「人の言葉や知恵ではなく」
2022年06月12日 聖書:コリントの信徒への手紙一 2:1~5
教会で、よくこういう言葉を耳にします。
「私は、救われるために、もっともっと聖書を勉強しないといけない、と思っています。」
こういう言葉を聞くと、私は、少々複雑な気持ちになります。
なぜなら、聖書は勉強するものではないからです。聖書は研究の対象ではありません。
日本では、「聖書研究」という言葉が、教会において広く用いられています。
古くから親しまれている言葉ですので、これを、ことさら否定しようとは思いません。
しかし私は、この「聖書研究」という言葉に、少なからぬ抵抗感を持っています。
確かに、聖書学者の先生方は、聖書を研究されています。そして、私たちは、その研究の成果によって、多くの恵みを与えられています。
それは、本当に感謝なことです。
しかし、聖書学者ではない私たちは、聖書を研究の対象とはしません。
聖書は、神の霊感によって書かれた、神の言葉です。
その神の言葉を聴いていくときに、「研究しよう」という気持ちで聴くなら、恵みを得ることはできないのではないかと思います。
聖書の御言葉は、神の言葉として聴かせて頂くものです。御言葉を通して、神様ご自身が、一人一人に親しく語ってくださるのです。
ですから、語ってくださる主の前にへりくだって、あの少年サムエルのように、「しもべ聴きます。主よ、語りたまえ」という祈り心をもって、御言葉に聴いていくべきだと思うのです。
そういう思いから私は、水曜日の「聖書研究・祈祷会」を、「聖書講読・祈祷会」という言葉に変えさせて頂きました。
皆さん、私たちは、救われるためには、勉強しなくてはならないことが、たくさんあるように思いがちです。
もっともっと勉強しなければ救われない。そう思いがちです。
しかし、救いのために、知らなくてはならないこと。それは、そんなに多くはありません。
いえ、突き詰めて言えば、一つだけなのです。「キリストの十字架の恵み」。これだけです。
この恵みを、しっかりと握り締めさえすれば良いのです。
信仰とは、そういう意味では、単純なものだと言えます。
十字架の救いの恵み。ただこのことだけに集中する。それが信仰なのです。
ですからパウロも、コリントの教会の人たちに救いを宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。
ただ十字架につけられたイエス・キリストのみを語ったのです。
5年前に召された、羽鳥明先生という大衆伝道者がおられました。
「世の光」という番組を通して、ラジオ伝道に生涯を献げられた先生です。
その羽鳥明先生が良く語っておられた証しに、実弟の純二先生の救いの話があります。
羽鳥先生は、弟の純二先生の救いのために、長年祈っておられました。
そして、ある時、純二先生を連れて、東京のとある教会の礼拝に行きました。
するとそこでは、田舎弁丸出しの牧師が説教していました。
純二先生は東大の理系の出身で、当時は共産党の幹部として活躍していたインテリでした。
羽鳥先生は、せっかく弟を連れて来たのだから、もっと知性的な話をしてもらいたい、と思ったそうです。
その教会は、宣教師が牧会している関係で、よく外部から説教者が招かれていました。
ですから羽鳥先生は、次は別の説教者が話すものと期待して、もう一度純二先生を、その教会に連れて行きました。
ところが、またもや前回と同じ牧師でした。その牧師は、ただキリストの福音を、とつとつと話すだけでした。
「キリストは、私たちの罪のために、十字架につけられて死んだ。そして、三日目に、死人の中から甦った」。
この単純なメッセージを、ひたすらに繰り返す。そういう説教でした。
羽鳥先生は、こんな調子の説教では、弟の心をかたくなにするだけで、とても信仰に導くことなどできないと、半ば諦め気味に思ったそうです。
やがてその説教者は、イエス・キリストを信じる者は手を挙げるように、と決心を迫りました。
すると驚いたことに、純二先生が涙を流しながら手を挙げ、キリストを受け容れたのです。
その説教者は、優れた言葉や知恵によらず、ただ単純な福音を語っただけでした。
十字架の救いの出来事を、とつとつと宣べ伝えただけでした。
しかし、それで良かったのです。そこにこそ、キリストの救いのすべてが、集約されているからです。
