが神殿から、両替人や鳩を売る人たちを追い出した、という「宮潔め」の出来事を伝えています。
主イエスは、群集の「ホサナ、ホサナ」という歓呼の中を、ロバの子に乗られて、柔和で謙遜な王として、エルサレムに入城されました。
そして、そのまま神殿に直行されました。
その当時、エルサレム神殿は、幾重もの大きな囲いの中にありました。
その囲いの一番外側が「異邦人の庭」と呼ばれていた広場で、ユダヤ人以外の異邦人の人たちは、そこまでしか入ることを許されませんでした。
彼らは、この場所から、遥かに神殿を仰ぎ見て、祈りを献げていたのです。
「宮潔め」の出来事は、この異邦人の庭で起こった、と言われています。
そこで、主イエスは、両替人の台をひっくり返し、犠牲の動物たちを追い出されたのです。
「異邦人の庭」も、広い意味で神殿の境内の一部でした。ですから、そこも聖なる場所でした。
特に、異邦人にとっては、そこは唯一の祈りの場、礼拝の場でした。
しかし、その場所で、市場が開かれ、商売が行なわれていたのです。
なぜ神殿に両替人がいたのでしょうか。
当時、ユダヤの人々は、少なくとも年に一度は、税金のように、神殿に納入金を献げなければなりませんでした。
そしてその時、納めるべきお金は、ディルスと呼ばれる古いユダヤの通貨と定められていました。
この通貨は、普段、日常生活では、全く使われていませんでした。
当時ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありましたから、普段使われていたのは、ローマの通貨だったのです。
しかし、このローマの通貨には、皇帝の像や、異教の神々の像が刻まれていました。
ですから、このような通貨を、献げることは、律法の戒めに反するとされていたのです。
従って、両替をすることが、どうしても必要だったのです。
しかし、この両替には、手数料が掛かりました。一回につき、当時の労働者の一日分の賃金の約四分の一の手数料が掛かったといわれています。
しかも、つり銭を受け取る際にも、同じ額の手数料が掛かりました。
ですから、両替をして、つり銭を貰おうとすると、一日分の賃金の半分くらいの手数料を、支払うことになったのです。これは、相当高い手数料です。
また、「鳩を売るもの」と書かれていますが、鳩は、貧しい人たちが献げる、犠牲の献げ物の代表的なものでした。
巡礼に来た人たちが、最も多く献げたのが鳩でした。
そして、ここでも、法外な値段がつけられていました。
犠牲の動物は、それが献げ物として相応しいかどうかを、祭司に調べてもらって、許可されたものしか、献げることが出来ませんでした。
犠牲の献げ物に、傷などの欠点があってはならなかったからです。
この鳩は、神殿の外の値段の、何と15倍もの値段で売られていたそうです。
しかし、外で安く買った鳩を献げようとしても、神殿の検査官は、必ず何らかの言いがかりをつけて、許可しませんでした。
結局、神殿で売られているものを買うことになったのです。
神殿の祭司たちは、これらの商いの免許を与えることによって、莫大な利益を得ていました。
そしてその利益の一部を、ローマの権力者に贈って、自分達の地位を確保していたのです。
これは、貧しい人たちの、純粋な信仰心を利用して行なわれる、貪欲な儲け仕事でした。
主イエスは、これらの商売人たちを追い出すことによって、彼らの背後にいる、祭司たちや、ユダヤ教の指導者たちを、戒めようとされたのです。
誤解しないで頂きたいのですが、この時、主イエスは、礼拝や犠牲を献げること自体に、反対されたのではありません。
献金は無意味であると言って、両替人の台を倒されたのではありません。
そうではなくて、霊と真理による、まことの礼拝を、回復されようとしたのです。
礼拝を聖め、神殿を本来の神の家に、回復されようとされたのです。
犠牲の動物も両替も、当時の礼拝には、必要とされていたものでした。
ですから、主イエスは、それ自体に反対されたのではないのです。
しかし、元々は、礼拝者の便宜を図るために始められた制度が、いつしか商人たちが、自分たちの儲けを、ひたすら追及する行為となっていきました。
