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過去の礼拝説教

「ろばを選ぶやさしさ」

2022年01月09日 聖書:マタイによる福音書21:1~11

今朝の御言葉は、主イエスが、いよいよエルサレムに入城される場面を伝えています。
主イエスは、エルサレムに入城されました。私たちの罪を贖うために、十字架について下さるためです。
でも、主イエスのエルサレム入城が、十字架にかかられるためであることは、この時、主イエスの他には誰も知りませんでした。
過ぎ越しの祭りを前にして、異常な興奮と喧騒の中にあったエルサレムの都。
そこに集った群衆は、主イエスを、ローマからの支配から、イスラエルを解放してくれる英雄と誤解して、「ホサナ、ホサナ」と、歓呼の声を上げて主イエスを迎えました。
人々の興奮と歓呼が渦巻く中で、主イエスは、十字架に命を捨てられるという使命を胸に秘められ、誰にも理解されることなく、全くの孤独の中を進んで行かれました。
主イエスの一行は、エリコからベタニヤを経て、ベトファゲの近くに来ました。
主イエスは、二人の弟子を、そのベトファゲに遣わし、ロバと子ロバを解いて引いてくるようにと、仰いました。
遣わすに当たって、主イエスは、二人の弟子に、こう言われました。
もし誰かが何か言ったら、「主がお入り用なのです」、と答えなさい。
この主イエスの命令は、遣わされた二人の弟子にとっては、大きな冒険でした。
皆さん、ここで、皆さんが、この二人の弟子になったと思って、想像してみてください。
もしロバとロバの子を、勝手に解いて引いて行くなら、「なぜ、そんなことをするのか」、と咎められると思います。
持ち主が、黙っている筈がありません。もしかしたら、泥棒呼ばわりされるかもしれません。
「主がお入り用なのです」と言えば、直ぐ貸してくれる、と主イエスは言われた。
でも、本当に貸してくれるのだろうか。常識では、そんなことは考えられない。
それでも、主イエスのお言葉を信じて、それだけを頼りにして、向こうの村に出掛けて行く。
それは、大きな冒険であったと思います。
しかし、実際に出かけていくと、主イエスが教えてくださった通りになりました。
ここに、主イエスに従う者の姿が示されています。
弟子とは、主イエスが命じられたことに従う者のことです。
なぜ、そんなことをするのか、と聞かれたなら、「主が命じられたからです。ただそれだけです」、と答える。それが弟子です。
納得して、見通しが立ってから、動くのではないのです。主のお言葉に従って動くのです。
主が命じられることをすれば間違いない。主がすべてを最善へと導いて下さる。
そう信じて、行動していく。それが弟子です。
私たちは、主イエスに従っていくということを通して、色々なことを体験していきます。
そして、その体験の中で、主イエスの御心を、次第に示されていくことが多いのです。
私たちは、皆、そうなのではないでしょうか。初めから、分かっている人など、いないのです。
それは、教会の課題についても、同じです。祈りつつ、御言葉に従っていくならば、最終的には、主の御言葉通りに、実現していくのを見ることができます。
会堂建築の時もそうでした。私たちは、すべて納得して、見通しが立ってから、一歩踏み出した訳ではありません。
主が命じられているから、とにかく一歩を踏み出したのです。そして、歩んでいる内に、主の御心を次々に示されていったのです。
そして、気が付いて見れば、主が、すべてを最善へと導いて下さいました。信仰とは、そういうものだと思います。
さて、遣わされた弟子たちは、命じられた通りに、「主がお入り用なのです」、と言いました。
私たちは、この「主」という言葉を聞けば、ごく自然に、「主イエス」のことだ、と思います。
弟子たちは、「主イエスがお入り用なのです」と言ったのだろう。当然のように思います。
しかし、この「主」という言葉は、文脈から解釈しますと、「主イエスの主」というよりも、そのロバの「持ち主」のことを言っています。