使徒パウロは、そのことをよく知っていました。ですから、コリントの教会の人々を救いに導くのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。
今朝の御言葉の冒頭で、パウロは、「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」、と語っています。
「用いませんでした」、と言っていますが、これは、「頼りにしなかった」、と言い換えても良いと思います。
パウロに、そのような優れた言葉や知恵が、欠けていたからではありません。
パウロは、言葉と知恵において、まことに優れた人でした。
しかし、それを頼りにしなかったのです。それを当てにはしなかったのです。
自分の優れた言葉や知恵によって、神の秘められた計画を証明して見せよう、などと意気込んで語ったのではなかったのです。それを捨てたのです。
神の秘められた計画とありますが、それは、私たちを救うための神様の御心です。
私たちのために、神様が用意された、救いの道筋のことです。
神様ご自身が用意されたのですから、それを証しするのに、人間の言葉も知恵も用いなかった。
そのようなものは頼りにしなかった、とパウロは言っているのです。
天地万物を造られた全能の神様が、無力で貧しい一人の男となってこの世に来て、すべての人間の罪を代わって負って、十字架にかかって贖いの死を遂げた。
この途方もない救いの出来事は、人間の思いを遥かに超えています。人間の知恵では、全く及びもつきません。
どれほど優れた人間の言葉を駆使しても、この救いの出来事を、十分に言い表すことはできません。
どれほど優れた知恵を用いても、この救いを証明することはできません。
ですからパウロは、コリントにおいては、ただキリストのみを、それも十字架につけられたキリストのみを語ろう。そのことに集中しよう。そう決心したのです。
パウロは、ここで、キリストを知る、という言葉を使っています。
では、キリストを知る、とはどういうことなのでしょうか。
キリストを知る、ということは、キリストがこの世に来られた目的を知るということです。
何のために、キリストはこの世に来られたのか。そのことを知るということです。
キリストがこの世に来られた目的。それは、人間の罪を贖うために、十字架にかかって、死ぬ、という使命を果たすためです。
そのことだけのために、キリストは来られたのです。
そして、この十字架のキリストを、この私のための出来事として、本当に知ったなら、つまり、真実に、この十字架のキリストに出会ったなら、私たちは必ず変えられます。
野球で、ピッチャーが投げた球を、バッターが、バットの真芯で捕らえると、球は全く逆方向にはじき返されます。ジャストミートした打球は、反対方向に飛んでいきます。
キリストを真実に知り、キリストにジャストミートすると、その人の人生は、今までとは全く違う生き方へと変えられていくのです。
ですから、キリストを知るということは、私たちが、変えられるということなのです。
キリストを知ることについて、アントニー・デ・メロというインドのカトリックの司祭が、興味深い短文を記しています。
キリスト教に改宗した人と、信仰を持たない友人との会話です。
「そこで君はクリスチャンになったというわけだね?」 「そうだよ」
「では君は、キリストについてたくさんのことを知っているにちがいない。話してくれたまえ」。
「彼はどこの国に生まれたの?」 「知らないよ」
「死んだとき何歳だったの?」 「知らないよ」
「彼がした説教の数はいくつ?」 「知らないよ」
「君はクリスチャンになったけれど、キリストについてほとんど知らないんだね?」
「その通りさ。キリストについてほとんど知らないことが恥かしい。
でもこれだけは知っている。3年前、僕は酔っ払いだった。借金があった。
家族はばらばらだった。妻と子どもは、毎晩、僕が家に帰るのを怖がっていたんだ。
でも今、僕は飲むのをやめた。借金もない。僕の家庭はしあわせだ。子どもたちは僕の帰りを毎晩とても待ち望んでいる。
これはみんな、キリストが僕にしてくれたんだ。僕はキリストについて、これだけは知っているんだ!」
たったこれだけの短い話しです。でも、とても大切なことが教えられています。
