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柏牧師:過去の礼拝説教

「共に喜び、共に苦しむ共同体」

2023年01月01日 聖書:コリントの信徒への手紙一 12:12~27

今から250年前、1773年の1月1日の礼拝で、今や世界中の人々に広く愛されている讃美歌が、初めて公に紹介されました。 皆さん、どの讃美歌だと思われますか。
それは、ジョン・ニュートンというイギリスの牧師が作った、「Amazing Grace」という曲です。
讃美歌21では、「くすしきみ恵」と訳されて、451番に収められています。
かつては奴隷船の船長として、悪行の限りを尽くしていたジョン・ニュートンという人が、イエス・キリストに出会って、その驚くばかりの恵みを知って全く変えられた。
そして、何と牧師として用いられるようになった。
その喜びと感謝を歌った讃美歌です。
ジョン・ニュートンは、新しい年の初めに、自分をこのように造り替えて下さった神様の恵みを、愛する教会の人たちと分かち合いたかったのです。 
先ずそのことを願ったのです。
皆さん、私たちも、新しい年2023年の最初の日に、驚くばかりの神様の恵みを、しっかりと心に刻みたいと思います。
そして、この年の第一歩を、喜びと感謝をもって、踏み出したいと思います。
元旦の朝に、私たちは、様々な祈りをささげます。
皆さんは、この朝、どのような祈りをもって、新しい年を迎えられたでしょうか。
ご家族や愛する方々の、ご健康が守られますように。
世界に、まことの平和と和解がもたらされますように。
一人でも多くの人に、福音の恵みが届けられますように。
苦しみや不安の中にいる人に、希望と平安が与えられますように。
飢えや寒さの中にいる人に、暖かい食事と家が備えられますように。
病や試みの中にある人に御言葉が届けられ、希望に生きることが出来ますように。
様々な抑圧や差別の中にいる人に、安らぎと解放が与えられますように。
私たちは、このように、様々な祈りをささげます。
しかし、ある人は言うかも知れません。
そんな赤の他人のため祈れるか。そんな祈りが、私にとってどんな得があるのか。
そのように呟く人に、今朝の御言葉は語り掛けています。
もし一人の人が苦しめば、すべての人が共に苦しみ、もし一人の人が尊ばれれば、すべての人が共に喜ぶ。
一人一人が、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く。
もしそんな世界になったら、他ならぬあなたが、あなた自身が大きな幸いを得るのですよ。
それこそが、まことの幸いなのですよ。 御言葉はそう言っているのです。
御言葉は、更に続けて語っています。
そのような幸いは、先ず、主の御体である教会において、実現されなければならない。
教会において、そのような愛の交わりが実現しないなら、もはやこの世に希望はない。
まず教会が一つにならなければ、世界が一つになることなどあり得ない。
今朝の御言葉は、教会が、この世にあって、一つとなることの大切さを語っています。
でも皆さん、果たして教会は一つとなることが出来るのでしょうか。
実際の教会を見ると、そこには分派争いがあり、教会員の間にも、様々な不平不満が渦巻いています。 
とても、「教会は一つだ」などとは、言えないような現実があります。
でも、たとえ、今はそうであっても、教会は一つとなれる、という希望を抱き続けています。
私たちは、いつか必ず一つになることが出来る、と信じています。どうしてでしょうか。
それは、教会は
キリストの体だからです。教会は、ただ一つの御霊によって導かれているからです。
ここにいる私たちは皆、聖霊を受けて、「イエスは主である」、と告白した者たちです。
誰もが聖霊の賜物を受け、洗礼の恵みに与り、キリストの体の一部とされています。
主イエスを信じる聖霊の賜物を、皆が等しく受けて、神の家族とされているのです。 
この一番大切な賜物については、皆に、平等に与えられているのです。
「兄弟、あなたも、聖霊の導きによって、主イエスを信じて、ここにいるのですね。
