「最高の賜物―それは愛」
2023年02月05日 聖書:コリントの信徒への手紙一 12:31~14:1
今朝の御言葉は、「愛の賛歌」と呼ばれていて、多くの人に愛されています。
一度読んだら、忘れることが出来ないような、数々の美しい言葉が記されています。
しかし、今朝の御言葉は、単に美しいだけではありません。
もっと深い意味を持っています。
それどころか、人を変える力を持っているのです。
そのことを証明するようなエピソードがあります。
とても頭が良くて、色々な賜物に恵まれた若い牧師が、ある宣教地に派遣されました。
しかし彼は、批判的で、高圧的な性格の持ち主でした。
また気が短くて、忍耐力に欠けていました。
そのため彼は、その土地の人々を怒らせ、次第に人々と争うようになりました。
とうとう、そこの人たちは、この牧師を召還してほしいと、宣教委員会に頼んできました。
依頼を受けた宣教委員会は、その若い牧師に手紙を書きました。
「あなたが、一つの条件をのむなら宣教地に留まることができます。
その条件とは、これから一年間、毎日コリント人の信徒への手紙一の13章を読むことです。」
その手紙が送られてから半年後に、変化が起きました。
かつて、この牧師を解雇してほしい、と書いてきた人たちが、彼の働きの継続を、願い出てきたのです。
そして数年後、その同じ人たちが、今度はこの牧師を、教区の監督にしてほしいと依頼してきました。
その後、この牧師は、50年以上にも亘って教会に仕えて、良き働きを続けたそうです。
どうか皆さんも、人間関係で行き悩んだ時には、今朝の御言葉を、繰り返して読んでみてください。
きっと、私たちの思いを超える出来事が起きると思います。
さて、皆さんもご承知のように、聖書は、「神は愛である」と語っています。
私たちも人を愛します。でも、「人間は愛である」とは言いません。なぜでしょうか。
私たちの愛と、神様の愛とは、違うからです。では、どう違うのでしょうか。
私たち人間の愛は、愛する理由があるから、愛する愛です。
何か愛する理由がある。だから愛する。
ある人が、これを「だからの愛」と定義しています。
これに対して、神様の愛は、無条件の愛です。理由なしに愛する愛です。
私たちがどんなに裏切っても、どんなに逆らっても、たとえ神様のことを、十字架につけて殺そうとしても、「それでも、私はあなたを愛している」、と言われる愛です。
「だからの愛」に対する、「それでもの愛」です。
昔からこの13章は、そのような神様の愛を説き明かしている、と捉えられてきました。
でもパウロが、この御言葉を書いた本来の意図が、ここで神様の愛を、説明することにある、と理解するなら、それはちょっと違う、と言わざるを得ません。
聖書の御言葉は、すべて文脈に沿って、読んでいくことが大切です。
この御言葉を読む時も、これを独立した文章として読むのではなく、この手紙全体の文脈の中で、理解することが求められます。
パウロが、この手紙全体を通して、言いたかったこと。それは、「教会の一致」ということです。
教会が一つとなることが、どれほど大切か。神様が、どれほどそれを望んでおられるか。
そのことを、心を込めて語っているのが、この手紙なのです。
コリントの教会には、激しい分派争いがありました。教会に、一致がなかったのです。
パウロは、愛するコリントの教会が、一つとなることを心から願いました。
そのために、どれほど祈ったことでしょうか。どれほど涙を流したことでしょか。
皆さん、1ヶ月前に読みました、この手紙の12章を想い起してください。
そこでは、教会員一人一人に、かけがえのない賜物が与えられている、と語られていました。
その与えられた賜物を生かして、互いに支え合い、助け合っていくときに、キリストの体である教会は、活き活きとした働きをすることができる。
