「まことの平和への道」
2022年08月07日 聖書:コリントの信徒への手紙一 3章1節~9節
皆さんは、おとぎ話の「サルカニ合戦」をご存知だと思います。
お人好しのカニは、自分が見つけたおにぎりを、ずる賢いサルに騙されて、柿の種と交換してしまいます。
でもカニは、騙されたとも知らずに、柿の種を地面に埋めて、水をあげながらこう歌います。
「早く芽を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょん切るぞ。」
芽が出てくると、今度は「早く伸びろよ柿の種、伸びねばハサミでちょん切るぞ」と歌います。
こうして柿の種は、またたく間に大きく成長していった。これが物語の始まりです。
一生懸命に種の成長を願う、このカニの姿は、神様のお姿と少し重なるところがあります。
神様も、私たちという畑に蒔かれた御言葉の種が、成長することをひたすらに願っておられます。
その点では似ています。
でも神様とカニとでは、大切な点が決定的に違っています。一体、どこが違うのでしょうか。
神様は、私たちの信仰が成長しなければ「ハサミでちょん切るぞ」などとは、絶対に言われません。
成長しない信仰者を、切り捨てるようなことは、絶対になさいません。
どこまでも忍耐強く、愛をもって見守ってくださいます。
そして、私たちの信仰が成長しないなら、そのことを咎めるのではなくて、そのことに大きな痛みを覚えられるのです。
信仰の芽が出ず、成長しないことを、ご自身の痛みとされて、深く悲しまれるのです。
成長しない私たちを「ハサミでちょん切る」のではなくて、逆にご自身が傷付かれるのです。
それが私たちの神様です。今朝の御言葉は、そのような神様のお姿を示しています。
今朝の御言葉でパウロは、コリントの教会の人たちに、こう言っています。
「あなた方は未だに肉の人だ。まだ乳飲み子だ。まだ固い物を口にすることができない。」
パウロは、コリントの教会の人たちに対して、「あなた方は大人ではない、まだ乳飲み子だ。
だから、固い食物ではなく、乳しか与えることが出来ない」、と言っています。
恐らく、コリントの教会の人たちの多くは、この言葉を聞いて、カチンときたと思います。
コリントの町は、当時、最も進んでいたギリシア文化の、中心地の一つでした。
そこには、ギリシア哲学を修めた知識人も、大勢いたと思われます。
ですから教会の中にも、「知的なレベルでは、自分の方がパウロよりも上だ」、と密かに思っていた人たちがいたと思います。
また霊的な経験においても、「自分たちは大人だ」、と思っている人が多かったと思います。
コリントの教会には、そういうプライドの高い人たちが大勢いたのです。
プライドというものは、厄介なものです。それは、人の心から謙遜な思いを奪ってしまいます。
自分が正しいという思いが強過ぎるために、相手の人を攻撃し、糾弾してしまいます。
コリントの教会の信徒たちは、相手の言葉を謙遜に聞くことをせずに、何かにつけて、「自分たちこそが正しい」と主張して、分派争いをしていたのです。
実際に教会の中には、パウロ派、アポロ派、ペトロ派というような、分派がありました。
そのような人たちに対して、パウロは、あなた方は乳飲み子だと言っています。
教会の頭である主イエスに向かって、心と思いを一つにすることが出ないでいる。
お互いの間に、妬みや争いが絶えないではないか。
だからあなた方は、まだ霊的な大人になっていない。まだ乳飲み子だ、と言っているのです。
さて皆さんは、今朝の御言葉を読まれて、パウロはここで、コリントの教会の人たちを責めている、と感じられたでしょうか。
パウロは、厳しい𠮟責の言葉を語っている。そう思われたでしょうか。
文面からは、そう捉えることもできるかもしれません。
でも果たして、パウロはここで、コリントの教会の人たちを、責めているのでしょうか。
言うまでもないことですが、ここで語っているパウロの背後には、神様がいらっしゃいます。
神様が、パウロの口を通して語っておられるのです。
では神様は、コリントの教会の人たちを、責めておられるのでしょうか。
パウロは、この手紙の1章10節でも、同じようなことを言っています。