私もそうなのです。 お互いに本当に良かったですね。」
もし一人一人が、このような思いを共有するならば、その他の違いについては、受け入れ合うことができる筈です。
この最も重要な恵みにおいて、一致しているのであれば、私たちは、その他の違いを乗り越えて、一つになれる筈です。
皆が、同じ霊の賜物を受けて、同じ恵みに生かされ、同じ体の一部とされているのです。
しかし同時にまた、皆に平等に与えられている聖霊が、一人一人を異なった働きへと召している、という事実もあります。
一人一人が、それぞれ異なった働きへと召され、皆で一つの体を造り上げているのです。
その時に、一人一人が用いる賜物については、それぞれ異なっています。
同じ聖霊によって、一人一人に、それぞれ異なる賜物が与えられているのです。
どんな人も、神様から賜物を頂いています。頂いていない人はいません。
でも、その賜物は、一人一人異なっています。その点では、平等ではありません。
私たちは、時々、そのことを不公平だと、不満に思うことがあります。
何故あの人には、あんなに素晴らしい賜物が与えられているのに、私には、与えられていないのか。 神様の賜物の配り方は不公平だ、と呟くことがあります。
主イエスが語られた、タラントンの譬えにしても、採りようによっては、不公平だと採れなくもありません。
1タラントンしか預けられなかった僕は、その不公平をひがんで、積極的に働かなかったのではないか。
私には、他の人よりも少ない、1タラントンしか与えられていない。
そんな自分にできることは、せいぜいこのお金を無くさないように、隠しておくことだけだ。
そのようなひがみに捕らわれて、積極的に働くことをしなかったのではないか。
そのように思うこともあります。
確かに、神様の賜物の配り方は、私たちから見て、不公平に見えることがあります。
そして、私たちは、そのことを呟くのです。 
しかし皆さん、御言葉はこう言っています。
呟くことを止めなさい。平等ではないということこそ、むしろ大切に考えなくてはいけない。
皆が足であったらどうするのか。皆が手であったらどうするのか。
すべてが目であったり、すべてが耳であったりしたら、体は成り立たないではないか。
教会というキリストの体が、御心を実行していくためには、それぞれが与えられた賜物を用いて、与えられた役割を、きちんと果たして行かなければならない。
他の人の賜物を欲しがったり、羨ましがったりするのではなく、与えられた賜物がどのような物であっても、それを教会のために精一杯用いなさい。
御言葉は、そう言っているのです。
それぞれ違う賜物が、お互いに尊重し合い、助け合っていく時に、教会はキリストの体として造り上げられていくのです。
ですから、教会はオーケストラのようなものです。
オーケストラは、様々な楽器によって構成されています。
華やかな楽器もあれば、地味な楽器もあります。
しかし、それぞれが、なくてはならない、かけがえのない存在なのです。
それぞれが、自分の個性を生かし、自分の役割をきちんと果たしていく時に、素晴らしいハーモニーを奏でることが出来るのです。
オーケストラでは、皆が、同じ曲目を与えられ、同じ楽譜に従って、同じ指揮者に導かれて演奏します。
一人一人のパートは異なります。
でも、それぞれが自分の役割をしっかりと果たしていく時に、全体として美しいハーモニーを生み出すのです。 教会も同じです。
皆が、福音宣教という共通の目的に向かって、同じ聖書の御言葉に従って、主イエスという一人の指揮者に導かれていく時に、御心に適った働きをすることができるのです。
愛する兄弟姉妹、茅ヶ崎恵泉教会が、神様の御心に適った、美しいハーモニーを奏でるオーケストラとなりますように、心を一つにして歩んでいきましょう。
聖書という楽譜から目を逸らさずに、主イエスという指揮者に忠実に従って、それぞれが自分のパートを、喜んで演奏する。
そんなオーケストラになろうではありませんか。
18節には、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」、と書かれています。
