MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「その人を救うためなら」

2022年11月06日 聖書:コリントの信徒への手紙一 9:16~23

こんなアメリカンジョークがあります。
テキサス州のある大富豪が大勢の客を招いて、自宅でパーティーをしました。
庭のプールを囲んでのパーティーでした。
宴もたけなわといったところで、その大富豪が、集まった客に、こんなことを言いました。
「皆さん、もし皆さんの中で、このプールのこちらから、あちらまで泳ぎ切った人がいたら、私の愛する娘か、または私の別荘か、どちらか好きな方を差し上げます。」
庭にあるプールを泳ぎ切ったら、ミステキサス以上とも言われている美人の娘さんか、時価何億円もする豪華な別荘の、どちらでも好きな方を上げようというのです。
それを聞いた人たちは、色めき立ちました。
ところが、その大富豪は、にやりと笑って、こう続けました。
「ただし、このプールには、アマゾン川から採ってきた、あのピラニアという恐ろしい魚がたくさん放たれています。
何日も餌を与えていませんので、お腹を空かして餌の来るのを今か今かと待っています。」
その言葉を聞いた客は、「何だ、そういうことだったのか」とがっかりしました。
その時、突然ある人が、ザブーンとプールに飛び込んだのです。
そして、何ヶ所かピラニアに噛みつかれながらも、必死になってプールの向こう側まで泳ぎ着きました。 さて、この人は、一体どちらを選ぶでしょうか。
皆が、固唾をのんで、その人の言葉を待ちました。 するとその人が、こう叫びました。
「一体誰が、私をプールに突き落したんですか!」
この人は、自分の意志ではなく、誰かに背中を押されて、仕方なく飛び込んだのです。
そして、必死になって泳いで、やっと向こう側に泳ぎ着いたのです。
さて皆さん、この話は、私たちが、神様によって召し出される時の姿に、良く似ていると思いませんか。
私たちが、信仰に招き入れられる時、或いは教会において何か奉仕を担おうとする時、更には伝道者として献身する時、このような体験をすることが、多くあるのではないでしょうか。
考えに考え抜いた末に、思い切って決断したというよりも、むしろ自分の意志に関わりなく、そうせざるを得ないような状況に、追い込まれていった。
何か、とてつもなく大きな力に押し出されて、気が付くと踏み出していた。
皆さん、ご自身のことを、想い起してください。
洗礼を受ける時も、教会で奉仕をする時も、また献身する時も、そうではないでしょうか。
今から20年前の8月、私は軽井沢で行われていた夏期アシュラムに参加していました。
その時、何度も何度も、「献身して牧師となれ」、との招きの声を聞きました。
しかし、その時すでに58歳になっていた私は、「主よ、この歳になってとても無理です」、と言って断わり続けました。
しかし断っても、断っても、その声はますます大きくなって、迫って来たのです。
そして遂に、その神様の声に押し出されるようにして、献身へと導かれていきました。
このように、すべて神様がなされたことであるなら、私たちはそれを誇ることなどできません。
今朝の御言葉の 9章16節で、パウロは、このことを語っています。
「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」。
パウロは、自分の意志や願いによって、伝道しているのではないのだ、と言っています。
したいとか、したくないとか、そういう自分の意志を、もう飛び越えてしまっているのです。
この手紙に続く、コリントの信徒への手紙2の5章14節で、パウロはこう言っています。
私が、命懸けで伝道するのは、キリストの愛が、私を駆り立てているからです。
この「駆り立てている」という言葉は、元々は「挟み込んでいる」という意味の言葉です。
キリストの愛に、両側からギューと挟まれて、押し出されてしまう。
だから、伝道せざるを得ないのだ、と言っているのです。
せざるを得ないことをしているだけならば、それを誇ることはできません。
また、せざるを得ないことをしているなら、報酬を求める思いも生じません。
報酬を得るとか、得ないとか、そういうことは、もう問題ではなくなっているのです。
