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柏牧師:過去の礼拝説教

「主はあなたのために貧しくなられた」

2023年12月03日 聖書:コリントの信徒への手紙二 8:1~9

アドベント第一主日を迎えました。 
アドベントクランツの一本目のろうそく。 希望のろうそくに火が灯されました。
この後、聖日毎に、平和のろうそく、喜びのろうそく、そして愛のろうそくが灯されていき、クリスマスを迎える備えをしていきます。
毎年、この時期は、密やかな喜びと、静かな安らぎに、覆い包まれます。
しかし今年は、ウクライナや、パレスチナにおける戦争によって、多くの人の命が失われ、街が無惨にも破壊されているという、深い悲しみの中で、アドベントの時を過ごしています。
主イエスは、敵意という隔ての中垣を、十字架によって滅ぼされ、二つのものを一つにするために、生まれて来てくださいました。
今は、その主のご降誕を待ち望む、アドベントの時なのです。それなのに、この世は、敵意と争いが、満ちています。
ろうそくは、自らの身を焦がしながら、必死になって、希望、平和、喜び、愛を訴えています。
私たちも、主にある希望、主にある平和、喜び、そして愛が、今、この時に、特に戦いの最中にある地域に、もたらされますようにと、ひたすらに祈りを合わせていきたいと思います。
さて、今朝、私たちに与えられた御言葉。 『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。』
これは、使徒パウロが、コリントの教会に宛てた手紙の中で、語った言葉です。
しかし、この言葉は、元々は、初代教会の人々が、繰り返して唱えた信仰告白か、あるいは讃美歌の一部であったのではないかと、考えられています。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。
初代教会の人たちは、この言葉に励まされて、また、この言葉に慰められて、厳しい迫害の中でも、信仰を守り貫いていったのです。
なぜ、この御言葉が、迫害の中にいるキリスト者に、慰めと、励ましを与えたのでしょうか。
今朝は、そのことをご一緒に考えながら、クリスマスへの備えをしてまいりたいと思います。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。
そうなのです。 主は、貧しくなられたのです。
この地上における、主のご生涯は、一貫して、貧しさに生きる、ご生涯でした。
それは、そのお誕生の時から、始まっています。
ルカによる福音書2章は、そのことを伝えています。
主は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。なぜなら、宿屋には、彼らの泊まる場所が、なかったからである。福音書は、そう語っています。
しかし、本当に、泊まる場所が、なかったのでしょうか。
当時は、専門の旅館というのは少なくて、普通の人の家の、空いている部屋に、泊めてもらうことが、多かったようです。
では、その時、ベツレヘムの家々の、すべての部屋が、塞がっていたのでしょうか。
これは、私の推測ですが、もし、ヨセフとマリアが、身だしなみもよくて、裕福そうに見えたなら、部屋の一つや二つは、工面されたのではないでしょうか。
ですから、空いている部屋が全くなかった、ということではなくて、ベツレヘムの町の人たちは、二人の泊まる場所を、そこまでして用意しようとはしなかったのです。
そのため二人は、家畜小屋に、泊まることになります。
そこは、聖画に見るような、ほのぼのとした場所ではありません。
そうではなくて、岩をくりぬいた、洞窟のような所であったようです。
身重のマリアが泊まるには、全くふさわしくない、汚れて、暗くて、冷たい所だったのです。
そこでマリアは出産し、幼な子イエス様は、布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされました。
家畜の餌箱に、藁を敷いただけの寝床です。柔らかいベッドとは、ほど遠いものでした。
この後、ご一緒に歌います、讃美歌256番の4節は、こう詠っています。
「きらめく明か星 うまやに照り、わびしき乾草 まぶねに散る。
 こがねのゆりかご 錦のうぶぎぞ きみにふさわしきを。」
錦の産着に包まれて、黄金のゆりかごに、生まれるべきお方が、うまやに生まれ、わびしい乾草に寝かされた。
