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柏牧師:過去の礼拝説教

「今あるは神の恵み」

2023年03月05日 聖書:コリントの信徒への手紙一 15:1~11

突然ですが、皆さんは、キリスト教信仰の中心は何だと捉えておられるでしょうか。
キリスト教信仰において、最も大切なものはこれだ、と握り締めているものは何でしょうか。
キリスト教を愛の宗教と捉え、他者への犠牲的な愛に生きること。
それこそが、キリスト教信仰の中心であり、最も大切なことだと、考える人もいます。
確かに、他者に対する愛の業は大切です。聖書でも繰り返して、勧められています。
主イエスも、弱い者、苦しむ者に、どこまでも寄り添われ、慈しみを施されました。
しかし、他者に対する愛の実践が、キリスト教信仰の中心であり、キリスト教信仰において、最も大切なことだと捉えるなら、それはちょっと違う、と言わざるを得ません。
私たちは毎週、聖日礼拝で使徒信条を唱えています。
使徒信条は、私たちの信仰の内容を、ぎゅーと凝縮して、最小限の信仰告白として制定されたものです。
その使徒信条において、何が告白されているかと言いますと、父、子、聖霊なる神様の救いの御業です。 
その中でも、中心は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。
ですから、キリスト教信仰の中心は、主イエスの十字架の愛と、復活の希望なのです。 
私たちはそれを、福音、喜びの知らせ、と呼んでいます。
先ほど、コリントの信徒への手紙一の15章1節~11節を読んで頂きました。
この手紙は、使徒パウロが、コリントの教会に宛てて書いたものです。
コリントの教会には、様々な問題があり、下手すれば分裂の恐れさえありました。
それら様々な問題は、突き詰めて言えば、十字架と復活の恵み、つまり福音に対する、理解の相違から生じたものでした。
ですからパウロは、福音の本質である、主イエスの十字架と復活について、もう一度確認する必要を感じて、溢れる思いを持って、この15章を書いています。
15章1節でパウロは、「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」、と言っています。
コリントの教会の皆さん、あなた方の生活のよりどころが、揺らいでしまっていますよ。
生活の土台が、ずれてしまっていますよ。どうかそれを、立て直してください。 
パウロは切なる思いで、そう呼び掛けています。
では、その生活のよりどころとは、一体何なのでしょうか。
それこそが、十字架と復活の恵み、つまり福音なのです。福音、喜びの知らせです。
あなた方の生活の土台である、福音が揺らいでしまっている。喜びのメッセージが、その輝きを失ってしまっている。 
だから、あなた方は、喜びの生き方ができないでいる。
でも、この福音をしっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって、必ず救われます。必ず、喜びの人生を送ることが出来ます。
なぜなら、神様は、あなた方に、喜びの人生を生きて欲しいと、願っておられるからです。
どうか、福音の恵みにしっかりと立って、喜びの人生を生きて欲しい。
いや、福音の恵みにしっかりと立つならば、あなた方は、必ず喜びに満ちた人生を、生きることが出来ます。 
パウロは確信をもって、そう言い切っています。大変力強い言葉です。
私たちも、このような力強い、確信に満ちた言葉で、伝道したいものだと思わされます。
パウロは、更に続けて、こう語っています。
でも、もし、この福音を、しっかりと覚えていないなら。もし、忘れてしまうなら、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまいます。
「信じたこと自体が、無駄になってしまう」。この言葉を、「いい加減な気持ちで信じたのでなければ、あなたがたは救われます」、と訳している聖書もあります。
皆さん、どうでしょうか。私たちは、福音の恵みを、いい加減な気持ちで信じている。そんなことはありませんよね。真剣な思いで信じていますよね。
でも、十字架と復活の話は、教会において、もう何十回も聞かされている。
だから、もう慣れっこになってしまって、今更聞かされても、大きな感動を覚えない、ということはないでしょうか。
ですから、改めて、十字架と復活の福音を、どれだけ本気で信じていますか、と真正面から問われると、ちょっとたじろいでしまう。
