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過去の礼拝説教

「今や、それは芽生えている」

2022年01月02日 聖書:イザヤ書43:16~21、コリントの信徒への手紙二5:17

主の慈しみの御手に守られて、新しい年2022年を、こうして皆様と共に迎えられたことを感謝いたします。
どうかこの新しい年、皆様が、主の恵みと祝福の内を歩まれますようにお祈りいたします。
今年は寅年です。昔から、虎という動物は、力の象徴とされてきました。
しかし、聖書の中には、この動物は出てきません。恐らく、聖書の時代、パレスチナには虎はいなかったのだと思われます。
虎は、インドから東のアジア大陸には広く生息していました。朝鮮半島にまで、生息の分布は広がっていました。
しかし、インドより西の方にはいなかったようです。
日本にも虎は生息していませんでしたが、力の強い動物として、語り伝えられていました。
そして、虎の毛皮は貴重品として、権力者への貢物として、献上されていたようです。
狩野派の画家が描いた絵には、多くの虎が描かれています。
しかし、それらは、人間が毛皮をかぶってモデルになったため、どこかぎこちなくて、不自然な姿になっています。
やはり本物をモデルにしていないことが、直ぐに分かります。
どんなに高名な画家が描いても、偽物のモデルでは、活き活きとした絵は描けません。
私たちの信仰生活も同じです。本物の救い主、本物の福音を見つめていないと、活き活きとした信仰生活は送れません。
この年も、私たちに本物の救い主を示してくれる聖書の御言葉に、しっかりと目を留めて歩んで行きたいと思います。
虎にちなんだ言葉に「虎の子」という言葉があります。
これだけは手放したくない、という宝物のことを「虎の子」と言います。
では私たちにとって、これだけは手放したくないという、「虎の子」とは何でしょうか。
星野富弘さんという方がいらっしゃいます。体育の教師であった彼は、実技指導の際、誤って転落して、首から下の機能を全く失ってしまいました。
しかし、口に筆をくわえて、美しい絵や、心温まる詩を創っておられます。
その星野富弘さんが、「たんぽぽ」という題の詩を詠まれています。
『いつだったか/きみたちが空をとんで行くのを見たよ/
風に吹かれて/ただ一つのものを持って/旅する姿が/うれしくてならなかったよ/
人間だって どうしても必要なものは/ただ一つ/
私も 余分なものを捨てれば/空がとべるような気がしたよ』
星野富弘さんは、事故で体の自由を失いました。そのため、今まで大切にしてきた、殆どのものを、捨てざるを得ませんでした。
しかし、そのことを通して、ただ一つの必要なものである、イエス・キリストと出会うことができた。そのことを、たんぽぽになぞらえているのです。
星野さんは、主イエスこそが、自分にとって虎の子のような宝物だ、と言っているのです。
私たちも、主イエスご自身を、そして、その主イエスを証している聖書の御言葉を、「虎の子」のようなかけがえのない宝物として、大切にしていきたいと思います。
さて、虎の話はこれ位にして、御言葉に目を向けたいと思います。
先ほど読んで頂きましたイザヤ書43章19節の御言葉は、こう語っています。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」 
この御言葉は、今年度、私たちに与えられた主題聖句です。
この御言葉と、少し重なるようなエピソードを、紹介させて頂きます。
第二次世界大戦末期の、旧ユーゴスラビアの小さな町での出来事です。
町は、戦火に踏みにじられ、学校の校舎も軍隊に取られてしまいました。
仕方なく、廃業していた酒場の一室を教室にして、授業が行われました。
そこに、ある帰還兵が、教師として赴任してきます。
この人は、教育に関しては全くの素人で、色々な失敗を繰り返します。
しかし、とても明るく優しい教師で、子供たちと一緒に、様々な問題と取り組んでいきます。
そして、何か問題にぶつかると、口癖のように言います。 「さあ、先へ行こう」。
その言い方が面白いので、子供たちは元気を取り戻して、再び活動し始めるのです。
「さあ、先へ行こう」。この言葉は、先ほどのイザヤ書43章の御言葉と重なります。
このイザヤ書の御言葉の背景になっている時代は、バビロン捕囚の末期です。
長引く捕囚の苦しさ故に、イスラエルの人々は、将来に対して希望を失っていました。
そのように落ち込んでいる民に、主は語り掛けられました。
「さあ、先へ行こう。見よ、わたしは新しいことを始める。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟りなさい。」
長い捕囚の中で希望を失っていたイスラエルの民。彼らは、様々な形でつぶやきました。
16節、17節も、そのようなつぶやきの言葉だと言われています。
「海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。」
これは、出エジプトという奇跡を起こされた、神様の御業を想い起している言葉です。
イスラエルにとって、最大の恵みの出来事であった出エジプト。
その恵みの出来事を想い起すことが、なぜつぶやきとなるのでしょうか。
この時、民の心にあったものは、一体何だったのでしょうか。
それは、昔、我々の先祖を、乳と蜜の流れる地に導いて下さった、あの恵みの神様は、今は、どこに行ってしまわれたのか、という嘆きであったのです。
