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過去の礼拝説教

「納めるべきものとは」

2021年10月03日 聖書:マタイによる福音書 17:22~27

ハワイ諸島にモロカイ島という島があります。この島には、かつてハンセン病のコロニーがありました。
そこではハンセン病患者が隔離され、満足な医療も受けられずに、ただ見捨てられていました。
そのコロニーの病人たちから、是非宣教師を送って欲しい、という要請が来ました。
しかし、誰一人行こうとする者はいませんでした。
ところが、ダミアンという若い神父が手を挙げて、自分が行くと言ったのです。
ダミアン神父は、将来を期待されていた若手のホープでした。
ですから、多くの人が引き止めました。でも彼は、それを振り切って、モロカイ島に渡り、熱心に伝道しました。
しかし、いくら熱心に伝道しても、島の人たちの心を掴むことができませんでした。
それは、島の中でダミアン神父だけが、ハンセン病患者ではなかったからです。
そのことに気が付いたダミアン神父は、「神様、どうか私を、あの人たちと同じハンセン病患者にしてください」、と祈ったのです。
「どうか、ハンセン病から癒して下さい」、と祈った人は何万といたと思いますが、「どうかハンセン病患者にしてください」と祈った人は、ダミアン神父だけではないでしょうか。
そして遂に、彼もハンセン病に罹りました。ダミアン神父は、島の人たちに言いました。
「今までは、あなた方ハンセン病患者は、と言っていましたが、今日からは、私たちハンセン病患者は、ということが出来ます。
もう、私たちは同じ仲間です。神様に感謝します。」
ダミアン神父は、モロカイ島の人々の心を得るために、島の人々と同じようになったのです。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の9章19節で、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」、と言っています。
そして、それは、「できるだけ多くの人を得るため」です、と言っています。
パウロと同じように、ダミアン神父も自由な人でした。
それなのに、自ら進んでハンセン病患者になり、島の人たちと同じように、隔離され、島に閉じ込められて、自由を奪われた生活を送りました。
愛の故に自由を放棄したのです。自由を放棄することさえできる、眞の自由に生きたのです。
なぜダミアン神父には、そのような生き方ができたのでしょうか。
それは、素晴らしいお手本があったからです。言うまでもなく、それは主イエスです。
神として、全能の御力をお持ちのお方。
完全な自由の中におられたお方が、この世に来て下さり、私たちと同じように、人間としての様々な制約を負ってくださった。
全き自由をお持ちのお方が、私たちを罪から解放し、ご自身のものとするために、十字架についてくださり、手足を釘づけにされるという、究極の不自由を選び取って下さった。
この大きな愛に迫られた時、ダミアン神父は、モロカイ島に渡ることができたのです。
今朝の説教のテーマは「自由」です。しかし、私たちが一般に考える自由ではありません。
ダミアン神父のように、主イエスの十字架と復活の恵みに、押し出されることによって、自分を捨てられる自由です。
ですから、今朝は先ず、主イエスの十字架と復活について、考えてみたいと思います。
今朝の御言葉の冒頭には、主イエスによる、二回目の受難予告が記されています。
マタイによる福音書には、主イエスご自身による、受難予告が三回書かれています。
一回目は、ペトロが主イエスに向かって、「あなたこそ生ける神の子です」、と信仰告白をした時です。
三回目は、十字架にかかられるために、いよいよエルサレムに入城される、その最後の歩みに入られた時です。
それでは、この二回目の受難予告は、どのような時であったのでしょうか。
それは、主イエスのガリラヤ伝道が、いよいよこれで終わるという時です。
主イエスは、十字架への旅路の、大切な節目、節目に受難予告をされておられるのです。
22節で主イエスは言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」
ここに三つの動詞がでてきます。「引き渡され」、「殺され」、「復活する」。
主イエスのご受難とご復活のすべてが、この三つの動詞に集約されています。
そして、これらの動詞は、すべて受け身、受動態です。
「復活する」という言葉も、直訳すると「復活させられる」という言葉なのです。
すべて受け身ですから、誰によってか、が問題となります。
