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柏牧師:過去の礼拝説教

「主の恵みに飽き足りる幸い」

2014年06月01日 聖書:マルコによる福音書 8章1~10節

今朝の御言葉には、7つのパンと、少しの魚で、主イエスが、4千人以上もの人々の、空腹を満たされたという、奇蹟物語が語られています。

この奇蹟は、「4千人のパンの奇蹟」、と呼ばれています。

聖書を2ページ程めくって、戻っていただきますと、6章の30節から44節までの箇所には、主イエスが、5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々を、満腹にさせられたという、「5千人のパンの奇蹟」が記されています。

お気づきのように、今朝の御言葉は、この5千人のパンの奇蹟と、非常によく似ています。

ですから、この箇所は、同じような内容の出来事の、繰り返しで、特に新しいことは、何も語られていない。そう思って、すっと読み過ごしてしまうことが、多いかもしれません。

極端な人は、パンの奇蹟は、実は、一回だけだったのではないか、とさえ言っています。

一回だけの奇蹟であったのに、この奇蹟を、とても重要だと捉えた福音書記者が、敢えて繰り返して記したのだ。そう解釈しているのです。 しかし、果たしてそうでしょうか。

私は、主イエスが、実際に、同じような奇蹟を、はっきりと、二度なさったのだと思います。

それを裏付けるのが、少し先の8章の19節から21節の御言葉です。

そこで、主イエスはこのように言われています。

『わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。』

主イエスは、ここではっきりと、自分はパンの奇蹟を二度も行ったではないか。

そのことを、あなたがたはもう忘れたのか、と言っておられます。

繰り返したことに意味がある、と言われています。なぜでしょうか。

一つには、繰り返さなければ、分からないような鈍さが、弟子たちにあったのです。

弟子たちだけではありません。私たちにも、そのような鈍さがあります。

そういう鈍い私たちに、主イエスは飽きることなく、同じことを、繰り返して、語ってくださいます。当時、主イエスは、人々から「ラビ」、つまり「教師」、と呼ばれていましたが、教師というものは、もともと、そういうものなのかも知れません。

繰り返して教えることに、飽きるようでは、教育することはできません。

何度でも、相手が分かるまで、同じことを繰り返す。相手が、そのことを、単に知るだけではなく、本当に納得して、自分のものにするまで、繰り返して教える。それが教師です。

そのためには、そこに、愛がなければなりません。

ある神学者が、「愛は反芻する」と言っています。牛などが、食べたものを、何度も味わう、あの「反芻」です。愛は、反芻して、飽きることがない、というのです。

子育ても、同じことの繰り返しです。毎日、ミルクをあげ、おしめを取替え、お風呂に入れて、寝かしつける。ただそれだけのことを、毎日繰り返します。

しかし、母親は、その繰り返しを、喜んでやっています。やはり、そこに愛があるからです。

私たちの信仰生活も、また、反復です。

以前、私は、こんなことを言われたことがあります。「あなた方クリスチャンは、日曜日ごとに教会に行って、同じ牧師から、同じような内容の話を聞いて、よく飽きないですね。

しかも、5年も、10年も、それどころか一生繰り返して、本当に良く飽きないものですね。」

そう言われれば、確かに、信仰生活には、反芻のようなことが多くあります。

毎日祈り、毎日御言葉を聴く。そのような反芻の中で、日々新たな恵みを味わい、喜んでいます。

主イエスに対する、真実の愛がある時には、繰り返しに飽きることがないのです。

飽きるどころか、その度に、喜びを覚えています。なぜなのでしょか。

それは、主イエスご自身が、私たちに、何度でも、繰り返して、愛をもって、語りかけてくださるからです。

主イエスは、たとえ私たちが不信仰であっても、御言葉を、繰り返して語ってくださいます。

たとえ、私たちが、飽きたとしても、主イエスは、決して飽きることなく、愛を注いでくださいます。主イエスご自身の愛が、反芻する愛なのです。

ですから、私たちも、日曜日ごとに、礼拝において、この主イエスの愛を、繰り返して味わい、主イエスの恵みを、反芻することを、喜ぶのです。

さて、1節で、主イエスは、弟子たちを呼び寄せておられます。

前の、5千人のパンの奇蹟の時には、弟子たちの方から、主イエスに声をかけて、人々にパンを買いに行かせてください、とお願いしています。弟子たちが、まず、群集のことを心配したのです。しかし、ここでは、弟子たちは知らん顔をしています。

群集の飢えに気付いて、それではかわいそうだと思ったのは、弟子たちではありませんでした。それは、主イエスご自身でした。

『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。』

この「かわいそう」という言葉は、他の箇所では、「憐れに思う」と訳されている言葉です。

例えば、マタイによる福音書の9章36節はこう語っています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

