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過去の礼拝説教

「あなたを呼ぶ神」

2022年02月27日 聖書:マタイによる福音書 22:23~33

「あなたにとって、一番大切なものは何ですか」。
そう問われたら、多くの人が「それは命です」、と答えると思います。
なぜなら命を失えば、他のすべてのものも、一瞬にして失うことになるからです。
ですから、命が一番大切だ、ということは理解できます。
でも、もし命が一番大切であるなら、私たちの人生には、まことの希望はないのではないでしょうか。
なぜなら、この世における命は、いつかは必ず消えてしまうからです。
これは例外なく、誰にでも必ず起きることです。
一番大切なものが、いつかは消えてしまうなら、そこにはまことの希望はありません。
でも本当に大切なものは、命の他にあって、それは自分が死んでも永遠に残るとしたら、その時、希望が生まれてきます。
事故で首から下の神経が、すべて麻痺してしまった星野富弘さんが、口で筆をくわえて、このような詩を詠んでいます。
『いのちが 一番大切だと思っていたころ/生きるのが 苦しかった/
いのちよりも 大切なものがあると知った日/生きているのが 嬉しかった』
永遠なる神様を、一番大切にした時、私たちにまことの希望が生まれます。
なぜなら一番大切な神様が、私のことを大切だと言って下さるからです。
あなたのことを、命懸けで愛している、と言って下さるからです。
そしてこの事実は、どんな時も、死を超えてまでも、決して変わることはないのです。
これこそが、まことの希望であり、まことの喜びなのではないでしょうか。
今朝の御言葉は、そのことを、私たちに教えてくれています。
エルサレムに入城された主イエスに、人々が入れ代わり立ち代り、質問をしました。
今朝の御言葉では、サドカイ派の人たちが、復活について質問しています。
サドカイ派は、当時、ファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の二大宗派の一つでした。
サドカイ派は、祭司たちや、富裕な貴族や、支配者階級を、その活動基盤としていました。
彼らの目は、現世の恵まれた生活、つまりこの世における幸福に、向けられていました。
一方のファリサイ派は、地方の町や村の会堂で、一般庶民に働きかけていました。
ローマの支配によって、苦しみと屈辱の中にある民衆に、神の民としての、誇りと自覚を持たせようと、努めていました。
ですから彼らの目は、将来における救いの完成へと、向けられていました。
この両派は、様々な点で対立していましたが、その一つが、復活についての捉え方でした。
サドカイ派は、旧約聖書の中の、「モーセ五書」と呼ばれている、最初の五つの書物。
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを、信仰の規範としていました。
そのモーセ五書には、死んだ者が復活する、ということは書かれていません。
ですから、サドカイ派は、「復活はない」と言って、復活を否定していたのです。
それに対してファリサイ派は、モーセ五書以後に書かれた旧約聖書も受け入れていました。
それらの中には、死者の復活を語っているものがあります。
ですから、ファリサイ派は、復活はある、と主張していました。
このように、サドカイ派とファリサイ派は、復活について、正反対の考えを持っていました。
でも、もしサドカイ派の人たちのように、復活などないと考えているなら、いざ死に直面した時に、神様を信じているということは、一体どういう意味を持つのでしょうか。
ここで復活のことを、言葉を変えて、「死後のこと」と捉えて、考えて見たいと思います。
自分が死んだら何が起きるのか。或いは、何も起こらないのか。そういうことは、誰もが考えることだと思います。
今年は、クリスチャン作家三浦綾子さんの、生誕百年の年です。
晩年の三浦さんは、「私には、死ぬという大切な仕事が遺されている」、と言われていました。
三浦さんは、「主よ、どうか、死ぬという大切な仕事を通して、私を用いて下さい。
どうか、死ぬという大切な仕事を、全うできますように」、と祈り続けておられたそうです。
三浦さんが祈り願われたこと。それは、死をも超える希望があるということを、ご自身の死を通して証しすることでした。
死の先にある希望に向かって生きよう、と呼び掛けることでした。
でも、サドカイ派の人たちは、死の先にある希望を、信じようとしませんでした。
それどころか、復活がいかに矛盾に満ちているかを、何とかして論証しようとしました。
そのために、彼らが思いついたのが、申命記25章5節以下にある、レビラート婚と言われている、結婚についての掟を用いることでした。
「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」、という掟です。
イスラエルの民にとっては、家系を絶やさないということは、神様の祝福を受け継いでいくために、極めて大切な事でした。
そのために、このような掟が、定められたのです。
サドカイ派の人たちは、この掟を確認した上で、一つの極端な例をあげます。
「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。
すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」。