1章10節です。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい。」
ここで、パウロは、「勧告します」と言っています。
「勧告」と言う言葉は、「辞任勧告を迫る」というように、とても強い印象を与えます。
命令に近い言葉のように、捉えられることが多いと思います。
しかし、ここで「勧告します」と訳された言葉は、とても広い意味を持つ言葉なのです。
他の聖書では、「お願いします」とか、「懇願します」と訳されています。
ここで神様は、パウロを通して、コリントの教会の人たちに、呼び掛けておられます。
「あなた方に心からお願いします。どうか、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合ってください。どうか、そうしてください。」
神様は、そう呼び掛けておられるのです。いえ、懇願されておられるのです。
神様は、コリントの教会の分派争いをご覧になられて、激しくお心を痛めておられます。
責めておられるのではないのです。痛みを覚え、悲しまれておられるのです。
この神様の痛みは、聖書の中では、特別な言葉でもって言い表されています。
それは「はらわた」を意味する言葉で、聖書では神様と主イエスにしか使われていません。
神様は、教会が一つとなっていないことをご覧になられて、ご自身のはらわたがちぎれるような痛みを覚えられているのです。それほどまでに、悲しみ、苦しまれておられるのです。
ご自身が、ないがしろにされているから、腹を立てておられるのでありません。
分派争いをすることによって、誰よりも、争っている人たち自身が、傷つき苦しんでいる。
愛するコリントの教会の人たちが、お互いに傷つけ合っている。
神様は、そのことに、はらわたがちぎれるような、痛みを覚えておられるのです。
そして、「どうか一つになって欲しい」と、心から願っておられるのです。
ですから、今朝の御言葉は、𠮟責の言葉ではなく、心からのお願いの言葉なのです。
コリントの教会の人たちが、神様に頼ることをしないで、私はパウロにつく、いや私はアポロに、私はペトロにと、人間に頼っている。
そのことによって、教会の平和が失われている。
神様に向かって、心と思いを一つにできないために、まことの平和が崩れている。
その有様をご覧になられて、神様は大きな痛みを感じておられるのです。
そして、「どうか思いを一つにして、固く結び合って欲しい」と、懇願しておられるのです。
コリントの教会にあった分派争いは、多かれ少なかれ、どこの教会にもあります。
どこの教会にも、多少なりとも仲間争いがあり、一つ思いになれず、固く結び合えないという現実があります。
コリントの教会の姿は、私たちの姿と重なります。
ですから、コリントの教会に対する神様の呼び掛けは、私たちに対する呼び掛けなのです。
教会の中だけではありません。おおよそどこの社会にも、分派争いがあります。
世界中の至る所で、分派争いがあります。
そのために、人々は無益な戦いを繰り返し、傷つけ合っています。
神様は、そんな私たちをご覧になられて、はらわたをえぐられるように苦しんでおられます。
皆さん、私たちが信じる神様は、苦しまれるお方なのです。
争い合い、傷つけ合っている私たちをご覧になられて、はらわたがちぎれるような、苦しみを覚えられるお方なのです。
神様は、最愛の独り子の命を献げてくださるほどに、私たちを愛してくださっています。
その愛する私たちが、お互いに争い合い、傷つけ合っている。
そんな私たちをご覧になられて、身を裂かれるような苦しみを覚えられ、涙を流してくださるお方。それが、私たちの神様なのです。
あなた方は、お互いに争い合っている。でも、それによって、一番傷ついているのは、他ならぬあなた方自身なのだ。なぜそのことが分からないのか。
神様は、そう叫ばれて、涙を流されているのです。
愛する者たちよ。どうか争いを止めて一つになって欲しい。それが私の心からの願いなのだ。
平和聖日のこの朝、私たちは、この神様の呼び掛けを、いえ、この神様の涙の叫びを、自分自身に対する声として、聴いていきたいと思います。