そのロバの持ち主が、ロバを必要としている、と言っているのです。
そのように言いなさい、と命令されて、きっと二人の弟子は戸惑ったと思います。
何も持たずに、ひたすら宣教活動を続けて来られた主イエスです。その主イエスが、向こうの村にロバを所有している。
そんなことはあり得ない。何故こんなことを言えと、お命じになったのか。
弟子たちは理解できないままに、しかし、言われた通りに伝えました。
一方ロバの持ち主は、自分のロバを無断で引いていこうとする二人に憤慨したと思います。
そして恐らく、「私のロバを勝手に引いていくとは、何事か」と言ったと思います。
ルカによる福音書では、この時、ロバの持ち主は、「なぜロバをほどくのか」、と言ったと書かれています。
「なぜ」と聞かれた弟子たちも、実は、その訳を分かっていなかったのです。
実は、弟子たちこそが、その訳を知りたかったのです。
しかし、ここで、ただ一つはっきりしていることがあります。
それは「主がお入り用だ」ということです。
なぜか分からなくても、主のご計画があるのです。主がそうお決めになったのです。主がそう命じておられるのです。
私たちも、それぞれの人生を歩んでいます。「なぜ」この人生を歩んでいるのでしょうか。
なぜあなたは、そのような人生を歩んでいるのですかと聞かれたら、答えはただ一つです。
主が、そのようにお決めになったからです。主が、このような私を、お入り用だからです。
ただそれだけなのです。それが私の生きる意味なのです。それが私の存在意義なのです。
「なぜロバをほどくのか」と問われて、弟子たちが答えます。
「このロバの持ち主が、これを必要としているのです」。
これを聞いて、ロバの持ち主はびっくりしたと思います。
「ロバの持ち主とは、この私ではないか。何ということを言うのか」。
弟子たちは、少々ためらいながらも、しかし、はっきりと、答えました。
「このロバの、まことの、ただ一人の主人が、このロバを必要としておられるのです。」
これは、大変深い意味のある問答です。
このロバの、本当の主人は誰か、ということが、問題となっているのです。
持ち主は、当然、自分こそ、主人だと思っています。
しかし、このロバの本当の主人、まことの所有者は、彼ではなくて、主イエスなのです。
このロバの子は、本当の主人である主イエスに召し出されて、そのご用のために用いられようとしていたのです。
そして弟子たちは、そのことを告げる役割を与えられていたのです。
弟子たちが告げた言葉は、彼ら自身が、考えたものではありません。
主イエスに、「このように答えなさい」、と言われた通りに答えただけです。
ロバの持ち主は、弟子たちの、思いがけない言葉に、驚きました。
一瞬びっくりしたものの、しかし、このロバの持ち主は、言いました。
「分かりました。どうぞお持ちください」。
これこそ、主の御言葉の、偉大な力がなせる業である、と捉えざるを得ません。
それを聞いて、今度は、弟子たちの方がびっくりしたと思います。
自分たちの思いを遥かに超えた、考えられない出来事が、目の前で起こったのです。
大きな驚きと畏れと共に、弟子たちは、この言葉を与えられたお方が、どのようなお方であるかを、知らされたのです。
すべてをご存じで、すべてを支配されておられるお方の存在を、知らされたのです。
主イエスは、ロバの子に乗られて、エルサレムに入城されました。
これは、ゼカリヤ書9章に預言されている、王としての入城のお姿です。
しかし、世の凱旋将軍のように、たくましい軍馬に乗るのではなく、小さな、みすぼらしい子ロバに乗って、主はお入りになられました。
ロバは戦いの役には立ちません。戦いをするのは軍馬です。
馬に乗らない王というのは、戦いをしない王です。軍備を持たない王です。
長い人間の歴史の中で、これまで、軍備を全く持たない王が、存在したことはありません。主イエスただお一人です。
また、このとき主イエスに従っていた者たちは、勇ましい軍隊ではなくて、旅に疲れて、粗末な服を着た十二人の弟子たちでした。