ここで、「深く憐れまれた」、と訳されている言葉と、同じ言葉なのです。

前にも申しましたが、この言葉は、「はらわたが痛む」、という意味を含んでいます。

お腹が痛くなるほどに、憐れんでおられるのです。それほどまでに、心を痛められておられるのです。

「群衆がかわいそうだ。私は、この群衆のことを考えると、はらわたが痛む。あなたがたは、その痛みが分からないのか」。主イエスは、そのように、言われたのです。

この時、主イエスの周りにいた群集は、異邦人でした。しかし、弟子たちはユダヤ人です。ユダヤ人の弟子たちは、異邦人の群集の飢えに、心を動かすことがなかったのです。

はらわたが痛むほどに、群集の悩みを、自分のものとすることは、なかったのです。

異邦人の苦しみに、無関心である弟子たちに対して、主イエスは、どこまでも、彼らと苦しみを共にされます。

5千人のパンの奇蹟と、同じような奇蹟が、繰り返して記されている、もう一つの理由。

それは、この奇蹟が、異邦人のためになされた奇蹟である、ということです。

ですから、二つの物語には、いくつかの重要な違いがあります。

先ず、6章では、パンは5つで、5千人が食べて、余ったパンは12の籠に一杯であった、と記されています。

一方、今朝の御言葉では、パンは7つで、4千人が食べ、余りは籠7杯となっています。

これらの数の相違も、ユダヤ人を対象とした奇蹟と、異邦人を対象とした奇蹟の違いを、示しています。

先ず、5は、ユダヤ人にとって、最も大切なモーセ五書と言われる、基本的な律法の数を象徴しています。

また、12は、イスラエルの十二部族を表している、と考えられています。

一方、7は、神が世界を創造された日数です。また、創世記10章に書かれている、世界の諸民族の数でもあります。また、4千人の4は、世界の方位、すなわち、東西南北を示していると見ることが出来ます。

このように見てくると、5千人の奇蹟は、明らかに、ユダヤ人を対象にした御業で、4千人の奇蹟は、世界の人々を対象にした御業であることが、はっきりしてきます。

もし、5千人の奇蹟だけであったなら、主イエスの恵みは、ユダヤ人だけに留まっていたでしょう。私たち、異邦人は、恵みの外に、置かれたままとなってしまいます。

しかし、主イエスは、私たちにも、同じ恵みをくださるために、もう一度、奇蹟を起こしてくださったのです。それが、この4千人の奇蹟なのです。

ですから、この奇蹟は、私たちのための奇跡です。

世界中の人を、漏れなく救いたい。世界中の人々に、同じ恵みを与えたい。

主イエスは、そのような思いから、この4千人の奇蹟を、なしてくださったのです。

ユダヤ人だけでなく、異邦人の私たちをも、はらわたを痛めるほどに、憐れんでくださったのです。このお方によって、私たちは救われたのです。

今朝の御言葉は、主イエスの、異邦人伝道の締めくくりの箇所です。

主イエスは、異邦人に対しても、愛の業、癒しの業を、施されました。

その主イエスに従って、大勢の異邦人の群集が、三日掛かって、ティルスや、シドンや、デカポリスの地方から、ガリラヤ湖畔までやって来たのです。

この後、主イエスは、群集と別れられます。別れた群集は、また、三日掛けて帰っていくのです。その道すがら、お腹が空いて、倒れ伏してしまうかもしれません。

そのような群衆の姿を、主イエスは、ここで、愛の眼差しの中で、見ておられるのです。

主イエスは、仰っておられます。「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」。

そんなことがあってはならない。

この人たちを、「空腹のまま家に帰らせる」訳にはいかない。

主イエスと共にいるのに、しかも三日も一緒にいるのに、何も食べ物が与えられない。

このまま、空腹で家に帰る。そんなことがあってはならない。

私と共にいるということは、私の恵みに満たされる、ということではないか。

私の恵みに、満腹することではないか。

満たされずに、空しい思いで、家に帰るような人が、一人でもいてはならない。

主イエスは、そう言われているのです。

主イエスは、日曜日の礼拝においても、そのようなお言葉を、私たちにかけておられます。私たちは、社会の荒波の中で、痛み、傷付き、疲れ果てて、礼拝に戻ってきます。

ボロボロになって、主イエスの許に戻ってきます。

そんな私たちに、主イエスは言われます。

「あなた方が、かわいそうだ。私のはらわたは、あなた方のために痛む。

私の許に来たあなた方が、何も得られずに、空しく家に帰るようなことがあってはならない。空腹のままで、帰るようなことがあってはならない。

私と一緒にいるのに、食べ物がないようなことがあってはならない。

どうか、私が用意したパンを、食べていって欲しい。私が与える御言葉のパンで、満たされて、帰って欲しい。

途中で疲れ切って、倒れてしまわないように、ここで、十分に養われて、これからの一週間の歩みを続けて欲しい。そして、次の日曜日に、またここに戻ってきて欲しい」。

日曜日ごとに、主イエスは、ご自身が用意された、恵みの食卓に、そのように私たちを招いてくださっているのです。

ガリラヤ湖畔で、はらわたが痛むほどの、憐みのお心をもって、パンと魚を、私たちに分けてくださった主イエス。

その主イエスが、この礼拝においても、御言葉という「命のパン」を、私たちに、満腹するまで、与えてくださるのです。

ある人が、主イエスが、ここで、パンだけでなく、魚も配られたことについて、興味深いことを言っています。

その人に言わせると、この時は、緊急の時であったから、主食のパンだけで十分だった筈だ。弟子たちが、小さい魚もあります、などと言ってきても、今は、パンだけで良い、群衆が満腹することが先決だ、と言われても良かった筈だ。

