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柏牧師:過去の礼拝説教

「行きなさい、私の愛の中を」

2024年01月07日 聖書:ヨハネによる福音書 8章 1 – 11 節

皆さん、明けまして、おめでとうございます。
新しい年、2024年を迎え、その最初の聖日の朝に、こうして皆さんと共に礼拝を献げられる恵みを、心から感謝いたします。
しかし今年、私たちは「おめでとう」というのに、大きなためらいを覚えています。
元旦の午後4時過ぎに、能登半島で大きな地震が発生し、甚大な被害を及ぼしたからです。
多くの尊い命が奪われ、未だに行方不明の方々の捜索が、懸命に続けられています。
地震や火災で家を失い、今この時も、非常な困難の中におられる方々がたくさんおられます。
交通が遮断されているため、水や食料などの生活必需品が十分に届けられず、お菓子などを食べて命をつないでいる方々もおられます。
能登半島は、神奈川県とほぼ同じくらいの面積があります。
そこに、日本キリスト教団所属の教会では、輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、恵泉教会の4教会が点在しています。
特に被害が大きかったのは輪島教会で、会堂は大きく損傷し、未だ中に入れない状態だそうです。
牧師館は、隣家が傾いて寄りかかっていて、壁に穴が開いているとのことです。
それでも今朝は、今年最初の聖日礼拝を何とか献げたいと祈りつつ、牧師館で礼拝を献げるために準備をされていると伺っています。
能登半島の西側の根っこの「かほく市」にある恵泉教会は、私たちと同じ名前を持つ教会です。 
この教会は、越智先生や私が所属している、ホーリネスの群の教会でもあります。
そのため、私は個人的にも親しみを覚え、従来から祈り合っている教会です。
各教会の再建の道のりは、困難を極めると思いますが、私たちは先ず、能登の諸教会を祈りに覚え、それぞれが出来る限りの支援をしていきたいと思っています。
今後、教団レベルでの支援の依頼も来ると思いますが、その際は、ぜひ協力してください。
さて今朝の御言葉には、主イエスの愛によって、絶望の淵から救われた、一人の女性の話が記されています。
ウィリアム・バークレーという神学者は、この物語を「福音書の中で、最も美しく、最も大切な物語の一つである」と言っています。
また、内村鑑三は、「ここに、全福音書の縮図がある」とまで言っています。
今朝、私たちは、そのような、御言葉の恵みの中に、全身を沈めて、浸り切りたいと思います。
聖書の御言葉は、その場の情景を想い描きながら読んでいく時に、より一層活き活きとした出来事として迫ってきます。
あたかも自分が、その場にいるような気持ちで読んでいくのです。
ある牧師は、福音書を「2人称、あるいは1人称で読む」ことを勧めています。
福音書を2人称で読むとは、「イエス様、あなたはこう言われましたね。 あなたはこうなさいましたね」と、呼びかけながら読んでいくのです。
例えば、今朝の箇所で言えば、「イエス様、あなたは、オリーブ山に行かれました。そして、朝早く再び神殿の境内には入られました。すると、民衆が皆、あなたのもとに集まって来ました。そこであなたは、座って教え始められました。」
この様に、あたかも自分が主イエスと共にいて、主イエスの語られる言葉を実際に聴き、主イエスのなされる業を、実際に見ているかのように読んでいくのです。
また、1人称で読むとは、主イエスを「私」に置き換えて読んでいくのです。
例えば今朝の箇所で言えば、「私は、オリーブ山に行った。そして朝早く、神殿の境内に入った。すると民衆が私の所にやって来たので、私は座って彼らを教えた。」
少し畏れ多い気がしますが、この様に読んでいくのです。
すると主イエスが、どのようなお気持ちで御言葉を語られ、また御業をなされたのかが、実感として迫ってきます。
皆さん、今朝は、この御言葉の場面を、それぞれの心の中に想い描き、あたかもその場面に、主イエスと共にいるような思いで、御言葉を味わっていきたいと思います。
先ず時間です。この出来事は、仮庵の祭りの最終日か、その直後のことだとされています。
仮庵の祭りは秋の祭りですから、季節は秋です。 そして時間は朝、それも早朝です。
場所は、エルサレム神殿の境内です。 そこで主イエスは、民衆を教えておられました。
この時、主イエスは、座って話されていた、と書かれています。 
ですからきっと石段か何か、ちょっと高い所に腰掛けられて、人々に話されていたのでしょう。
爽やかな秋の日の早朝、エルサレム神殿の境内での聖なる空間。
そこで主イエスの説教を、静かに聞いている人たちがいる。
きっとそこには、聖霊の爽やかな風がそよぎ、恵みと平安が、その場を覆い包んでいたことでしょう。