貧しさの極みを、引き受けられた、主のお姿が詠われています。
ルカによる福音書2章には、「飼い葉桶」という言葉が、3回も出てきます。
あまり重要とは思えない言葉が、3度も繰り返して、語られています。
それは、主イエスが、そのような貧しさの極みの中に、お生まれになられたことを、福音書記者ルカが、大切な事だと考えたからではないでしょうか。
まことにクリスマスの出来事は、「主は豊かであったのに、貧しくなられた」、出来事でした。
しかし、それには、確かな目的があったのです。
「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため」、という目的です。
主は、私たちのために、貧しくなられたのです。そして、そのことによって、私たちが、豊かにされたのです。 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。
この言葉を理解することは、それほど難しいことではないように思えます。
というのは、私たちの歴史を振り返ってみますと、そのように生きた、「偉人」とか、「聖人」と言われる人たちが、数多くいるからです。
例えば、カトリック教会に、フランシスコ会という、修道会がありますが、その創始者である、聖フランシスコは、アッシジという町の、大変豊かな、織物商人の跡取り息子でした。
しかし彼は、一切を捨てて、托鉢をしながら、ひたすら神様に従う生活を、貫き通しました。
また、アフリカの聖人と言われた、アルバート・シュヴァイツァー博士は、世界的に有名な聖書学者であり、またオルガン奏者としても、著名な方でした。
しかし彼は、それらの名誉や地位を、すべて投げ捨てて、アフリカのランバレネという村に行き、そこでの医療奉仕に、後半の人生を献げ尽くしました。
日本にも、そのような人がいます。明治の初めに、沢山保羅というキリスト者がいました。
彼は、当時、日の出の勢いであった、長州出身の若者で、明治新政府から派遣されて、アメリカに留学しました。
アメリカでの4年間の学びを終えて、帰ってきた沢山保羅に、明治政府は月給150円の仕事を用意して、彼を迎えようとしました。
この月給は、当時の標準給与の十数倍もする、破格の高給でした。
しかし、何と彼は、この仕事を断って、会員がたった11人で、謝儀が僅か7円の教会の牧師となりました。
世間から見たら、何ともったいない、と思うような選択です。
このように、神様と人に仕えるために、貧しい生き方を選んだ人は、他にもたくさんいます。
本当に素晴らしい生き方です。しかし、どんなに素晴らしくても、この人たちの生き方と、「主が富んでおられたのに、貧しくなられた」ということとは、本質的に違います。
「主は富んでおられたのに、貧しくなられた」。だから、あなたも、貧しくなって、自分の富を、人のために用いなさい。
この御言葉を、そのように読むことも、全く間違っている訳ではありません。
しかし、そこに止まっているだけでは、クリスマスの主の出来事が、私たち人間の慈善活動と、同じレベルに、引き降ろされてしまいます。
それでは、主が豊かであったとは、どういうことなのでしょうか。そして、主が貧しくなられた、とはどういうことなのでしょうか。これについては、聖書そのものが、解説してくれています。
フィリピの信徒への手紙2章6節~8節までの御言葉は、このように語っています。
『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』
この御言葉は、主が豊かであった、とはどういうことなのかを、はっきりと告げています。
それは、「神の身分」であった、というのです。キリストは、「神と等しい者」であったのです。
神としての、無限の豊かさの中に、おられたのです。
その神が、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」のです。
主が、貧しくなられたと、いうことは、全能の神が、人間になられた、ということです。
人間が、神様から与えられた、財産や地位を捨てて、貧しくなることと、全能の神様が、神であることに固執せずに、人間になることとは、本質的に違います。
神様は、すべてのものの造り主です。人間は、造られたものです。
しかし、造られたものが、造り主の意に沿わない。
神様が、愛の対象として、心を込めて造った人間が、その愛を拒んでいる。そういう現実があります。
神様は、何度も何度も、その過ちに気付かせようと、ありとあらゆる事をされました。
