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過去の礼拝説教

「誇る者は主を誇れ」

2022年05月01日 聖書:コリントの信徒への手紙一 1:18~31

私が高校生の時に上映された、「ベンハー」というアメリカ映画がありました。
11の部門でアカデミー賞を獲得した、映画史上に残る大作でした。
この映画の元になっているのは、ルー・ウォーレスという人が書いた小説です。
その小説の題は
「ベンハー」ですが、「キリストの物語」という副題が付いています。
ベンハーという男が主人公なのですが、隠れたもう一人の主人公はイエス・キリストである、ということを示唆しています。
原作者のルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、自分の知恵と賢さに頼り、キリストを信じることなど愚かなことだ、と思っていました。
そこで、キリスト教を完全に否定するための書物を書こうと思い立ちました。
そして、欧米の主要な図書館を巡り歩き、熱心に研究を重ねました。
二年に亘る研究を終えて、いよいよ本を書き始めました。
ところが、その執筆の途中で、彼は突然跪いて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」、と叫んだそうです。
キリストを否定しようとして研究を始めたのですが、逆に、キリストが神であるということを、否定できなくなってしまったのです。
その結果書かれたのが、「ベンハー、キリストの物語」です。
かつてのルー・ウォーレスのように、キリスト教のことを、良く知りもしないで批判する人たちが、時々こういうことを言います。
「キリスト教は駄目だ。大体、教祖がぶざまに磔にされた宗教なんて、ろくなものじゃない。その上、処女降誕とか復活とか、全く非科学的なことを説いている。」
確かに聖書が語る福音は、世間の常識からみれば、非科学的に思えるかもしれません。
しかし、一見非科学的で、愚かとも思えるような福音の中にこそ、この世の知恵や知識を超えた救いの真理がある。今日の御言葉は、私たちにそう語り掛けています。
18節の御言葉。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。 
この御言葉は、教会の中で、大変よく知られている言葉です。
教会の長い歴史の中で、この御言葉は、多くのキリスト者を慰め、また支えて来ました。
日本語には訳されていませんが、原語では18節に、「なぜなら」という言葉が入っています。
「なぜなら」という言葉は、前の文章を受けて、その理由付けをする時に使われる言葉です。
では、この18節の直前には、何が書かれていたのでしょうか。
そこには、コリントの教会に分派があって、一致が失われていたことが書かれていました。
パウロはそのことを大変心配して、どうか一つになって欲しいと願って、この手紙を書いたのです。
コリントの教会の人たち、あなた方の間に、様々な対立や意見の違いがあると聞いている。
しかし、忘れないで欲しい。あなた方、すべての者の気持ちが、一致する点がある筈だ。
どうか、その一点に立ち返って欲しい。パウロは切なる思いで、そう語っているのです。
では、その一点とは何なのでしょうか。それが、17節でパウロが言っている、「キリストの十字架が空しいものにならないように」、ということです。
あなた方の間には、様々な対立や意見の相違があるかもしれない。
でも、皆が、キリストの十字架による救いを受けた、という点においては一致している筈だ。
そのことが、見えなくなってしまったので、教会の一致が失われているのだ。
どうか、キリストの十字架が空しくならないように、原点に立ち返って欲しい。
なぜなら、十字架の言葉こそは、私たちを救い、私たちを生かす、神の力なのだから。
パウロは、心を込めて、そう言っているのです。
皆さん、もし、茅ヶ崎恵泉教会において、一致が失われて、教会が混乱するようなことが起きたなら、それは、十字架の贖いによって救われたという共通点を、見失っている時です。
ですから、教会が分裂しそうなときには、いつも、この原点に立ち返ることが必要なのです。
この原点に立ち続ける限り、どんなに意見が相違していても、教会の一致が失われることはありません。教会から、神の力が消えてしまうことはありません。