ここにある、「置かれた」という言葉に注目したいと思います。
神様が、一人一人を、それぞれの場に置かれたのです。
「あなたは、ここに。あなたは、あそこに」というように、神様が一人一人を、御心に従って置かれたのです。
皆さん、私たちは、偶然にここにいるのではありません。
神様が置いて下さったのです。
何かのきっかけで、たまたま茅ヶ崎恵泉教会に導かれて、今ここに居る。
そう思っている方も、おられるかもしれません。
しかし違うのです、そうではないのです。
神様が、あなたを御心に留めて下さり、「さぁ、ここがあなたの場所ですよ」と言われて、それぞれの場に、置いて下さっているのです。
ですから、置かれた場所が不満だと言って、呟くことは止めましょう。
主イエスのことを考えてみて下さい。
父なる神様は、主イエスを、一体どこに置かれたでしょうか。
粗末な家畜小屋の、汚れた飼い葉桶の中です。ご自身の独り子を、そのような所に置かれたのです。
そして最後は、何と、あの十字架の上に置かれたのです。
イエスよ、私はあなたをここに置くよ。どうかここで、私の救いの計画を成し遂げて欲しい。そう言われたのです。
そして、主イエスは、その神様のご計画を受け入れられました。
私たちが、置かれた場所を不満に思う時、この主イエスのお姿を仰ぎ見たいと思います。
皆さん、私たち一人一人は、ジグソーパズルの一齣一齣なのです。
その一齣の、どれ一つが欠けても、神様が描こうとしている絵は完成しません。
私なんかいてもいなくてもいい存在だ。私がいなくても、何も変らない。
もし、あなたが、そう思っておられるなら、それは違います。
あなたは、神様が描こうとしている、茅ヶ崎恵泉教会というジグソーパズルの、大切な一齣なのです。
その一齣が欠けたなら、絵全体が台無しになってしまう。そういうかけがえのない一齣なのです。
神様は言われています。「あなた一人が欠けると、私の絵は完成しないのだ。あなたが欠けると、茅ヶ崎恵泉教会という絵は、完全ではなくなってしまうのだ。」
ですから皆さん、どうか教会から離れないでください。
私なんか、いてもいなくても良い存在なんだ、などとは決して思わないでください。
もし、あなたが、そんなことを思うなら、一番悲しまれるのは、あなたをそこに置いて下さった神様なのです。
そして、私たちも、お互いを、かけがえのない大切な存在として、敬い合い、受け入れ合っていきましょう。
ジグソーパズルの齣は、皆、どこかが出っ張ったり、凹んだりして、変な形をしています。
でも一つの駒の出っ張ったところは、他の駒の凹んだところが受け入れています。
ですから私たちも、他の人の出っ張った部分を、自分の凹んだ部分をもって、受け入れていきたいと思います。
なぜなら自分の出っ張った部分は、他の人が凹んだ部分で受け入れてくれているからです。
私たちが、そのように受け入れ合った時、初めて、神様が描こうとしている、茅ヶ崎恵泉教会という絵は完成します。
私たちは神様の絵の邪魔をするのではなく、完成するのを手伝わせて頂きたいと思います。
このことを、22節以下は、こう言い表しています。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」
教会の中に、様々な困難に遭って、弱さを覚えている方がおられるかもしれません。
苦しみの只中にあって、礼拝に出席することもできなっている方がおられるかもしれません。
祈ることも、聖書を読むことさえ、できなくなっている方がおられるかもしれません。
或いは、教会の中に、世間的に見て、見劣りする部分があるかもしれません。
恰好悪く見える部分があるかもしれません。
では、そのことが問題なのでしょうか。違います。
大切なことは、その弱い部分、恰好の悪い部分を、覆うことが出来る人がいるかどうか、ということなのです。
弱い部分を覆ってくれる教会員がいる。
見苦しい部分を見栄え良くしてくれる教会員がいる。
そのような愛の配慮をしてくれる教会員がいる。
それが、主の御体なる教会の姿なのです。