そして祭司たちは、その上前を撥ねることに、夢中になっていったのです。
そのために、礼拝本来の意味が次第に薄れていって、活き活きとした神様の恵みが、礼拝者に伝わらなくなってしまったのです。
主を礼拝したい一心で、長く辛い旅をして、せっかくエルサレムまで上って来た人々が、神殿における商売に、否応なしに巻き込まれてしまう。
純粋な思いで、神様を礼拝しようとしても、その前に、お金のやり取りを、しなくていけない。
好むと、好まざるとにかかわらず、損得の世界に、引きずり込まれてしまう。
そのことによって、神様の聖さも、恵みの深さも、見えなくなってしまう。
そのような残念なことが起きていたのです。
ここで皆さんに質問したいと思います。礼拝は、一体いつから始まっているのでしょうか。
週報には、礼拝の開始時間は10時15分と書いてあります。
ですから、その時間に始まると考えるのが一般的です。でも、果たしてそうでしょうか。
前奏が始まった時が、礼拝の開始時間なのでしょうか。そうではないと思います。
実は、神様は、皆さんが、まだ寝ておられる時から、既に礼拝を整えて、待っていて下さるのです。
そして、私たち一人一人の名を呼んで、礼拝に招いて下さっているのです。
私たちは、その主の招きに手を引かれ、主を仰ぎ見つつ、ここにやって来たのです。
これは既に礼拝です。私たちがこの会堂に入る前から、既に礼拝は始まっているのです。
この会堂に入る前から、私たちは聖霊に導かれ、聖なる緊張感に覆われています。
ところが会堂に来てみると、入り口の前に商売人がいて、「さあ、きれいな献金袋はいかがですか。丈夫で美しい聖書カバーはいかがでしょうか」と、呼び掛けられたらどうでしょうか。
聖なる緊張感は一気に消え去り、心が神様からお金へと向いてしまうのではないでしょうか。
礼拝は、聖霊の息吹に覆われる時です。主の愛と恵みに満たされる時です。
それなのに、それが、商売の時となってしまっている。
そのため、神様を礼拝したいという、純粋な思いが妨げられてしまっている。
主エスは、そのことに、激しい怒りを覚えられたのです。
両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された、と書かれています。
この箇所は、文字で読むだけだと、すんなりと読み過ごしてしまいそうです。
しかし、皆さん、実際の場面を、想像してみて下さい。
恐らく両替人の台の上には、コインが山積みにされていたと思います。その台をひっくり返したのです。
積んであった大量のコインが、周囲にバーッとばら撒かれたことでしょう。
売り物の鳩も、けたたましく飛び立ったかもしれません。辺りは騒然となったと思います。
これは、優しく平和なお方としての、主イエスのイメージとは大きく異なります。
そうなのです。この時、主イエスは、戦われたのです。
それは、父なる神様の家を、祈りの家として、取り戻そうとなさる闘いでした。
主イエスが、ここで語られたお言葉は、私たちが、深く心に留めるべきお言葉です。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という言葉は、イザヤ書56章7節の引用です。また、「強盗の巣」は、エレミヤ書7章11節からの引用です。
旧約聖書のイザヤ書の御言葉は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」、と書かれています。「すべての民の祈りの家」なのです。
今、主イエスがおられる場所は、異邦人の庭です。
もっと主に近づきたくても、これ以上入ることを許されない、異邦人を見詰められながら、主イエスは、「ここは、あなた方の、そしてすべての民の祈りの家なのだよ」、と言われたのです。
ここは、あなた方が、祈りを通して、神様にお会いする、聖なる場所なのです。
ここで主にお会いし、主の愛と恵みに満たされなさい、と優しく言われたのです。
そして目を転じて、商売をしている人々に、「あなたがたは強盗だ」と言われました。
礼拝に来た人たちが貧しくなっても、自分さえ豊かになれば良い。