そういうことはないでしょうか。私たちの信仰は、まことに心もとないものです。
でも、皆さん、ここで、主イエスのことを考えてみて下さい。
主イエスは、私たちを、いい加減な気持ちで愛されたのでしょうか。とんでもありません。
いい加減な気持ちで、命をささげることなどできません。
本気で、命懸けで愛してくださり、十字架にまでかかってくださったのです。
私たちを救うために、神の独り子が、そこまでしてくださったのです。 
私たちは、とても、主イエスが、私たちを愛してくださったようには、主を愛せません。
でも、たとえそうであっても、いい加減な気持ちではなく、精一杯の心で、主イエスを愛し、従っていきたいと思います。それが、私たちを、喜びの人生へと導いてくれるのです。
3節以下で、パウロは、その福音の神髄を、もう一度、語り直しています。
「最も大切なこととして、私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」、
福音は、パウロが、自分で勝手に考え出したものではありません。
「わたしも受けた」と言っているように、パウロ自身も、信仰の先輩たちから受け取ったものなのです。 
どんなに優れた神学者であっても、どんなに偉大な伝道者であっても、自分が考えた言葉では、自分を救うことはできません。
パウロも、福音の言葉を、先に救われた、教会の先輩たちから、受け取ったのです。
その福音の言葉を、私も、あなた方に伝えます、と言っているのです。
言い換えれば、福音のバトンタッチをして行きましょう、と言っているのです。
それは、ちょうど駅伝のようなものです。 
私たちキリスト者は、誰もが、前の走者から「たすき」を受け取り、それを次の走者に手渡していく、駅伝のランナーなのです。
受け取った「たすき」を、次の走者に渡すという、尊い使命を負って走っているのです。
信仰の先輩たちが、懸命に伝えてくれた「たすき」。そこには、福音の恵みが記されています。
駅伝では、「たすき」を手渡すことが出来なければ、次の走者は、母校の名前が記された栄光の「たすき」ではなく、何も書かれていない「たすき」をかけて、走らなければなりません。
そのように、もし、私たちが、「たすき」を次の人に渡せなければ、その「たすき」に書かれた福音の言葉、喜びの知らせは、そこで消えてしまいます。
次の人は、何も書かれていない「たすき」をかけて、人生の旅路を、走ることになってしまいます。
ですから、この福音の恵みをしっかりと受け取って、それを次の人に伝えていくこと。
それこそが、最も大切なことなのだ、とパウロは言っているのです。
皆さん、私たちはどうでしょうか。 
私たちは、自分の子供や孫に、何を最も大切なこととして、伝えようとしているでしょうか。財産でしょうか、教育でしょうか、地位や名誉でしょうか。
最も大切なものとして、何を残したいと願っているでしょうか。
子供たち、これは私が最も大切なものとして受けたものです。これをあなた方に伝えます。
どうか、あなたも、最も大切なものとして、これを、あなたの子どもたちに、伝えて下さい。
そう言って、伝えようとしているもの。それは一体何でしょうか。
どんな時も、私たちを救い、私たちを生かす力である、福音の恵み、主イエスの十字架の愛と復活の希望。それを、伝えようとしているでしょうか。
1945年8月6日、その日、広島女学院の教師をしていた印具徹さんは、夏期補習のために、学校に出勤していました。その時、原爆が投下されました。
一瞬にして崩れた校舎のがれきの下から、何とか這い出した印具先生の許に、見るも無残な、血だらけになった生徒たちが、「先生、助けて」と言って、駆け寄ってきました。
どうしてよいか分からずに、ひとまず自分の下宿に、生徒たちを寝かせ、苦しむ生徒たちを、うちわであおいであげました。それしかできなかったのです。
生徒たちは、「お母さん助けて」、「先生助けて」、と言いながら、次々に死んでいきました。
その時、印具先生は、言いようもない、深い後悔の念に駆られました。
こんな時に、お母さんと叫んでも、お母さんに何ができるか。先生と呼ばれても、私に何ができるか。 
お母さんでどうして救われるか。 先生でどうして救われるか。
こんな時、この子たちを救うことが出来るのは、イエス・キリストだけではないか。
ああ、私は、本当に呼ぶべきお方のお名前を、この子たちに教えてこなかった。
私は、何という愚かなことをしてきたのか。
印具先生は、心から悔い改めて、戦後、神学校に進み、牧師となり、また高名な神学者となりました。
そして、「イエス様と呼ぼう。他の名を呼ぶことはない。どんな時もこのお方の名を呼ぼう」。そう言い続けて生涯を送りました。