けれども主イエスは、その小さな魚をも、賛美して、祝福して、分けてくださった。

主食だけでなく、おかずまで、付けてくださった。食事を、楽しませてくださったのである。

それは、私たちに対する、深い憐れみの心から生まれた、愛の仕草であった。

私たちの主は、そこまでしてくださるお方なのだ。

その人は、そう言っているのです。なかなか、面白い捉え方だと思います。

確かに、この時、魚まで配ることは、必要ではなかったかもしれません。

人々の飢えを満たすことが目的であったなら、パンだけでも良かったのかもしれません。

今朝の御言葉から、7節をそっくり取り去ってしまっても、話は繋がります。

しかし、福音書記者は、この7節を、敢えて書き加えています。

省いてはいけない事柄として、しっかりと記しています。

私は、ここに、もう一つ別の、深い意味が、あるのではないか、と思っています。

この時、裂かれて、人々に配られたパンは、十字架において裂かれた、主イエスの御体を、示していると考えられています。

では、魚は、何を意味しているのでしょうか。

この福音書が書かれたころ、既に、教会は、ユダヤ人社会から迫害を受け始めていました。クリスチャンたちは、主イエスを、神の子・救い主であると、公に言い表すことができない状況にありました。

そんな中で、クリスチャンたちは、自分たちが、主イエスを信じていることの徴として、魚の絵を使いました。

何も言わなくても、魚の絵を見せれば、私はクリスチャンです、ということを、表したのです。なぜ魚だったのでしょうか。

魚という言葉は、ギリシア語で「イクスース」と言います。

この言葉のスペルは、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」という単語の、それぞれの頭文字を繋ぎ合わせてできています。

ですから、魚のシンボルマークは、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」という、信仰告白を表していたのです。

福音書記者は、主イエスの御体であるパンが裂かれ、それが配られた後に、そのパンによって示された、主イエスこそ、神の子、救い主である、という信仰を、ここで言い表しているのではないか、と思うのです。

主イエスの御体を表すパンと、その主イエスこそ、神の子であり、救い主、キリストであることを言い表す魚とは、ワンセットなのです。

大変興味深いことに、主イエスの伝道のご生涯の三段階は、いずれもパンを与えることで終わっています。

主イエスのガリラヤ伝道は、5千人のパンの奇蹟をもって、終わりを告げています。

そして、今日の箇所では、異邦人伝道が、この4千人のパンの奇蹟をもって、終わっています。これら二つのパンの奇蹟は、いずれも別れの食卓です。

ガリラヤの人たちとの別れ、また、異邦人の群集との別れの食卓です。

この後、主イエスは、弟子たちと、エルサレムに向かって、最後の旅をされます。

そして、その弟子達とも、やがて別れる時が来ます。

その別れの時、最後の晩餐の時にも、パンが与えられました。

ガリラヤ伝道の終わり、異邦人伝道の終わり、そして地上の御生涯の終わり。

そのすべてにおいて、主イエスは、別れの食卓を持たれ、パンを裂かれました。

後に、教会の人々は、これらの食卓のすべてが、聖餐式の原型であると考えました。

二つのパンの奇蹟も、最後の晩餐も、聖餐式の原型です。

主イエスは、十字架の愛を、これらの食卓に込めておられるのです。

主イエスは、ご自身の恵みのすべてを、その食卓に、注ぎだしておられるのです。

そして、私たちすべてを、その食卓に招いて、言われるのです。

「私の恵みに飽き足りなさい。私の恵みに満腹しなさい」。

主イエスは、そのような食卓を、毎日曜日、繰り返して作ってくださいます。

何度でも、愛の御業を繰り返して下さるのです。

私たちが、その恵みに飽きた、と言っても、主イエスは、決して飽きることなく、招き続けてくださるのです。

主イエスは、その恵みの食卓を整えるために、弟子たちに聞かれました。

「パンは幾つあるか」。

ここでも、主イエスは、5千人のパンの奇蹟の時と同じように、弟子たちが持っているものを、差し出すように求められました。

それが、どんなに貧しいものであるか、主ご自身が一番良くご存知でした。

しかし、主イエスは、私たちが持っている、その貧しいもの、無きに等しいものによって、ご自身の恵みの御業をなさるのです。

私たちの持っている、取るに足らないものを、用いてくださるのです。

その主の前に、私たちの、ありのままのすべてを差し出して、主イエスと共に、恵みの食卓に着かせて頂きたいと願わされます。

そのような思いをもって、この後、聖餐の恵みに、共に与りましょう。