パウロは、そのことを、熱い思いをもって、語ってきました。
そして最後に、一つ一つの賜物が活かされ、教会が一つとなるためには、すべての賜物を超える、「最も大きな賜物」が必要なのだ、と語っています。
すべてにまさる最高の賜物。それは一体何なのでしょうか。
パウロは、それこそが愛である、と言っているのです。
教会が一致するために必要な、すべてにまさる最高の賜物。それが愛なのです。
愛がなければ、一人一人の賜物が、どんなに尊くても、それらが活かされることはありません。
そして、教会は一つとなることは出来ないのです。
では、あなた方は、まことの愛とはどういうものか、知っているか。
もし、それを知らないなら、是非、それを知って欲しい。最高の賜物を、握り締めて欲しい。
そういう熱い思いに、押し出されるようにして、語り出したのが、この13章なのです。
1節から3節で、パウロは、私の愛、つまりパウロ自身の愛のことを語っています。
新共同訳聖書では訳されていませんが、原文では、「わたし」という言葉が、頻繁に出て来ています。
1節も、「たとえわたしが」、という言葉で始まっています。
「たとえわたしが、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」である、と言っているのです。
2節では、「愛がなければ、無に等しい」、と言っていますが、これも原文では、「わたしは無に等しい」、となっています。
いえ、もっと正確に言えば、原文では、「わたしは無」、としか書かれていません。
「無に等しい」ではなく、「わたしは無」と、と言い切っているのです。
愛がなければ、私は無。私は存在しない、とまで言っているのです。とても激しい言葉です。
「愛がなければ」という言葉を聞きますと、私たちは、つい自分の周囲を見回してしまいます。
私たちは、無意識の内に、愛を、世の中や、他人を計る鏡としています。
誰々さんには愛がない。世の中には愛がない。だから、不幸な出来事が起きる。
このように、愛を、世の中や、他人を計る鏡としています。
しかし愛は、世の中を問う鏡である前に、何よりもまず、自分を問う鏡であるべきなのです。
パウロはここで、果たして、この自分に、愛があるだろうか、と問い掛けています。
たとえ私が、天使たちの異言を語ろうとも、預言や知識の賜物に恵まれていようとも、山を移す程の強い信仰を持っていようとも、そこに愛がないことがある。
また素晴らしい慈善の業を行い、殉教をも恐れずに福音を宣べ伝えたとしても、そこに愛がないことがある、と言っているのです。
3節に、「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」、と書かれています。
パウロは、自分に問いかけています。
お前は、そこで、自分を誇ってはいないだろうか。もし、誇っているなら、そこに愛はない。
もし、自分を誇るための、言葉や行いとなっているなら、それらには何の益もない。
それらは「無」である。
ここでパウロは、自分のこととして語っています。
コリントの教会を、批判をしているのではありません。
もし、この私に、「愛」がなければ、と言っているのです。
私たちから見れば、パウロの生き方は、確かな信仰と、全き献身と、自己犠牲の愛に、満ち溢れているように思えます。
私たちには、とうていあのような生き方はできません。
でも、そのパウロが、そのような自分の生き方にも、愛がないことがあるのだ、と言っているのです。
私たちもパウロの言葉を、自分自身の言葉として、告白しなければいけないと思わされます。
そうでなければ、この愛の賛歌は、私たちの歌にはなりません。
名古屋で長年奉仕した、アメリカ人の女性宣教師がいました。
彼女は、何とかして、一人でも多くの人を救いたいと願って、熱心に伝道しました。