そんな考えで商売をするなら、あなた方は強盗なのだと、主イエスは言われたのです。
ここで主イエスは、その人たちに、「あなた方に祈りがあるのか」と、問うておられます。
あなた方には、祈りがないではないか。祈りながら、自分の利益だけを考えることはできないだろう。
祈りながら、強盗は出来ない筈だ。主はそう言っておられるのです。
祈りの家とは、父なる神様の愛と、主イエスの恵みが支配しているところです。
神殿とは、そして教会とは、そのような祈りの家である筈なのです。
皆さん、私たちは、祈りの家に生きているでしょうか。それとも、自分の利益だけを考える、強盗の巣に生きているでしょうか。
勿論、誰もが祈りの家に生きることを、願っています。
では、どうすれば、祈りの家に生きることができるのでしょうか。
弱い私たちが、祈り続けることが出来るとするならば、それは、何よりも、主イエスご自身が、先ず私たちのために、祈って下さっているからです。
私たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」、と祈っていてくださるからです。
この主イエスの祈りに支えられて、初めて、私たちも祈りに生きることが出来るのです。
では、祈りとは、一体何でしょうか。祈りとは、神様との活き活きとした交わりです。
ある人が、祈りとは、私たちが主イエスに夢中になることだ、と言っています。
確かにそうだと思います。私たちが、主イエスに夢中になっている時、そこには主イエスとの生きた交わりがあり、自然に祈りとなっている筈です。
翻って、私たちはどうでしょうか。主イエスに夢中になっているでしょうか。
ここは祈りの家となっているでしょうか。それとも強盗の巣になってしまっているでしょうか。
茅ヶ崎恵泉教会が、主イエスに夢中になっている。祈りの家となっている。
そのような群れとなることを願いつつ、共に歩んでまいりたいと思います。
主は、神殿を、そして教会を、「わたしの家」と言って下さいました。
天地万物を創造され、今も支配されておられる、主に相応しい家とは、一体どのような家なのでしょうか。
どんなに立派な建物でも、到底相応しくありません
2年前、主の限りない恵みによって、私たちに新会堂が与えられました。
しかしこの新会堂も、主の恵みの広さ、深さに比べれば、全く取るに足りません。
ですから、もし、私たちの心に、この会堂を誇るような気持ちが少しでもあるなら、この会堂は神の家に相応しくありません。
神様が、この会堂を喜ばれることはありません。
でも私たちが、「主よ、この会堂はあなたのものです。ですから、どうかあなたの御心のままに、存分に用いて下さい」と言って差し出すなら、主はここを「わたしの家」として下さいます。
それは私たち自身についても同じです。「主よ、私はあなたのものです。あなたの聖なる霊が住んでくださる宮です」と言って差し出すなら、主は私たちの内に宿って下さいます。
私たちは、祈りの家となるか、強盗の巣となるか、そのどちらかでしかないのです。
そうであるなら、祈りの家であり続けるために、毎日、御言葉に聴き、主を礼拝することを欠かさないようにしたいと思います。
さて、この「宮潔め」の出来事を読まれて、皆さんはどのような印象を持たれたでしょうか。
ご自分の祈りの足りなさを痛感されて、悔い改められた方もおられるでしょう。
しかし、多くの方は、この時の主イエスのお姿を想像して、カッコイイと思われたのではないかと思います。
「宮潔め」をされた主イエスは、まことにカッコイイお姿です。
皆が、「仕方がない、必要悪だ」、と言って半ば諦めていた神殿の悪弊を、力強く打ち破り、祭司たちの抗議にも、一歩も引かずに敢然として対峙された主イエス。
そのお姿は、本当に胸がすくような、カッコイイお姿です。
テレビドラマなら、それで終わって良いでしょう。しかし、皆さん、事はそんなに簡単ではありません。
この出来事は、主イエスを十字架へと、更に追い込むことになっていったのです。
祭司たちにとって「金づる」とも言える神殿の商売を止めさせたことは、祭司たちとの対立を、決定的なものとしていきます。