ここにある「十字架の言葉」とは、十字架にかけられた主イエスが、私たちに語り掛けておられる、救いの御言葉です。
それは、十字架の主イエスご自身である、と言い換えても良いと思います。
この十字架の言葉は、自分の力で救いを得ることができる、と思っている人にとっては、愚かなものに聞こえると思います。
自分の罪を、自分で償える程度のものと思っている人には、十字架にかけられた主イエスの御姿は、ただ惨めで、愚かな姿に見えると思います。
神が人となってこの世に来て、私たちの身代わりとなって、十字架で死ぬ。
そんなことはあり得ない。そもそも自分は、そこまで罪深くない。
だから、そんな救いは、私には必要ない。そう思うのではないでしょうか。
でも、自分の罪の深さを知っている者にとっては、こんな自分を罪から贖い出してくれる、十字架の言葉こそは、神の力なのです。限りなく尊い救いの言葉なのです。
十字架の上で、ご自身の身を裂き、ご自身の血を流されている主イエスの御姿が、限りなく尊いものとして、迫ってくるのです。
パウロは20節で、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる」と問い掛けています。
知恵のある人も、学者も、論客も、救いについて豊富な知識を持っているかもしれません。でも、彼らの知恵や知識は、人々を救いに導くことが出ません。
なぜなら、彼ら自身が、救われていないからです。救われていない人が、どうして人々に救いを伝えることが出来るでしょうか。
若者は、よく恋愛について議論をします。夜を徹して、それこそ髪を振り乱して、口角泡を飛ばして議論します。そしてしまいには疲れ果ててしまいます。
その姿は、あまりきれいだとは言えません。
しかし、実際に恋愛をしている人は、議論をしません。むしろ黙っています。
何もせずに、黙って見つめ合っているだけです。でも、二人は喜びに満たされています。
そして、恋愛している人は、どんどんきれいになっていきます。
神様のことも同じです。本当に神様に出会い、神様を愛し、救いの喜びに生かされている人は、知恵を振りかざしたり、いたずらな議論をしたりしません。
そんなことをしなくても、喜びに満ち溢れています。
人間は長い間、理性や知識をもって、神様を求め続けてきました。
しかし、理性や知識を持っては、神様を見出すことはできませんでした。
私たちが、神様と出会うためには、十字架の言葉と祈りが必要なのです。
明治、大正期の日本の教会のリーダーであった植村正久牧師に、ある人が「私は神の実在を認めます」と言って、滔々と有神論を語りました。
植村牧師は、しばらく黙って聞いていましたが、やがて、「あなたはその神に祈りますか」と尋ねました。その人は、「まだ祈ったことはありません」と答えました。
植村牧師は静かに、しかし力強く言いました。
「聖書を読み、そして祈りなさい。そうすれば、神に出会うことができます」。
頭ではなく、御言葉と祈りによってのみ、神様に出会うことができる、と教えたのです。
どんなに研究を重ねても、この世の知恵によっては、神様を知ることは出来ません。
ですから神様は、宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうとされたのです。
21節で、宣教と訳された言葉は、説教とも訳すことができる言葉です。
人間は、あらゆる知恵と知識の限りを尽くして、神様を知ろうとしましたが、それを果たすことが出来ませんでした。
それに対して、神様は、極めて単純な説教で、人々に救いを与えようとされたのです。
同じ福音を、ただ繰り返して語り続ける説教は、幼稚で愚かしく思われるかもしれません。
ですから英語の聖書は、「宣教という愚かな手段」という言葉を、「foolish message」と訳しています。
牧師は毎週、命懸けで説教をしています。その説教が「foolish message」と訳されていると知ったなら、「えー、それはあんまりではないですか」、とがっかりしてしまうかもしれません。
しかし高邁なギリシア哲学から見れば、いと高き神が、人となってこの世に来て、罪人のために十字架にかかって死んだ。
この一つのことを繰り返す説教は、まさに「foolish message」なのかも知れません。