ここで言われていること。それは、キリストと真実に出会ったなら、私たちは、この人のように変えられる、ということです。
パウロ自身も、思いがけない仕方で、キリストを知りました。しかも、十字架につけられたキリストを知りました。そして、まったく変えられました。
ですからパウロは、コリントにおいては、知恵の言葉を語るのではなくて、この十字架のキリストによって、変えられた自分示すことによって、伝道をしたのです。
最も効果的な伝道は、雄弁に語ることではなくて、変えられた自分を示すことです。
先週、關江里姉が信仰を告白されて、バプテスマを受けられました。
江里さんが、バプテスマを受けたいという思いに導かれたのは、關義雄兄と關益子姉の信仰の姿勢と、活き活きとした生き方に触れたからだと伺いました。
パウロは、自分自身の生き方を通して、コリントの人たちが、キリストを知るようになることを、切に願いました。
ですから、自分をこのように造り替えた、十字架のキリストのみを語ったのです。
パウロが、コリントにおいて、ここまで、キリストだけに、それも十字架につけられたキリストだけに集中したのには、一つの背景がありました。
使徒言行録17章を見ますと、パウロはコリントに行く前に、アテネで伝道をしています。
哲学者や知識人の多いアテネで、パウロは、自分が得意とする弁論をもって、アテネの人々を説得しようと試みました。
かつては、ファリサイ派の論客として知られていたパウロですから、弁論や議論には、少なからぬ自信を持っていたのです。
ですから、得意の弁論や議論で、アテネの人々を説き伏せようと、勢い込んでアテネに入っていきました。
ところが、アテネでの伝道は大失敗でした。散々な結果でした。
パウロは打ちのめされ、失意の中を、惨めな思いでコリントに向かって旅立ちました。
アテネ伝道に失敗したパウロは、恐れと不安を抱えて、コリントに入っていったのです。
3節の御言葉は、その時のパウロの様子を伝えています。
「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」
使徒言行録18章には、このようなパウロに語り掛けられた、主の御言葉が記されています。
「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』」
こういう主の言葉が聞こえてきたということは、パウロが恐れに捕らわれていて、語ることができなくなっていた、ということを示しています。
「もう語ることができない」と思うほどに、パウロは、恐れと不安に取り付かれていたのです。
そして、その時、パウロは知らされたのだと思います。
私は間違っていた。主が望んでおられることは、自分の言葉や知恵に頼ることではない。
それらを捨てて、ただキリストを語ること。それも、十字架のキリストを語ることなのだ。
そうだ、これからは、ただキリストだけに、それも十字架のキリストだけに集中しよう。
この決断に立った時、パウロは主によって、大きく用いられたのです。
ですから、パウロは語っています。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」
恐れと不安を覚えながらも、主の霊と力に押し出されて、パウロが伝道していった時に、人々が信仰を言い表したのです。
その現実を目の当たりにして、パウロは思わず、「ハレルヤ!」と叫んだかもしれません。
皆さん、伝道は、人間の力では出来ません。犯罪人として、十字架刑に処せられた一人の惨めな男が、全人類の救い主である。
そんなことを、誰が信じるでしょうか。
もし、信じる者が起こされるとしたら、それは、人間の言葉や業によるのではありません。ただ、聖霊の導きと、神様の力によるのです。
人間は、知恵によって救いを得ようとします。知恵を尽くして救いに到達しようとします。
しかしパウロは、人間の知恵をもっては、救いは得られないと、繰り返して語ります。
それなら、人を信仰に導くものは何なのでしょうか。
それは、人の知恵ではなく、聖霊の導きと神の力である、と御言葉は言っています。
そうなのです。人を信仰に導くのは、人間の言葉や知恵ではなく、神の力なのです。
そして、その神の力に、私たちが全き信頼を寄せていく。そこに信仰の鍵があります。
