「平和の主」
2014年02月09日 聖書:イザヤ書 11:1~10
明後日、11日は「建国記念の日」の祝日です。
しかし、私たちキリスト者は、この日を「信教の自由を守る日」として祝います。
この日には、日本の諸教会で、先の第二次世界大戦中に、思想・信教の自由が著しく制限され、国家神道を奉じることを強制された過去を顧み、そのような時代を再びもたらすことのないようにと、決意を新たにします。
そして同時に、今、与えられている平和を感謝し、この平和を守っていくことの大切さを確認し合います。
そこで、今朝は、聖書が語っている平和について、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。
先ほど、読んでいただいた御言葉は、イザヤのメシア預言と呼ばれている箇所です。
ユダヤの国は、ダビデ王、ソロモン王の時代に、空前の繁栄を示します。
しかし、ソロモン王の死後、その王国は、北王国イスラエルと、南王国ユダとに分裂してしまいます。そして北王国イスラエルは、紀元前721年に、東の超大国アッシリアによって滅ぼされてしまいます。
残った南王国ユダも、アッシリアやエジプトといった、超大国の狭間で揺れ動き、何度も存亡の危機にさらされます。
イザヤは、そんな時代に預言者として召し出され、メシアによる民族救済の希望を語ります。メシアとは、「油注がれた者」という意味の言葉で、救い主のことです。
この11章でイザヤが語っている救い主・メシアの姿。
それは、軍隊を指揮して、勇ましく戦う王の姿ではありません。
小さな子供です。小さな子供によって、神の国が打ち立てられる、と言っているのです。
そして、その神の国は、地上の国とは違って、全く争いのない国であるというのです。
地上の国は、常に争い、敵対し合っています。
この地上から、敵意が全く消えてしまうならば、どんなに素晴らしいかと思います。
しかし、人間の長い歴史において、そんな時代は、未だかつてありませんでした。
国と国との間に、人と人との間に、常に敵意がありました。今も、私たちが生きているこの世は、敵意に満ちています。
しかし、イザヤは、小さな子供に譬えられた、メシアによってもたらされる神の国は、すべての敵意が消え去り、まことの平和が実現している国である、と預言しています。
そこでは、狼は小羊と共に、豹は子山羊と共に、子牛は若獅子と共に平和に暮らし、すべてが小さな子供に導かれて歩む。 牛も、熊も、獅子も、皆同じものを食べる。
赤ちゃんが、毒蛇の穴で遊んでも、蝮の巣に手を入れても、害を受けることはない。
そのような世界がメシアによってもたらされる、とイザヤは預言しているのです。
この小さな子供に譬えられたメシアこそが、主イエスであると、私たちは信じています。
しかし、逞しい王ではなくて、小さな子供が、平和を実現するメシア・救い主であるとは、どういうことなのでしょうか。
子供というのは、弱い存在です。無力な者です。大人に頼らなくては、生きていけない存在です。その子供が、まことの平和を実現するということは、どういうことなのでしょうか。
そのことについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
一つのアメリカの小説をご紹介させて頂きます。
「Losing Isaiah(失われたイザヤ)」 という小説です。日本語の題名は、「代理人」となっています。この小説は、映画化もされています。
映画の最後の場面に、6節にあった、「小さい子供がそれらを導く」、という言葉が出てきます。ストーリーは、こう展開していきます。
黒人女性のカイラは未婚の母となり、子供イザヤを産みます。
しかし、麻薬中毒で乱れた生活の中で育てられなくなって、泣いている赤ちゃんを、ゴミ捨て場に置き去りにしてしまいます。
翌日探しに行くのですが、既にゴミとともに回収されてしまった後でした。
ゴミ捨て場で赤ちゃんを発見した作業員は、病院につれて行きます。