弱い部分、恰好の悪い部分を、非難するのではなく、目立たないところで、人知れず覆ってくれる存在。
見苦しい部分を、秘かに補って、見栄え良くしてくれる存在。
皆さん、私たちは、そんな一人一人となることを目指していきましょう。
自分の弱さや、恰好の悪さの故に、苦しみ、悲しんでいる人がいる。
それを他の人が、自分のこととして苦しむ。
そして、ある人が、尊ばれたなら、自分のこととして、それを心から喜ぶ。
それが教会における苦しみの味わい方、喜びの味わい方なのです。
一人の人の弱さは、他の人の愛を引き出す役割をしているのです。
ですから教会では、自分の弱さを、臆することなく表しましょう。
私たちは、家族には弱さをさらけ出すのに、神の家族である教会では弱さを隠そうとします。
でも、教会が本当に神の家族であるなら、弱さを素直に表せる筈です。
教会では、弱さを隠すのではなく、「私のために祈って」と素直に言い合いましょう。
日本語では、「歯が痛い」とか、「お腹が痛い」と言います。
でも、英語では、「私は歯痛を持つとか、私は腹痛を持つ」と表現します。
御言葉が言っているのは、このような捉え方です。
歯の痛みを、体全体が担うのです。
指に小さなとげが刺さっただけでも、体全体が苦しみます。
逆に、「あなたの目がすてきだ」と言われれば、全身が喜びを共有します。
教会がキリストの体であるとは、そういうことなのではないでしょうか。
ところで年を取ると、体のどこかに弱い部分が現れてくるものです。皆さんはどうでしょうか。
私は、腎臓に弱さを持っています。ですから、かなり厳しい食事制限をしています。
腎臓のせいで、好きなものも食べられない。
初めのころは、そんな腎臓を恨みました。
でも、ある時、今朝の御言葉を想い起して、その考えを変えました。
今は、毎日数回、背中をげんこつで揉む腎臓マッサージをしていますが、その時、「腎臓さん頑張って、皆で応援しているよ」、と言いながらマッサージしています。
すると、「うん、僕頑張るよ」という小さな腎臓の声が、聞こえるような気がするのです。
皆さんも、体の弱い部分を、そのように労わり、励ましてあげてみては如何でしょうか。
御言葉は、それぞれ違う賜物が、お互いに尊重し合い、助け合っていく時に、教会はキリストの体として造り上げられる、と言っています。
逆に、それぞれが、自分の賜物を誇り、競い合っているならば、そこに聖霊は働かれない、というのです。
このことを言い表すのに、よく使われる譬え話があります。
5本の指が、お互いに、誰が一番偉いかと言い争いました。
親指が言いました。「一番偉いのは俺に決まっている。どこの世界でも、親は一番偉いのだ」。
すると人差し指が言いました。「一番、というときには、人差し指を立てるでしょう。だから、私が一番偉いのです」。
中指も負けずに言います。「何たって、一番背が高い俺が、一番偉いに決まっているよ」。
薬指が静かに言いました。「王様の指輪は、どの指にはめるか知らないのですか。薬指ですよ。王様の指輪をはめる指が、一番偉いのです」。
すると、小指が小さな声で言いました。
「みんな、イエス様のお言葉を知らないの。自分を小さくするものが一番偉いって、イエス様は言われたんだよ。だから一番小さな私が、一番偉いんだよ」。
そうやって言い争っていた時、天からの声が聞こえました。
「では、お前たちの中で、一人で紙一枚でも掴める者がいるか。もしいたら、その者が一番偉い」。
それを聞いて、指たちは、何とかして、指一本で紙を掴もうとしましたが、誰も出来ません。 
その時、また天から声がしました。
「もし、お前たちの2本が力を合わせるなら、紙の一枚など、簡単に掴めるだろう。
お互いに争うのではなく、助け合いなさい。お前たちは、そのために5本揃っているのだよ」。
この譬え話の様に、教会の各部分も、それぞれ他の部分を羨んだり、蔑んだりせずに、助け合わなければ体は機能しないのです。
それぞれの部分は、他の部分を必要としているのです。
主にあって、お互いを受け入れ合い、敬い合い、助け合う教会。
新しい年、2023年。私たちも、そのような教会を目指して、共に歩んで行きたいと思います。