「人々の手に」とありますが、一体誰が人々の手に、主イエスを渡されるのでしょうか。
それは、父なる神様です。ここでは、父なる神様が、隠された主語になっています。
主イエスのご受難とご復活。この出来事は、初めから終わりまで、神様が主導権を取って行われたことなのです。
父なる神様の御心に従って、これから、主イエスは、エルサレムでの十字架を目指して、歩みを進めようとしておられるのです。
主イエスは言われています。私が引き渡され、殺されるのは、父なる神様の御心なのだ。
そのことを、しっかりと掴み取って欲しい。
主イエスは、これから起こる事に対して、弟子たちに準備をさせようとしておられるのです。
しかしこの主イエスの重大な予告を聞いて、弟子たちは、ただただ悲しみました。
ここでは、復活の勝利が予告されているのです。すべては、父なる神の御心であるのです。
それなのに、弟子たちは、主イエスが殺される、ということしか聞けませんでした。
どうしてでしょうか。どうして弟子たちは、復活の予告を、喜びをもって、聞き取ることができなかったのでしょうか。
復活という、私たちの想像を遥かに超える出来事は、いくら事前に語られ、説明されても、実際に起こるまでは、理解することは到底不可能なのではないでしょうか。
復活すると言われても、それがどういうことなのか、まったく分からなかったのです。
ですから主イエスが、ご自身の復活について語られても、弟子たちは、それを心に留めることができずに、聞き流してしまったのです。
でも、もし私たちが、その場にいても、恐らく同じような反応を示したと思います。それほど復活という事は、偉大な出来事なのです。
さて、24節からの箇所には、主イエスの十字架と復活の恵みによって、私たちが神の子とせられ、眞の自由に生きることができる、ということが語られています。
場面はガリラヤのカファルナウムに移ります。カファルナウムには、ペトロの家があります。
恐らく、この時も、主イエスは、ペトロの家に来ておられたのだと思われます。
そこに、神殿税を集める人たちがやって来ました。
神殿税というのは、エルサレムの神殿を維持するために、20歳以上のユダヤ人男子が、一律に半シェケルを毎年納めるものです。
半シェケルは、2デナリオンです。これは、労働者の二日分の給与に相当します。
納入の時期が来ると、町の世話役たちが、家々を回って取り立てていたようです。
そういう人たちが、ペトロの家にもやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」、と尋ねました。
この質問は、主イエスが、これまでにも安息日の規定や、食前に手を洗うという清めの儀式に従わなかったので、今度も従わないのではないか、という疑いの気持ちを表しています。
ペトロは、その答えを主イエスに聞くこともせずに、自分の判断で、「納めます」と言って、その場を取り繕うとしました。
ところが、ペトロと集金人とのやり取りを聞いておられた主イエスが、後で質問されました。
「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
ペトロは、「他の人々からです」と答えました。王の子が、王に税金を払うのはおかしいからです。ですから、税を払うのは他の人たちです、と答えたのです。
主イエスは、そこで、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われました。
これは、一体どういうことを、言おうとされたのでしょうか。
16章で、ペトロは主イエスに「あなたはメシア。生ける神の子です」と、既に告白しています。
「ペトロよ、あなたはわたしを神の子だと言ったね。その通り、私は神の子だ。
そして、神殿で礼拝されるのは、私の父なる神なのだ。あなたはそのことを、良く知っている。
それなら、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」、と人から問われたとき、「納めます」、などと答えるべきでは、なかったのではないだろうか。
むしろ、「私の先生は別です。私の先生は神の子ですから」と、なぜ言わなかったのか。
あなたは、私に対しては、「あなたは神の子です」と言えるけれども、人々に対しては、「あの方は神の子です」と言う勇気を持っていないのか」。
これは、私たちにも、耳の痛い話です。私たちも、教会の中では、「主イエスは神の子、私の救い主です」、と告白します。
でも教会の外の人には、そのことをはっきりと言い表すことができない、ということはないでしょうか。
主イエスから、あなたには勇気がない、と言われないようにしたいと思います。
