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柏牧師:過去の礼拝説教

「目に見えるものによらず」

2023年09月03日 聖書:コリントの信徒への手紙二 5:1~10

皆さんは、星野富弘さんという方を、ご存知だと思います。
星野さんは、中学校の体育の教師をしていた時、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷して、首から下が全く動かなくなってしまいました。
星野さんは絶望のどん底に突き落とされました。
しかしその絶望の只中で、彼は主イエスに出会い、新しく生きる勇気を与えられました。
そして、口に筆をくわえて、心温まる詩や美しい絵を書き始めました。
その中に、このような詩があります。
『何を探しているのか / 何を求めているのか / 結局 変わらないものとの 出会いではないのか。』
私たちが探し求めているもの。それは、変わらないものとの出会いなのではないだろうか。
私たちが、本当に見たいと思っているもの。それは、何があっても変らないものではないだろうか。星野さんはそう言っています。
確かに、何があっても決して変らないものが、もし見つかったなら。
そして、その上に、自分の人生を築くことができたなら、私たちは、安心して生きることができると思います。
でも、そういうものを、一体どこで、どうやって、見つけることができるのでしょうか。
この地上にあるものの中に、そのような変わらないものを、見つけることは不可能です。
この地上のものは、どんなものでも変っていきます。
自然は悠久である、と言われますが、その自然も、長い年月の間に、変わっていきます。
人間社会の常識や、道徳や、価値観。そういうものも、時代とともに変わっていきます。
この地上にあるものは、どれ程確かだと思っていても、いつかは変わっていきます。
もし、この世の中に、何があっても変らないという、確かさを見出すことができるなら、私たちは、わざわざ教会に足を運ぶことはありません。
毎週、教会に来る必要はありません。
でも私たちは、この世の中には、何があっても変らないものを、見出すことはできないことを知っています。
何があっても決して変らない。そのような確かさは、この世の中にはありません。
ですから、もし、そういうものがあるとすれば、それは、この世の外にしか、見出すことができません。
この世界をお造りになった方の中にしか、見出すことができないのです。
ヘブライ人への手紙13章8節は、こう言っています。
『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。』
御言葉は、イエス・キリストは、永遠に変わることのないお方だ、と言っています。
このお方の中にこそ、永遠に変わることのないものを、見出すことができる、と言っているのです。
では、永遠に変わることのないイエス・キリストとは、どのようなお方なのでしょうか。
皆さん、イエス・キリストというお方は、私たちのことを、心にかけてくださるお方です。
私たちのような者に、慈しみの眼差しを、向けてくださるお方なのです。
「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、と言ってくださっているお方なのです。
私たちは、自分がどうして生まれて来たのかも分かりませんし、自分がどうして今、生きているのかも分かりません。
自分が死んだらどうなるかも分かりません。分らないことだらけです。
ですから、何の確信も持てずに生きています。
そういう分からないことだらけで、確信を持てずに生きている私たちに向かって、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。この約束は、決して変わらない。だから、私のものとして生きなさい」、と語りかけてくださるお方がいらっしゃるのです。
私たちは、そのお方に捕らえられ、そのお方のものとされた時に、初めて、確信をもって生きることができます。
主の愛に捕らえられて、主のものとして生きる。
それが、昨日も、今日も、永遠に変わることのないイエス・キリストの御心なのです。
ですから、今朝の御言葉の6節は、「私たちはいつも心強い」、と言っているのです。
この「心強い」という言葉は、「確信を持っている」、という意味の言葉です。
「安心している」、と訳している聖書もあります。
