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柏牧師:過去の礼拝説教

「平和を実現される主」

2014年08月04日 聖書:エフェソの信徒への手紙 2:14~22

今日は、日本基督教団の教会暦では「平和聖日」と定められています。

従って今朝は、平和について、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。

カトリックのシスターで、岡山市にあるノートルダム清心女子大学の学長をされておられた渡辺和子先生が、『愛をこめて生きる』という本を書かれています。

その中に、「平和」と題したエッセイがありますので、紹介させていただきます。

『アウグスティヌスは、「平和とは、秩序の静けさである」と言っているが、この深遠な言葉を、日常生活の中で表現している詩をみつけた。

男は毎朝 / カミソリでひげをそる

そのとき女は / 包丁で野菜を刻んでいる

お互いに刃物を使いながら

刃物を感じないでいる / 幸福な朝

この二人は、もしかすると前の晩に、大喧嘩をしたかもしれない。

しかし、今朝は二人とも、相手を殺傷することができるものを手にしながら、互いに「刃物を感じない」でいる。

平和、幸福といったものは、実はこのような、一歩間違えば大事になるところを、一人ひとりが秩序を守る、その静けさの中にあるのかも知れない。』

いかにも渡辺先生らしい、深い洞察に満ちた文章です。

確かに、カミソリも包丁も、使い方を誤って、荒々しく振り回せば凶器になります。

しかし、本来の目的に沿って秩序正しく、静かに使われているなら、それらは、なんら恐ろしいものではなく、むしろ生活を支えていく上で、必要不可欠なものとなります。

渡辺先生は、平和とは、そのように本来の姿が保たれている状態である、というのです。

本来の秩序が静かに守られている。そういう静けさの中に、平和があるのではないだろうか。渡辺先生はこのように述べた後で、更に続けてこう語られています。

『聖書の中でキリストが、「平和をつくる人は幸いである」と言っているが、世界平和をつくるというようなことは、平凡な私たち一市民には、なかなか直接には出来ないことである。

しかし、足許の平和をつくることは、必ずしも不可能ではない。逆に言えば、自分の生活の中の平和もつくり得ないで、核兵器廃絶を唱えて街頭をデモ行進しても良いのだろうか、という疑問さえ起きてくる。』

本当にそうだと思います。私たちの日常生活において、本来あるべき姿が保たれていない。

本来の秩序の静けさが守られていない。

そうであるなら、私たちが心がけることは、先ず足許の平和をつくることではないでしょうか。そしてそれは、デモに参加することよりも、実は難しいことであり、また遥かに尊いことだと思うのです。

渡辺先生のコメントは更に続きます。

『戦争のない平和を、かつてないほど長年享受している日本で、これまた、前代未聞の多くの凶悪な犯罪が日々起きている。

金属バットは親を殺すためにあるのではない。電気コードもネクタイも、自殺したり、他人の首を絞めるためにあるのではないのだ。

そのもの本来の目的、用途に合わせて、正しくものを使うということ、それは「秩序の静けさ」としての平和をつくり出すことであり、そのためにはまず、それらを使う人間の心に、己の創られた目的の認識と、身のほどをわきまえた謙虚さが求められる。』

このエッセイの中で、渡辺先生が最も仰りたいこと。最も訴えたいこと。

それは、この最後の言葉ではないかと思います。

もともと人間は、どういう者として創られたのか。何のために創られたのか。

そのことを正しく知り、そこに戻っていかなければ、本当の平和は実現しないのだ。

人間が創られた本来の目的。 その目的に沿った、人間の本来あるべき姿が、保たれている秩序の静けさ。 それこそが、まことの平和なのだ。

渡辺先生は、このことを訴えたかったのではないかと思うのです。

神様は、天と地のすべてのものを創造されました。そして、最後に、人間を創られました。

神様は、お創りになったすべてのものをご覧になりました。そして、それらはすべて「極めて良かった」のです。

人間は、本来「極めて良いもの」として創られたのです。私たち一人ひとりは、神様が心をこめて創られた自信作なのです。

ですから、神様は、私たち一人ひとりに、今も語りかけておられます。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と。