そういうことからも、もう自由になっているのです。
福音とは喜びの知らせです。その喜びが、パウロを突き動かしているのです。
そして、その喜びこそが、パウロの報酬なのです。
皆さんも、このような喜びの報酬を、受け取られたことがあるのではないでしょうか。
「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです。」
この16節の言葉を直訳すると、「あぁなんと不幸なのでしょう、福音を伝えないでいたら」となります。或いは、「あぁ苦しい、福音を伝えないでいるなんて」、と訳すこともできます。
皆さん、私たちは、伝道するって大変なことだ、と思っていますよね。
でも、パウロにとっては、伝道しないでいることの方が、よっぽど大変なのです。
伝道していなければ、私が私でなくなってしまう。福音を宣べ伝えている時に、一番自分らしく生きている。パウロは、そのような思いでいたのです。
皆さんは、如何でしょうか。皆さんは、何をしている時に、一番自分らしく生きている、と感じておられるでしょうか。
恐らく、多くの人が、「それは、自分のしたいことをしている時です」、と答えると思います。
でも、果たしてそうでしょうか。自分のしたいことをしている時が、一番自分らしいのでしょうか。
自分らしく生きるという事は、自分本来の生き方を生きる、ということだと思います。
自分本来の生き方を生きている時に、私たちは、本当の充実感を感じることができます。
確かな目的もなく、ただしたいことをしていても、生きている充実感は得られません。
では翻って、自分本来の生き方とは、一体どういう生き方なのでしょうか。
それが分からなくては、自分らしい生き方はできません。聖書は何と言っているでしょうか。
聖書は、私たち一人一人は、神様が愛の対象として作ってくださった、神様の作品だと言っています。 神様は、愛の交わりをするために、私たちを造られたのです。
でも私たちは、そのように造ってくださった、神様の愛を裏切り続けています。
神様は、そんな背き続ける私たちを、滅ぼしても良かったのです。
いえ、人間の常識から言えば、むしろ滅ぼすのが当然なのです。そうですよね。
ところが神様は、滅ぼされて当然の私たちを、滅ぼすことをされませんでした。
そして、代わりに、何と、最愛の独り子を、私たちの身代わりとして、滅ぼされたのです。
御子イエス・キリストを、十字架につけて、私たちの罪の贖いとされたのです。
人間的に言えば、神様は、本当に変わり者です。神様を、変わり者の呼ばわりするのは畏れ多いので、言葉を換えて言えば、神様は、度外れたお人好しです。
そこまでして、私たちを愛してくださったのです。 この考えられないような愛。
先日、ある聖会で説教者が、これを「気絶するような愛」、と表現していました。
この気絶するような神様の愛を、感謝して受け入れて、その愛に応えていく生き方。
それが、聖書が語っている、私たち本来の生き方なのです。
皆さん、私たちは、好きなものを食べ、好きなものを飲んで、好きなテレビを見ている時に、一番自分らしい生き方、自分本来の生き方をしている、と感じているでしょうか。
それとも、今朝のように、神様の御前にぬかずき、こんな自分を、気絶するような愛で愛してくださったお方を礼拝している時に、自分本来の生き方をしていると感じているでしょうか。
パウロは、この神様の愛に応えて、その救いの恵みを宣べ伝えている時に、一番自分らしい生き方をしている、と実感していたのです。
私たちも、気絶するような神様の愛に押し出されて、その愛に応えて生きている時に、「あぁ、自分は今、確かに生きている」、と感じられる者でありたいと願わされます。
19節でパウロは、自分は「だれに対しても自由だ」、と言っています。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。
この世のものはすべて、移り変わっていきます。信じていたものが、一瞬にして、もろくも崩れ去ってしまうことがあります。 そういうものに頼っている時、私たちは、いつも不安です。
頼りにしているものが、突然無くなってしまうという、不安や恐れに捕らわれています。