皆さん、私たちも、本当に呼ぶべきお方を、次の世代に語り伝えていきたいと思います。
私があなたに遺せる最も大切なこと。それは、どんな時にもこのお方の名を呼ぶことです。
どうか、これだけは忘れないでください。そのように、語り継いでいきたいと思います。
さて、3節後半から5節にかけて、その福音、救いの言葉の核心部分が語られています。
「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」。
御言葉は、救いの核心部分として、真っ先に、このことを語っています。
何か特別に高邁な教えが、ここで語られている訳ではありません。
イエス・キリストが何を為さったのか。イエス・キリストに何が起こったのか。
キリストの出来事が、簡潔に語られているのです。
「聖書に書いてある通り」とは、「神様のご計画に従って」、という意味に捉えて良いと思います。 
神様のご計画に従って、主イエスが、私たちのために死んで、葬られたのです。
私たちの罪のための贖いの死。それは、偶然に起こったことではありません。
神様が、予めお決めになられたこと。神様が、そうお望みになられたことなのです。
主イエスが十字架に死なれた。それは、私たち人間が、希望したことではありませんでした。
神様がお望みになり、神様が決められたことだったのです。これは、驚くべきことです。
私たちは、自分のことなのに、自分の救いについては、本気で考えて来なかったのです。
それなのに、神様の方が、それを願っておられ、ご自身で、それをお決めになられたのです。
何故神様は、それを願われたのでしょうか。何のために、そう決められたのでしょうか。
それほどまでに、私たちを愛しておられたからからです。
皆さん、私たちの救いは、偶然起こったことではありません。
私たちの思いを超えた、神様の愛によって、起こされた出来事なのです。
続いて、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」、とあります。
「三日目に復活したこと」。この言葉は、原語では、受け身で書かれています。
「三日目に甦らされた」と書かれているのです。では、誰によって、甦らされたのでしょうか。
もうお分かりですよね。勿論、父なる神様によってです。
私たちが、十字架にかけて殺してしまった救い主を、神様が甦らせてくださったのです。
愛する独り子を、滅びの死から甦らされた父の愛。 
しかし、これはまた、私たちに対する、神様の愛の御業でもあります。
なぜなら、私たちが、どれほど罪深く、どれほど汚れていても、救い主さえいて下されば、私たちには、まだ希望が残されています。
でも、その救い主さえも、私たちは殺してしまったのです。ですから、もう、希望は全く消えてしまったのです。もうなす術が、無くなってしまったのです。
その救い主を、神様は甦らせてくださいました。それによって、私たちに、再び希望の火が灯されたのです。
神様は、最愛の独り子を殺した私たちを、皆殺しにして、復讐されても良かったのです。
「よくも、私の愛するイエスを殺したな。決して赦さない」と言って、私たちを滅ぼしても良かったのです。普通の人なら、恐らくそうすると思います。
でも神様は、私たちが殺した救い主を、甦らせてくださり、私たちに復活の希望を与えて下さいました。本当に、神様の愛は、至れり尽くせりの愛なのです。
そのように復活してくださった主イエスは、今も生きて、私たちと共にいてくださるのです。
十字架と復活。教会が初めから伝えたことは、極めてシンプルなものでした。
主イエスが十字架につけられたということと、復活させられた、ということ。それだけです。
でも、信仰の本質は、昔も今も、十字架と復活、この二つだけなのです。
この二つだけで十分なのです。ですから、「使徒信条」も、この二つに集中して語っているのです。
宣教の御言葉はさらに続きます。
「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」
ここに、復活の主イエスに出会った人の、リストが書かれています。
そのリストの筆頭は、ケファ、つまりペトロです。
そして、長いリストの最後に、「月足らずで生まれたようなわたしにも」と、パウロが紹介されています。
このリストで見る限り、復活の証人の筆頭がペトロであり、末席がパウロであるかのように思えます。 
ですから、パウロは、「こんな私にも」と言っているのだと思います。
しかし、実は、リストのトップにいるペトロも、同じ思いであったと思います。