ところがその静寂を破って、律法学者とファリサイ派の人たちが、無遠慮に、そして騒々しく割り込んできました。
静かな聖なる空間は一瞬にして崩され、喧騒と敵意に満ちた場所となってしまいました。
律法学者とファリサイ派の人たちは、姦淫の現場で捕えた女性を連れて来て、民衆の真中に立たせました。
そして彼らは、主イエスに、荒々しく問いただします。
「こういう女は、石で打ち殺せと、モーセは律法の中で、命じています。
ところで、あなたは、どうお考えになりますか。」
姦淫は、十戒の中の七番目の戒めとして、厳しく禁じられています。
結婚は、神様が定めた聖なる秩序である。 だから人は、この秩序を壊してはならない、という戒めです。
そして、これを破った場合には、石打による死刑、と定められていました。
ところで、ここで不思議に思うのは、姦淫の相手の男性のことです。
現行犯であるなら、男性も一緒に捕えられた筈です。
ところが、どういう訳か、連れてこられたのは、男性より立場の弱い女性だけでした。
しかし、律法学者やファリサイ派の人たちにとっては、そんな事はどうでも良かったのです。
彼らの目的は、主イエスに、律法の正しい解釈を尋ねて裁きを仰ぐ、という事ではありませんでした。
そうではなくて、主イエスを陥れて、告発するためだったのです。
女性は、そのための罠として、使われたに過ぎなかったのです。
これは実に卑劣な、しかし巧妙に仕組まれた、陰謀でした。
なぜなら、もし主イエスが、「石打の刑にせよ」と言えば、今まで主イエスが説いてきた、愛と赦しの教えに矛盾します。
民衆は、主イエスに失望し、主イエスから離れていくでしょう。
また、もし、「この女を赦しなさい」と言えば、主イエスが律法違反を指示したとして、訴えることが出来ます。 どちらの答えでも、主イエスを、失脚させることが出来る。
彼らは、主イエスを、完璧な袋小路に追い詰めた、と確信しました。
これで、あの目障りなイエスを、失脚させることが出来る。
彼らは、そうほくそえみ、勝ち誇ったように、主イエスに返答を迫りました。
「さあ、どうされますか? どうなんですか? 答えてください」。
ところが、主イエスは、ここで、不思議な行動を取られます。
「かがみ込み、指で地面に、何かを書き始められた」のです。
主イエスは、それまでは座って、民衆に語っておられました。
それがこの時、何故か一旦立ち上がって、そして次にかがみ込んで、地面に何かを書き始められたのです。
主イエスの、この不思議な行動が、何を意味するのかは、はっきりとは分かりません。
一つ考えられることは、この女性に対する、主イエスの温かい思い遣りです。
姦淫の現場で捕らえられた、この女性に対して、人々は、刺すような冷たい視線を、容赦なく浴びせかけていました。
それは、軽蔑と、好奇心と、更には、この女性に対して下される裁きへの期待が入り混じった、残酷な視線でした。
しかし、地面にかがみ込むという、主イエスの意外な行動によって、人々の視線は、恐怖と恥ずかしさで、震えているこの女性から、主イエスの方へと向けられました。
主イエスは、彼女の恥と恐怖を、代わってその背中に負われたのです。
しかし、後でお話しさせて頂きますが、この時、主イエスが引き受けられたのは、恥や恐怖心以上のものだったのです。
そのことを、心に留めながら、先に進みましょう。
主イエスが、何かを書かれたということは、聖書ではここにしか出てきません。
主イエスは、この時、一体何を書かれていたのでしょうか。
大変、興味深い問いですが、誰もその答えを持っていません。
この主イエスの予想外の行動に、問い詰めていた人たちは当惑しました。
彼らの予想では、追い詰められた主イエスは、オロオロしながら、どちらかの答えをする筈でした。
そして、その答えがどちらであっても、彼らは、主イエスを陥れることが出来る筈でした。
しかし、主イエスは、無言のまま、地面に何かを書いておられました。
彼らは当惑し、一瞬ひるみましたが、尚もしつこく回答を迫っていきました。 
「さぁ、どうなんですか。あなたは、どうせよと言われるのですか。どうか答えて下さい。」
やがて主イエスは、立ち上がって、口を開かれました。
ここで、主イエスが語られた、三つのお言葉に、注目していただきたいと思います。
聖書の中で、主イエスが直接話法で語られる時、そのお言葉はキーワードである場合が多いからです。
先ず主イエスは、「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」、と言われました。
確かに、この女のしたことは悪い。彼女には罪がある。
だから律法によって裁かれるなら、それは正しいことである。
しかし、あなた方はどうなのですか?罪があるのは、彼女だけなのですか?