でもどんな時も変わることのない、神様を頼りにした時に、私たちは初めて、不安や恐れから解放されて、自由になります。
富や、世間体や、この世の権力からも解放されて、まことの自由に生きる者とされます。
それが、キリスト者に与えられている自由です。
そのような自由に生きているパウロは、また同時に、すべての人の奴隷になった、とも言っています。自由だけれども、すべての人の奴隷になった。 これは矛盾していますよね。
奴隷であるとは、自由ではないということだからです。ではこれは、どういうことなのでしょうか。
パウロは、自分は自由な者だからこそ、自らの意志で、進んで奴隷になることができる、と言っているのです。
すべての人の奴隷になることさえできる、まことの自由に生きている、と言っているのです。
普通、奴隷には一人の主人がいるだけです。
でもパウロは、できるだけ多くの人を得るために、すべての人の奴隷なったと言っています。なぜなら、すべての人を救いたかったからです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。
律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。
律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。
そして、弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
この言葉は、原文では、「弱い人に対しては、弱い人になりました」、と書かれています。
他の人の場合は、「その人のようになった」と言っているのですが、弱い人に対してだけは、「ように」ではなくて、「弱い人そのものになった」と言っているのです。
パウロは、弱い人と共に生き、弱い人に寄り添い、弱い人になりきる自由に生きました。
弱い人に同情した、というのではないのです。
「同情する」というのは、上から目線で見つめる、という思いがどうしても残ってしまいます。
相手の人と同じ立場に立っていません。
心の奥底に、「自分でなくてよかった」、という思いが、どうしても残っています。
パウロはそうではありませんでした。どこまでも、弱い人に寄り添い、弱い人と同じ立場に立ったのです。とても難しいことですが、伝道する時には、これが大切です。
この姿勢がなければ、伝道は愛の業にはならず、自己満足的な行為になってしまいます。
これを見事に実践した人がいます。
ハワイ諸島のモロカイ島という島には、かつて、ハンセン病患者が隔離され、満足な医療も受けられず、見捨てられていました。
その島から、宣教師を送って欲しいという要請が来ました。でも、誰一人として、行こうとする人はいませんでした。
しかし、ダミアンという若い神父が、それを聞いて、「自分が行く」と手を挙げました。
そして、多くの人が引き止めるのを振り切って、モロカイ島に渡り、熱心に伝道しました。
しかし、いくら熱心に伝道しても、島の人たちの心を掴むことができませんでした。
それは、島の中で、ダミアン神父だけが、ハンセン病患者ではなかったからです。
そのことに気が付いたダミアン神父は、「神様、どうか私を、あの人たちと同じハンセン病患者にしてください」、と祈ったのです。
そして、遂に、彼もハンセン病に罹りました。ダミアン神父は、島の人たちに言いました。
「今までは、あなた方ハンセン病患者は、と言っていましたが、今日からは、私たちハンセン病患者は、と言うことが出来ます。もう、私たちは同じ仲間です。神様に感謝いたします」。
ダミアン神父は、モロカイ島の人々を救うために、自ら進んで、島の人々と同じ病気になったのです。
すべての人に対して、すべてのものになったのです。
「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」
皆さん、注意して読んでください。
パウロは、すべての人を救うために、すべてのものになった、とは言っていません。何人かでも救うために、すべてのものになったと言っているのです。
勿論パウロは、すべての人が救われることを、心から願っていました。ですから、すべての人に仕えたのです。
でも同時に、パウロは、救いは神様の御業であることを、知っていました。