処世術に長けた人ならこう言うでしょう。「何も、こんな時に、こんな所で、敵対者たちを、敢えて刺激するようなことをするのは得策ではない。これは、自ら墓穴を掘るようなものだ」。
確かにそうだと思います。こんなことをされなかったら、主イエスは、十字架にかからなくても済んだかもしれません。
しかし、主イエスは、祭司たちに挑戦するかのように、敢えて「宮潔め」をされました。
それが、私たちの信仰を正すために必要だったからです。教会を本来の教会に戻すために、礼拝を本来の礼拝とするために必要であったからです。
この「宮潔め」の出来事によって、主イエスは、十字架へと更に追いやられていきました。
「宮潔め」は、まさに主イエスの、命がけの御業であったのです。
主は、命を懸けて、私たちに教えて下さったのです。
続く18節から22節までは、主イエスが、イチジクの木を枯らせてしまった、という奇跡物語が記されています。
この「イチジクの木の奇跡」は、主イエスの地上におけるご生涯で、最後の奇跡です。
しかし、今までの奇跡とは、ちょっと違っています。
病人の癒しとは違って、何のための奇跡なのか、すぐには分からないところがあります。
また、この奇跡は、主イエスが行った奇蹟の中で、唯一の破壊的性格のものです。
イチジクの実がないからといって、その木を呪われたというのは、明らかに愛のお方である主イエスの御業と矛盾しています。
このイチジクの木は、神の子が来て実を探したけれども、茂っているのは葉っぱだけで、実は一つも見つからなかった、ということの譬えとして語られています。
そして、そのイチジクの木とは、神殿や、その指導者である祭司たちを指しています。
外側の見せかけの宗教的繁栄にも拘らず、実りをもたらさない神殿、或いはその指導者である祭司たちの姿を示しているのです。
主イエスは、葉っぱだけで実がないイチジクではなく、実を結ぶイチジクの木となるようにと、教えられたのです。
信仰が葉っぱだけの見せ掛けではなく、真実に実を結ぶことを望まれたのです。
私たちは、主が空腹をおぼえられた時、主の空腹を、少しでも満たすような、実を実らせている者でありたい、と願います。
例え、それがたった一つの小さな実であったとしても、主が、「おいしいよ」と言って、微笑んでくださるような、実をつけているイチジクの木でありたいと願わされます。
22節で主イエスは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」、と言われています。
これは良く教会の中で聞かれる言葉です。
しかし、皆さん、ここで私たちは、主イエスのゲツセマネの祈りを想い起したいと思います。
主イエスは、そこで、血の滴りのような汗を流して、懸命に祈られました。
「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、と祈られたのです。
しかしこの祈りは聞かれませんでした。主イエスは十字架の苦い杯を飲まれたのです。
では、22節の「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」、という御言葉をどのように捉えるべきなのでしょうか。
主エスは、「信じて祈るなら」と言われました。自分勝手な願いを祈っても、すべてかなえられる、とは言われていません。
祈りを通して主の御心を尋ね求め、示された主の御心を信じていくなら、求めるものは何でも得られる、と言われたのです。
主イエスも、ゲツセマネの祈りにおいて、父なる神様の御心を必死に尋ね求めました。
そして、十字架にかかることが、父なる神様の御心であると示され、信じたのです。
ですから、十字架へと向かわれました。
その結果、罪ある人間を、罪あるままに救いたい、という主イエスの切なる祈りは、見事に聞かれたのです。私たちの救いが、完成したのです。
私たちも、この主イエスに倣って、祈りを通して主の御心を尋ね求め、示された御心を信じて、歩んで行きたいと願います。
茅ヶ崎恵泉教会が、そのような祈りの家となることを目指して、共に歩んでまいりましょう。