しかしある時、一人の求道者の婦人から、こう言われました。
「あなたは、私のことを、伝道の対象としてしか、見てくれていないではないですか。
ちっとも愛してくれないではないですか。私はもっと愛して欲しいのです。」
この言葉は、この女性宣教師の頭を、ハンマーで打ちのめすような衝撃を、与えました。
私は、すべてを犠牲にして、伝道に命を懸けてきた。自分ではそう思っていた。
でも、気付かないうちに、そんな自分を、心の底で秘かに誇っていた。
しかし、一人の求道者から教えられたのです。自分には、最も大切な愛が欠けていた。
その時、この13章の御言葉が、彼女の胸に強く迫ってきたそうです。
皆さん、果たして、私たちはどうでしょうか。 茅ヶ崎恵泉教会はどうでしょうか。
私たちの業は、愛に根差しているでしょうか。
もし、愛に欠けている、と示されたなら、「主よ、愛を与えて下さい。あなたの愛を、しっかりと受け止めて、愛に生きる者に造り替えて下さい」、と祈っていきたいと思います。
そのような愛の特性を、パウロは、4節から7節で、見事に言い表しています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
ここには、愛の特性について、肯定的な、「愛はこうする」という言い方が、七つ述べられています。
一方、否定的な、「愛はこうしない」という言い方が、八つ述べられています。
恐らく、多くの人は、否定的な表現の方に、心が向くのではないかと思います。
「愛は、ねたまない」。この言葉一つを取ってみても、私たちは考え込んでしまいます。
一体、「ねたまない愛」などあるのだろうか。
「ねたむ」、それは愛があるからではないか。
そう思うのが、私たちの正直な気持ちです。
また、「愛は、自慢する」ものだ。
親が子どもを愛する時、その子どもを自慢するのは当たり前ではないか。そう思うのではないでしょうか。
「愛は、高ぶらない」。
しかし、自分の愛するものが、美しいものであれば、高ぶるほどの誇りに生きてなぜいけないのか。私たちは、そう思うのではないでしょうか。
「礼を失せず」。
この言葉は、口語訳聖書では、「不作法をしない」と訳されていました。
「愛は、不作法をしない」。これは、お互いによく考えなくてはいけないことだと思います。
例えば、夫婦の間でも、随分、不作法なことをしてしまうことがあります。
その時の言い訳として、「妻は私を愛している。私も妻を愛している。だから、これくらいの不作法は、許される筈だ。不作法をしない愛など、他人行儀でしらじらしい」。
そのような思いに、捕らわれることがあるのではないでしょうか。
そして、そこで、とても大切なことを見失うのではないかと思うのです。
いらだつことも、恨みを抱くことも、愛にはつきもののように思われます。
愛は、とことんまで愛されないと、承知できないものです。
そうでないと、いらだつのです。
それがひどくなれば、恨みさえも抱くようになるのです。
ねたむとか、自慢するとか、高ぶるとか、或いは、礼を失するとか。
これらは、人間が、生まれながらに持つ愛の特性です。ありのままの人間の愛の姿です。
愛しているからこそ、ねたむ。愛しているからこそ、恨みを抱く。愛しているからこそ、自慢する。愛しているからこそ、不作法をする。
生まれながらの人間は、そのような愛しか、持っていません。
私たちが、神様のことを知らなかったときに、思っていた愛とは、そういうものです。
では、まことの愛の特性とは、どういうものなのでしょうか。
御言葉は続けて語っています。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望む。 これが、まことの愛の特性だというのです。
間違って頂きたくないのですが、ここでパウロは、愛とは何かを、定義しているのではありません.