ここで、主イエスが言われた、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」という言葉。
この言葉は、もう少し深い意味を持っています。
「子供たちは納めなくてよい」、この言葉は直訳しますと、「それなら、子どもたちは自由である」という意味になります。
「子どもたちは自由である」。この「自由」を、税金を納める義務からの自由と解釈して、「納めなくて良い訳だ」と訳しているのです。
では、納めなくて良い自由を持つ人とは誰でしょうか。主イエスお一人でしょうか。
主イエスは「子供たちは」、と複数形で言われました。
「子供たち」という言葉には、私たちも含まれているのです。主イエスだけではなく、私たちのことでもあるのです。
主イエスはペトロに言われました。
「あなたは、私の救いによって、神の子としての身分を、既に与えられている。
だから、本来は、神殿税を納めないで済む自由を持っている。
しかし、今は、納めよう。彼らを躓かせないために」。
主イエスは、そう言われて、ペトロに、湖に行って魚を釣るように命じられました。
ペトロは漁師ですから、釣りはお手の物です。直ぐに、一匹の魚を釣り上げました。
すると、主イエスの言われた通り、その魚がシェケル銀貨一枚をくわえていたのです。
シェケル銀貨一枚は、神殿税二人分です。主イエスは、ペトロの分まで用意して下さったのです。
そして、「あなたも、私と同じ神の子なのだ」、と言ってくださっているのです。
この奇跡は、主イエスが、ご自分のために為された、唯一の奇跡だと言われています。
主イエスは、病の人や困っている人を救うために、奇跡を起こされましたが、唯一の例外がこの奇跡だと、昔から言われています。
でも本当に、主イエスは、ご自分のためだけに、この奇跡を起こされたのでしょうか。
主エスは、「彼らを躓かせないために」、と言われました。
「人々を躓かせないために」。これが、この奇跡を起こされた、主イエスの動機です。
ここでも、人びとに対する愛が、奇跡を起こさせているのです。
主イエスは、神殿税の支払いを、拒否することができる、自由をお持ちでした。
でも、躓く人が出ないように、という愛の動機から、その自由を捨てられたのです。
愛の故に、自分の持っている自由を、敢えて制限したり、放棄したりする。
本来は自由であっても、もしその自由を行使することによって、躓く人がいるなら、その自由を用いずに、敢えて放棄する。
これが、主イエスの愛の教えなのです。
パウロも、コリントの教会に対して、「何を食べても、それによって汚れるということはない。
しかし、もし私が、偶像に供えられた肉を食べるのを見て、周りの人が躓いて、その人の信仰が揺らいでしまうなら、私は今後、決して肉を食べない」、と言っています。
パウロは、偶像に供えられた肉を食べる自由を持っています。しかし、人を躓かせないために、それを食べない自由をも持っている、というのです。
主が与えてくださった、真実の自由に生きる者は、人に対する躓きの石を、取り除く自由をも持つのです。
以前にもお話しましたが、ある教会での会堂清掃にまつわるエピソードがあります。
毎週土曜日に、その教会の牧師と、実習生の神学生と、その週の教会の当番の三人が、会堂の掃除をすることになっていました。
ある日、時間になっても、当番の教会員が来ないので、牧師と神学生は、二人だけで掃除を始めました。
掃除が終わった後で、当番の教会員が駆け付けて来て、「遅くなってすみません」と言いました。それを見た牧師は、黙ってまた掃除を始めました。
神学生は、「もう終わりましたよ」と言いかけたのですが、牧師が黙って掃除をしているので、もう一遍掃除をしました。
終わってから神学生は、「なぜもう終わった」と言わなかったのですか、と尋ねました。
すると牧師は、「せっかく来てくれたんだからねぇ」、と静かに言ったそうです。
その牧師は、「もう終わりましたよ」と言う自由は、当然持っていました。
しかし、遅れたことを申し訳ないと言って、駆け付けた教会員の気持ちを推し量って、躓きにならないように、もう一度掃除をしたのです。
神学生は、教会に仕える姿勢を、これ以上ない程、確かな形で教えられました。
この牧師も、主イエスの愛に基づく、眞の自由を生きた人だと思います。
私たちに与えられている自由は、自分の主義・主張を押し通すためのものではありません。
それは、他の人を生かすための自由であるべきなのです。
今ここで、神殿税を納めないで、人々を怒らせてしまうなどという、馬鹿なことはよそう。
人々を躓かせないために、愛の心を持って喜んでささげよう。
主イエスは、そのような心を、ペトロに教えてくださったのです。
私たちも、そのような自由に生きる者でありたいと願わされます。