主は、私たちのことを、バビロン捕囚という絶望の中に、こんなにも長く放置されている。
もはや神様は、私たちを、見捨ててしまわれたのではないだろうか。
そのような、深い嘆きと絶望のつぶやきが、この言葉の背後にあるのです。
イスラエルの民は、捕囚の厳しい現実の故に、先に進もうとせず、神様の救いも恵みも、過去のものだ。今の私たちには絶望しかない、と落ち込んでいたのです。
しかし、そのような民に、神様は、「さあ、先へ行こう」と、語り掛けられたのです。
続く18節、19節の御言葉は、過去の栄光と、現在の惨めさとを比較して、ただ嘆いてばかりいた民にとって、胸に突き刺さるような言葉でした。
「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」
この御言葉は、「昔は良かった」と言って、現在を嘆き、未来に対して心を閉ざしている者への、鋭い挑戦の言葉です。
「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことを私は行う」、と主は言われているのです。
これは、私たちに対する言葉でもあります。
私たち茅ヶ崎恵泉教会の中にも、昔と比較して、現在を嘆く心があるのではないでしょうか。
昔は良かった、と過去を想い起すだけで、先に進もうとしない。
そのようなことがあるのではないでしょうか。
そんな私たちに、主は言われています。「さあ、先に行こう。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」と。
では、その新しいこととは、何でしょうか。
主は言われます。「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。」
主は、バビロンとエルサレムとを隔てている、荒涼とした荒れ野に道をつくり、砂漠に大きな川を流れさせる、と言われているのです。
そして、その御業を見たなら、野の獣や山犬や駝鳥のような汚れた動物さえも、神様を崇めるようになる、と言われています。
このような、人の思いを遥かに超えた新しいことを、主はなされようとしているのです。
さて皆さんは、「新しいことをわたしは行う」、という御言葉を聴かれて、一体、どのような情景を思い浮かべておられるでしょうか。
皆さん、お一人お一人の身に、一体、何が起きると思われているでしょうか。
他の人のことではないのです。あなたご自身に、何か新しいことが起きる、というのです。
神様が、新しいことを、あなたに起こして下さる。それは一体何なのでしょうか。
皆さんは、ご自分の周りに何かが起きることを期待して、それを待っておられると思います。
新しいことは、自分の周りに、自分の外側に起こされる-、と思っておられると思います。
でも、果たしてそうでしょうか。神様が働かれるのは、皆さんの外側の世界なのでしょうか。
神様は、人間を通して、人間を用いられて、御業を進められます。
そうであれば、神様が新しいことをなさるのは、私たちの心の中ではないでしょうか。
主は私たちの心に働きかけられて、私たちを用いられて、新しいことを起こされるのです。
先ず私たちを造り変えられて、私たちを用いられて、新しいことを始められるのです。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二5章17節で、こう言っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
この御言葉は、神様による新しい創造の御業を語っています。
原文では、この17節の前半はもっと簡潔に書かれています。
『誰でもキリストの中なら、新しい創造』。これだけしか書かれていません。
「新しく創造された者」とは書かれていないのです。
ただ「新しい」という言葉と、「創造」という言葉。この二つの単語が並んでいるだけです。
英語で言えば、ただ「new creation」 とだけ書かれています。
ですから、「キリストにあるなら、その人は新しく造られた者である」とも読めますが、また、「キリストにあるなら、その人にとって全てが新しい創造」、とも読むことができます。
そのように、広い、そして深い意味を持っている言葉なのです。
昨日は元旦でした。元旦の朝は、気分が一新されます。
外の景色も、いつもと違って明るく見えて、空気までも穏やかで、ゆったりと流れているように感じることがあります。
いつものように一夜明けただけなのに、不思議なことに、すべてが前の日とは違って見える。今年も、このような気分を、味わった方は多いと思います。
では、ここでパウロが言っている「新しい創造」とは、そのようなことを言うのでしょうか。
そうではないと思います。パウロは、単なる気持ちの切り替えから生じる新しさではなく、全く違った新しさがあるのだ、と言っているのです。
全てが新しくなる。そのような新しい創造があるのだ、と言っているのです。
一体、それは、どのような新しさなのでしょうか。
御言葉は、「キリストに結ばれるなら新しい創造が起こる」、と語っています。
キリストに信頼し、キリストに委ね、キリストの命に結ばれている時に、その人の内に、新しい創造が起こるのだ、と御言葉は語っているのです。
それが、神様が行われる「新しいこと」なのです。
外側から与えられるのではなく、私たちの心の内に起こされる、新しい恵みの御業。