そのことを、神様ご自身から、教えられた人がいます。ビル・ハイベルズという牧師です。
アメリカ・シカゴの郊外にウィロークリーク・コミュニティ・チャーチという教会があります。
毎週2万人以上の人が礼拝に出席する、アメリカを代表するメガチャーチです。
今は退かれていますが、その教会を開拓したのがビル・ハイベルズ牧師です。
実は、マスコミには知られていませんが、このハイベルズ牧師は、今のバイデン大統領の二代前の大統領と、二人だけの祈祷会を、8年間に亘って、毎週秘かに守っていたのです。
ある時、いつものようにホワイトハウスの大統領執務室で、聖書を読み、二人で祈っていると、そこに首席補佐官と側近たちが入ってきました。
そして、「大統領、お時間です。空港にお急ぎください」、と催促しました。
すると大統領は、「まだ、最後の祈りが終わっていない。あなた方も一緒にお祈りに加わりなさい」と言いました。
そう言われて、首席補佐官と側近たちも、祈りの輪に加わりました。その時、側近の一人が、重そうな黒いブリーフケースを、ハイベルズ牧師の足元に置きました。
ハイベルズ牧師は、それを見て、ハッとしました。それは間違いなく、「核のボタン」とか「核のフットボール」と呼ばれているブリーフケースでした。
大統領が、いつでも、どこでも、核攻撃の許可が出せるようにと、核攻撃を承認するための暗証番号と、承認装置が入っている黒いカバンです。
数年前、この大統領が広島を訪れた時にも、このカバンを携行したことで話題になりました。
すぐ横に置かれたハイベルズ牧師のカバンも、同じような黒のブリーフケースでした。
シカゴへと戻るハイベルズ牧師の胸は、地球上の最高権力者だけが持つことを許される、あの有名なブリーフケースを目の当たりにした興奮で、高鳴っていました。
そのハイベルズ牧師の心に、神様が静かに語り掛けました。
「ビルよ、お前は何をそんなに興奮しているのか。何でそんなに胸を高鳴らせているのか」。
ハイベルズ牧師が答えます。「主よ、世界で最高権力者しか持つことのできない、あの黒いブリーフケースを目の当たりにしたのです。」
「どうして、それが、お前の胸を高鳴らせるのか。そのカバンが持っている力とは、どんな力なのか。」
「主よ、あのブリーフケースは、世界を一瞬にして変えてしまう力を持っているのです。」
「確かに、あのカバンは、世界を一瞬にして破壊する力を持っているかもしれない。
では、お前のカバンには、何が入っているのか。お前のカバンに入っているものには力はないのか。」
そう言われて、彼は改めてカバンの中を見ました。そこには一冊の聖書が入っていました。
「お前のカバンの中に入っている、聖書には力はないのか。私の言葉には、この世界を変える力はないと、お前は思っているのか。お前は今まで、一体、何を語ってきたのか。
お前のカバンの中にある聖書は、世界を破壊することによって一変させるのではなくて、世界をまことの救いへと導くことによって、一変させる力があるのだ。」
ハイベルズ牧師は、この主の語り掛けに打ちのめされて、深く悔い改めたそうです。
皆さん、私たちは、聖書をなんだと思って読んでいるのでしょうか。
この聖書は、本当に人を変える力がある、と信じて読んでいるでしょうか。それとも、そんな力などはないと思っているのでしょうか。
皆さん、私たちは、聖書をもっと情熱をもって、もっと期待をもって読みたいと思います。
聖書には、世界を、そして私たちの人生を一変させる力があるのです。
その聖書の持つ力とは、十字架につけられたキリストから来ます。十字架につけられたキリストこそが、人を変える力を持っているのです。
天地を造られ、今も支配されている全能の神様が、背き続ける私たちを救うために、一人の無力な人となってこの世に来てくださり、すべての罪を代わって負ってくださり、十字架について死んでくださった。
この十字架のキリストが、私たちに真実に迫ってくるとき、私たちは変えられます。
両手・両足につけられた十字架の釘跡を示しながら、その傷ついた両手を広げて、十字架の主イエスが迫ってくるときに、私たちは変えられます。
今までに数え切れない人々が、この十字架の主イエスに出会って変えられてきました。
私たちもその救いの行列の一番後ろに、加えて頂きたいと切に願います。