この身元の分からない赤ちゃんを、マーガレットという女性が養子として引き取ることになります。マーガレットは福祉の仕事をしている裕福な白人女性で、イザヤは、その家で大切に育てられていきます。
後に、実の母親のカイラは、立ち直って、更正施設から出てきます。
そして、死んだものと諦めていた息子イザヤが、生きていて養子になっていることを知り、引き取りたいと思います。
しかし、マーガレットは譲りません。カイラは、イザヤの親権をめぐって裁判を起こします。
二人は、法廷で火花を散らして激しく戦いますが、最後は、実の母親のカイラが親権を勝ち取ります。
子供を見捨てたという落ち度はあるものの、十分反省して更生していること。
イザヤの将来を考えた時に、長い目で見て、同じ黒人である実の母と暮らすほうが望ましい。このような判断で、カイラに親権が与えられたのです。
マーガレットは失意のうちに、イザヤを手放し、カイラは喜んで息子を引き取ります。
しかし、イザヤは新しい環境に適用しようとはしません。
彼は、白人の育ての母、マーガレットを忘れられず、カイラとは全く口をききません。
食事も食べようとしない日々が続きます。
困り果てたカイラは、ついにマーガレットに電話をし、イザヤのところに来てもらいます。
カイラはマーガレットに、「私は、息子イザヤを愛しているから、あなたを呼びました。
イザヤが新しい環境に適応するようになるまで、イザヤに会いに来て、私を助けて」、と頼みます。
マーガレットも、「私もイザヤを愛しているから」と言って、その申し出に答えます。
そして、なんと、法廷で激しく争い、相手を罵り合った二人が、抱き合うのです。
イザヤを愛している母親同士として、抱き合うのです。
彼女たちが一緒にイザヤのところに行くと、黒人と白人の二人の母の存在に安心して、イザヤは夢中で積み木遊びを始めます。
その最後の場面に、「小さい子供がそれらを導く」、というイザヤ書11章6節の御言葉が映し出されて、この映画は終ります。
この最後の場面は、預言者イザヤが示した、メシアによってもたらされる神の国を表わしているのではないかと思わされます。
一人の小さい子供の存在が、戦い合い、罵り合っていた二人の女性を和解させ、共に生きる生き方へと導くのです。
人種の違いを超えて、黒人と白人の女性が抱き合い、協力し合うのです。
このイザヤの存在がなければ、白人と黒人の間を隔てていた壁が取り払われることはありませんでした。
人種も、経済的状況も、全く違う人々が、出会い、共に生きるようになる。
そのためには、この小さな子供の存在がどうしても必要だったのです。
弱い、小さな存在が愛され、大切にされるところから、和解と平和が生まれるのだ、とこの物語は語りかけているように思います。
人々が、主イエスの所に乳飲み子を連れてきた時、弟子たちはこれを見て叱りました。
すると主イエスは、乳飲み子を呼び寄せて言われました。
「こどもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。
主イエスは、神の国は、この乳飲み子のような者たちのものである、と言われました。
神の国は、大人や力あるものが造り上げるのではなく、乳飲み子が造る。乳飲み子が、神の国を、そして平和を造り上げるのだ。主イエスはそのように言われました。
乳飲み子とは、自分の力では生きていけないような、小さな存在です。
そのような、小さな存在が、私たちの中心に置かれ、大切にされる時、平和が生まれる。
乳飲み子のように小さな、無力な存在が、私たちの中心に置かれる時、異なった思想や、対立する考えを持った人々が、共に生きることを学び、平和な世界が生まれるのです。
そこにこそ、神の国が生まれるのだと、主イエスは仰っておられるのです。
平和の君である主イエスご自身も、まさにそのような小さな、無力なお方として、私たちのところに来てくださいました。神ご自身が、無力を選ばれたのです。