しかし、それにも拘らず、人間は、立ち帰ろうとしません。
皆さん、そのように、自分の造ったものが、自分の意に沿わない時、私たちならどうするでしょうか。
恐らく、その造ったものは諦めて、不良品として廃棄処分にすると思います。
そして、その代わりに、新しいものを、造ろうとするのではないでしょうか。
しかし神様は、決して諦めませんでした。 そして、廃棄処分にされるべき、人間に代わって、なんとご自身が、自ら廃棄処分になられたのです。それが、十字架の出来事なのです。
主は、そのために、人間になられたのです。主の貧しさとは、まさに、このことなのです。
神様と、人間との間には、無限の隔たりがあります。主は、その無限の隔たりを超えて、来てくださいました。
そのことを、詠っている詩編があります。詩編113編4節~6節です。(954ページです)。
『主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。 私たちの神、主に並ぶものがあろうか。 主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地をご覧になる。』
「低く下って」と詠われていますが、この言葉は原語のヘブライ語では、旧約聖書全体で、三回しか出てきません。
そして、他の二箇所では、「地に投げ捨てる」、と訳されています。
この訳の方が、原語のニュアンスを、より正確に伝えていると思います。
限りない高みにおられるお方が、その高みから、ご自身を地に投げ捨てられたのです。
先ほど、フィリピの信徒への手紙を読みましたが、その中の、2章8節は、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」、と語っていました。
ここで「へりくだって」、と書かれている言葉は、以前の口語訳では、「おのれを低くして」と訳されていました。 詩編113編も、フィリピ書2章も、同じことを言っています。
主が、ご自身を地に投げ捨てられて、低くなられた、と言っているのです。
キリストは、ご自身を地に投げ捨てられたのです。いえ、もっと正確に言えば、父なる神様に、投げ捨てられたのです。
父なる神様は、身を引き裂かれるような思いを持って、最愛の御子イエス・キリストを、地に投げ捨てられたのです。父なる神様のお心の痛みは、どれほど大きかったでしょうか。
御子イエス・キリストは、投げ捨てられました。
「人間になられた」ということは、十字架で死ぬために、投げ捨てられたということなのです。
キリストが貧しくなられた、ということは、ただ人間になられた、ということに止まりません。
それだけでなく、投げ捨てられ、蔑まれ、そして十字架につけられた、ということなのです。
罪なきお方が、私たちの罪を贖うために、罪そのものとなられたのです。
それが、「貧しくなる」ということであったのです。
キリストは、その誕生の始めから、十字架の死を目指して、お生まれになりました。
十字架の死を目的として、お生まれになったのです。
今までに、何百億、いえ何千億という人が、この世に生を受けて、生まれてきました。
今朝も、この後、12月生まれの方の誕生を、感謝する時を持ちます。
お一人お一人が、それぞれに、神様から目的を託されて、生まれて来られました。
しかし、始めから、死ぬことを目的として、死ぬことを目指して、生まれてきた人は、主イエスただお一人です。 ですから、飼い葉桶は、十字架と結びついています。
十字架を目指して、この世に来られたお方。
そのお方が、生まれるべき場所は、飼い葉桶でしか、あり得なかったのです。
飼い葉桶も十字架も、木でできています。そのことを黙想していた人が、可愛らしい絵本を書きました。
今や世界中で愛されている「三本の木」という絵本です。このような話です。
昔、ある山の頂に、三本の木が立っていました。
一本目の木は、将来、すばらしい宝物を入れる、宝石箱になりたいと願いました。
二本目の木は、将来、王様を乗せる、立派な船になりたいと願いました。
三本目の木は、将来、天にまで届くような、高い梯子になりたいと願いました。
しかし一本目の木は、宝石箱ではなく、家畜小屋の飼い葉桶になってしまいました。
二本目の木は、王様を乗せる立派な船ではなく、粗末な漁船になってしまいました。
そして三本目の木は、天に届く梯子どころか、材木置き場に、投げ捨てられてしまいました。
それぞれの願いは、天に届かなかったように思われました。