私たちは、いつも、どんな時も、確信を持っている。安心している、というのです。
永遠に変わることのない、イエス・キリストに愛され、捕らえられているからです。
このコリントの信徒への手紙を書いたのは、使徒パウロです。
パウロの生涯を振り返ってみますと、それは、決して安心できるような生涯ではありませんでした。
様々な苦難の中を、何度も命の危険に晒されながら、福音を宣べ伝えていったのです。
でも、パウロは、「私は安心している」、と言っています。しかも、「いつも」です。
時々安心しているのではありません。
どんなに厳しい状況にあっても、どんなに苦しい目に遭っても、自分はいつも安心している、と言っているのです。確信に満ちているのです。
どうしてパウロは、そんな確信に、生きることができたのでしょうか。
それは、永遠に変わらない、主イエスの愛を知っていたからです。その愛の上に、しっかりと立っていたからです。
「安心していきなさい」。この言葉は、主イエスご自身も、度々語られました。
マタイ、マルコ、ルカの福音書のいずれにも、12年間も長血を患った婦人が、藁にも縋る思いで、主イエスの衣の裾に触れた出来事が記されています。
この婦人が、主イエスの衣の裾に、そっと触れた時、その病は癒されました。
主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。」
「安心していきなさい」。これは、永遠に変わらない、私の愛の内を行きなさい、ということです。
それが、まことの平安に生きる道なのだ、と言われたのです。
その同じ言葉を、パウロも聞いたのです。だから、安心していられたのです。
いえ、パウロだけではありません。私たちもまた、この主イエスのお言葉を聞き、この主イエスのお言葉に励まされて、安心して歩むことができるのです。
6節で、パウロは更にこう言っています。「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」
「体を住みかとしている」というのは、この地上にあって、体を持って生きている、ということです。
言い換えれば、地上の体を故郷として、生きているということです。
でも、フィリピの信徒への手紙で、パウロが語っているように、本来、私たちの本国は、天にあります。
ですから本当は、天におられる主イエスの許で、主イエスと共にいることが、故郷にいるということなのです。
この地上においては、体を「仮の故郷」として、生きているのです。
ですから、私たちは、本来の故郷である天から離れて、この地上を旅しているようなものなのです。
私たちは、主イエスの許から離れて、この地上を旅している旅人なのです。
いずれ、この地上の旅を終えて、本国である天に帰る旅人なのです。
1節から5節では、この地上を旅する私たちの体のことを、幕屋に譬えています。
地上を旅する、私たちのこの体は、遊牧民の幕屋、テントのようなものだ、というのです。
テントはもろくて、弱いものです。破れてしまうこともあれば、嵐で吹き飛ばされてしまうこともあります。 
私たちの体も、そのようにもろくて、弱いものです。
でも、本来の故郷である天には、テントではなくて、しっかりとした建物が、神様によって備えられている、というのです。
神様は、私たちのために、しっかりとした建物を、備えてくださっているのです。
しかも、それは、永遠の住みかである、というのです。
「永遠の住みか」とは、永遠の命を宿す住みか、ということです。
私たちは、永遠の命を宿す住みかを、もう既に持っているというのです。神様が、それを備えてくださっているのです。
永遠の命を宿す住みか、と言っていますけれど、皆さん、永遠の命とは、何でしょうか。
教会では、よく永遠の命という言葉を聞きますが、私たちはそれをどのように理解しているでしょうか。
永遠の命とは、不老不死の命、という意味ではありません。私たちが、永遠に生き続けるということではありません。
永遠の命とは、永遠なる神様と、どんな時も共に生きる、ということなのです。
永遠なる神様と、いつも一緒に生きる。 
生きている今も、そして死んだ後も、神様とのしっかりとした結びつきに生きる。
そのことは変わらない。どんな時も、今も、そして死の先までも、しっかりと神様と結びついている。
神様が、「もうあなたは私のものだ。私はどんなことがあっても、決してあなたを見捨てない」、と言ってくださり、私たちが、「主よ、どこまでも、あなたに従います」、と応えていく。
その時、私たちは、永遠の命に生かされているのです。