福音宣教の実りは、神様が、ご自身のご計画に従って与えてくださる。
パウロは、そのことを、しっかりとわきまえていました。ですから、すべてを、神様のご計画に委ね、自分は、何人かでも救うために、全力を尽くしたのです。
そのために、すべての人に対して、自分を合わせていったのです。
皆さんは、カメレオンと言う動物をご存知だと思います。
カメレオンは、周囲の色に合わせて、自分の肌の色を変えて、敵の目をくらまします。
では、タータンチェックの壁紙で覆われた部屋に、カメレオンを入れたらどうなるでしょうか。
カメレオンは、どの色に合わせれば良いのか分からなくなって、ストレスで弱ってしまうそうです。 皆さん、この話は、私たちに大切なことを教えてくれています。
すべての人に合わせるためには、神様の御前に、自分自身を、しっかりと持っていなければならないのです。
もし、自分自身をしっかりと持っていないまま、他の人に合わせることばかりに気を使っていると、私たちも、カメレオンのように、弱り果てて、壊れてしまいます。
パウロは、どんな状況になっても、決して変わらない、確かな信仰を持っていました。
ですから、すべての人に合わせることが出来たのです。
どんな時にも変わらない、確かな信仰を持ちつつ、すべての人に合わせていったのです。
このように生きたパウロには、実はモデルとなった人がいました。主イエスです。
主イエスほど、すべての人に合わせた人はいませんでした。
御子なる神として、限り無い天の高みにおられた主イエスは、低く降って来られ、貧しい大工の子として、家畜小屋の飼い葉桶に生まれてくださいました。
そして、弱い人や、貧しい人や、罪人として社会から疎外されていた、遊女や徴税人たちの友となられて、すべての人に仕える道を歩まれました。
ある時は、最も卑しい奴隷の仕事である、他人の足を洗う、という務めも担われました。
そして、最後は、極悪人に対する処刑である、十字架にまで上って行かれたのです。
神であられるお方が、最も低い者となられて、すべての人に仕えられたのです。
パウロは、この主イエスのお姿を、いつも心に抱きつつ、すべての人に合わせる生き方をしていったのです。
ところで、「福音のためならどんなことでもする」、と言ったパウロには、その動機付けとなったものがありました。
パウロを伝道へと駆り立てている動機。それは、「福音に共にあずかる者となるため」でした。
伝道者には、他の何物でも得ることが出来ない、とても大きな喜びがあります。
それは、自分も共に福音にあずかることが出来る、という喜びです。
私たちが、福音を伝えれば伝えるほど、私たちは、その都度、新たな恵みを発見し、その恵みに、共にあずかる喜びを、味わうことができるのです。
共にあずかる、という言葉は、分け前を与えられる、という意味の言葉です。
「共に」ですから、伝道する者も、伝道される者も、一緒に分け前にあずかるのです。
受洗準備クラスは、牧師にとって、最高の恵みの時です。
主イエスを、救い主として迎え入れた人が、変えられていく。
これを見させて頂くことは、牧師の最大の喜びなのです。
主イエスに出会った人が、喜びと希望の人生へと導かれていく。
その姿を見て、改めて、福音の恵みの大きさを知り、共にその恵みにあずかる。
これこそが、牧師にとって、最大の喜びなのです。
でもこれは、牧師だけに限ったことではありません。皆さんお一人お一人も、伝道していく時に、味わう喜びなのです。
この喜びが、教会を活かします。この喜びが、教会を前進させます。
今朝、私たちは、茅ヶ崎恵泉教会の創立71周年の感謝礼拝をささげています。
71年に亘って、この教会を支え、前進させてきたのは、先達たちが味わった、この伝道の喜びです。そして、その喜びは、今、ここにいる私たちにも、引き継がれている筈です。
皆さん、もし、「茅ヶ崎恵泉教会って、どんな教会ですか」と聞かれたなら、私たちはどう答えるでしょうか。 
茅ヶ崎恵泉教会は、伝道への熱い思いに満ちている教会です。
もし、そう答えることが出来るなら、まことに幸いに思います。
福音を伝えずにはいられない。そうせざるを得ない。
の思いが、今も脈々として息づいている。
そのような茅ケ崎恵泉教会を目指して、これからも共に歩んでまいりたいと思います。