けれども、数年して、馬小屋の飼い葉桶には、一人のみどりごが寝かされたのです。
その30年後には、漁師の乗る粗末な小舟に ある説教者が乗っていました。
そして更に、その数年後には、十字架となった角材の上で、その説教者が死んだのです。
皆さん、もう、お気づきでしょう。それぞれの木の願いは、実は成就したのです。
実は、みどりごは、かけがえのない「人類の宝石」であり、漁師の小舟には、まことの「王の王」が乗ったのであり、十字架で、天と地との橋渡しが完成したのです。 
これら、三本の木は、皆、同じ目的のために、用いられました。
豊かであった主が、貧しくなられるという、目的のために、用いられたのです。
皆さん、クリスマスは、私たちにとっては、貧しさから豊かさに移された、喜びの日です。
でも父なる神様にとっては、断腸の思いをもって、最愛の独り子を地に投げ捨てた日です。
そして、御子イエス・キリストにとっては、父なる神様に敵対する罪として、十字架の上に死なれる、という歩みを始められた日なのです。
ですから、父なる神様にとっても、御子イエス・キリストにとっても、クリスマスは、大いなる痛みの日なのです。
そのことを、詠った俳句があります。 クリスチャン詩人の、中村明子さんが詠んだ句です。
「真珠は 貝の生身の傷や クリスマス」。
真珠を作るために、アコヤ貝に、ナイフでぎゅっと傷をつけるそうです。すると、その痛みと傷を覆うために、幾重にも分泌物の膜ができて、それが、やがて真珠となるそうです。
それは貝にとっては、危険な手術のようなもので、中には死んでしまうものもあるそうです。
美しい真珠の輝きは、貝の生身を、傷つけ、痛めつけることによって、生まれるのです。
聖書の中に、すべての持ち物を、売り払ってでも、手に入れたいと思うほどの、高価な真珠の話が出てきます。
主イエスが語られた譬え話です。
すべての持ち物を、売り払ってでも、手に入れたいと思うほど、高価な真珠。
それは、主イエスの十字架によって、与えられる、私たちの救いのことです。
永遠の命という、限りなく尊い宝物のことです。
クリスマスは、そのような高価な真珠が、神様から、私たちにプレゼントされた日なのです。
しかし、その真珠を生み出すために、貝は傷つけられたのです。深い痛みを負ったのです。
貝が、生身に傷を負うことなしには、真珠は生まれなかったのです。
真珠を与えられて、私たちは、豊かにされました。 しかし、貝は、そのために傷を負い、貧しくなったのです。 
皆さん、私たちは、主の十字架の貧しさによって、豊かにされました。
その豊かさとは、金銭的な豊かさではありません。永遠の命という、高価な真珠が与えられた豊かさです。
主が、貧しくなられたことによって、私たちは、罪赦され、神の子とされ、平安と希望を与えられたのです。
それが、私たちに与えられた、豊かさです。
第二次世界大戦中に、ナチスに抵抗して捕らえられ、終戦直前に処刑された、ボン・フェッファーという牧師は、獄中にあっても、たくさんの祈りを書いて、他の囚人を励ましました。
その中の一つに、このような祈りがあります。
「主イエス・キリストよ。あなたは貧しくあられました。そして私と同じようにみじめであり、囚えられ、見捨てられました。あなたは人間の困窮を、知っておられます。
あなたは、私のそばにいてくださいます。たとえ誰一人、私のそばにいてくれなくても。あなたは私をお忘れにならず、私を探してくださいます。」
ボンヘッファーは、獄中にあっても、貧しくなられた主イエスが、共にいてくださることを知っていました。
そして、そのことに、光を見ていました。
ですから、獄中にいる人たちを、励ますことができたのです。
皆さん、まことの豊かさとは、このようなことを、言うのではないでしょうか。
冒頭で、聖フランシスコや、シュバイツアーや、沢山保羅の話をしました。
なぜ彼らは、この世の富を捨てて、貧しさを生きるという、選択ができたのでしょうか。
実は、彼らは、豊かだったからです。金銭的に豊かであったのではありません。
キリストの恵みに満たされた、豊かさの中にいたからです。
彼らだけではありません。主が貧しくなってくださったことによって、私たち、すべてが、豊かにされました。
「真珠は 貝の生身の傷や クリスマス」。主が傷つけられたことによって、私たちは素晴らしく高価な、真珠のプレゼントを与えられたのです。
クリスマスを待ち望むアドベントの時。この言い尽くせない恵みに、心から感謝する、お互いでありたいと願います。