主イエスがお生まれになったのは、ベツレヘムという小さな町の、家畜小屋でした。
飼い葉桶の中に寝かされた主イエスは、まさに弱くて、貧しくて、無力でした。
この世の最も小さな者、最も無力な者として、お生まれになられました。
そして、ナザレという小さな村で、貧しい大工の子として、育てられました。
主イエスは、御子なる神としての力に、固執されませんでした。
ですから、あの荒れ野の誘惑においても、石をパンに変えたり、高いところから飛び降りたり、権力を持つことを、はっきりと拒否されたのです。
もし、そうすれば、人々はたちまち、主イエスをキリストと認めて従うでしょう。
でも主イエスは、そのような力による方法で、ご自身が神であることを、示されようとはしませんでした。
そして、貧しい人、病の人、虐げられた人と、いつも共におられることを選ばれました。
主イエスは、貧しい人と共に貧しくなられ、弱い人と共に弱くなられ、悲しむ人共に涙されたのです。
そして、最後は、すべての人から裏切られ、侮辱され、たった一人で死なれました。
主イエスは、手と足を釘で打ち付けられ、無力な人間として十字架にかけられました。
主イエスのご生涯は、粗末な飼い葉桶に寝かされるという無力さで始まり、十字架にかけられるという究極の無力さ終ったのです。
十字架の主イエス。それは、無力そのものです。十字架の上では何もできません。
しかし、これこそが、神様が、私たちに、まことの平和を与えるために、選ばれた手段だったのです。
それは、全き無力によって、この世の「力」という壁を、打ち破ろうとされた、神様の手段でした。
人間は、この世を支配し、コントロールしたいと欲しています。
そのために、様々な方法を考え、様々なことを試みます。
しかし、主イエスは、それらの人間の考えや行いを、力をもって抑え込もうとはされませんでした。力に力を持って、対抗するということをされませんでした。
そうではなくて、力に無力をもって、強さに弱さをもって、臨まれました。
それは、徹底的な無力を差し出すことによって、力の限界を示すためです。
無力によって、力の空しさを示すためです。徹底した無力さの前では、武器は何の役に立ちません。力を背景にした脅しも通じません。
武器は、力を持って向かってくる敵には役に立ちます。しかし、無力に徹している相手には、何の役にも立ちません。
力も武器も、徹底した無力さの前では、その限界を顕に示してしまいます。
全く無力で弱い赤子を前にして、最新兵器で武装した兵士は、何が出来るでしょうか。
武器を誇示しても無意味です。彼は、自分の力の限界を示されるのではないでしょうか。
徹底した無力さと弱さの前では、この世の力は役に立ちません。力を放棄せざるを得ないのです。
最も弱く、最も無力な存在を、最も大切にし、中心に置いていく時、この世のものではない平和が実現されるのです。
それが、主イエスが示してくださった平和です。
そのことを、身をもって体験した人がいます、ヘンリ・ナウエンという人です。
ヘンリ・ナウエンはオランダ生まれのカトリックの司祭ですが、高名な学者でもありました。
アメリカのノートルダム大学、イェール大学。ハーバード大学などの超一流校で教えた後、最後の10年間をカナダ・トロント郊外のラルシュ共同体という知的障害施設でアシスタントとして過ごしました。そこで、ヘンリは素晴らしい体験をします。
ラルシュ共同体では、6人の知的ハンディを持った仲間と、3人のアシスタントが一つの家族のように生活しています。
ヘンリは、その中の一つに10人目の家族として加えてもらい、生活を共にすることになります。その中で、最も重い障害を持った人がアダムでした。
アダムは、当時25歳でしたが、話すことも、服を着ることも脱ぐことも出来ず、一人で歩くことも出来ず、介助が無ければ食べることも出来ません。
泣くことも、笑うこともせず、時たま視線を合わせるだけでした。