以前、ある方から、「永遠の命って何ですか。分かり易く一言で説明してください」、と尋ねられたことがありました。
その時、「永遠の命とは、どんな時も、神様と結びついて、一緒に生きていくことです。 
ですから、それは『絶望しない人生』、と言い換えても良いと思います」、と答えました。
果たして納得して頂けるか、内心不安でしたが、その方は、「分かりました。ありがとうございました」、と言って帰って行かれました。
永遠の命とは、死んだ後のことではなくて、今、この地上において、与えられる希望です。
永遠の命とは、死後のことではなく、この世における現実なのです。
私たちは、この地上の体を、脱ぎ捨てた後に、永遠の命を頂くのではなくて、この地上の体の上に、永遠の命の希望を、重ね着するようにまとうのです。
その時に、死ぬ筈のものが、命に飲み込まれてしまう。
それが、私たちの救いなのです。
5節でパウロは、その救いの約束の保証として、聖霊が与えられている、と言っています。
本来なら、消え去ってしまうような私たちが、永遠の命の希望に生かされている。
その恵みの約束の保証として、聖霊が与えられている、というのです。
聖霊は、この神様の約束が確かであることを、私たちに信じさせてくださるのです。
ここにある「保証」という言葉の、元々の意味は、「手付金」です。
手付金とは、買い取る約束の証として支払うものです。
手付金が支払われたら、必ず買い取られます。
そのように、神様は、私たちを、必ず買い取ってくださいます。
必ず、私たちに、永遠の命の希望を与えて下さいます。必ずその約束を果たしてくださいます。
私たちは、その約束の手付金としての聖霊を、もう既に頂いているのです。
この恵みは、私たちの目を、見えるものから、見えないものに、向けさせてくれます。
この世の見えるものによって、生きるのではなくて、見えないものによって、生きる生き方へと、導いてくれます。
見えないものによって生きる、と言いますが、見えないのですから、信じるしかありません。
ですから、見えないものによって生きるとは、信仰によって生きる、ということです。
それは、具体的には、御言葉に従って生きる、ということです。
御言葉に従って生きる。それが、天の故郷を離れて、この体を住みかとして、地上を生きている者の生き方です。
私たちは、見えるものによらないで、信仰によって生きています。
御言葉によって生きています。それが、故郷を離れて生きている、私たちの生き方です。
そして、私たちが、この世の見えるものではなくて、目には見えない主イエスの御姿を仰ぎ見て生きる時、私たちは変えられます。
主イエスが、この私のために、十字架にかかってくださり、今も生きて、私のために、執り成しをしてくださっている。
その御姿を、信仰の目によって見る時、私たちは変えられます。
主イエスと出会い、その御姿を仰ぎ見るということは、それ程の力を持っているのです。
紀元三世紀に教会を指導した、テルトゥリアーヌスという、偉大な神学者がいます。
彼は、ローマにおいて、有名な法律家として活躍していました。
ところが、ある日、ローマの円形競技場で、クリスチャンたちが、火あぶりにされたり、十字架にかけられたり、猛獣の餌食にされたりして、殉教していくのを目撃しました。
テルトゥリアーヌスは、その光景に激しい衝撃を受け、強く心を打たれました。
無名の男女や奴隷たちが、どうして、あのように、死を克服することができるのか。
何が彼らを、このような崇高な死へと、導いているのか。彼は深く考えました。
そして遂に彼は、回心に導かれ、クリスチャンとなりました。彼はこう言っています。
「この驚くべき殉教の姿を目撃した者は誰でも、ある不安に襲われる。彼らは、故郷の家に帰るように、死を受け入れていった。一体、何が彼らに、このような確信を与えたのか。それを、詮索せずにはおられなくなる。そして、その真理を発見すると、直ぐに、自らもこれに従うのである。」
テルトゥリアーヌスが見たのは、この世の見えるものではなく、天の故郷におられる、主イエスの御姿を仰ぎ見て、永遠の命の希望に生きていた人たちの姿です。
冒頭の星野富弘さんの詩にあった、決して変わらないものに出会い、その上に自分の人生を築いていた人たちです。
私たちも、見えるものではなくて、目には見えなくとも、決して変わらないもの。
天の故郷におられる主イエスを見上げ、主イエスが備えてくださっている、永遠の命の希望に、生かされて歩んで行きたいと思います。