でも神様は、この一見愚かとも思えるような事実によって、人間を救おうとされたのです。
なぜなら、これしか人間を救う方法がなかったからです。
背き続ける人間を救うために、神様ご自身が十字架にかかる。そんなことは愚かです。賢くありません。
しかし、この神様の愚かさによって、私たちは救われたのです。
22節には、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す、と書かれています。
ここでの、しるしという言葉は、聖書の他の箇所では、奇跡とも訳されている言葉です。
あなたが神であるなら、我々が納得できるように、奇跡をもってそのことを証明して欲しい。
それを見て、あなたが本当に神であるかを、我々が判断する。それがユダヤ人でした。
その点においては、ギリシア人も同じす。この神は、どんな知恵を与えてくれる神なのか。
それを示してくれれば、神であるかどうかを、我々が判断する。
ユダヤ人にとっては、神が一人の無力な人間としてこの世に来て、呪い木である十字架に架けられて死ぬ。
そんなことは、奇跡どころか、とんでもない躓きとなることでした。
ギリシア人にとっては、十字架は言うまでもなく愚かな話でした。
なぜなら、正しい人が、罪人のために死ぬなどということは、理屈に合わないことだからです。
しるしを求めるユダヤ人も、知恵を探すギリシア人も、キリストの十字架を侮り、受け入れませんでした。
しかし、私たちは、十字架につけられたイエス・キリストを、宣べ伝えます。
ここにこそ、救いがあるからです。これこそが、神の力、神の知恵であるからです。
人間の知恵は、人を高慢にさせ、自己中心な思いを生み出し、互いに非難し合う社会を生み出します。
そこには、まことの救いはありません。
また今ウクライナで起きている様に、人間の強さは、他人を支配し、力で抑え込もうとします。
そこには、まことの平和はありません。
人間の賢さ、人間の強さは、人間を救うことは出来ないのです。
しかし、十字架に示された、神の愚かさ、神の弱さは、私たちに救いをもたらしてくれます。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです。
では、この神の愚かさ、神の弱さは、一体、どこに表れているのでしょうか。
パウロは言うのです。コリントの兄弟たち、神の愚かさ、神の弱さは、何よりも、あなた方の中において見られるではないか。兄弟たち、自分自身をよく見てごらんなさい。
あなた方は、一人一人、神様に名前を呼ばれて、召し出されて来ました。
しかしそれは、あなた方が賢くて、強くて、優れていたからでしょうか。そうではないでしょう。
あなた方は、ただ神様に呼ばれて、召し出されてきただけではないでしょうか。
そのことを想い起してみなさい。自分自身に起きた神様の御業を見るとき、自分の中には、召される理由は、何もなかったことが分かるのではないでしょうか。
パウロは、あなた方は、「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」、と言っています。
むしろ、あなた方は、無学な者であり、無力な者であり、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者たちであった、と言っているのです。
そのようなあなた方が、敢えて選ばれたのは、知恵ある者や、力ある者や、地位のある者に、恥をかかせ、無力な者とするためであったというのです。
間違って頂きたくないのですが、この言葉は、今まで無学で、無力で、身分が低いために、劣等感に悩んでいた人たちに、優越感を与えるために語られたのではありません。
また、今まで優越感を持っていた、知恵や力に富む人たちに、敗北感を味合わせるために、語られたのでもありません。
コリントの教会の中にも、町の有力者や、身分の高い人や、知恵のある人もいた筈です。
でも彼らも同じ様に救われたのです。ではどういう人が救いから漏れてしまうのでしょうか。
賢い者が、自分の知恵に頼み、それを誇っている限りは、救われることはないのです
また、力ある者が、自分の力を誇り、自分の力を頼みとしている限りは、救われないのです。
たとえ有力者であっても、罪から救われるためには、自分の力は無力であることを、知らなければならないのです。