彼らは、これによって、死者が復活するという教えが、いかに不都合なものであるかを、論証しようとしました。
当時、復活についての、サドカイ派とファリサイ派との論争は、このような屁理屈の投げ合いとなっていて、何とも愚劣なレベルにまで陥っていたのです。
一人の女性が、兄弟七人と次々に結婚する、というのは極端としても、同じようなことは、私たちにおいても、起こります。
配偶者と死別して、再婚する人は多くいます。
その場合、復活したら、どちらの人が自分の妻、或いは夫となるのか、両方なのか、などと考えていくと、分らなくなってきます。
けれども、そのようなことを考える時、私たちも、サドカイ派の人々と同じように、復活をこの世の人生の、延長線上にしか考えていない、ということになります。
だから、復活したら誰と誰が夫婦なのか、などと質問したくなるのです。
私たちが、復活について抱く疑問は、皆この類いのものです。
復活の姿は、死んだ時の姿なのか、それとも、もっと若くて、盛んな時の姿なのか。
或いは、復活の時は、この世における欠陥を、そのまま持って現れるのか、などです。
これらは全て、復活をこの世の人生の、延長線上に考えることによって、起る疑問です。
主イエスは、サドカイ派の人々に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」、とおっしゃいました。
あなたたちは、大きな思い違いをしている。それは、聖書も神の力も知らないからだ、と言われたのです。
ここで、主イエスが語られた「神の力」の力とは、デュミナスという言葉です。
これは、英語のダイナミックの語源になっている言葉です。
「あなた方は、ダイナミックに働かれる神様の力を知らない。だから、そんな思い違いをしているのだ。そんな疑問に捕らわれているのだ。
あなたたちが見上げるべきお方は、ダイナミックに私たちを愛してくださる神様なのだ。
私たちを救うために、独り子の命さえも惜しまずに、犠牲にして下さった神様。
その神様のダイナミックな御力によって、あなた方は天使のようになるのだ。」
主イエスは、そう言われているのです。 私たちが、天使のようになる。
皆さん、ご自分が、天使のようになる場面を想像できますでしょうか。
この私が、天使のようになる。そんなこと、想像できません。
でも、神様のダイナミックな愛の御力、神様のダイナミックな恵みの御力が、そのことを起こして下さる、というのです。
あなた方は、天使のようになるのだ。そのような、神様の大きな愛に包まれているのだ。
そのことを、どうか分かってもらいたい、と主イエスは言われているのです。
この神様のダイナミックな御力が、私たちを復活させるのです。
天使のようになるというのは、白い衣を着て翼を持つ者になる、ということではありません。
新しい命に甦らされ、神様の愛の御手の中に抱かれる者となる、ということです。
復活とは、新たな創造です。新しい命に甦らせられることです。
それは、私たちが、今地上を生きている、この体と心の有り様のままで、そのまま、もう一度生きる者となる、ということではありません。
天の御国で、新しい命に生かされて、天使のごとき存在となる、ということです。
もはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者、神の子とされるというのです。
復活とは、新たな創造です。でも、この世と全く断絶しまう訳ではありません。
天使にも、ガブリエルやミカエルのように、それぞれ異なった個性を持つ者がいて、それぞれ異なった働きをしています。
ですから、復活した命も、それぞれの個性を引き継いでいるのです。皆が同じで、見分けがつかなくなる訳ではありません。
しかし、神様の愛の御手の中で、新しい命を得るのです。その愛の御手の中で、天使のような存在になるのです。だから、娶ることも嫁ぐこともないのです。
しかしそれは、夫婦が、もう関係ない、赤の他人になる、ということではありません。
復活においては、私たちの命と体が完成されるのです。そして、私たちの人間関係も完成されるのです。 
完成された愛の関係の内に、愛する人たちと再会するのです。
この世にいた時のような、不完全な愛ではなく、神様と天使の間にあるような、完成された愛をもって、夫婦が、親子が、友だちが、愛し合うのです。
結婚式の時の誓約、「健やかなる時も、病める時も、順境の時も、逆境の時も、これを愛し、これ敬い、命の限り、固く節操を守ること」。
私たちは、これを、完全に守れているでしょうか。或いは、守れていたでしょうか。
神様の愛に比べて、何と不完全な私たちの愛と、言わざるを得ないのではないでしょうか。
しかし、復活した時は、神様の愛の御手の中で、新しい命を得て、天使の如く愛する者とされる。私たちの愛は、神様の許で完成されるのです。
この世における不完全な愛が、そのまま継続するのでなく、完成するのです。
結婚式の誓約を守れる愛へと、高められていくのです。神様の愛に近付いていくのです。
使徒ヨハネは、第一の手紙3章2節でこう言っています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」
ヨハネは、「天使のようになる」、という主イエスの言葉を、「御子に似た者となる」と言い換えています。
天使のようになるとは、主イエスに似た者となる、ということだというのです。
勿論、あくまでも似た者になるのであって、全く同じになる訳ではありません。そんなことはあり得ません。
皆さん、私たちの究極の願いとは何でしょうか。それは、主イエスのようになりたい、ということではないでしょうか。