人間は、神様の愛の対象として創られました。

そうであれば、人間が生きる目的とは何であるかが、自然に明らかになります。

それは、神様の恵みに応答して生きることです。

神様の恵みに応答して生きることを目的として、人間は創られたのです。

そうであるのに、人間は、罪を犯して、神様から離れ、神様との関係を自ら断ってしまいました。本来、いるべき場所から落ちてしまったのです。

創造の初めにあった秩序の静けさが、壊されてしまったのです。

その時、平和が崩れてしまいました。

更に、神様との関係が断絶したことから、人間同士の関係も崩れてしまいました。

お互いに助け合い、愛し合うように創られた人間でしたが、逆に、お互いに憎み合い、傷付け合うようになってしまったのです。  これが、今の世界の現実です。

このような世界をご覧になって、神様はどんなに心を痛めておられるでしょうか。

私は、あなた方をそんなものとして創ったのではない。

私は、あなた方一人ひとりを、かけがえのない愛の対象として創ったのだ。

そして、あなたがたが、お互いに愛し合うように創ったのだ。

それなのに何故、あなた方は、お互いに傷付け合うのか。何故、お互いに殺し合うのか。

何故、私が心こめて、極めて良いものとして創った作品を、破壊し、滅ぼそうとするのか。

神様の悲痛な叫びが聞こえてくるような思いがいたします。

このような世界に平和をもたらすためには、創造の初めにあった秩序の静けさを、再び取り戻さなければなりません。断絶してしまった神様との関係を回復しなければなりません。

しかし、罪のために、神様との関係を自ら断ってしまった人間は、自分の力でそれを回復することは出来ません。どうしても、神様が働いてくださらなければならないのです。

主イエスは、まさに、そのために来てくださいました。主イエスは、平和を回復するために来てくださったのです。

先程、読んでいただきましたエフェソの信徒への手紙2章14節以下は、そのことを語っています。 『実に、キリストはわたしたちの平和であります』。

この言葉は、原文では、非常に強い語調で語られています。

「実に、キリストこそは、私たちの平和そのものなのです」、という意味の言葉です。

私たちは、「キリストこそ、私たちの救いである」、とよく言います。

また、「キリストこそ、私たちの希望である」とも言います。

或いは、「キリストこそ、私たちに与えられた恵みである」、と言うこともあります。

しかし、「キリストこそ、私たちの平和である」とは、あまり言わないのではないでしょうか。

しかし、御言葉は、「キリストこそ、私たちの平和です」、と力強く宣言しています。

なぜなら、キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」からだと言うのです。

キリストは、二つのものを一つにした、と語られています。

この箇所の文脈から言えば、この二つのものというのは、直接的にはユダヤ人と異邦人のことを指します。

当時、ユダヤ人は、自分たちは神様から律法を与えられ、それを守っている選ばれた民であると考えていました。そして、律法を持たない異邦人を軽蔑していました。

心の中で、隔ての高い壁を築いていたのです。いえ、心の中の見えない壁だけではありません。見える形での隔ての壁も、現実にあったのです。

エルサレムの神殿には、堅固な石の壁が築かれていて、そこには『ここより先に入る外国人は、死をもって罰する』、と書かれていました。

異邦人が、神殿の奥に入ることは、絶対に許さなかったのです。

ユダヤ人と異邦人の間には、このような隔ての中垣がありました。

軽蔑したり、されたりしている両者の間には、当然良い関係は築かれません。

両者の間に、敵意があったことは明らかです。

そのように律法の存在は、それを誇るユダヤ人と、それを持たない異邦人との間を隔てていました。

しかし、もっと重要なことは、神様が与えられた律法が、実は、ユダヤ人と神様との間をも隔てていたということです。

律法は、神様が、「創造の初めの秩序に立ち返るために、あなた方はこのように生きなさい」、と示してくださったものです。 このように生きれば、あなた方は神様と平和に生きることが出来る、と示してくださったものなのです。

しかし、そこに示されたことを全て行なうことは、罪の中にある人間には不可能でした。

そのとき、人間は何をすべきでしょうか。

神様の前に自らの罪を懺悔し、心から悔い改めて神様の赦しをひたすら願い求めること。

それしか出来ない筈です。 ところが、ユダヤ人たちは、そうしませんでした。

彼らは、表面的な戒めのみに目を奪われ、それらを形式的に守ることだけに没頭しました。

そうしていく内に、律法の本来の意味を見失っていったのです。

地図は、人を目的地に導くためにあるものなのに、その地図の上にある標識や記号のみに目を奪われ、大切な目的地を見失ってしまったようなものです。

この標識は何を意味するか、この記号は何を示しているか。そんなことばかりを論じているうちに、地図が指示している目的地を見失ってしまったのです。

ユダヤ人たちは、罪の中にあるにも拘らず、罪の問題を真剣に取り扱うことをせずに、ただ律法を形式的に守ることによって、神様に近づこうとしました。近づけると思ったのです。