また、たとえ知恵に富んでいても、自分の知恵は、自分を罪から救うことができない、ということを知らなければならないのです。
知恵のある者も、権力のある者も、身分の高い者も、十字架の前に立った時に、自分は弱くて貧しい一人の人に過ぎない、ということを知らされるのです。
十字架の救いという圧倒的な恵みの前には、人間の知恵も力も社会的な地位も、全く意味を持たないのです。
賢い者は、神様の前においてさえ、自分の賢さを誇ろうとします。
また、力ある者は、神様の前ですら、自分の力を誇ろうとします。
しかし、十字架の救いの尊さを、本当に知ったなら、誇ることはできなくなります。
ですから、31節の御言葉は言っています。「誇る者は主を誇れ」。
「主を誇れ」という言葉は、原語では、「主にあって誇れ」と書いてあります。
私たちは、自分の賢さや力を誇るのではなくて、主にあることを誇るのです。
主の恵みによって、生かされていることを誇るのです。
世の人々が、自分の賢さや、自分の力を誇るときに、私たちは、キリストを誇ります。
背き続ける私たちを赦すために、罪なき神の独り子が、身代わりとなって、十字架にかかってくださり、尊い血潮を流してくださった。
そして、今も十字架の上から、私たちに語りかけてくださっている。
「もうあなたは私のものだ。私は決してあなたを見捨てない。どんな時もあなたと共にいる。」
私たちは、この十字架の言葉を誇るのです。この十字架の救いを誇るのです。
私たちは、それ以外のものを、断じて誇ってはならないのです。
2年前、私たちに、大いなる恵みとして、新会堂が与えられました。
また、茅ヶ崎恵泉教会には、素晴らしいパイプオルガンが与えられています。本当に感謝なことです。
しかし、もし私たちの心の片隅に、少しでも、この新会堂やパイプオルガンを誇ろうとする気持ちがあるなら、この新会堂は立派過ぎます。パイプオルガンも立派過ぎます。
もし、キリストの十字架以外に、誇るものがあるなら、それが、会堂であろうと、パイプオルガンであろうと、それは、私たちの救いの邪魔になります。むしろ無い方が良いのです。
私たちは、会堂やオルガンを誇るのではなく、それを与えてくださった、主の恵みをこそ、誇る者でありたいと思います。
欠けだらけの私たちを、そのまま、ありのままの姿で召してくださり、神様のものとしてくださった十字架の恵みを、唯一の誇りとして、共に歩んでまいりたいと思います。
最後に、「十字架の言葉は、私たちを救う神の力である」という御言葉を、もう一度味わってみたいと思います。
松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に同行した河合曽良という俳人がいます。
彼は、旅の途中で体を壊し、芭蕉と旅を続けることができなくなり、一人寂しく帰路に着きました。そのとき詠んだとされている句があります。
「行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原」、という句です。
この先、病気を抱えて、一人で旅をしなければならない。どこかで力尽きて野垂れ死にをしてしまうかもしれない。
しかし、倒れ伏した所が、萩の花が咲く野原であれば思い残すことはない、という意味だとされています。しかし私は、もう一つの解釈ができると思っています。
もし、力尽きて倒れ伏しても、そこに大好きな萩の花が咲いていれば、再び力を与えられて、立ち上がることができる。
そのような希望が込められた句だとも、採ることができるのではないかと思います。
皆さん、私たちにも、そのような萩の原が与えられています。
それが、神の力である、十字架の言葉です。
人生の旅に疲れて、もうだめだ、と倒れ伏した時にも、そこに萩の花が咲いている。
その萩の花のように、私たちを、苦難の時に支え、再び立ち上がらせてくれるもの。
それが、神の力である十字架の言葉です。
「愛する子よ、私は決してあなたから離れない。どんな時も共にいる」、と語りかけてくれる十字架の言葉です。
「行き行きて 倒れ伏すとも 十字架の言葉」、なのです。
たとえ愚かに見えても、実はどんなものよりも賢く、たとえ弱そうに見えても、実はどんなものよりも強い。それが十字架の言葉です。
私たちに、そのような神の力が与えられていることを、心から感謝したいと思います。