ペトロも、「あんなペトロにも」、と言われたことがあるのです。
「こんな私にも」という言葉と、とてもよく似た表現で、ペトロのことが語られている箇所があります。マルコによる福音書16章7節です。 
そこには、主イエスが復活された後の空の墓で、天使が女たちに告げた言葉が記されています。
「さあ、主の弟子たちの所へ行ってこう伝えなさい。そしてペテロにも。イエスはあなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。
ここで天使は女たちに、甦りの主にお会いするために、ガリラヤへ行きなさい。
さぁ、このことを主の弟子たちの所へ行って伝えなさい。
「そしてペテロにも」と、ペテロの名を、まるで付け足しのように加えています。
ペトロは主イエスの一番弟子として、いつも先頭に立っていました。
しかし、主イエスが、捕えられてしまうと、途端に、恐ろしさに襲われ、主イエスを見捨てて、逃げ去ったのです。
主イエスの裁判の場では、「あんな人知らない」と、三度も言って、主を否みました。
ですからペトロは、自分が使徒と呼ばれるのに相応しくないことを、誰よりもよく知っていたと思います。
私は、とても使徒と呼ばれるような人間でない。弟子たちの中に、堂々と名を連ねられるような者ではない。そういう思いに、生きていたのではないでしょうか。
それが、「弟子たちに、そしてペテロにも」、という言葉に現わされているのだと思います。
甦りの主の言葉を告げる御使いは、「弟子たちに、それから彼にも、あのペトロにも告げてあげなさい」、と言われました。
「そうそう、あのペトロにも。きっと、落ち込んで、自己嫌悪に陥っている、あのペトロにも告げてやりなさい」、と主の御使いは言ったのです。
そのペトロの弱さを負い、彼の罪を、ご自身の罪として引き受けられて、十字架にかかってくださった、主イエスの愛が、彼を再起させました。
それは、パウロも同じでした。教会を激しく迫害したパウロを、主は尚も愛してくださり、使徒として用いてくださったのです。
こんな私にも、甦りの主は、現れてくださった。 
こんなに小さな、価値なき者をも捕らえてくださり、使徒として用いてくださった。 何という恵みだろうか、と言っているのです。
主イエスを、三度も否んだ、弱いペトロ。かつて、主の教会を、激しく迫害したパウロ。
どちらも、主イエスの、復活の証人として、相応しいとは思えません。
しかし、そのようなペトロや、パウロを、主イエスは慈しんでおられたのです。
つまずき、倒れ、傷だらけのペトロを、再び立ち上がらせ、無学な、ただの人から、殉教者にまで、至らせたのは、主の愛でした。
かつては教会を激しく迫害したパウロを、使徒として用いて下さり、誰よりも多くの働きをなさしめたのは、主の愛でした。
そして、その主イエスの愛は、同じように、私たち一人一人に、今も注がれています。
こんな私にも、主は目をかけてくださり、お言葉をかけてくださった。
それ故、私は、主の弟子に加えられ、主の御体なる教会に連なる者とされている。
弱いペトロをどこまでも愛し、「そうそう、あのペトロにも告げてあげなさい」と仰った主。
教会を迫害したパウロを、使徒として立てられ、誰よりも大きく用いてくださった主。
その主は、今、この私にも、そして皆さん一人ひとりにも言って下さっているのです。
「そう、そう、あの柏にも告げてあげなさい。弱い、だらしない、あの柏にも」と。
リストの最初であろうと、最後であろうと、どこに置かれていようとも、「こんな私にも」という思いは同じなのです。
相応しくない者であるにも拘らず、恵みに生かされていることには、変わりはないのです。
私たちが、今、このように生きている。今、ここに、このようにある。
これは、神様の恵みによるのです。
私たちは、神様の、一方的な恵みによって、救われて、今、ここにいるのです。
恵みによって変えられた者として、私が、今、ここにいる。
私に与えられた神様の恵みは、無駄になっていないのです。
ですから、私の人生もまた、決して無駄にならないと、確信をもって言い切ることが出来る。
私たちは、このことを、当たり前のように、考えていないでしょうか。
この朝、私たちは、今一度、その恵みの深さ、大きさを、想い起したい、と思います。
「そう、そう、あのペトロにも、あのパウロにも、そしてあの柏にも、このことを伝えておやり。私の救いのメッセージを、届けておやり。弱くて、だらしない、あの柏にも」。
主イエスは、今もそのように、私たち一人一人に、語りかけておられます。
その恵みを、心から感謝しつつ、共に歩んで行きたいと思います。