ですから主イエスは、全く新しい意味における王なのです。まことに不思議な王なのです。
しかも、そのお姿のどこにも、王としての権威は見られませんでした。
主イエスがかぶられた冠は、宝石をちりばめた金の冠ではありませんでした。
それは、茨の冠でした。金の冠と、茨の冠の違い。それは、主イエスがどのような王であるかいうことから来る違いです。
この王は、権力をもって人々を支配するのではなく、人間の罪のために十字架につき、その肉を裂き、血を流すことにおいて、王になられたのです。
そのようにして、罪に捕らわれていた人間を救い出し、ご自分のものとされた王でした。
私はあなたを、罪のとりこから贖い出した。もうあなたは私のものだ。
そう言って私たちを握り締めて下さっている王なのです。このお方こそまことの王なのです。
私たちの人生は、主イエスを自分の王として、日々の生活の中にお迎えするかどうかによって定まります。
皆さん、今朝、私たちは改めて、自分自身に問い掛けてみたいと思います。
私は、本当に、主イエスを王としているだろうか。
主イエスを、自分の人生を支配する王として、迎え入れているだろうか。
そのように改めて問われると、私たちは、一瞬たじろぐのではないでしょうか。
主イエスを、王として自分の内に迎えることに、一抹のためらいを持っているのではないでしょうか。
この時、群集は、自分が着ている上着を脱いで、主イエスの足元に敷きました。
私たちに求められているのは、そのように、今、身に着けているものを、脱ぎ捨てることです。
今までの自分を脱ぎ捨てて、主の足元に置くのです。
そして、主よ、どうぞこの上を、私の王として歩んでください、と言い切ることなのです。
信仰を持つということは、自分の人生における、主権交代が起こるということです。
私たちは、自分の人生は、自分が支配するものだと、無意識のうちに思い込んでいます。
自分の人生の主権を、しっかりと自分の手の内に、握り締めています。
信仰を持った後でも、まだそのように、思い込んでいるところがあるかもしれません。
主イエスというお方は、私たちを助けてくださる方であって、私たちを支配する方ではない。
そのように、どこかで思い込んでいる、ということはないでしょうか。
しかし、本当に信じるということは、生活のすべての場面において、主イエスを王として迎えることなのです。
イギリスに救世軍の運動が起こった頃の話です。
一組の夫婦が救世軍に加わり、集会に参加しました。
すると、皆の着ているシャツに、二つの単語が刺しゅうされているのに気が付きました。
でも、その夫婦は、貧しくて学校に行けなかったものですから、字が読めません。
それでも皆と同じシャツを着て、皆の仲間になりたいと強く願いました。
そう思いながら町を歩いていると、さっき皆のシャツに刺しゅうされていた単語とよく似た単語が、あるお店に掲げてあるのに気が付きました。
二人は、「あー、きっとこの字だ」と思って、その字の形を書きなぞって、家に帰ってシャツに縫いつけました。
翌週、そのシャツを着ていくと、他のメンバーが「わぁー」と言って駆け寄ってきました。
そして、口々に「これこそ、私たちの信仰の本質だ」と言って、その言葉を称賛しました。
そこには、何と書いてあったのでしょうか。
「Owner Changed」、日本語に訳すと「持ち主が変わりました」、と書かれてあったのです。
そのお店は、経営者が変わって、新しい持ち主になった記念のセールをしていたのです。
しかし、これこそが、私たちの信仰の本質なのです。
Owner Changed、持ち主が変わったのです。
信仰を持つということは、私たちの持ち主が変わることなのです。
自分が主人であった生き方から、神様を主人とする生き方に変えられることなのです。
私たちは、自分の城を明け渡して、主イエスを主としてお迎えする者でありたいと願います。
タクシーも、ただ走っているだけでは意味がありません。お客様を乗せていないと空車になってしまいます。