主イエスの御姿を、信仰の目によって、見させて頂いたなら、私たちは必ず変えられます。
御言葉を通して、主イエスと出会ったなら、私たちは造り変えられます。
私たちは、この希望の内を、歩んで行くことができるのです。
10節でパウロは、私たちは皆、キリストによって裁かれる、と言っています。
裁かれる、という言葉は、恐ろしい響きを与えます。
でも、皆さん、私たちは、十字架の恵みによって、既に救われた者です。罪あるままに、罪なき者とされた者です。
ですから、この裁きは、救われるか、滅びるか、の裁きではありません。
ここで言う「裁かれる」というのは、断罪する、ということではないのです。
そうではなくて、私たちの行ってきたことが、どういうものであったのかを、明らかにしてくださる、ということなのです。
善いものは善いとされ、間違ったものは間違ったものとされるのです。
主イエスは、「これは善かったね。でも、これは間違ったね」、ときちんと言ってくださる。そういう意味での裁きなのです。
主イエスは、私たちの地上の歩みが、どうでもよいものだとは、決して思っておられません。
主イエスは、私たちが、この地上を、どのように生きたかを、問題にされるのです。
ですから、パウロは、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」、と言っています。
こんな罪深い私が、一方的なキリストの愛によって赦され、救われた。
そうであれば、その愛に精一杯応えて、キリストに喜んで頂けるような生き方がしたい、と言っているのです。
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督は、プロ野球選手として現役の頃、メニエール病に罹り、再起不能とまで言われました。
しかし、そこから、奇蹟のカムバックを果たしました。
その奇蹟を生んだ力は何であったかと言いますと、寝ている栗山選手の枕辺で、お母さんが、「自分が代わってあげたい」と、涙を流してくれたからである、というのです。
自分に代わって、難病を引き受けてあげたいと泣く母親の姿を見て、何が何でも復帰して、このお母さんを喜ばせようと、心に誓ったそうです。
栗山監督のお母さんは、代わってあげたい、と涙を流しましたが、実際に、代わって病を引き受けた訳ではありません。
でも私たちの救い主イエス様は、実際に私たちに代わって、十字架について死んでくださったのです。
なぜ、そんなことをされたのでしょうか。背き続ける私たちを、赦すためです。
主イエスに敵対し、主の教会を迫害していたパウロは、この主イエスに出会ったのです。
ですから、この方を喜ばすことに、すべてを賭けようという思いに、導かれたのです。
それは、パウロだけでなく、キリスト者すべてに言えることではないでしょうか。
私たちキリスト者の最大の願いは、主イエスに喜んで頂くことではないでしょうか。
この私を見て、主イエスが喜んでくださるなら、こんなに嬉しいことはありません。
でも、皆さん、私たちのなすことは、まことに拙いのです。
主を喜ばせたいと願っても、却って、主を悲しませてしまうようなことばかり、してしまいます。
でも主は、そのような私たちの拙い行いをも、喜んでくださいます。
幼い女の子が、母親を喜ばせたい一心で、母親が大事に育てている花壇から、花を抜き取って、「大好きなお母さんに」と言って、差し出しました。
泥が付いたままの、その花を、お母さんは、怒って投げ捨てるでしょうか。
「大事にしている花壇の花を、勝手に抜き取るなんて、なんて悪い子なの」、と叱りつけるでしょうか。そんなことはしないと思います。
お母さんは、「まあ、ありがとう」と優しく言って、その花をすてきな花瓶に活けて、誇らしげに飾ると思います。
主イエスもそうなのです。主イエスは、私たちの拙い業を、喜んでくださいます。
主イエスは、愛をもって、私たちの拙い思いと行いを、受け入れてくださり、喜んでくださいます。
私たちの救い主イエス様とは、そういうお方なのです。
目には見えませんけれども、本当に確かなものとは、この様に私たちを受け入れてくださる、主イエスの愛です。
星野富弘さんが、探し求めていた、決して変わらないものとは、この主イエスの愛です。
この愛に支えられて、この愛に動かされて、私たちは生きていきたいと願います。
そこに本当の心強さが生まれます。そこに本当の安心が生まれます。
それが、この地上を歩む、私たちの歩みです。
目に見えるものによらず、信仰によって歩む歩みです。