この主イエスのお言葉は、偽善と悪意に満ちた、彼らの心を、鋭く刺し通しました。
この主イエスの一言によって、状況は一変しました。
今まで、「さぁ、どうなんですか」、と回答を迫っていた人たちが、逆に問い詰められる事になったのです。
主イエスを、裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に、置かれる事になったのです。
「自分には全く罪がないと言える人が、最初に石を投げなさい」。
この主イエスのお言葉を聞いて、そこにいた人たちは、それぞれ自分の歩んできた人生を、振り返ったことでしょう。
そして、自分は罪を犯したことが全くないと、自信を持って言うことなどとても出来ない。
そういう思いに、導かれていったと思います。
ただ、もし、このことを言われた方が、主イエスでなかったなら、或いは石を投げた者が、いたかも知れません。 
もし自分と同じように罪深い者がそう言ったならば、心に責めを感じなかったかもしれません。
そして、もし一人が投げれば、後はもう堰を切ったように、全員が競って、石を投げることになったと思います。 しかし今、彼らは、主イエスの前に、立っているのです。
みだらな思いをもって女を見る者は、すでに姦淫の罪を犯しているのだ、と言われた、そのお方の前に、立っているのです。
全き聖なるお方の前に、立っているのです。全き義なるお方の前に、立っているのです。
このお方の前に立った時、人はその汚れを、否応無しに意識させられます。
光の少ない所では、汚れは見えません。
しかし、明るい光の中では、普段は見えない汚れも、くっきりと浮かび上がります。
そのように、主イエスの前では、人は、自分の罪に気付かされてしまうのです。
そして、自分は全く罪を犯したことが無い、などとは言えなくなります。
主イエスは、ただ一言、言われると、また身をかがめて、地面に何かを書き続けられました。
重苦しい沈黙が訪れます。何とも言えない、気まずい緊張感と、聖なる畏れが漂い出します。
投げつけようとして、握っていた石が、指の間から、ポトリ、ポトリと、ずり落ちていく音が、聞こえ出しました。
やがて、いたたまれなくなったかのように、年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行きました。 そして遂に、そこには、主イエスと女性だけが残りました。
聖なる静寂の後に、主イエスは身を起こして、女性に言われました。第二のお言葉です。
「婦人よ。あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 
彼女は答えます。「主よ、だれも」。 「誰もいません。主よ、あなただけです」。
主イエスのお言葉、「あなたを罪に定める者はいなかったのか」に注目したいと思います。
ここで主イエスは、全ての人は罪の中にある。だから人は誰も、他人を罪に定めることができない。
また、誰も、他人の罪を裁くこともできないのだ、と言われているのです。
と言うことは、同時に、だから、誰も罪を赦すことも出来ない、と言われているのです。
この女性は、石打の刑から、免れました。まさに九死に一生を得た、と安堵したことでしょう。
しかし彼女にとって、この時点は、未だ物語の最後、ハッピーエンドではありませんでした。
皆は去っていきましたが、ただ一人、主イエスが残っておられます。
その主イエスが、人は誰も、他人を罪に定めることは出来ない、と言ってくださった。
この言葉によって、彼女は命を救われました。
しかし同時に主イエスは、人は誰も他人の罪を赦すことも出来ない、と言われているのです。
これは、「だから、あなたの罪は、まだ残っていますよ」という、まことに厳格なお言葉なのです。
目に見える石は、もはや飛んでこないかもしれません。
しかし、赦す者がいないのであれば、彼女にまことの救いはないのです。罪は、ずっと、残ったままなのです。
そして、その時、彼女はハッと気づくのです。
このイエスというお方は、他人を罪に定めることも出来るし、また他人を赦す事も出来る、ただ一人のお方なのだ。
自分が、本当に恐れなくてはならないお方は、自分を死刑にしようとしていた、律法学者やファリサイ派の人たちではなくて、このお方なのだ。
自分は今、そのお方の前に立っている。まことに恐れなくてはならない、唯一のお方の前に立っている。
大勢の群集は、自分に何も出来ずに去っていった。
しかし、このお方は、私を罪に定めることも、私を赦すこともお出来になる、唯一のお方なのだ。
彼女は、そのことを知ったのです。
彼女は、固唾を呑む思いで、主イエスの、次のお言葉を待ちました。
主イエスが優しく、静かに、しかし力強く、第三のお言葉を語られます。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」
「私も、あなたを罪に定めない」。
主イエスが、このお言葉を語られる時、それは、「私はあなたを赦す」、という意味を含んでいます。
この第三のお言葉によって、この女性は初めて救いに入れられました。
主イエスは、彼女の罪を赦す、と言われました。
でも皆さん、主イエスは、どういう仕方で、罪を赦す、と言われたのでしょうか。
罪を、見て見ぬ振りをする、ということなのでしょうか?