ただ、まことの愛の特性、言い換えれば、まことの愛の姿を、描写しているのです。
私たちは、愛の特性や愛の姿を、愛そのものだと、勘違いし易いのです。
忍耐強いこと、それが愛だ。情け深いこと、それが愛だ。そう思い込んでいる所があります。
でもそれらは、愛の特性の一つなのです。愛の実体、愛そのものではありません。
私たちをまことに生かすのは、愛の特性ではありません。
愛の実体、愛そのものが、私たちを、まことに生かすのです。
では、その「愛の実体」、「愛そのもの」とは、一体、何なのでしょうか。
皆さんは、もう気付かれていると思います。
それは、神様です。主イエスご自身です。
そのことを説明するために、昔からよく行われていることがあります。
それは、4節以下の御言葉の主語を、置き換えて読むことです。
先ず、愛に代えて、自分の名前に置き換えてみます。
皆さんも、なさってみると良いと思います。
ご自分の名前を主語にして、「私、柏明史は忍耐強い。柏明史は情け深い。柏明史はねたまない」、と読んでいくのです。
恐らく、どれ一つとして当てはまらない、という思いに導かれると思います。
そこで次に、主語を主イエスに置き換えて読んでみるのです。
「主イエスは忍耐強い。主イエスは情け深い。ねたまない。主イエスは自慢されない、高ぶることをされない。 礼を失せず、自分の利益を求められたことはない。主イエスはいらだたず、恨みを抱かれない。不義を喜ばず、真実を喜ばれる。主イエスはすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えられた。」
主イエスを主語としますと、すべての言葉が、ぴったりと当てはまります。
ですから、ここで示されているのは、主イエスなのです。主イエスの愛なのです。
この愛が、私たちすべてに与えられているのです。この愛が、私たちを生かすのです。
8節の御言葉は、この主イエスの愛は、決して変わることがないと語っています。
この世のことは、皆変わっていきます。しかし、この愛だけは、変わることはないのです。
「愛は決して滅びない」。
この8節の御言葉を、「愛は決して死なない」と訳している聖書もあります。
主イエスの愛は、決して死ぬことはない、というのです。
人間の愛は、愛してくれる人が死んだなら、その愛も終わります。
しかし、主イエスの愛は、決して死ぬことはないのです。
なぜなら、主イエスは、永遠に存在されるお方だからです。
いにしえから、とこしえまで、時間を超えて存在する愛。それが主イエスの愛なのです。
そのように、決して滅びることがないものとして、愛と共に信仰と希望が挙げられています。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る、と語られています。
なぜここに、愛以外に、信仰と希望が、挙げられているのでしょうか。
愛は、神様の本質です。永遠に変わらない、神様のご意志です。
ですから、いつまでも残るものであることは分かります。
でもなぜ、私たち人間の側の応答である、信仰と希望が、並んで挙げられているのでしょうか。
永遠なる主の愛。それが私たちに注がれる。
でも、私たちは、その永遠の愛を、どのようにして、受け止めるのでしょうか。
その愛を受け止めるための受け皿。それは、私たちの信仰です。
この愛を信じる信仰がなくては、私たちは、主の愛を受け止めることはできません。
この愛を、信仰をもって確かに受け止め、どんな困難の中でも、この愛に希望を置き続ける人。
その人だけが、この永遠の愛を、自分のものとすることが出来るのです。
信仰と希望。この人間の側からの応答が、主の愛の受け皿となるのです。
そして、感謝なことに、その受け皿である信仰と希望も、永遠なる主の愛と共に、私たちに与えられているのです。
私たちが、信仰と希望を持って生きていく時、永遠なる主の愛も、私たちの内に生き続けるのです。
この有名な言葉を語った後で、パウロは14章1節で「愛を追い求めなさい」と勧めています。
「愛を追い求めなさい」。
これは、コリントの教会に対する、パウロの心からの願いです。
どうか、愛を追い求めて欲しい。そして、愛に結ばれて、一つとなって欲しい。
パウロがコリントの教会に、心から願ったこと。
それは、一人一人が、愛を追い求めて歩むことでした。
その時に、教会の全ての問題は解決され、一つとなることが出来るからです。
「愛を追い求めなさい」。これは、私たちに対する、主の御言葉でもあります。
主は言われています。「茅ヶ崎恵泉教会の兄弟姉妹。どうか一つとなって、教会を支えて欲しい。そのために、どうか愛を追い求めて欲しい。」
弱く貧しい私たちは、愛を実践することは、できません。
しかし、たとえ愛を実践できなくても、愛を追い求めていくことはできる筈です。
そして、私たち一人一人が、心から愛を追い求めていくなら、茅ヶ崎恵泉教会は、慈しみと慰めに満ちた、神の家となります。人々の安らぎの場となります。
皆さん、私たちは主の願いに応えて、愛を追い求める群れを目指して、共に歩んで行きましょう。
愛は、いつまでも絶えることがなく、すべてを完成させる絆なのです。