争い合う私たちを見られて、涙を流されている神様の痛みに、思いを馳せたいと思います。
そして先ず、私たちの身近なところから、小さな平和を造り出していきたいと思います。
しかし、本当に残念なことですが、私たちは、そのような神様の思いを知りつつも、その思いに反して、直ぐに分派争いをし、傷つけ合ってしまいます。
では、そんな私たちを、神様はどうされようとしているのでしょうか。
聖書は、「神は愛である」と言っています。
そしてパウロは、この手紙の13章で、神様の愛とはどういうものなのかを語っています。
13章4節から6節で、パウロはこう言っています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」
パウロは、これが神様の愛なのだ、と言っています。
私たちは直ぐに、神様を見ないで、人を見てしまいます。そして、仲間割れをして、教会の平和を崩してしまいます。
ですから神様は、こんな私たちに腹を立てているのではないか、と思ってしまいます。
しかし皆さん、神様の愛はいらだたないのです。腹を立てられないのです。
私たちは、神様の前に不誠実です。ですから、赦してもらえないと思ってしまいます。
でも皆さん、神様の愛は情け深いのです。私たちを赦してくださるのです。
私たちは、何度も神様を裏切っています。ですから神様は、私たちのことを、恨んでいると思ってしまいます。でも皆さん、神様の愛は恨みを抱かないのです。
それが神様の愛なのです。主イエスの愛なのです。
神様は、私たちを、極みに至るまで愛して下さっています。
その愛する者たちが、自らの罪によって、祝福を逃し、恵みから遠ざかり、お互いに傷付け合っている。
そんな私たちをご覧になられて、神様は痛みを覚えられ、涙を流されるのです。
皆さん、神様の愛は風呂敷のようなものです。そして、私たち一人一人は、バラの枝です。
神様は愛の風呂敷で、私たちというバラの枝を覆い包んでくださいます。
でも、バラの枝には罪という鋭い棘があります。
ですから、風呂敷に包まれたバラの枝を強く抱き締めると、バラの棘は風呂敷を突き破って、抱きしめているお方の腕に突き刺さり、血を流させます。
でも神様は、それにもかかわらず、ますます強くバラの枝を抱きしめて下さいます。
そして、ますます多くの血を流してくださるのです。それが、私たちの神様なのです。
コリントの教会の人たちは、神様を見ずに、人を見ていました。
神様に繋がらずに、人に繋がっていました。
ですから、ある人は「私はパウロにつく」と言い、他の人は「私はアポロに」、というような有様でした。
しかし、パウロは、その人たちに対して言うのです。
パウロとは何者か。アポロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者ではないか。
自分も、アポロも、何者でもないのだ、と言っているのです。
これは、謙遜して言っている言葉でしょうか。そうではありません。
パウロは、自分も、アポロも、神の御業に対しては、全く無力なのだ、と言っているのです。
パウロは、そのことを本当によく知っていました。
自分は、何か特別な力を持っているのではなく、神様から救いの言葉を託されているだけなのだ。
私もアポロも、御言葉を取り次ぐ管に過ぎないのだ。
だから大切なのは、取り次がれている神の言葉であって、それを取り次ぐ管ではないのだ。
あなた方は、パウロにつく者であってはならない。また、アポロにつく者であってもならない。
ただ神様に繋がっていなければならない。それが、パウロが言いたかったことでした。
私は、このパウロの言葉を、見事に実践した、一人の牧師を知っています。
チイロバ牧師として知られている、榎本保郎先生です。
榎本先生は、戦後の大変な時期に、一切を投げ出して、京都に世光教会をたてました。
付属幼稚園もたて、枝教会もいくつか出来るほどに成長しました。
世光教会は、先生にとっては、実の子ども以上に、可愛い存在であったかもしれません。
しかし榎本先生は、ある時、信徒の方々が、こんなことを言っているのを聞きました。
「私は、榎本先生がおるから、教会に来てるんや。榎本先生がおらんようになったら、教会には来んよ」。「そや、そや、わしもそうや」。