主イエスの愛に、少しでも近づきたい。主イエスの聖さに、少しでも与りたい。主イエスの正しさに、少しでも倣いたい。それが、私たちの究極の願いではないでしょうか。
十字架の上で、自分を殺そうとしている人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた、主イエスの愛。
その愛に、少しでも近づいていくこと。それが私たちの究極の願いです。
今、この世の人生において、良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の、完成された関係を与えられるのです。
また、今、この世の人生においては、夫婦の間に問題があり、悩んでいる人には、そのような問題や悩みが、全て解消された、新しい関係が与えられるのです。
それは、夫婦の関係だけの話ではありません。
この世の人生において、私たちは様々な人間関係に生きています。
恵まれた、喜ばしい関係もあれば、残念ながら、どうしても仲良くなれない、という不幸な関係もあると思います。
それらの関係が、復活の後には、神様の御手の内に置かれることによって、自分の頑なな思いから解放されて、完成するのです。
その復活の世界においては、「めとることも嫁ぐこともない」のです。
なぜなら、復活後の世界においては、もはや死ぬことはないので、結婚して、子どもを得て、命の継承をする必要はないからです。
復活後の世界においては、誕生も死もないのです。
ですから、サドカイ派の人々の質問も、意味を持たなくなるのです。
主イエスは、そのような復活を示すために、出エジプト記の御言葉を引用されました。
モーセが神の山ホレブで、主なる神様と出会った時の話です。
その時、主なる神様はモーセに、ご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」、と自己紹介されました。
この御言葉が、死者が復活することを語っている、と主イエスはおっしゃったのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
この言葉は現在形で書かれています。ですから、そうであった、ということではありません。
今のこと、現在のことを、言っているのです。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、今も尚、生きているのです。天において、神様の御手の中で、今も生かされているのです。
しかし、ここで、もっと大切なことは、神様が生きておられる、ということです。
生きておられる神様が、「私は、今もアブラハムの神である」、とおっしゃったなら、アブラハムは、神様の御前に、今も生きている者とされるのです。
永遠に生きておられる神様が、私たちの名前を呼んで、私はこの人の神だと言って下さるなら、私たちは、死を越えて生かされるのです。
「私はあなたの神だ。もうあなたは私のものだ」、と神様が言われ、「はい、そうです。あなたは私の神様です。私はあなたのものです」、とお答えする時に、私たちと神様との間に、太い絆が生まれます。
そして、この絆は、どんなことがあっても、決して断ち切られることはないのです。
今、これほど堅く結ばれている絆が、死によって断ち切られることは、決してありません。
復活後にどうなるか、詳しいことは分かりません。しかし、主が決して私たちから離れず、死んだ後も共にいて下さる、ということだけは確かです。
私たちは、永遠なるお方と、決して断ち切られない、堅い絆で結ばれているのです。
今結ばれている、この堅い絆こそが、私たちの復活の根拠なのです。
昔も、今も、そして永遠に生きておられる、万物の造り主が、私たちの名前を呼んで、「私はあなたの神だ」と言って下さるなら、私たちは死を越えて生かされるのです。
神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
主イエスを復活させて下さった神様は、今、私たち一人一人の名を呼び、「私はあなたの神だ。もうあなたは私のものだ」、と語り掛けて下さっています。
そして、私たちが、この地上の生涯を終えた後も、このお方は、私の神でいて下さることを、決して止めることをなさらないのです。
人間の死は、永遠なる神様との関係においては、何の隔てにも、妨げにもならないのです。
やがて、私たちが死を迎えても、神様は、「私の神」でい続けて下さいます。
私の命の、前も、今も、後も、そのすべての日に亘って、神様は、私を捕らえて、愛していて下さるのです。
神様は、私の神であることを、一瞬たりとも止めることをなされないのです。
ある人が、こう言っています。
「胎児の目的は、母の胎の中で、生涯を終えることではない。それは地上に新しく生きるための、備えの時である。
同じように、人間の目的は、地上で生涯を終えることではない。天の御国で、新しいからだとともに、積極的に生きるためなのである。」
キリスト者とは、人生を、地上と天の御国の、二つのステージで捉える者です。
そうであれば、現在の夫婦の問題や、人間関係の問題の中に、復活後の完成された愛の関係を、持ち込まなければならないと思います。
復活後に完成される人間関係、完成された愛の関係を、今の世界に、逆輸入しなければならないと思います。 
復活後に、天使のような愛に生きる自分。
その姿を思い描くことによって、今の世界における夫婦関係にも、また人間関係にも、新たな光が差し込んでくるのではないかと思います。