しかし、それでは神様に近づくことは出来ませんでした。

そのような行為によっては、創造の初めの秩序を回復することは出来なかったのです。

神様との間の平和は得られなかったのです。

なぜなら、最も基本的な罪の問題が解決されていなかったからです。

主イエスは、この神様と人との隔ての中垣である罪を取り除くために来てくださいました。

神の御子である主イエスが、十字架において、私たちの罪を代わって引き受けてくださり、私たちの身代わりとして、罰を受けて死んでくださった。

それによって、神様と人間の間にあった、罪という敵意を取り除いてくださり、断絶していた神様との関係を回復してくださったのです。

このことについては、人間は何も出来ません。なす術がないのです。

神様が、すべてをしてくださいました。そして、創造の初めにあった秩序の静けさに、人間が再び生きられるようにしてくださったのです。

人間が本来いるべき場所である、神様の御許にいられるようにしてくださったのです。

そのようにして十字架は、神様と人との和解を成し遂げてくださいました。

そして、神様と人との和解が成し遂げられたことによって、人と人との和解の道も、初めて開かれたのです。

私たちは、平和と聞くと、人と人との争いをどうしたらよいか、と先ず考えます。

それも勿論大切なことです。

しかし、まことの平和を実現するためには、人と人との争いが先なのではなくて、実は、神様と人との和解をどうやって成し遂げるか、という事の方が先なのです。

それが出来た時、初めて、人と人との和解の道筋が見えてくるのです。

ユダヤ人も神様と和解し、そして異邦人も神様と和解しなければ、ユダヤ人と異邦人との間のまことの和解はあり得ないのです。

すべての人が、主イエスの十字架の下に跪いて、皆が等しく十字架の贖いによって、神様と和解させていただいたお互いであることを分かち合わなければ、まことの和解はあり得ません。

すべての人が、本来いるべき場所に立ち返り、本来あるべき姿を示していかなければ、まことの平和は実現しません。

本来あるべき場所とは、十字架によって示された、神様の愛の御手の中です。

本来あるべき姿とは、神様によって良いものとして創られた、あの初めの姿です。

神様の愛の対象として創られた人間が、お互いに愛を分かち合う姿です。

15節に、「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」、と語られています。

ここで言われている「二つのものが一つになる」ということは、人と人とが仲直りして手を繋ぐ、ということではありません。

二つのものを造り替えて、新しい人を造るということです。 二つの敵対していたものが、一つになるということに止まらず、全く新しいものが造られるのです。

罪と争いに生きる古い人ではなくて、十字架の恵みと平和に生きる新しい人に造り替えられるのです。

その時、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、すべての人がキリストにあって一つとされる平和が実現するのです。

このことを信じるのは、あまりにも楽観的でしょうか。

実は、同じ事を言って、やはり楽観的過ぎると批判された人がいます。

大江健三郎というノーベル賞を貰った作家です。

2003年に大江健三郎さんは、『「新しい人」の方へ』というエッセイ集を出しました。

この本の最後に、「『新しい人』になるしかない」というエッセイが収められています。

そこに、この本を通して、大江さんが最も言いたかったことが書かれています。

それは、若者たちに「敵意を滅ぼし、和解をもたらすための「新しい人」になってほしい」ということです。

9.11のテロの映像を見ながら、大江さんは自分をも含めた「古い人」に絶望します。

そしてこう語ります。「私ら、この世界の古い人である大人たちは、人類すべてを死滅させるかもしれない核兵器に頼って、地球の平和が保てると思い込んでいるのです。……

それが「古い人」の世界です。そこで私はもう一度、この単純な言葉を書きつけて、皆さんへの呼びかけを結びます。敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になってください。「新しい人」を目指してください。・・・・・・・」

ここで大江さんが用いた「新しい人」という言葉は、今日の御言葉、エフェソの信徒への手紙2章15節からの引用です。

大江さんは、この御言葉を引用しつつ、「古い人」ではなく、敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になってください。

「新しい人」を目指してください、と若い人たちに訴えています。

そして、これからの新しい世界のための「新しい人」は、できるかぎり大勢でなくてはならないと熱い思いをこめて語っています。

大江さんのこの呼び掛けは、しばしば政治家や評論家から「あなたのおっしゃることは、理想論だ。現実はそのように動くものではない。」と批判されています。

確かに一文学者の提言で、世界を動かすことができるとは思えません。

しかし、大江さんは、ひたすら子供たちの将来を思って、語り続けています。

「未来を築いて行くのは君たちなんだから、君たちは「新しい人」になってください」、と諦めずに、希望を失わずに、呼び掛け続けています。

果てしない争いを繰り返している人間について、私たちはともすると悲観的になります。

人類の未来を思うと絶望的な気持さえ抱いてしまうことがあります。

しかし、大江さんの若者に対する呼びかけは、一筋の希望の光を感じさせます。

大江さんは、争いの中にある古い人に絶望しつつも、新しい人に確かな希望を見い出し、信じているのです。

ノンクリスチャンの大江さんが、望みを抱いて、信じているのです。

そうであるなら、キリストの十字架の贖いによって、新しくされた私たちは尚更、信じ抜いていこうではありませんか。 希望に生きていこうではありませんか。

キリストによって造り替えられた新しい人たちによる、まことの平和が必ず実現することを。

神様が創ってくださった、初めの秩序の静けさが、取り戻されることを。

そのことを信じて、待ち望んで、今置かれている場において、その足元において、平和を作り出すものとならせていただきましょう。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」