しかし、ゆっくりと重そうに呼吸しているアダムの傍らにいると、ヘンリは、自分の人生の旅路は何と乱暴だったのか、と示されます。
上へ、上へと昇る歩みは、他の人より少しでもましでいたいという欲望に満ちているため、敵対心と競争心に溢れています。疑い、嫉妬、敵意、復讐心に取り付かれています。
知らず知らずのうちに、そんな生き方をしてきたヘンリは、このアダムがもたらす平和に圧倒されてしまいます。
アダムの心から流れ出す平和。それはこの世のものではありません。
そのことに気が付いたヘンリは、アダムの両親が訪ねて来た時に、質問しました。
「お二人が、お宅でアダムの面倒を見ていらした間、彼は何をもたらしてくれましたか」。
彼の父親は微笑み、すかさず答えてくれました。
「彼は、平和をもたらしてくれました。彼は私たちのために平和を作り出す人です。平和をもたらす息子です。」
ヘンリは、その著書の中で、こう言っています。
「アダムは、私たちの中で一番弱いですが、間違いなく、私たちすべてを結び付ける最も強い力を持っています。
アダムがいるので、常に誰かが家にいます。 アダムがいるので、家の中に静かなリズムがあります。 アダムがいるので、沈黙と静けさがあります。
アダムがいるので、愛と誠実とやさしさの言葉が常にあります。
アダムがいるので、忍耐があり、アダムがいるので、微笑と涙があります。
アダムがいるので、互いに赦し合い、癒やし合う空間が常にあります。
そうです、アダムがいるからこそ、私たちの間に平和があるのです。
そうでなければ、国籍も、文化も異なる人々が、性格の違う人々が、様々なハンディを持った人々が、どうして共に平和に暮せるでしょうか。
アダムはじつに、私たちを彼の周りに呼び集め、この多様な見知らぬ人たちの集まりを、一つの家族として形作ってくれています。
アダムは、私たちの間に、真の平和を造り出してくれる人です。
神様のなさる方法は、何と不思議なことでしょう。」
このように語ったヘンリは、更にこう言っています。
「アダムの持つ神秘は、重い知的身体的ハンディによって、あらゆる人間的なプライドが、空の状態になっているため、彼の心に注がれている、神の初めの愛を伝える仲介者として、相応しくなったということです。」
ヘンリは、アダムの中に、神様の初めの愛を見ています。
それは、私たちのために、弱さを選ばれた愛です。無力を選ばれた愛です。
神としての力も、権威も、惜し気もなく打ち捨てて、全くの弱い、無防備な赤ん坊として、家畜小屋に産まれることを選ばれた愛です。
全く無力な罪人として、十字架に死なれることを選ばれた愛です。
その愛から、溢れ流れる平和こそが、主イエスが与えてくださる真の平和です。
この世のものではない、主イエスしか与えることの出来ない平和です。
狼が小羊と共に、豹が子山羊と共に、子牛が若獅子と共に暮らすことが出来る平和です。
そして、それらすべてが、小さい子供に導かれて歩むのです。
弱い、小さい存在が中心に置かれ、大切にされる時に、この平和が実現するのです。
その時、見知らぬ人々が兄弟姉妹とされる平和がもたらされるのです。
ヘンリは、アダムの話を終えるに当たって、古いユダヤの話を紹介しています。
ラビが生徒に質問しました。「どのように夜明け、つまり夜が終り、昼間の始まる時間を決めることが出来るだろうか」。
一人の生徒が言いました。「遠くから犬と羊を見分けることが出来る時ではないでしょうか」。「違う」、とラビが答えました。 「それでは、答えを教えてください」。
ラビは言いました。「それは、他の人の顔を覗き込んでも、それが自分の兄弟か姉妹かと思わせるに足る光りがある時だ。それまでは、夜で、暗闇が私たちを覆っているのだ」。
主イエスの十字架の光りに照らされた時、私たちは、すべての違い、隔たりを超えて、真の兄弟姉妹とされる平和に生きることが出来るのです。
その光りが、もたらされるように祈りましょう。
この世が与えることのできない平和の光りを、共に祈り求めていきましょう。