それが起こされようとしている。それを悟りなさい、と主は言っておられるのです。
キリストの救いに与った者は、誰もが、多かれ少なかれ、皆、このような新しい創造を経験しているのではないかと思います。
田原米子さんという方もその一人です。
田原米子さんは、お母さんが42歳の時に与えられた子供でした。
ですから、溺愛といってもよいほど可愛がられて育ちました。
ところが、米子さんが15歳の時に、そのお母さんが突然脳溢血で亡くなりました。
生きる拠り所であったお母さんを突然失った米子さんは、自暴自棄になって遊び歩くようになりました。
そして、18歳の時に、新宿駅で発車直後の小田急線の電車に、発作的に飛び込んでしまったのです。
たまたま救急医療の知識を持った駅員がいて、見事な処置を施しました。また運び込まれた病院も素早い、適切な治療を行ったので、田原さんは奇跡的に命を取り留めました。
しかし、左手と左足は切断、右足も足首から先を失い、残ったのは右手だけでした。
その右手も、小指と薬指の2本が切断され、指が3本だけになっていました。
やがて、病院のベッドで気がついた米子さんは、「死のうと思ったのに余計なことをされて、私は何て運が悪いのだろうか」、と助けてくれた人たちを恨みました。
そして、痛み止めの睡眠薬をこっそりと溜め込んで、いつでも死ねる用意をしました。
多くの人がお見舞いに来ました。でも、その人たちにも徹底的に悪態をつきました。
ところが、その中で、どんなに悪態をつかれても、いつも変わらず、笑顔で訪ねてくる二人組がいました。アメリカ人の宣教師と宣教師志願の日本人の青年でした。
彼らは米子さんの病室を何度も訪れて、讃美歌を歌い、聖書を読んで励ましてくれました。
最初の内は、ベッドの中でかたくなに二人を拒否していた米子さんでした。
しかし、二人があまりにも生き生きとしていて、楽しそうなので、いつしか米子さんは、あの二人のような生き方が出来たらいいなぁ、と思うようになっていきました。
そして、自殺するのはいつでも出来るのだから、キリストが神かどうかは分からないけれど、この人たちの言うことに、賭けてみようと思ったそうです。
もしそれが嘘であったなら、今まで溜めていた睡眠薬を飲んで、死ねば良いと思いました。
そして、米子さんは、生まれて初めて神様に祈りました。「神様、助けてください。もし、あなたが本当に生きていけと言うのなら、助けてください」、と必死で祈りました。
そうしたら、その晩は久し振りに、ぐっすり眠れたそうです。
そして翌朝、目が覚めた時に、周りの全てが、それまでとはまったく違って見えたそうです。
全てが本当に明るく輝いて見えたそうです。
同じ指でも、3本しかないと思っていたのが、「わたしにはまだ右手が残っている。その上に、親指と人差し指と中指と、この3本がきちんと揃って残っている。だから鉛筆も持てる」と思えて、嬉しくなったというのです。
これは偶然残った指ではない、神様が残してくれた指だ。
私は、たまたま、救急病院の処置が良くて、生き残ったのではない、神様に生かされているのだ。そう思えるようになったそうです。
まさに、その時、米子さんは、古い人から、新しい人への創造を経験したのです。
神様が、米子さんに新しいことを始められたのです。そして米子さんがそれを悟ったのです。
米子さんは、「指が3本しかないと落ち込みむのは古い人です。キリストを知ることによって、新しく造られて、指が3本もあると感謝できるようになるのです」、と語り続けました。
それでは、そのように新しく造り変えられた人は、どのように生きるべきなのでしょうか。
イザヤ書43章21節は、こう言っています。
「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」
御言葉は、私たちが、新しく創られたのは、神様を宣べ伝えるためであると言っています。
そのために、神様は、新しいことをなさり、私たちに「さあ、先に行こう」、と呼びかけられているのです。
今、この礼拝を守っている、ちょうどこの時間に、ここから歩いて数分の所にある海辺の国道を、箱根駅伝のランナーたちが走っています。
何とか母校の「たすき」を次のランナーにつなごうと、必死になって走る選手の姿に、私はいつも感動を覚えます。
そしていつしか、この選手たちの姿に、福音という「たすき」を、何とか次の世代に手渡したいと願う、キリスト者の姿を重ね合わせて見てしまいます。
キリスト者は、駅伝のランナーのようなものだと思います。
前のランナーから引き継いだ福音という「たすき」を、次のランナーに確かに手渡すこと。
それが、私たちキリスト者に与えられた務めです。
代々の信仰者たちは、自分たちの走るべき区間を走り抜き、福音の「たすき」を、現代に生きる私たちに託してくれました。
もし、私たちが、その「たすき」を引き継ぐことに失敗したら、そこで福音宣教というリレーは途絶えてしまいます。福音の恵みは、その先には伝わりません。
ですから私たちは、「たすき」を引き継ぐという務めを、決して諦めてはいけないのです。
私たちは、渡された「たすき」を、次の世代に手渡すことができますように、割り当てられた区間を走り抜きたいと心から願います。
そして、それこそが、私たちの内に、新しいことを始められた主の御心なのです。
主は言われています。「さあ、先へ行こう。新しいことを私は行う。今やそれは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」