この会話を聞いて、先生は喜んだでしょうか。これほどまでに慕われているのか、と喜んだでしょうか。
いえ、悲しんだのです。悔い改めたのです。
自分の牧会は間違っていた、失敗だった。信徒が神様に繋がらずに、人間に繋がってしまっている。榎本先生は、深く悔い改めて、愛する世光教会を去る決心をしたのです。
そして教会員全員が反対する中を、敢然として出て行かれました。
信徒の中には、「行かんといて、行かんといて」と泣きながら、先生の服にすがりつく人もいました。
でも、それを振り切って、四国の今治教会に転任していったのです。
教会の指導者がどんなに立派であっても、教会員がその指導者に繋がっていて、神様に繋がっていないなら、それは正しい教会のあり方ではありません。
パウロも、榎本先生も、そのことを教会員に分かって貰いたかったのです。
ですから、パウロは言うのです。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」
今、あなた方の中には分派争いがある。そのために、妬みや恨みが生じている。
そして神様は、それをご覧になられて、御心を痛めておられる。悲しんでおられる。
だから、方向転換をしようではないか。今、人を見ている、その眼差しの向きを変えて、成長させてくださる神様を見ようではないか。パウロは、そう言っているのです。
私たちの内に信仰を芽生えさせ、それを成長させてくださるのは、神様の御業です。
人間は、どんなに逆立ちしても、一人の人の中に、神様を信じる信仰を、生まれさせることはできません。
確かに人間は、福音の種を託されて、それを植えることはできます。そして水を注ぐことはできます。
しかし、その福音の種、そのものを造ることはできません。
また、種を成長させることも、人間にはできないのです。
教会の入り口に大きなヒマラヤ杉の木があります。あの木は、今から58年前に、庭屋恵一兄弟が洗礼を受けられたときに、記念として植えた木だと伺いました。
植えた時は小さな苗木であったと思います。でも、知らない間に、堂々たる大木に成長し、今や教会のシンボルとなっています。
私たちは、どんなに頑張っても、モミの木を1cmたりとも高くすることはできません。
成長させて下さるのは神様なのです。
でも私たちは、自分の信仰の成長を、なかなか実感できません。
ですから、自分の信仰が成長しないことに失望し、焦りを覚えることがあるかもしれません。
また、自分の内面ばかり見つめて、暗い気持ちになることがあるかもしれません。
そのため、自分の信仰の成長を確かめたいと、あくせくすることがあるかもしれません。
しかし、それは、植木鉢に植えた木の成長を確かめようとして、毎日その根を引き抜いて見ているのと同じようなものです。
毎日根を引き抜いていては、その木は成長したくても、成長出来ません。
そんなことをせずに、私たちは、成長させてくださる神様を信じ、神様に委ねていくのです。
自分の内側の暗さを見つめることを止めて、成長させてくださる神様に目を向けるのです。
自分の内の暗さや、自分の罪だけを見詰めていると、神様の恵みが分からなくなってしまいます。
こんな自分には、神様の恵みは来ないのではないか、と思ってしまいます。
でも皆さん、神様が、私たちを見捨てられることは、決してありません。
神様の温かい眼差しは、私たちの上に絶えず注がれています。
私たちが気付かなくても、神様は私たちを見守り続け、祈り続けて下さっています。
そして、私たちが知らない間に、成長させてくださっているのです。
今の私たちは、信仰的には、まだ乳飲み子、赤ちゃんかもしれません。
でも皆さん、赤ちゃんは必ず成長します。
赤ちゃんが成長していくためには、時間が必要です。そして、食べ物が必要です。
私たちが成長していくためには、神様と向き合う時間が必要なのです。
礼拝や祈りの時間が必要なのです。そして、霊の食べ物である御言葉が必要です。
神様は、私たちに、それらを必ず備えてくださいます。
なぜなら、私たちが成長することこそが、神様の一番の願いだからです。
愛する兄弟姉妹、この成長させてくださる神様を信じて、共に歩んでまいりましょう。