或いは「まあ、今回は見逃してやるよ」と言って、罪を不問に付す、ということによってでしょうか?
そうではありません。
それは、ご自身が、十字架で身代わりになって、罰を受けるという仕方で、彼女の罪を赦す、と言われたのです。
主イエスはここで、本来、赦されることのない、姦淫の女性を赦すと言われました。 
この時、主イエスは、既に、十字架での痛みを、味わっておられたのです。
十字架の苦しみを、既に引き受けられていたのです。
主イエスの十字架は、主イエスの地上のご生涯の最後に、一回だけ起こった出来事です。
でも、その十字架を引き受けられるという決意は、主イエスの全生涯を通して、常にその背後に、存在し続けたのです。
皆さん、主イエスの十字架によって、赦されるとは、私たちの罪が、どこかにフッと、消え去ってしまう、ということではありません。
そうではなくて、主イエスが、罪を代わって、負ってくださるのです。
主イエスが、痛みを引き受けて下さるのです。
皆さん、これが、これこそが、私たちに与えられている救いなのです。
私たちは、そのことを、忘れてはならないと思います。
さて、主イエスは、姦淫の女性を赦すと言われた後に、「行きなさい」と言われました。
しかし、皆さん、ちょっと考えてみて下さい。
主イエスは、この女性に、一体どこに行けと、言われているのでしょうか。
姦淫の大罪を犯して、捕えられた女です。そんな彼女に、一体何処へ行けと、言われるのでしょうか。
もし、この女性が結婚していたとしても、夫の元に帰ることなど、とても出来ないでしょう。
家族も、大罪を犯した彼女を、快く迎えてくれることはないでしょう。
社会からも、つまはじきにされてしまうでしょう。
彼女の行くところなど、何処にもないように思われます。
それでも、主イエスは、「行きなさい」と言われます。一体、どこへ行けばよいのでしょうか? 
ここで主イエスは、彼女が行くべき、具体的な場所を、示しておられるのではありません。
主イエスは、ここで、「私の愛のうちを行きなさい」、と言われているのです。
「どこにも行くところがない」、「誰にも受け入れてもらえない」。
あなたが、そのような絶望と孤独の中にいる時も、私はあなたと共にいる。
誰からも愛されていない、と思うような時にも、私はあなたを愛している。
そのために私は、十字架で肉を裂き、血を流したのだ、と主は言っておられるのです。
なんという、慰めに満ちたお言葉でしょうか。
教会は、この姦淫の女性のように、本来は死刑にされる所を、主イエスの十字架によって赦され、救われた者たちの群れです。それ以外の群れではありません。
私たちも人生の旅路の途上で、どこにもいく所がないと思うような、困難に会うことがあります。
そのような時は、主イエスの、豊かな愛の中に、逃げ込みましょう。
主イエスの、慈しみの御懐の中に、飛び込ませていただきましょう。
主イエスは、いつでも、どこでも、私たちを、しっかりと受け止め、抱き締めてくださいます。
しかし、この主イエスの愛には、一つの切なる願いが、込められています。
それは、主イエスの最後のお言葉、「これからはもう罪を犯してはならない」、という願いです。
この姦淫の女性は、絶体絶命の危機の中から救われました。
最も惨めな、どん底の状態で、主イエスと出会いました。
そして、こんなに罪深い自分をも、命懸けで愛してくださる、主イエスの愛を知りました。
彼女の心は、この主イエスの愛によって、完全に打ち砕かれました。
今、彼女の心は、主イエスの愛と赦しの恵みに、満たされています。
こんな自分にも注がれている、主の愛の大きさに圧倒され、この主の愛に、どのようにして応えていくか。
そのことを、ひたすらに求めていく者とされたのです。
いえ、もはや、この女性には、この生き方しか残されていません。
この生き方しか考えられません。主イエスの愛にすがるほかに、生きる術を持っていないのです。
その彼女に、主イエスは言われました。
「行きなさい、わたしの愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。
いや、私の愛の内に、留まっているならば、もう罪を犯そうとは、しない筈だ。」
今朝、私たちは、この御言葉を、主イエスが私たち一人一人に語られた御言葉として、聴いていきたいと思います。 
そして、新しく与えられたこの年も、主イエスの愛の中を、喜びと感謝を持って、共に歩んで行きたいと思います。
主イエスは今日も言われています。「行きなさい。私の愛のうちを」。