お客様が乗って、初めて空車から実車になり、収入が得られます。
そのように、空車と実車の違いは大きいのです。
もし生きていても、主イエスに出会って、主イエスをお迎えしなければ、私たちは空車のままです。
主イエスをお乗せして、はじめて実車になります。人生が実ったことになるのです。
子ロバは、小さな存在です。馬のように、逞しくはありません。
でも、それだけに、容易にまたがることができます。主が乗りやすい乗りものです。
また、小さいですから、またがられた主は、人間と同じ高さになります。
人間を、見下すような、高さにはなりません。謙遜な主に相応しい乗り物です。
そしてロバは、何よりも従順な家畜です。乗り手の手綱の通りに、道を行きます。
主が行きなさいという道を、愚かなほど従順に、ただ黙々と前を向いて歩き続けます。
このような人を、主は必要としておられるのです。
主イエスは、馬と比べて、全く見栄えのしない、子ロバを敢えて用いられました。
私たちもまた、見栄えのしない、小さな者です。欠けだらけの人間です。
しかし問題は、そういう私たちの資質ではありません。「主がお入り用」である、ということなのです。
主が、私たち一人一人を、必要とされておられる、ということなのです。
私たちには分からなくても、神様の側には、こんな私たちを必要とする、理由があるのです。
そのことを、今朝の御言葉は教えてくれます。
私たちは、何も出来ない、小さな、弱い、子ロバに過ぎません。
しかし、「主がお入り用なのです」と聞いて、「ハイ、こんな私でもよろしければ、用いて下さい」、と答える者でありたいと思います。
この汚れた、貧しい背中に、主イエスをお乗せして、運ばせていただく者と、ならせていただきたい、と思います。
ルカによる福音書には、主によって、用いられた子ロバは、まだ誰も乗せたことがなかった、と書かれています。
全くの未経験者であったのです。
しかし、主は、未経験者が良いのだ。自分の経験を誇り、自分の経験に頼ろうとする者は、私の弟子に相応しくないのだ、と言われているのです。
主は、経験不足の未熟な者を、御用のために用いられるのです。
チイロバ牧師として親しまれた、榎本保郎先生はこう言っています。
「私は、小さな、取るに足らないものであります。サラブレッドとは違って、愚鈍で見栄えのしないチイロバです。
しかし、あの名もないロバの子も、一たび主がお入り用とされた時、その背にイエス様をお乗せする光栄に浴し、群衆の歓呼に迎えられてエルサレムに入城することができました。
あのチイロバが味わった喜びと感動が、私にもひしひしと伝わってきます。」
私たちも、こんなに欠け多き者、罪深き者をも必要として下さる、主の愛と恵みを覚える時、群衆と共に、心から「ホサナ」と叫びたいと思います。
この「ホサナ」という言葉は、ここでは「万歳」という意味で叫ばれていますが、元々は「救ってください」という意味の言葉です。
この言葉は、この場面に極めて相応しいものでした。
なぜなら救い主を迎えるのに、最も相応しい言葉は「救ってください」という言葉だからです。
私たちは、教師に対しては、「教えてください」と呼びかけます。
医者に対しては、「治してください」と願います。
そうであれば、救い主に最も相応しい言葉は、「救ってください」という言葉である筈です。
救い主を迎えるのに最も相応しい態度は、「主よ、私を救ってください」と叫ぶことです。
この日から数日間、主イエスは、この群集の叫びに応えるかのように、救いの御業のために戦われました。
そして、苦しみをお受けになり、徹底的に低くなられました。
そのようにしてロバに乗られた、この柔和で優しい王は、まことの王になられました。
人々が考えもしなかった、王の王、主の主が生まれたのです。
エルサレムの群集は、訳も分からずに「ダビデの子にホサナ」と叫びました。
しかし、私たちは、心からの感謝をもって、主イエスに対して、「ホサナ、主よ、どうか私を救ってください」と叫びたいと思います。